kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

放課後の学校クラブin浜田小学校

第1回放課後の学校開放!!

2012年12月18日。
水戸市本町下市商店街ハミングロード513の中の特設会場で行われた、「放課後の学校クラブin浜田小学校 第1回放課後の学校開放」に参加してきた。

「放課後の学校クラブ」とは?

「放課後の学校クラブ」とは何か。
「放課後の学校クラブ in 浜田小学校」のブログにはこのような説明がある。

いつもの学校が終わった後にあらわれるもうひとつの学校をつくるためのクラブです。学校の中の一つのクラブ活動のように活動をおこない、有志であつまった生徒たちとともに自分たちの学校を構想、計画、実践していきます。「学校をつくる」という目的を共有することによって社会における学校のあり方を再考し、先生や地域の方々と協力しながら放課後の新しい時間を築いていきます。この活動はアーティスト北澤潤による企画のもと、放課後の学校クラブ実行委員会によって運営されています。

「放課後の学校クラブ」のコンセプトで面白いのは、「もうひとつの学校をつくるためのクラブ」であるという点だと思う。
上に引用した説明文の中にも書かれているけれど、「放課後の学校クラブ」は、「学校の中の一つのクラブ活動」である。これは、学校教育のカリキュラムを勉強した人しかわからないかもしれないけれど、小学校の「クラブ活動」というのは、中学校・高校の「部活動」と違って、「道徳」や「特別活動」と同様、(「教科外」ではあるけれども)正課のカリキュラムとして位置づけられている。その正課のカリキュラムの中で、「もうひとつの学校」をつくる、という入れ子構造(?)になっているのが面白い。


ジャック・デリダが用い、その後現代思想の定番ワードになっている言葉のひとつに、「代補」(supplement)という言葉がある。「本来のもの」のあとから、なんらかの理由で偶然、補足的に付け加えられたものが、いつの間にか「本来のもの」そのものに取ってかわってしまっている・・・というような状況を表す言葉なのだけれど、「放課後の学校クラブ」のこの位置づけは、この「クラブ活動」がいつの間にか学校の「代補」となってしまうようなそんな可能性を感じてしまう*1

コンセプトを見た段階でのそんな勝手な期待はともかくとして、この日行われた授業の時間割は以下のとおり。

時間割
10:30 朝礼
10:40 リサイクル
11:30 音をつくる
12:15 給食
   逃亡
13:00 魚
13:50 服をつくる
14:40 帰りの会

「給食」のあとの「逃亡」というのがよくわからないけれど、なんか時間の分け方とかもいろいろ「時間割」っぽい!「帰りの会」があるのに「朝の会」がないのは、浜田小学校で「「朝礼」があるときには「朝の会」はやらない」というルールがあるからなのかな?・・・とかいろいろ考えさせられる。

「じゅぎょう」の計画

この写真は、会場にあった黒板。

それぞれの黒板に、「リサイクル」「音をつくる」「魚」「服をつくる」などそれぞれの授業や係の計画(?)が書かれている。
上の写真は、「リサイクルのじゅぎょう」の黒板なのだけど、「場所 こうくんち」と書かれているのが気にかかる。「こうくんち」にはいったい何があるんだろう?なんで今回実現しなかったんだろう?実現したらどんな授業になったのかな?などなど、いろいろな疑問が浮かぶ。
もうひとつ気にかかったのは「先生をさがす」という言葉。この日は結局、自分たちで「リサイクルのじゅぎょう」を行っていたけれど、当初は、「リサイクル」の専門家のような「大人」を呼んで教えてもらう予定だったのだろうか。「リサイクルのじゅぎょう」をやろう、と思い立ったときに、とりあえずは、誰か「大人」に教えてもらおう、と子どもたちが考えたこと。それでも、そこから、自分たちで授業をするに至ったそのプロセスにはいったい何があったんだろう?と思う。

朝礼

チャイムが鳴って(本当に学校っぽいチャイム音が流れました!)、朝会がはじまる。
学校開放前に前方でわーわーしている、男の子二人組に話を聞いてみると、彼らは「こうちょう(校長)」と「きょうとう(教頭)」で、もうひとり、「とうきょう(東京?)」という役割の人がいるらしい。

わたしが「とうきょう?」と聞き返すと、二人して「こうちょう、きょうとう、とうきょう!」「こうちょう、きょうとう、とうきょう!」「だから、『とうきょう』!」と教えて(?)くれる。

・・・とそんな話をしていたら、後方に、浜田小学校の校長先生(本物)が見えたらしく、「あ!校長先生ー!」と言って「こうちょう」と「きょうとう」がどこかに行ってしまう。
「こうちょう」が、「校長」を迎えに行くという不思議な光景を目の当たりにする。

「こうちょう」と「きょうとう」が過ぎ去ったあとに、朝礼台および椅子の代わりになっているビール箱の上に置きっぱなしになっている工作用紙(方眼紙)を見ると、裏面に、「朝礼」のための原稿が書いてある。

「みなさん、おはようございます。さっそくですが、受付はすみましたか。」から始まる読み上げ原稿は、実際にこのとおりに(「こうちょう」「きょうとう」「とうきょう」3人一斉に)読まれていたのだが、「さっそくですが、受付はすみましたか。」が、本当に「さっそく」過ぎて、笑いが起きる。

それにしても、学校で毎日「朝礼」が行われているわけでもないのに、「朝礼」を入れるというのは不思議。「帰りの会」と対応させて、「朝の会」でも良かったはずなのに。
そう考えてみると、子どもたちにとって、「学校」が一番「学校」らしく立ち現れてくるのは、「朝礼」なのかな、という考えに至る。
「学校」が「学校」であるためには、「校長(こうちょう)」と「教頭(きょうとう)」が必要で、その「校長」や「教頭」が、その役割を示す象徴的な場が「朝礼」なのかもしれない。
そう考えてみると、確かに、その他に子どもたちが「校長」が「校長」として立ち現れるときなんてなかったかもしれない、とも思う。

「クラス」でも「学年」でもなくて、「学校」。
「学校」の「学校」らしさをつくるために必要なもの。それが「朝礼」なのかもしれない。

1時間目の授業:「リサイクル」

そんなこんなで始まった1時間目の授業は「リサイクル」。

用意された木の枝に、糸とおもりをつけて、3時間目の「魚」で使う、釣り竿をつくるという授業。
これがけっこう難しい。みなさん真剣です。

私は糸をつけるところからしてまったくできず、「先生!先生〜!」と頼りきり。おもりをつけるときに「おもりはどうやってつけるんですか?」と聞いたらついに、「聞いてなかったの!?」と一蹴されかかりましたが、それでも親切におもりのつけかたを教えてくれました(感涙)

かなり釣り糸部分が短くなってしまいましたが、なんとか釣り竿もできました。

「はんだんがかり」

さてさて、「放課後の学校クラブ 第1回放課後の学校開放」では、それぞれの授業のあとに、「はんだんがかり(判断係)」による「判断」が行われた。
「はんだんがかり」は、それぞれの授業の評価を、「×」「△」「○」「☆」で判定し、その理由について説明する。

もちろん、「はんだんがかり」の役割はそれだけではなくて、以前11月に、「放課後の学校クラブ」にいったときに見た、授業や係の内容の説明が書かれた画用紙には、ケンカやその他いろいろトラブルが起こったときに、判断をする係と書かれていたと思う。
それがいつの間にか、授業の評価判定をする係になっていたのは、子どもたちの提案によるものなのか、運営上、スタッフが決めたものなのか、がちょっと気になる。

とはいえ、当の子どもたちはそんなことはまったく気にしておらず、2時間目以降になると、「たすけてー。アーンパーンマーン!」みたいなリズムで、「はーんてーいマーン!」と呼びかけて、授業の評価判定を求めていたりする。
もちろん、子どもたちは高い評価を求めていて、「☆」が出るととても喜ぶ。

個人的には、こういう姿を見ると、どうしても違和感を感じてしまう。
いわゆる「教室言語」の研究の有名な知見のひとつに「IRE構造」というのがある。
「IRE構造」というのは、教室で教師と生徒たちの間に交わされる、ほぼ教室でしか見られない特殊な談話構造のことで、I=Instruction(指示)、R=Rescponse(応答)、E=Evaluation(評価)を意味する。
つまり・・・

教師:「1+1は?」(指示)
生徒:「2です。」(応答)
教師:「よくできました」(評価)

・・・というやつである。

「はんだんがかり」による、授業の評価判定に違和感を感じてしまうのは、それによって、子どもたちの授業が、IRE構造の中の「応答」に位置づけられてしまうような気がするからだ。
つまり、大人たちの「指示」に対して、子どもたちが「応答」として授業をつくり、それに対して、大人たちが「評価」を加えている・・・というように・・・。

ただ、これに対して、私は今のところ判断を保留することにしている。

というのも、今のところ、子どもたちにとって、「朝礼」も「IRE構造」も、同じように、「学校」を「学校」たらしめるのに必要なものなのではないか、と考えられるから。

「学校」を「学校」たらしめるさまざまな人工物(モノ、場所、建築物、儀式、言い回し、談話構造・・・)のうち、何を選び、何を捨て、その中で選んだものをどのように「自分たちのもの」として組み替えていくのか。組み替えていくことができるのか。あるいは、逆に、「自分たちのもの」として組み替えようとした当のものに、逆に乗っ取られてしまうのか。
それは、少なくとも、現段階ではわからない、と思う。

少なくとも、今の段階では、子どもたちが、「学校」を「学校」たらしめる、さまざまな人工物で「遊んで」みることが、何よりも意味を持っているんじゃないか、とわたしは思った。
それがたとえ、大人側から提示されたものであっても。

「専有」(appropriation)は、常に、その乗っ取ろうとするものの「抵抗」を伴う。

「もうひとつの学校」をつくろう、というその試みにとって、その「抵抗」は避けて通れないだろう。
そうだとすれば、その「抵抗」に対して、「立ち向かうのとは異なるやり方で、どう関係性をつくっていくのか、が問題になってくるのではないか、と思う。

第1回学校開放を終えて、これから放課後の学校クラブは何を行っていくのだろう。

*1:(もしかしたら、このように肯定的に「代補」という言葉を使うのは間違っているのかもしれないけれど、意図的な誤読ということで許してほしい。)