kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

全国大学国語教育学会ラウンドテーブル「国語教育における即興的パフォーマンスとしての学習 」

全国大学国語教育学会2018秋大会のプログラムが、ホームページ上に公開されました。

プログラムは、こちらからPDFでダウンロードできます。

www.gakkai.ac

わたしは、2日目(10/28(日))の午前中に開催される課題研究シンポジウムで、コーディネーターとして登壇する予定なのですが、その他にもいくつかの企画に参加しています。 

kimilab.hateblo.jp

そのうちのひとつが、2日目午後のラウンドテーブル、「国語教育における即興的パフォーマンスとしての学習―「うまくいかない」「できちゃった」から生まれることばの学び―」です。

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以前から、国語教育×インプロ(即興)みたいなテーマで、ラウンドテーブルができると良いなぁ…と考えていたところ、あれよあれよという間に、知り合い同士がつながり、今回の企画が実現することとなりました。

たまたまこの日程で、登壇者の皆さんに予定を調整していただくことができ、かつ、東京というアクセスの良い会場での研究大会開催だからこそ、皆さんに来ていただける。そんな奇跡的な偶然が重なったからこそ、実現できるラウンドテーブルです。

ぜひこの奇跡的な機会を、皆さんに共有していただければと思っています。

 

今回のラウンドテーブルの登壇者の皆さんからは、事前に、要旨集原稿のオンラインでの共有について許可をいただいているので、こちらで、要旨集原稿を公開いたします。

 

★PDF「国語教育における即興的パフォーマンスとしての学習
―「うまくいかない」「できちゃった」から生まれることばの学び―」

 

また、以下にテキストもアップいたしますので、よろしければぜひご覧ください!

 国語教育における即興的パフォーマンスとしての学習
―「うまくいかない」「できちゃった」から生まれることばの学び―

 

コーディネーター 横浜国立大学     石田 喜美
話題提供者    足立区立扇小学校   神永 裕昭
         帝京大学       坂本喜代子
         横浜市立永田台小学校 堤  真人

 

キィワード:パフォーマティブな学び(performative learning),インプロ(即興劇),予測不可能性

 

1. ラウンドテーブルの趣旨(石田喜美)

2017年2月に告示された新学習指導要領では,今後各教科の指導にあたって配慮すべき事項として「主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善」(『小学校学習指導要領』第1章第3の1)が示され,「主体的な学び」「対話的な学び」「深い学び」の3つの視点から授業を改善することが求められている.『小学校学習指導要領解説総則編』によると,このうち「主体的な学び」とは「学ぶことに興味や関心を持ち,自己のキャリア形成の方向性と関連付けながら,見通しをもって粘り強く取り組み,自己の学習活動を振り返って次につなげる」学びであるという.(文部科学省, 2018, p77)


ここで述べられている「主体的な学び」の要素はいずれも重要なものであり,これに異議を唱える者は少ないだろう.一方,このような「主体的な学び」を実現するための実践上・運用上・倫理上の課題は解決されていない(小針, 2018).また井谷(2018)はこれらの課題に加え,「主体性は『教える』ことができない」という,「主体性の育成に関わる重大な困難」を指摘する(井谷, 2018, p247).教師の指示や発問によって,「学ぶことに興味や関心を持」たせようとすれば,それはかえって,児童・生徒の主体性を奪うことになる.本来的な意味での「主体的な学び」を実現しようとするのであれば,我々はまず,「教える-学ぶ」という関係性そのものを問い直す必要があるのである.


 では,学校や教室では,具体的に,どのような学びの姿を目指すべきなのか.井谷は「主体的な学び」を実現するための学びのスタイルとして,「パフォーマティブな学び」を提案する.

 演劇の配役に喩えていうなら,ここで提案されているのは,児童生徒はまだ舞台の主役としては未熟であり演技も上手とはいえないが,未熟だからこそ彼/彼女に主役をまかせてみようということにほかならない.このように,獲得すべき資質をすでに獲得しているかのように遂行してみる(perform:演じてみる)ことにより,実際にこの資質を育成しようとする学びのスタイルのことを,「パフォーマティブな学び(performative learning; 遂行型の学び)」と呼ぶことができる.
(井谷, 2018, p248)

 

「教える-学ぶ」スタイルからこのような学びのスタイルへと学校・教室での学びを移行した場合,そこでの教師の役割も,当然,変更を余儀なくされる.教師の役割は,指示や発問によって「教える」ことではなく,児童・生徒がパフォーマンスするための「舞台」としての学習環境を整えることへと変化する.児童・生徒が,いまだ自分自身の獲得していない資質をあたかもすでに獲得しているかのようにパフォーマンスするのであるから,そこでは多くの失敗が生みだされる.また児童・生徒にとってのみならず,教師にとっても,その「舞台」で生じる出来事は予測不可能である.教師は,児童・生徒とともに,それら予測不可能な出来事や失敗と向き合いながら――その中には,失敗が続き「うまくいかない」と悩む場面から,逆に,予想外に「できちゃった」喜びを共有する場面まで様々な場面が含まれるだろう――即興的にその「舞台」における学習を創出していく必要がある.

 

本ラウンドテーブルでは,このような「即興的パフォーマンス(improvisational performance)」(ソーヤー, 2016, pⅱ)としての学習に着目する.国語科においては,従来から「演劇的手法」を用いた学習活動が実践されてきた.その中には,インプロ・ゲームの活用など,インプロ(即興劇)の手法を応用したものも存在する.また近年,授業における予測不可能な出来事を学習へと結びつける視点や,児童・生徒との即興的なコミュニケーションの中で学習を実現する教師のありようにも注目が集まりつつある.これらの議論を,「即興的パフォーマンスとしての学習」という共通した視点で議論することで,その視点によって見出しうる国語(科)教育におけるどのような学習の可能性を明らかにしていきたい.

 

2. 学校教育におけるインプロ(即興演劇)の可能性(神永裕昭)

2.1. インプロとは

インプロとは即興(improvisation)が略された言葉で,アメリカでは「improv」,イギリスでは「impro」と表記される即興演劇のことである.
近年,学校教育や企業研修等において,他者とのコミュニケーションやクリエイティビティに関わる能力を引き出すことを目的としたワークショップに活用されている.ワークショップでは主にインプロのゲームを用いる.そのワークショップの目的や参加者の様子を見て,ファシリテーターがゲームを選択して,ゲームを行い,終了後にリフレクションをすることで気付きや学びを言語化することでワークショップのねらいにアプローチしていく.


2.2. なぜインプロ(即興演劇)なのか

例えば,国語科「話すこと聞くこと」領域において「自分たちの学級のよいところを下級生に伝えよう」という単元を実施したとする.そこでは,4人グループでお互いの意見を出し合い,共通点や相違点を明らかにし,理由付けをしながら,自分たちの班の意見をひとつにまとめるという話合い活動が展開される.このとき,本当に一番よいアイデアを採用しているのだろうか.そもそも一番とは何か.もちろん「下級生に伝える」という相手意識や目的意識を働かせるのは分かる.しかし,一緒の班の「いつも意見を言わない○○ちゃんが一生懸命話してくれたから.」とか「さっきケンカした○○ちゃんの意見に賛成したくない.」など,いろいろな「気持ち」が複合的に加味されることは当たり前に考えられる.これらの「気持ち」を抜きにして話し方・聞き方のいわゆる「型」で進む話合いの学習だけではとても大切なものを学習者は落としていく感じがする.「型」を否定しているわけではなく,「型」に傾きすぎている教育現場を危惧しているのである.互いに相手を見て,関心を向け合うという基本的なことが欠落してしまっていると感じている.

「型」をドライブする自己がいて,その自己は他者との関係性の中に存在するという生態学的観点が必要である.そのドライブする自己は他者との関係性の中で学習・発達していくものだと考える.

そのドライブする自己を他者とのコミュニケーションの中で学習・発達させることにインプロが有効であると考えている.インプロが唯一無二の方法というわけではなく,インプロにも可能性があると考えている.では,どうしてインプロなのかという点であるが,インプロには蓄積された方法論と哲学がある.そして,その方法論や哲学はゲームの中に組み込まれている.この点を挙げたい.


2.3. 即興するということ

即興するということは適当で好き放題にすることではない.無意識に,その人自身の関係の中に埋め込まれた文化的・歴史的に創られた自己が表出する.つまり,パターンがあるということである.

インプロでは必ず他者との関わりの中で即興する.自己のパターンを抱えつつ,目の前にいる他者と協働で物語を創ったり関わってゲームをするのである.

協働して物語を創ったりゲームをうまく進めたりするためには方法論が必要となる.例えば「相手のアイデアを受け入れること」がそうである.しかし,この方法論が分かったからといって,実際に即興できるかといったら難しい.これがインプロのおもしろいところでもある.関係の中に埋め込まれた文化的・歴史的に創られた自己は,多くの人が「自分の想像と違ったら受け入れないほうが安全だ」と学習しているからである.その自己が,たかがゲーム(遊び)の中でも表出する.表出する行動を変えることで,文化的・歴史的に創られた自己にも変容がもたらされると考える.

 

2.4. 体験し,リフレクションして気付くこと

相手に合わせてばかり行動すること,相手のことなど全く考えずに自己主張を続けること,自己決定を避けること,物語の展開を先送りにすること,相手のことを考えすぎてしまうこと,失敗を恐れてしまうことなど,インプロのゲームを体験し,リフレクションをして気付くことがある.その気付きはチャレンジに変えることができる.インプロのゲームという架空の空間の中でも自分を生きている.そして,それは日常と地続きである.

 

3.教師の感じる身体と即興性(坂本喜代子)

学びの場で起こる事象に対して,教師は即興的に対応し省察することを通して新たな授業システムを創造している.固く重い学びの中で「うまくいかない」とき,教師の即興性は教師の望む方向への誘導や軌道修正へと働く.そこで忘れられているのは教師の身体である.予測できないことが起こったとき,まず反応するのは身体である.高尾 (2012) は,主体としてのからだと,物としてのからだとが,ずれたり統合したりを繰り返すと言う.それが創造性の源泉であるとする.

ここで,身体の相互作用の例として小学2年生のツカサと教師の「読むこと」の授業場面を取り上げる.学級全体で設定した複数の問いについて自分の考えを書き,個別に教卓に並び教師の評価をもらう様子である.


1回目の個別指導の記録
 (授業開始33分頃,ツカサが初めて並ぶ.他の児童は教師の前にすぐ立ち言葉を聞こうとするが,横に立ったままでいる.「なまえがはなだから?」と書いてある.)
T:おっ,ツカサさん楽しみだ.(じっくり読み,ツカサの肩を数回たたき,小さな音で拍手)名前が花だから(笑い)反対だね,(ワークシートを訂正しながら)すみれちゃんは名前が花だから?はてなってしてるでしょう.すごくいいじゃん.これ.(拍手.青シール1こ,銀シール1こ貼る)(坂本, 2017, P.147)

 

ここには,ツカサの身体に呼応する教師の身体がある.教師は教卓の横から動かないツカサを認識し,まるで今気づいたかのように名前をよび,ワークシートに手を伸ばす.無言でツカサの肩をたたき拍手をする.応答する教師の身体は,即興的に感じる身体のまま向き合い,空間を共有している児童と共にある.これを鈴木 (2017) は,「評価する身体」と呼んでいる.共感規準が教師の身体と子どもの身体に関わり合いをもたらし,共に分かちもつ空間を生成することによって,からだで評価することを可能にしているというのである. 

学習者と教師の関係は,まず両者の関係があり,志向が向けられることによって特徴づけられる.木村 (2010) は,教師の快感情(喜び,驚き,楽しさ,心地良さ,満足感)及び不快感情(いらだち,悲しみ,不安,退屈感,落胆,苦しみ,困惑,罪悪感,悔しさ)は「即興的な授業展開」との結びつきが深いと指摘する.言うなれば「できちゃった」も「うまくいかない」も即興的な学びを展開する重要な局面なのだ.

松尾 (2012) は,授業での教師の感情と児童の発言への応答の関連を質問紙調査から明らかにした.例えば,児童が相互にやりとりすることを促す教師の働きかけと「抑うつ」「冷静」という感情とが関連しているというのである.しかし即興性とは,感情が生まれるよりも先に物としてのからだが動くことで生成する.後になってなぜそうしたかと問われてもうまく答えられないような類のものである.感じる身体が動きを生み,感情も生成する.つまり,感情より先に感じる身体があるのである.

では,教師はどのようにして感じる身体を身につけるのか.さらに感じる身体をもって,どのようなことばの学びを生成するのか.

教師教育として現在注目されているのが演劇的コミュニケーションである.川島 (2017) は,演劇的コミュニケーションによって「『教師である』から『なる』」へと編み直すのだとしている.「コミュニケーション実践」を「身体的出来事」とみなす経験を演劇的手法が可能にするのだ.

また,教師教育としての可能性としてとしてTAE (Thinking At the Edge) を提案したい.TAEとは,「何か言葉にしようとするのだが最初は漠然とした『からだの感覚』としてだけ浮かんでくるものを,新しい用語を用いてはっきりと表すための系統だった方法」 (Gendlin, 2004) である.

当日は,具体的な授業記録を照らし合わせながら,教師の感じる身体と即興性について論じたい.

 

4.教師が手探りで捉えようとする子どもの世界.でも,捉えられない葛藤.そして,その先(堤真人)

教師による子どもへの即興的な関わりは,「わからない」という,ある種の諦念から始まる.クラスというコミュニティを構成する他の子どもたちと同様に,教師も自らの主観を通じて,ひとりひとりの児童のことを知ろうとする.教師が知り得るあるひとりの子どもの姿は,あくまで,その児童のひとつの側面に過ぎない.そのような主観の限界を知りながら,それでも,ひとりひとりの子どもたちの世界を知ろうとし,その限界の中で葛藤する.「わからない」という前提に立ち,「わかりえない」という限界を知りながら,子どもたちと関わるために,即興的なアクティビティが取り入れられ,そこで即興的に生み出される言葉や身体,関係性から,次なる学習への手がかりが少しずつ見出される.そのような姿を,虚構の「告白体の物語」(ヴァン=マーネン, 1999)を通して描き出してみたい.このような即興的な学習の姿は,いかに記述することが可能なのか.

3.1. 「ようこ」の物語①
 今日も 輪になって一日が始まる.いつものようにみんなで短いゲームをする.
「みんなとは親友にはなれないけど,一緒にゲームができるぐらいの関係にはなってほしい.」とうちの担任はよく言う.いきなり授業よりはずっとまし.授業時間短くなるしラッキー!うちの担任は,遊べ遊べって,いつも言う.なんかいつも教室や校庭で,「アクティビティ」(?)やらドッジボールをしている.いつも男子と先生はふざけてばかりいる.どっちが子どもなんだろうってよく思う.


3.2. 「僕」の物語①
今年も,一年間輪になって朝をスタートしようと思う.飽き性の僕がずっと続けている唯一の実践だ.僕は朝が弱い.しんどい日だってあるし,テンションの高い日だってある.家庭でいろいろある日だってある.きっと子どももそうだと思う.一人一人違う背景があるんだから.学校来ていきなり学校モードになるんじゃなくて,みんなで顔を合わせて遊びながら「今日もまぁ楽しくできそうだ」って思えてもらったらうれしい.

 

3.3. 「ようこ」の物語②
今日のゲームは,カウントダウン.20から1の数字の中でひとつ選ぶ.先生が20からカウントダウンしていって,自分が選んだ数字の時に手をあげるというものだ.でも誰かとかぶったら負け.1に一番近い数字で一人だけが手を挙げた人が勝ちだ.
「20!」いつものようにおふざけ男子が何人か手を挙げている.もう面白くないのに.私が選んだ数字は「3」.意外と誰も選ばない数字なのだ.「3!」私は思いっきり手をあげる.周りを見る.「あー,お前手上げんなよー!」とゆうすけが笑いながら言っている.私も思わず「うわっ」って言っちゃった.うるさいよ,ゆうすけ.


3.3. 「僕」の物語②
今日は,朝から何やらテンションが高い子が多い.今日の遊びは,静かに推理するものをしようと思う.カウントダウンにしよう.「20!」数人の男子が手を挙げる.安定した手出しだ・・・「19, 18…」 「3」「あー,お前手上げんなよー!」「うわっ」 ゆうすけはともかく,ようこが「うわっ」だって!そんなこと言うんだなぁ.しかも嫌そうな顔で.意外な一面が見れたなぁ.ようこも少しずつ自分が出せるようになったのかなぁ.いや,そればっかりはようこにしか分からないか・・・僕の見えている子どもの世界なんてごくわずかなんだよな.ついつい,子どものことを分かったようになってしまうのが僕の悪い癖だ.

 

3.4. 「ようこ」の物語③
毎日,毎日,朝の遊びをしている.ペアとかも毎日変わるから,いろんな子とかかわるようになったと思う.今も,休み時間は決まった子とあそんじゃうけど,それでいいと思ってる.みんなと親友にはなれないしね.でも,なんかうちのクラス,仲良くなってきたと思う.昨日も,喧嘩ばかりしているあつしとペアでかくれんぼだったから心配だったけど,「お前探すのうまいな」だって.あつしも意外といいところもあるんだなと思った.


3.5. 「僕」の物語④
毎日,毎日,遊んでいてだんだん,仲良くなってきたのが分かる.もちろん,今日みたいにルールでもめることもあるけど,そんな日もあると思う.ただ,この仲良くっていうので,苦しんでしまう子はいないだろうか.強い凝集性が働いていないだろうか.いつも不安だ.僕が見ようとしている子どもの世界はあまりにも広大で,大人の僕には霞んで見える.僕が感じていることが,ほんとに子どもが感じていることかどうかなんて分からない.人のことなんて分かりやしない.それでも,なんとかこうしよう,ああしようって子どもの様子を見ながら決断していかないといけない.その矛盾は苦しい時もあるけど,「また明日!」って子ども達が言えたらいいなって思うんだ.

 

(以上、本文のみ。引用・参考文献については、PDF版を参照してください)