kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

治癒のための言葉と、身体と言葉の間にある矢印~ボディトークと『身体(ことば)と言葉(からだ)』

体型や食べることへのこだわりが強く、ふつうに食べられない日が、1年以上続き、仕事や人間関係にも影響が出てくるようになってしまったので、「なんとかしなければ」と一念発起。「ボディトーク(body talk)」の施術を受けてみることにしました。

漢方や針灸、マッサージなど、西洋医学に基づく医療とは異なる医療法は、すべてひっくるめて「オルタナティブ医療」「代替医療」(alternative medicine)と呼ばれていますが、「ボディトーク」もそんなオルタナティブ医療のひとつ。

 

そんな「ボディトーク」のことをわたしは知ったのは、おそらく、大学の授業で「東洋医学入門」のような授業を受けて、オルタナティブ医療についていろいろ調べた時期だったんじゃないかと思います。

創設者が、カイロプラクターや鍼灸師の資格者だからかと思いますが、基本的にはそのあたりの東洋医学的な理論をベースにしつつ、いろいろなオルタナティブ医療の言葉をぎゅぎゅっと一気に詰め込んで、凝縮した感じがすごい。Body Talk Japan Associationのホームページにぼんやり画像が掲載されているこちらの図を見るだけで、その「ぎゅぎゅっと凝縮」感が伝わるのではないかと思います。はじめて「針灸経絡経穴図」を見たときも感動したけれど、それが言語になっているせいか、わたしにはそれ以上の感動がありました。この画像のボックスひとつひとつにびっしりと、複数の医療モデルから導きだされ言語が並んでいて、これを見ているだけで面白い。

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ボディトークの施術は、この「プロトコルチャート」に基づいて、セラピストが言葉や身体反応を通じて、修復箇所を特定し、そこにフォーカスして損傷の行われた部分を回復するためのタッピング(手で特定箇所をタップしていく)を行っていく…という流れです。(詳細は、こちら

 

もともと、ボディトークが、様々なオルタナティブ医療の理論や用語を組み合わせてその独自の理論を作り上げているせいか、そしてその集大成である難解かつ複雑な「プロトコルチャート」があるせいか、いろいろなところの評判を見ていると、セラピストによってその施術の内容が異なる…というのがネックなようです。仕方がないのかもしれないけど、かなりスピリチュアルに寄ったり、カイロプラクティックに寄ったりしたりもするみたいです。それはそれで、どんな違いがあるのか知りたい気もしますが…。

 

そんなこともあり、興味はあるけれどなかなか一歩踏み出せずにいたのですが(オルタナティブ医療は、保険がきかないので高額になりますしね)、偶然にも、「言葉」に対する感性をもってボディトークに接していらっしゃる(と思われる)セラピストの情報を見つけて、「よし、ここに行ってみよう!」ということで行ってみた、という次第です。

(…そして、そのときはなんとなく、ブログなどで使われている文章からそう思っていただけだったのですが、セラピーを受けた数週間後に「ことばを増やす」という記事をアップされていて、しかも、『感情ことば選び辞典』を購入した、という記事でとてもビックリしました)

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クリスチャン・ボルタンスキー《白いモニュメント、来世》

 8月上旬に1回、そして9月中旬に1回、施術を受けたのですが、2回の施術を通じてわかってきたことは、「これは自分の身体を感知したり、それを整えていくための手がかりとしての言葉を探していく作業である」ということでした。

プロトコル・チャート」に記載されている無数の用語たち(そこには、日常用語から、オルタナティブ医療や東洋的なエネルギー理論の用語までいろいろな用語が並んでいるわけですが)は、その言葉探しのためのきっかけ、手がかりに過ぎない。むしろ、そのきっかけや、手がかりを、どのようにセラピストととともに言語化し、ストーリーを編み上げていくことができるか、そして、そこで編み上げられた言語をベースにしながら、ふたたび日常を過ごすなかで、身体の状態を感知し、そこで現れる反復的なパターンを捕捉するための言葉を自ら見出せるようになるか。

それが、ボディトークの肝であるように、わたしには思えました。

 

身体(ことば)と言葉(からだ)—舞台に立つために 山縣太一の「演劇」メソッド』(新曜社)の中に、「身体と言葉の間にある意識の矢印」について書かれた節があります。

に普通に雑談しているときの様子をビデオに撮影し、それを再現するために繰り返し稽古をしていたときに、再現したい動きに対して言葉を当ててみた、というエピソードです。

…とりあえずその特徴をおさえた言葉を当ててゆくのはどうだろう、と思いつきました。たとえば手をゆっくりと広げてゆくしぐさが映像に映っていた場合、それにとりあえず「腕バード」という名称を与えて、動きを言葉として認識してみる。

その言葉自体は発話しないのですが、その言葉を動きに与えて、動き自体を言葉で分割して、一度明確に「振り付け」として捉える。いわば、ぜんぜん知らない他人から与えられたもののように、それを踊ってみる、というやり方です。

録画されたときはもちろん、そんな「言葉」も「振り付け」もないわけですけれど、繰り返しその時の動きを再現するということを試みたときに、「言葉」で自分の動きを自覚して、分割して再構築したほうが、映像の情報量に近づけるように感じたのです。(『身体(ことば)と言葉(からだ)—舞台に立つために 山縣太一の「演劇」メソッド』、新曜社p107)

 

ボディトークでは、それこそ、膵臓や大腸など内臓を含む身体の部位にも、その損傷を治癒するための言葉も編み出されていきます。

そのような、ふだんは意識していない部位に焦点が当たることもあり、わたしは自分が経験しているボディトークのプロセスと、本書のなかで山懸さんが論じている役者の身体×言葉論との、奇妙なつながりを感じています。

 

だれかの助けを得ながら、自分の身体の状態を語るための言葉を見出したりしていくこと、それによって自分がどのように変わっていくのか。その変化のプロセスを、ひとつの「個人的実験」として試しています。