青山学院大学相模原キャンパスで開催された、「レッツ!ピクトグラミング第1回: プログラミングを学んでみよう」に、行ってきました。
相模原市は、「ICT環境がなくてもできるプログラミング学習」を合言葉に、全国に先駆けて、小中学校でプログラミング教育を推進している自治体として知られていますが、学校外での取り組みも数多く行われているのですね!
「ピクトグラミング(Pictogramming)」は、青山学院大学の伊藤一成先生が、昨年12月に公開したアプリケーション。
「ピクトグラミング」とは、「ピクトグラム(Pictogram)」と「プログラミング(programming)」を合わせた造語で、このツールを使うと、いろいろなピクトグラムのイラストが作成できたり、さらには、ピクトグラムをアニメーションで動かせたり(!)できるてしまうという、すてきアプリ。
内海慶一(2007)『ピクトさんの本』を見て、「これは…!」となりそれ以来、「ピクトさん」との出会いを心のどこかで探し求めてきたわたしには、まるで夢のようなアプリです。
「Pictogrammingとは?」の説明には、次のように書かれています。
Pictogrammingは,Pictogram(ピクトグラム)とProgramming(プログラミング)を合わせた造語です.
プログラミングを学び始めるためのツールとして作用するかもしれませんし,ピクトグラムをつくるためのツールとして作用するかもしれません.
社会の諸問題を知ったり,解決するためにピクトグラムを活用してみませんか?
人型ピクトグラムはあなたの分身にもなります.自分を振り返り,自分の内面にある何かを表出してみませんか?
「プログラミングを学び始めるためのツール」であり、「ピクトグラムをつくるためのツール」でもある「ピクトグラミング」。
単に、プログラミングを学ぶためのツールではなく、なにか新たな作品(デザイン、アート...etc.)や新たな記号としての意味を創造できるというところが面白いですよね。
言葉の学習に関心がある者としては、やっぱり、学習者とともに新たな言葉(記号)の意味を創造していくような学びの場をデザインすることに関心があり、そういう意味でも、「ピクトグラミング」というツールによって創り出される学習環境に、とても興味がありました。
そこでさっそく伊藤先生に(突然)コンタクトを取ってみたところ、なんと幸運なことに、「レッツ!プログラミング」第1回に、ファシリテーターとして参加させていただけることになりました!
プログラミング教育は、まったく専門ではないうえに、「ピクトグラミング」では、2次元イラストを作成するところだけで満足してしまって(←「ピクトさん」ファンの限界)、アニメーション作成で遊び慣れているような段階ではなかったので、不安でいっぱいでした。
が、「プログラミング学習では、『先生』なんていない!みんなが、『学習者』だ!ピア・ラーニングだ!」と、自分が以前どこかで言ったようなことを、自らに言い聞かせて、ファシリテーターとして参加してみることに。
とはいえ、実際参加してみると、当たり前ですが、子どもたちはひとつ何かが達成できると、「あれも」「これも」といろいろ「やりたいこと」の妄想が広がっていくので、ファシリテーターとしては子どもたちの「やりたいこと」を一緒に実現したり、さらに遊び方の可能性を広げられるくらいには、遊び慣れていないとダメだったな…と反省。
次の機会までには、もっとアニメーションで遊んでおきたいと思います。
ファシリテーターとしては、自分の無能さをただただ実感するだけの時間でした。
が、そのようなかたちで関わらせていただいたおかげで、十分すぎるほどに、「ピクトグラミング」というツールによってひらかれる学習の姿を見ることができました。
あらためて感じたのは、言葉(記号)にかかわる即興的で創造的な学びの場としての可能性。
ワークショップの時間の中では、あちらこちらで、乳幼児が母親とのやりとりの中で言葉を学んでいくようなやりとりを見ることができました。
子どもたちが、マウス操作で直接ピクトグラムを動かしたり、あるいは、「指令」で動かしたりすると、そこには、(おそらく)子どもたち自身にとっても予想外なポーズや動きをしたピのクトグラムができる。
それに対して、ファシリテーターや保護者、周囲の子どもたちが、「これって、〇〇?」「△△みたい!」と、なんらかの「意味」を見出しやりとりをする。やりとりのなかで、みんなが一緒になって、そのピクトグラムの意味を創造していく。
もちろん、ワークショップの最後のほうでは、ハッキリとした意味を作り出そうとして、(例えば、「走る」のポーズ、「遊泳禁止」のサインなど)操作をしはじめることもあるけれど、操作ミスや予想外の動きは常に存在していて、その「予想外」が常に新たな意味へと開れる可能性を提供してくれる。
何かを作り出そうとして、「それ」を作り始めると、「それ」が完成したときには、「それ」をもっと違うものに展開したくなる。できあがった「それ」が新たな遊びの可能性を開いてくれる。
「遊び」と「作品づくり」が継ぎ目なくつながりあうことによって、新たな意味が次々と創造されていく。
――これが、言葉(記号)の学習・発達でなくて、なんだろうか?と思わずにいられませんでした。
今春発売されたミネルヴァ書房のテキスト『初等国語科教育』の第12章「メディアリテラシー・ICTの指導」のなかで、国語科×総合学習でのプログラミング教育の事例を紹介し、国語科でプログラミング教育を行う可能性について示すことはできたけれども、この可能性についての議論は、まだまだれから。
昨年秋に、Andrew Burn先生が来日したときには、「プログラミングゼミ」を開発中だったDeNAを訪問し、その議論のなかで、「プログラミングは、国語や美術と一緒にやったほうがよい」という話も出ていたけれど、創作・表現とのかかわりでプログラミングを位置付けていくことは、まだこれからの課題なのだと思う。
「レッツ・ピクトグラミング!」で見た数々の学びは、言葉や記号の学びとプログラミングとを結び付けてくれた点で、私にとってはとても大きい出来事でした。
伊藤先生、貴重な機会をいただき、ありがとうございました!