kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「やおい」と「BL」の間。あるいは、腐女子のプチ世代間闘争

BLをテーマにしたバー「Miracle JumP」がアキバに開店した。
http://www.miraclejump.com/


誰に対しても言っているが、
わたしは、やおい第1世代〜第2世代の移行期に、オタ女界に入った人間である。
なので、やっぱりこういう記事を見てしまうと、
第2世代と第3・第4世代の間とういか、
やおい」と「BL」の間というか、
そういうギャップを感じてしまう。

そんなことを、知り合いの社会学者に言ったところ、
「どこでもあるんだね〜。そういうプチ世代間闘争!」と言われてしった。

そのとおりだと思う。
ヤオイストであるというだけで、腐女子というだけでマイノリティなのに、
その中でさらに差異に差異をつくりだしていっても仕方ない、のかもしれない。

けれど、それでも言わせてほしい。

やっぱり、第3世代以降のオタ女たちは、あまりに強いと思う。
強いことは、良いことだし、
「アタシは腐女子ですけど、それが何か?」と世間の目をはねのけることは、
私自身、彼女たちとは違う手段でやろうとしてきたことだし、
事実、現在もやっていることなのだから、それで良いのだけど、
あまりに強くなりすぎて、はねのけることに躍起になりすぎて、
違う立場の人たちのことを理解しようとする姿勢を、まったく放棄してしまっているように見えなくもない。

第1世代・第2世代のわたしたちは、
ヤオイストは、ゲイに対する差別である」という批判に、
多かれ少なかれ接してきたように思うし、
そのことに、戸惑ってきたように思う。

それは、特に第1世代の女性たちが、
自分自身の女性であることのアイデンティティとの葛藤の末に生み出した表現手段の中で、
「男性同士の恋愛」というモチーフを創造してきたことと、無関係じゃない。

女性であるというだけで、課されてしまう、
さまざまな恋愛上、性愛上のさまざまな制約に傷つけられ、葛藤するなかで、
「本当の愛とはなに?」と問い続けた中でうまれてきたホモセクシュアルというモチーフ。

それが今度は逆に、別の立場の人たち=実際のホモセクシュアルの人たちを傷つけてしまうということ。
そのことを、少なくとも自分自身の問題として考えてきたように思う。

少なくとも、わたしはそうだったし、
少しお金が自由になってから、真っ先に考えたことは、
セクシュアル・マイノリティの運動に関わることだった。

しかし、今や、
第3世代・第4世代の腐女子たちは、「BLは単なるファンタジーです」と言い切っているらしい。

石田仁(2007)「ほっといてください」という表名をめぐって―やおい/BLの自律性と表象の横暴―」(『ユリイカ臨時増刊号 BLスタディーズ』)は、まさにその問題を扱っていて、
この論文を読んだとき、
失礼ながら、今さら、こんな議論がでてくるのかと驚いてしまった。

しかし、きっと、今、この議論がでてくる程度に、世の腐女子たちは「わたしたちの勝手でしょ?」「ほっといてください」と表明しつづけているのだろう。

そうであるとすれば、それは危険なことだと思う。

わたしは、『ツンデレ大全』を呼んで、胃通になり、病院に運ばれたことがある。
そのくらい、差別的な表象はパワーを持つ、と実感している。

「じゃあ、どうしろっていうの?」という質問に対する答えはもちあわせていないけれど、
それでも、傷つけている相手がいること。
そのことを知ること、そして、葛藤すること。ゆらぐこと。
そのことの大切さを、いま、もう一度考えてみたいと思うのである。