kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

教育を熱く語ってはならない

内田樹氏のエッセイに、「戦争を熱く語ってはならない」というタイトルがつけられたものがありました。
戦争を熱く語ることは、それが賛成派であれ反対派であれ、戦争に強く結びついていくから。だから、戦争を熱く語ることそのものを止めなければならない、という主張には深く頷かせられるものがありました。

最近、これと関連して、わたしが強く思っていることが、
「教育(人材育成)を熱く語ってはならない」
ということです。

教育学博士が何をいうか、と言われるかもしれません。
が、わたしの知り合いの方ならよくご存じだと思いますが、わたしは教育実習や授業などで、「教育を熱く語るkimistevaさん」を演じなければいけないとき以外は、まったく、教育を熱く語ったことがないのです。

教育を熱く語りたがる人たちの集まりになりそうなサークルや飲み会にも、
うまーく匂いをかぎわけて、近寄らないようにしてきました。

なぜか。

「熱く語る」ということは、ひとつの「物語」を、すなわちひとつの「理想」をつくりあげようとすることです。
このひとつの「物語」=「理想」を構築しようとする行為が、「教育」の現場と結びつくと、皮肉なことに不幸な人々をつくりだしててしまうことがあります。

戸塚ヨットスクールにはいまだに賛否両論あるようです。
しかし少なくとも、戸塚ヨットスクール事件を含む、数多くの私塾をめぐる事件は、「理想」として熱く語られてしまった「教育」が、現場の中で不幸な人々を作り出してしまった事例であるといえるのではないか、とわたしは思います。

「適性処遇交互作用」という教育心理学の用語を持ち出すまでもなく、
どのような教育がもっとも効果的であり、良い効果を及ぼすかは、個人の性格や素質やその他さまざまな要因によってまったく異なります。
だから、誰もを幸福にするひとつの教育理念なんてありえない、とわたしは思っています。

だからこそ、教育は常に、理念を熱く語るのではなく、事実を冷静に語るべきなのである。
・・・というのは、わたしが師匠から教わった、もっとも重要なテーゼです。

人々はいかに学ぶのか。
あらゆる人々の学びの事実からはじまって、少しずつそれぞれの学びを拡張する方策を考えることが重要なのであって、
ひとつの「物語」=「理念」を打ち立てて、そこに向かって全員を扇動しようとすれば、間違いなくそこからこぼれてしまう人々は不幸になります。


そもそも、「教育とはこうあるべき」と、熱く教育の理念を断定的に語る方々は、どうして自分をそのような特権的な位置にあると考えられるのでしょうか。

人間という存在は、わたしたちが短い一生のなかで断定的に語れるほど、単純なものではないと思っています。
人間の複雑さに対する畏敬の念を忘れた教育論は意味をなさないし、
逆に畏敬の念をもつひとは、教育を熱くかたることなどできないでしょう。

だとすれば、やはり、教育を熱く語ることには意味がない、と思うのです。