kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

堀井憲一郎『いますぐ書け、の文章法』

読む人への徹底的なサービスとしての「書くこと」

大学院時代にお世話になった先生が、Facebookで紹介していたので、いますぐ書け、の文章法 (ちくま新書)を購入。

ご紹介いただいた当時、さっそく書店に行ってみたところ、
新書の帯に、「文章は暴走する」と書いてあって、ズガーンとショックを受けたのだけれども、結果的には購入して大正解の本だった。

『いますぐ書け、の文章法』というタイトル、そして、「文章は暴走する」という帯から、この本は「なんかいちいち悩んでないで、とにかく書いてみろよ。そしたら、なんとなく筆が走り出して書けるもんですぜい」という内容の本かと誤解されがちなのではないかと危惧するが、本書でもっとも強く言われていることはそういうことではない。(もちろん、そういうようなことにも触れているところはあるが)

この本で、言われていることは実はただ一つ。

それは、とにかく文章を読む相手のことをできるだけ具体的に、できるだけリアルに想定して、その読み手に向けるサービスとして書くこと

こんなことを書くと、「そんなこと言われなくてもわかってるよ」と一蹴されそうである。

実際、私が大学の日本語表現の授業で何度も繰り返し言っていること、伝えようとしていることは、まさにこの一言に尽きる。…のだが、たいていこういうことを言うと、聞き手には聞いてもらえない。
「そんなの当たり前だよ」と思われてしまう。
私自身も、まったく伝わっていないのに、「わかっているよ」と言われてしまうそのジレンマに悩んでいる。

そういう「わかっているよ」の壁に対して、この筆者が手を変え品を変え、具体的を上げたり、たとえを挙げたりしながら説明をする様を見て、素直に感心した。感銘を覚えた。
『いますぐ書け、の文章法』というタイトルも、そういう「わかっているよ」と一蹴してしまう書き手にどうにか振り向いてもらうために選ばれた言葉であろうと思う。
「読み手のことを考えて書きなさい」と言っても、まったく振り向いてくれないけれど、「なんとなく書き方がわからない、文書が書けないと思っているんじゃないの?」と声をかけたら振り向いてくれそうだもんね。


読み手に呼びかけ、どうにか振り向いてもらう著者の努力というかテクニックというか…には、本当に、頭が下がる。


繰り返しになるが、この本で言われていることは、ただひとつ。
読み手のことを考えて、読み手へのサービスとして文章を書くこと、である。しかしそれを聞いて「あ、なんだそれだけ?だったら読む必要ねっし」と思う人ほど、この本を読んでみていただきたい。
そういう意味では、こういうブログでネタばらしをしてしまうのは、実際には良くないのかもしれない。

しかし、それでもやはりこうして書いてしまうのは、
そういう読む人に向けられた思いが、結局最終的には、「書くこと」の後押しをしてくれる、という事実をあらためて伝えたいからである。


自分のために、自己表現として文章を書こうとすると、絶対に筆は進まない。
結局、「自分って何なのか?」なんて誰にもわからないから。
でも、「誰かを笑わせたい」、とか、「これをあの人が読んだらどう思うだろう?」とか、そういうことを思ってると、結果として、筆はすいすい進んでいって、(わたしのような過剰なサービス精神の持ち主は)過剰なサービス精神が駆動しだして、結果的に、文章が大暴走する。


でも、それがもっとも良い状態なのである。


そういうわけで、この本は、これまで自分が「書くこと」について考えてくれたことをうまく整理してくれるとともに、なんとなく自分ひとりで不安に思っていた、自分の「書くこと」の教育実践に対して応援してくれる本だった。


もちろん、雑誌の記事とレポートや論文では、大きく異なる部分もある。
その部分の考え方などについても検討する余地はあるが、あらためて、「書くこと」についての他者の存在について思いを馳せた。


最後に、現在、わたしが授業でテキストとして使っている本を挙げておきたい。
野田尚史・森口稔『日本語を書くトレーニング』。この本も、相手を具体的に想定して「書くこと」の徹底的なトレーニングとなっている。通常の文章表現法にありがちな「正解」もなく、とにかく、相手の立場に立って、何が「わかりにくい」か「不親切」かを学生自身が考えられるテキストになっていて、とても気に入っている。


さて、来年度の授業はどうしていこうかなぁ。