kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

クィアなテクストをクィア読みして「ストレート」にする―谷川俊太郎「きみ」―

 昨年の夏頃、「児童文学におけるセクシュアル・マイノリティ」について考えたいと宣言し、その後、さまざまな方がたと、「児童文学における性(セクシュアリティ)」や「児童文学に登場するセクシュアル・マイノリティの描かれ方」についてお話する機会がありました。

 

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そのような時、ある方から、『はだか―谷川俊太郎詩集』(筑摩書房)に収録されている詩「きみ」をおすすめいただいたきました。

www.chikumashobo.co.jp

その方によると、どうやら思春期におけるホモホモしい気持ち(?)が描かれている詩であるとのこと。そしてそのことについて、谷川さんご詩人が『ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る』の中で語られているとのことでした。

…それは、すごい!

 

というわけで、遅ればせながら『はだか』と『ぼくはこうやって詩を書いてきた』を取り寄せて、読んでみました。

谷川俊太郎きみ」は、中学・高校の合唱曲にもなっているようで、オンライン上で動画を見ることもできるようです。

 

冒頭にある…

きみはぼくのとなりでねむっている

しゃつがめくれておへそがみえている

ねむっているのではなくてしんでるのだったら

どんなにうれしいだろう

 

…を読んだ時点で、ぐっと「少年愛」的世界*1に引き込まれるのはわたしだけではないはずだ!…と信じたい。

 

そしてラスト!

 

ふたりとももうしぬのだとおもった

しんだきみといつまでもいきようとおもった

きみととともだちになんかなりたくない

ぼくはただきみがすきなだけだ

 

…に至っては、もう圧巻すぎて言葉を失いました。ジルベール!!

 

このように読んでいたので、わたしにとって、この詩は、小学生(あるいは中学生)くらいの…「大人の男性」になりきる前の「少年」たちの愛の詩であり、それが、中学校・高校の合唱曲になっているのは、なかなかすごいことなんじゃないか?と思っていたのですが、もしかしたら、そもそも同性同士(「少年」同士)の愛の詩とは読まれていないような気がしています。

 

合唱曲が、男女混声合唱で編成されているからそういう感じがしてしまうだけなのかもしれませんが、これが男女共学の学校において合唱曲として位置付いていることから見ても、もしかして、学校現場のなかでは、思春期にある男女(「少年」「少女」)の愛の詩として受け取られているのではなかろうか…?と思えてきました。

 

 

 

もちろん、単に、わたしの解釈が間違っていた、偏っていた…というだけなら良いのですが、どうもそうではなさそうなのです。

ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る』には、「きみ」について谷川俊太郎さんと山田肇さんが対談をしている箇所があるのですが、そこで、谷川さんが次のように述べています(402頁)。

 

山田  これ、なんでこういのが書けるんですか?

谷川 うーん、やっぱり中学生のころに、ゲイの傾向があったから。

山田 えーっ?

谷川 ゲイ。同性愛。男の子ってあるんですよ、大体。

山田 あっ、つまりこれは何っ?

谷川 完全にゲイです。

山田 そうなの?

谷川 だからオレはこれが出たときに、小学生のゲイの詩があるんだっていばったんですけどね。なんかみんなピンとこなかったみたいなんだけど、これは明かに男の子同士の愛情の話なんですよ。

山田 ぼくはまったく誤解してました。

谷川 ほんと?

山田 「きみ」は佐野さんのことだと思ったんですよ。

谷川 だって「きみ」って男の子のことでしょう。

 

もちろん、あらゆるテクストは読者に開かれているわけで、ここで、作者である谷川俊太郎さんが「ゲイ」「同性愛」の詩であるといったからといって、必ずしも、「ゲイ」「同性愛」の詩として読まなければならないわけではない、と思います。

 

とはいえ、少なくとも作者との関係だけで言うならば、この詩のなかで描かれている関係性を、ヘテロセクシュアル異性愛)の関係性として読むことは、けして、ストレートな読みではないということは指摘しても良いのではないか、と思います。

シスジェンダー(身体的性と性的アイデンティティが一致している状態)、ヘテロセクシュアル異性愛)を「当たり前」として生きる人たちが、自分たちの社会・文化に適合させるように「きみ」のテクストを(反転的な意味で)「クィアな読み(queer reading)」した結果として、はじめて、少年と少女の恋愛が浮かび上がってくるのだ、と。

つまりそれは、ヘテロセクシュアル異性愛)の物語のあるシーンをとりだしてそこに同性愛の関係性を読み解こうとしたり、ホモ・ソーシャルな関係性をホモ・セクシュアルの関係性に読み解こうとしたりする性的マイノリティによる読みの実践=「クィアな読み」と、同じ平面上にあるものだと思うのです。

 

つまり、「きみ」を異性愛の詩として読むということは、クィアなテクストを、クィア読みすることによって「ストレート」の物語をつくりあげている。

読者の側に、このような「ねじれ」を作り出せることこそが、この詩の最大の魅力なのではないでしょうか。

 

だからこそ、これを単に、異性愛の物語に回収して終わりにしてはならないし、学校の隙間で、あるいは学校ではない場所で、BBSやツイッターの中で生徒たちによってささやかれる「これって男同士…?」の声を無視し続けることはできない、とも思います。

 

わたし自身は、現在、まさに進められつつある、「セクシュアル・マイノリティと教育」の研究が、これまでの教材研究のありかたや、教科教育そのものの内容を創造的に構築し直してくれることを期待しています。

谷川俊太郎「きみ」の詩は、まさに、その可能性を考えるための第一歩を提供してくれるものでした。

*1:もちろんこの時点では(というかこの詩全体として)性別はわからないという読み方もできると思います。

わたしは、冒頭の「きみ」「ぼく」だけで、少年同士の関係性を想起したということです。これについて谷川俊太郎さん自身が「だって『きみ』って、男の子のことでしょう。」(『ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る』402頁)と言っているので、おそらくそんなに外れていなかったのだと思います。