児童文学におけるセクシュアルマイノリティについて考えるため、引き続き、如月かずささんのYA文学『カエルの歌姫』(2011年)を読みました。
前回読んだ『シンデレラウミウシの彼女』は、講談社のYA! ENTERTAINMENTシリーズということもあり、装丁からして「ヤングアダルト向け」(!)という感じがしましたが、『カエルの歌姫』は、一般書と同じ装丁のため、一見して「ヤングアダルト向け」かどうかはわかりません。
しかしながら、本作品は、第45回日本児童文学者協会新人賞受賞作であり、「児童文学」として高い評価を得ていることがわかります。
この作品、Amazonのレビュー(『カエルの歌姫』)からもお察しいただけるように、なによりまず、『電車男 』や石田衣良『アキハバラ@DEEP (文春文庫) 』につらなる(?)「オタク文学」(そんなものがあるのかどうかわかりませんが)として面白かったです。
最近は、ゆるゆるまったりな文化系サークルや部活動をテーマにした小説も増えてきて、物語の登場人物にオタクが登場したり、はたまた主人公になったりするケースもしばしば見かけるようになりました。が、主人公(とその友達集団)もオタクで、好きになる相手とその家族(姉のみですが)もオタク(!)の恋愛ストーリーってはじめて読んだ気がして新鮮でした。
もちろん2010年代の中高生向けに描かれる物語での「オタク」なので、「オタク」といっても深夜アニメ見てたり、ニコ動のボカロソングが好きで「歌ってみた」をよく見ている・・・という程度です。(主人公は、「歌ってみた」に自分で投稿もしてますが。)
そして、この作品の面白いところは、そういうオタク・カルチャー的なものが、ジェンダーやセクシュアリティーにおける「他者」へのまなざしを、やわらかなものにしている点だと思います。
『カエルの歌姫』では、主人公の男子生徒が自分自身のジェンダー・アイデンティティに違和感を持っている。その違和感に対して彼がとった一連のジェンダー越境的な行動に対する辛辣なまなざしを、オタク・カルチャーが見事にやらわげる。
もちろん、これは、理想を描いたファンタジーに過ぎないけれど、主人公がジェンダーに対する違和感に対してアクションを行う場も、それを受け止めるための価値観の枠組みも、オタク・カルチャーのなかにある、という点は、今後の可能性を考えるうえで、とても面白いと思います。
さて、では、本作品におけるセクシュアル・マイノリティの描かれ方について感想を述べたいと思いますが、あいかわらずネタバレになりそうなので、以下をお読みいただく方はご覚悟ください。
『シンデレラウミウシの彼女』は、「同性を好きになったんやない!好きになった人がたまたま同性だったんや!」という感じですが、『カエルの歌姫』は、主人公の男の子が、自らのジェンダー・アイデンティティに対して抱く違和感やそれにまつわる葛藤が、物語の中心になっています。
『シンデレラウミウシの彼女』において、雌雄同体のシンデレラウミウシが象徴的な存在として描かれていたのに対し、『カエルの歌姫』では、「ある化学物質の影響で、全体の何割かのオスが成長の途中でオスからメスに性転換してしまう」(pp.51-51)ある種のカエルが、理想の象徴として登場します。
主人公は、あるテレビ番組を通じてそのカエルの存在を知り、「そんな簡単に性別を変えられるなんて、カエルはいいな」という感想を持ちます(p.51)。
その後に展開される主人公のモノローグでは、ジェンダーに対する違和感を自覚するようになるまでの経緯と、その後のさまざまな試みが語られるのですが、その試みのなかで、自分自身が望むことは何なのかを見いだしていく過程が、かなり丁寧に描かれていて、そこに共感を覚えました。
性同一性障害に興味を持ったのは、中学に入ったころだったと思う。心の体の性別が一致しないというその状態は、まさに自分の気持ちに当てはまるような気がした。
だけど予想に反して、いろいろ調べていくうちにわかったのは、おそらくぼくの気持ちはそんなおおげさな話ではなく、単純に決してなれないものへの憧れなんだろう、ということだった。かわいいものはきれいなものが好きだから、自分もそうなりたい。そういうものが似合う自分になりたい。なれないからこそ憧れる。要するにそういうこと。
もっとも、そんなふうに自分の願望を分析して客観的に理解したつもりになったところで、絶対に無理なんだから考えるだけ無駄だと自分に言い聞かせたところで、その気持ちが消えてなくなるわけじゃないんだけど。
『シンデレラウミウシの彼女』の同性愛と同じく、ここでも主人公の男の子を「性同一性障害」にしてしまうことが慎重に避けられています。
しかし、わたしはこれは、ありうる選択だと思いました。
もしかしたらここで、この主人公を「性同一性障害」であることにしてしまうこともできたのかもしれないけれど、あくまでそうしなかったからこそ、読者はさらに主人公に感情的に寄り添いながら、物語を読み進めることができるのでしょう。
性同一性障害の主人公の物語を読むことも、読者にセクシュアルマイノリティの現実を知ってもらう、という点で意義があるとは思います。が、おそらくここでは、違う闘い方が選ばれているのではないでしょうか。
つまり、「わたしもその気持ち、わかる!」という思いを継続させていくこと、他者を「他者」として示すのではなく、共感させていくことで、自己と他者との壁をゆるやかに溶かしていくこと。
主人公は、かわいいもの・きれいなものが似合う「理想の自分」を追求し続けた結果、「両声類」の存在に出会い、自分自身もそれを目指すようになります。
はじめに、オタク・カルチャーの存在が、セクシュアル・マイノリティの存在をやわらげていると言いましたが、この物語の設定上、もっともおおきな存在になっているのは、まさに、これです。
(性同一性障害とまではいかずとも)、自分が負わされてしまったジェンダーへの違和感や葛藤が、「両声類」になることによって解決されていく。
ここでは「両声類」がまるで、そういうひとつのジェンダー・アイデンティティであるかのように位置づけられます。
このような物語上の解決の仕方が、はたして、良いのか悪いのか、は私にはわからない。
日本の児童文学のなかで、セクシュアル・マイノリティが登場するものがごく少数であるという現状を考えると、異性愛イデオロギーの土俵上ですべてが解決される、この物語も、取るに足らないものでしょう。
一方、この物語は、ジェンダー・アイデンティティやセクシュアリティを一枚岩的なものとして扱わないこと、その多様なグラデュエーションを示すことには成功しているように思うのです。
この物語は、最終的に異性愛的な恋愛ストーリーの結末へと向かっていきます。
しかしここに描かれる風景は、けして、これまでの典型的な異性愛のストーリーと同じであるとは言えないと思うのです。
歌の途中で目を開けてみると、水瀬さんは放送を聴いているときと同じ、やわらかな笑顔を浮かべていた。ああ、ぼくはやっぱり、水瀬さんのことが好きだ。水瀬さんの笑顔を目にした瞬間、ぼくはそう思った。
ぼくはいまでも女の子になりたいと思ってるし、自分が水瀬さんの恋人になりたいと思っているのかどうかさえわからない。だけど水瀬さんを好きだというこの気持ちだけは絶対に勘違いなんかじゃない。やっといま、それがわかった。(p.229)