kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

イリイチ『シャドウ・ワーク』を読みつつ年始まわり

2012年 新年のご挨拶

あけましておめでとうございます。

ついに年が明け、2012年がはじまりましたが、
皆さま、いかがお過ごしでしょうか?

私は、昨年末、12月28日〜30日まで、人生初めて金沢市を訪れ*1
12月31日から元日までは実家で、個人事業主(大工)の「長女」としての役割を果たし、1月2日には実家から徒歩10分くらいのところにある海岸で初(?)日の出*2を見たあと、夫の実家に年始のご挨拶にうかがい、その日のうちに帰宅・・・というスケジュールでした。

毎回、自分の実家と夫の実家を訪れるたびに、(双方の文化それぞれに、また双方の文化のギャップに)軽いカルチャーショックに襲われるのですが、今年は、たまたま年末にシャドウ・ワーク―生活のあり方を問う (岩波現代文庫)を読んでいたり、金沢旅行に行ったこともあり、いろいろと感慨深かったです。





以下、少し長いですが、『シャドウ・ワーク』でのイリイチの議論を説明します。

シャドウ・ワーク>と<自立・自存のための活動>

I.イリイチは、『シャドウ・ワーク』の中で、「貨幣経済」と「影の経済」、「ヴァナキュラーな領域」*3の3つの領域を区別しています。
貨幣経済」とその他の領域は、報酬(賃金)を受けるか否かによって区別されます。言い換えれば、「影の経済」および「ヴァナキュラーな領域」は双方ともに、報酬(賃金)を受けない活動の領域です。これらふたつの領域は、貨幣交換のやりとりが存在しないという理由で、同一視されがちだけれども、この二つはまったく異なる活動・交易の領域なのではないか、そうであるとすれば、その違いを明らかにしたい、というのが、本書の意図するところのようです。

5つのエッセイからなる本書の意図は、<ヴァナキュラーな領域>と<影の経済>との区別を明らかにすることにある。<影の経済>とは私の造語だが、これは貨幣化セクターからは独立していながら産業化以前の社会には存在しない活動と交易のことをいう。<ヴァナキュラーな領域>のほうはといえば、これを規定する最良の方法は、その特徴をよく示している一要素、すなわちヴァナキュラーな言語を考察することであると思われる。それとは対照的に、教育による母語の習得は経済に依存している。しばしば<影の経済>に依存している。私はここで、この<影の経済>についてひとつの考察を試みたい。(p.10)

では、<ヴァナキュラーな領域>と<影の経済>の違いとはなんでしょうか?
イリイチによれば、それは、<影の経済>が産業化とともに生じた貨幣経済を支え、強化していくために必要不可欠な、影の労働(シャドウ・ワーク)であるのに対し、<ヴァナキュラーな領域>は、貨幣経済から離れ、自らの力で、自立・自存していくための活動であるという点にあるそうです。

本書の中にある「公的選択の三つの次元」というエッセイの中では、「持つこと」(having)への欲望を充足するための活動なのか、あるいは、「行為すること」(doing)の欲望を充足するための活動なのかという軸で、この違いが説明されています。

「持つこと」の欲望を充足しようとする場合に、私たちは、ますます自分が何かを所有すること=経済・社会が成長することを志向していきます。対照的に、「行為すること」の欲望を充足しようとする場合、自分自身の個別なありかたに応じた行為を行うこと、その自由がもっとも優先されます。そのため、ここで大切なことは、経済・社会などの大きな流れの中で、自分自身とその活動のありようを守ること。そこでのキーワードは「自立」「自存」になります。

・・・成長志向型の仕事は、その活動が賃金の支払われるものであるとなかろうと、いやおうなしに活動の企画化と管理をもたらすのである。
 コミュニティが人間生活の自立と自存を試行する生活の仕方を選ぶときには、いまとは正反対の仕事観が広がってくる。その場合には開発を逆転させること、消費財をその人自身の行動に置きかえること、産業的な道具を生き生きした共生の道具に帰ることが目標となる。そこでは賃労働と<シャドウ・ワーク>はそれこそ影をひそめるだろう。なぜなら、賃労働と<シャドウ・ワーク>によって生み出される生産物である商品やサーヴィスは、ひとつの目標すなわち従順な消費として評価されるよりも、むしろ主として、創意に富んだ活動のための手段として評価されるからである。そうなると、レコードよりもギターが、教室よりも図書館が、スーパーマーケットで選んだものよりは裏庭でとれたもののほうが、価値あるものとされる。(pp.51-52)

二つの領域を混合するスタイル

さて、こんな議論を読みつつ、年始まわりなどして否応なく複数の家庭の文化を見ていると、
わたしが感じていたカルチャーギャップの根源はそこにあるのではないかと思えてきます。

私の実家は、父が職人(大工)で自営業で、以前は母が経理的な事務作業などを行いつつ、不足分をパートで稼ぐという感じでした。現在は、母の体に障害があるため、年末年始に帰宅した際+αで、私が経理的なあれこれを一気にやっております。子どもへの教えの定型句は「手に職をつけろ」。自分の気に入った仕事は引き受けるけれども、「面白くない」仕事は引き受けない。典型的なわけではないと思いますが、比較的、<ヴァナキュラーな領域>での労働が行われている家族形態なのではないかと思います。
これに対し、夫の実家はサラリーマン(賃労働者)+主婦。イリイチがいうところの、典型的な<貨幣経済>を支えるための家族形態です。

とはいえ、イリイチがいうように、それぞれの領域でキレイに文化がわけられるかというと、そうでもなく・・・
たとえば、私の実家の消費スタイルのメインは、かなり郊外型のショッピングセンターに依存していると思ってます。近所の「裏庭でとれたもの」をいただいたものが、たくさん家の中に転がっているけれど(実話)*4、何かを購入するとなったら、チェーン系のスーパーマーケットか、ショッピングモールか、という感じです。

一方、わたしの構築した勝手なイメージかもしれませんが、
夫の実家のご家族のほうはというと、そういう“郊外型消費スタイル”を避けようとしつつ、自立したライフスタイルをつくりあげているイメージがあります。

昨年、東京都市大学で行われた、第2回野火的活動研究会で、上野直樹先生(東京都市大学)が、イリイチシャドウ・ワーク』の内容などにも触れながら、“世界史的なマクロな視点から、「この時代はこういう交換形態」などと分類するよりも、実際に行われている交換のハイブリッドな形態に注目することが重要だ”というようなことをおっしゃっていて、ぼんやりと納得はしていたけれども、あらためてそのことを思い出しました。

貨幣経済のシステムからは逃れられない」とか、そういうネガティブな意味合いではなく、
単純に、私たちは、いろいろな形態での交換を行っているわけだし、
それをどう混合していくか、そのスタイルのありかたが、“ヴァナキュラーな”(とあえて言ってみる。注釈参照)ものであれば良いのではないかしら。


・・・そんなわけで長くなりましたが、皆さま、今年もどうぞよろしくお願いいたします。


*1:これについては後日、さかのぼりでブログ記事をアップします。

*2:元日は曇天のため、日の出にはお目にかかれず。

*3:ヴァナキュラー(vernacular)その国・土地・地域の言葉、話し言葉、日常語の意。イリイチによれば、「ヴァナキュラーとはラテン語の用語であって、英語として用いられる場合には、有給の教師から教わることなしに習得した言語にたいしてのみ使われる。・・・家庭で育てられるもの、家庭で作られるもの、共用地に由来するものなど、そのような価値のいずれをもあらわすことばとして使われた。」(『シャドウ・ワーク』p.73) 

*4:父と母の二人暮らしなのに、キウイが30個近くあって驚きました・・・。どのタイミングでどう食べると思って贈答されたものなのか謎すぎます・・・