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Literacy, Culture and contemporary learning

『〈教師〉になる劇場』:教師教育×演劇のこれまでとこれから

 ようやく、川島裕子(編)『〈教師〉になる劇場—演劇的手法による学びとコミュニケーションのデザイン』(フィルムアート社)を読み終えました。

 

学術書の中には、「これだけの人たちが集まってひとつの書籍の中に論考を収めていること自体がすごい!」と思わせるような本があるけれど、これは間違いなく、その中のひとつ。

 

こちらの出版社のページで目次を見ることができるけれども、「教師教育×演劇」(あるいは「学校教育×演劇」)というテーマで、これだけ多くの研究者(演劇学、音楽学から演劇教育、教科教育など多岐にわたる研究者が集まっているというだけでなく、それぞれの研究者の方の専門分野も幅広い)が集まり、それぞれに論考を書き、それがひとつの書籍の中におさめられているということが、まず、すごい!と思いました。

 

filmart.co.jp

 

多岐にわたる研究分野の研究者が集まり、ひとつのテーマに関わって寄せた論考をすべて読み通して、あらためて、この分野の研究がまだ始まったばかりで、未整理な部分が多いことがわかりました。

 

特に考えさせられたのは、中島裕明「演劇とコミュニケーション」。

 

この論考では、まず、パーソナル・コミュニケーションからマス・コミュニケーション、そして近年のデジタル・コミュニケーションまで、「コミュニケーション」には様々な領域・レベルがあること、また、「演劇」も同様に、舞台上での役者同士の演技におけるコミュニケーションから、社会文化的なレベルでのコミュニケーションまでさまざまなレベル・領域でのコミュニケーションがあることが確認され、その上で、現在、学校教育において涵養されるべきとされる「コミュニケーション(能力)」やそれに対して用いられる演劇的手法が、かなり限定されたものであることが述べられ、広大な広がりを持つ「コミュニケーション」「演劇」の全体像のなかで、演劇的アプローチによるコミュニケーション教育が捉えられるべきであるという主張がなされています。

 

この論考では、さらに、現在までに行われてきた「教育の場における演劇」にどのようなものがあったのかが示され、そのうえで、下記のような、演劇研究への問題提起がなされています。

 

学校教育の中で演劇的活動を採用しようとする場合、演劇実践の具体的内容がどのような特性を持っているのか、どのような活動を構想した場合、そこに関わる者たちがどのような時間を過ごすのか、ということを説明する責任は、演劇研究の側にある。(中島, 2017, p106)

 

ここで、演劇研究の責任として述べられていることは、演劇と教育に関わる実践に関わってきた研究者の責任に敷衍しても良いのではないか、と考えます。

 

私は、演劇と教育に関わる理論や実践を俯瞰して述べられるほど、その分野に精通しているわけではありません。

でも、少なくとも、これまで私の研究の中で必要とされる範囲でいえば、以下の2つについて十分な情報を得ることのできる実践報告や調査研究は、またまだ不足しているように思います。

 

①その実践の具体的内容がどのような特徴を持つのかを、その場に居ない者が議論できる程度に十分な質をもった記述

 

②その実践に関わる者たちがどのような経験をしたのかを知り得るような質的・量的な調査

 

しかし、本書に収録されている論考の中には、この①の方向性での記述を開拓しようとする試みも見られ、このような試みの記述のありかたを考えるための、大きな示唆を得ました。

 

演劇と教育に関わる実践の記述のあり方の検討も含め、本書が導き出した課題、今後さらに議論すべきポイントは多々あるように思います。

その課題や論点を引き続き、議論をはじめ、継続し、蓄積していくことは、本書の読者である私たちの役割でもあるのでしょう。

 

本書を読み終えて、あらためて、この本を関心あるメンバーで集まって読み、議論することの意義を感じました。