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反転する「イチゴの日」-筒井康隆×いとうのいぢ『ビアンカ・オーバースタディ』-

2016年5月に、筒井康隆×いとうのいぢビアンカ・オーバースタディ (角川文庫) 』が文庫版で発売されました。

www.matolabel.net

ビアンカ・オーバースタディ (角川文庫) 』といえば、『ファウスト Vol.7 (2008 SUMMER) (7) (講談社MOOK) (講談社 Mook) 』(2008年)に本小説が掲載された際、表紙に文学史上の“事件”が発生」という文字が踊るほどのインパクトを残した作品。 

 

2012年には、星海社から『ビアンカ・オーバースタディ (星海社FICTIONS) 』が発売され、発売1ヶ月を待たずに3刷を重ねる売れ行き(!)であったことがちょっとした話題になりました*1

matome.naver.jp

こんな話題のライトノベルですので、2013年に発売された『ライトノベル・スタディーズ 』にも「文学史上の“事件”ー筒井康隆『ビアンカ・オーバースタディ』」と題されたコラムも掲載されています(265-266頁)。

もちろんオンライン上でも、さまざまな書評やレビューをみることができ・・・、そのような意味ではまったく、今さら述べるところのないライトノベルなのですが、ここでは少し違った観点から、この作品についてレビューを書いてみたいと思います。

book.asahi.com

www.excite.co.jp

文学史上の“事件”」として世の中に出てきた作品、しかも、 メタフィクションの手法を使いこなした名作を数多く世に送り出してきた筒井康隆の「ライトノベル」!・・・となれば、その「メタライトノベルと呼べるかもしれない、その作風に注目が当たるのは当然です。

まして、筒井康隆さんご自身が、『ビアンカ・オーバースタディ (星海社FICTIONS)』の「あとがき」で、「この本にはふたつの読みかたがある。通常のラノベとして読むエンタメの読み方、そしてメタラノベとして読む文学的読み方である」と述べられているのですから、その2つの「読み」の違いに焦点を当てたレビューを書かずにいられません。

 

もちろん、わたしもこの作品は「メタラノベ」としてこの上なく秀逸だし、「メタラノベ」なるものが世の中に出てきた(!)という意味で、「文学史上の“事件”」なのだとも思うのですが、ここであえて、このライトノベルが「メタラノベ」構造を持つことによって実現される、社会への批評性のようなものに焦点を当ててみたいのです。

 

実はわたし、個人的には、『ビアンカ・オーバースタディ』読みながら、ずっと、筒井康隆『薬菜飯店』に収録されている『イチゴの日』という作品を思い出さずにいられませんでした。

『イチゴの日』は、いまやほとんど「ネットロア」化したといって良いくらい、作者や収録本が謎のまま、ネットで話そのものだけが流れているような気がします。

個人的にもっとも衝撃を受けたのは「実写版『イチゴの日』なのか!?ゴリ押し・剛力彩芽 | マイナビニュース」という記事でした。

この記事では、『イチゴの日』のストーリーを次のように説明しています。

 

どうしようもなく醜い女の子を、マスコミの力で世紀の美女に仕立て上げ、本人にもそう思い込ませ、18歳の誕生日に壮大にネタばらしをするというストーリー。

 

 ここで、「どうしようもなく醜い女の子」にあたるのが、剛力さんというわけなので、(記事の最後にフォローも入ってましたが)さすがにひどすぎるというかなんというか・・・。

 

わたしが、『ビアンカ・オーバースタディ』を読みながら、『イチゴの日』を思い出さずにいられなかったのは、主人公のビアンカが各章のはじめに、繰り返し、次のようにいっているからです。

 

見られている。

でも、気がつかないふりをしていよう。

いつも見られているから平気なんだと思わせておけばいい。

実際、もう慣れっこになってしまっっているし、慣れっこにされてしまっているのだ。男の子たちの視線に。みんながわたしを見る、その何かを恋い願うような視線、慕い寄るような視線、粘り着き、からみついてくるような視線に。

わたしは知っている。わたしがこの高校でいちばん美しい、いちば綺麗な女の子だということを。

 

 

 これが物語の冒頭なのですが、ここまで読んだ瞬間に、「あ、これは『イチゴの日』だ」「きっと、ビアンカの『美しい』は、あとで絶対に反転するはずだ」と思いました。

 

その予想は、半分正しかったけれど、半分は間違っていました。

 

レビューや書評などを見ても、自分が「美しい」ことをことを知っているという設定は、ライトノベルの女性キャラクターに対する批評的な距離を可能にするものとして位置づけられています。

事実、その批評的距離は、最後のほうのシーンで、登場人物の男子高校生が、ビアンカらの女性キャラクターを「ほんとはおれたちの時代だって、この三人の女神様みたいな美女は、アニメやラノベにしか出てこないんだけどね」といった時点で決定的なものになります。

この設定は、読者にラノベとの距離を置かせ、「ラノベらしさ」について考えるきっかけを与えるものなのでしょう。

 

しかし、作品全体の中にちりばめられたルッキズム(外見至上主義)への批判的まなざしは、女性キャラクターが自分を「美しい」ことを知っており、それを自ら言い続けるというこの設定が、それだけに回収されるものではないことを示しているように思います。

 

「おれたち、生身の女の子を直接抱くのが、嫌いなんです。怖いし、女の子たいてい、不細工だし」「不細工でなくても、整形してるし」と悲しげに語る未来人。

それに対して「おれたちの時代だって、たいていは整形美人さ」と返す現代の男子高校生。

・・・彼らの存在は、SFによって現代社会を批評しようとする手法ー『にぎやかな未来 (角川文庫) 』などの作品群で見られる現代批判の手法ーそのものなのではないか、と思うのです。

そしてその批判される対象の中に、現代の人々ーおそらく、特に若者であり、ラノベ読者(男性)なのでしょうーがいる。それを演出的に導き出すひとつの手法として、「メタラノベ」の手法が用いられているのではないか、と思うのです。

 

『イチゴの日』も『ビアンカ・オーバースタディ』も、どちらも女性主人公の一人称的な視点を通して物語が進行するという点で共通しています。

「自分は『美しい』」と思わされているという点でも共通しています。

異なるのは「美しい」の虚構性の暴かれ方です。

『イチゴの日』の主人公の「美しさ」は、エンターテイメントのために、テレビのオーディエンスたる人々(あくまでも物語の登場人物)が共謀して作り上げた「フィクション=嘘」でした。

それに対して、ビアンカの「美しさ」は、物語の外側にいる、ラノベのオーディエンスたる人々が、作者と結託しながら作り上げる「フィクション=虚構」です。だからビアンカの「虚構」は、物語の登場人物の一人である男子高生によって、「アニメやラノベの中にしか出てこない」と自己言及されるかたちでしか、暴露去れ得ない。

『イチゴの日』で主人公は自ら「フィクション=嘘」に気づくことができたけれど、ビアンカは自分自身ではその「フィクション=虚構」に気づけないし、それを壊すこともできない。

そうだとすると、より不幸なのは、ビアンカのほうなのではないか。

 

『イチゴの日』の発表(『薬菜飯店』文庫版は1992年)から20年たって、実現した未来は、物語の中のTVオーディエンスどころか、作品の読み手である読者たちもが結託して、自らのエンターテイメントのために、フィクションとしての「美しさ」を求め、それを楽しむ時代であったのでしょう。

それでもビアンカは「ラノベらしくなさ」を背負わされることで、ラノベ読者たちの期待する「美少女」像を裏切り、そこから脱出の糸口をつかむこともできます。

 

ですが、涼宮ハルヒは?天野遠子は?・・・と考えていくとなんと悲しくなります。

篠川栞子さんは、なぜ、巨乳じゃないといけないのか?

遠子先輩は、なぜ、体操服にブルマーという姿で写真を撮られないといけないのか?

なぜ、みんな、「美少女」でないとならないのか。

 

ビアンカの「美しさ」は、そんな問いをわたしたちに投げかけるように思うのです。

 

 

*1:もちろんもともと何部印刷してあったのか、という疑問は残ります。星海社ですし、もともと1刷でそれほど多くの部数を印刷したわけではないのではないでしょう・・・と推測。