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Literacy, Culture and contemporary learning

大人につきあう、知らない世界にジャンプする~伊藤崇『大人につきあう子どもたち』

 伊藤崇先生から、5/26発売予定の新刊大人につきあう子どもたち:子育てへの文化歴史的アプローチ』(共立出版をご恵投いただきました。

 

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ひつじ書房から『学びのエクササイズ 子どもの発達と言葉』(伊藤, 2018)が出版されたときも、「ぐおーっ!!これは!!」とかいって、予約注文でゲットしていたくらいなので、緊急事態宣言下で、書店に行くこともままならず、通販で発注しようとしても時間がかかってしまう…という状況の中、発売日前にゲットできたというだけで歓喜

しかも、ご恵投くださるなんて…!という感じです。

 

わたしにとって、『学びのエクササイズ 子どもの発達と言葉』は、なくてはならない本で、ほとんどスペースがない研究室のデスクの上に設置されている稀有な本だったりします。

そもそも、子どもの言葉の発達を「社会化(socialization)」という観点から議論しようとする人間にとって、日本語で読める文献事態が少ないので、そういう議論を知ることができる初学者向けのテキスト(「学びのエクササイズ」)が世に出てきたというのがありがたい。

これから、外国につながる児童生徒がますます増え、それのみならず、いろいろな事情で、子どもたちが背後に抱える社会・文化が多様になっていくなかで、そもそも、言語や読み書き能力(リテラシー)の発達をリニア―に描こうとするモデルは、ほとんど役に立たなくなるでしょう。

そのような中、学部生が、社会・文化を横断的に生きる子どもの言語発達について、手がかりとなるような理論やモデルが得られる、という意味でも、かけがえのないテキストなのです。

 

今回上梓された『大人につきあう子どもたち:子育てへの文化歴史的アプローチ』(共立出版)も、一読して「ああ…!今この状況の中で、このような視点での議論を手軽に日本語で読めるのが、ありがたい!」という感想を持ちました。

 

「大人につきあう子どもたち」というタイトルだけを見て、カチンときてしまい(あるいは、傷ついてしまい)、本書での議論を読もうともせずに通り過ぎてしまう人がいるといけないので、まず、「この本では、別に、養育者(保育者・先生)が批判されているわけではないですよ」ということをお伝えしておきたいです。

真面目な大人たちであればあるほど、家庭や保育園、学校における広い意味での「子育て」の営みのなかで、子どもたちが「大人につきあってくれている」ということに意識的です。そして、そのことに対して、落ち込んだり、絶望したりする。

研究授業のあとの協議会の中で、「子どもたちが、先生に気を遣って合わせてくれているだけだ」というような批判を聞いたこともあります。

子どもたちが「大人につきあう」ということは、かくも、ネガティブなこととして捉えられている傾向があるようです。

でもその先生たちが、子どものことを真摯に見よう、子どもに寄り添おうとした結果として、「大人につきあう子どもたち」の姿が見えてきてしまったように、子どもたちはやっぱり、大人につきあっているんだと思います。

 

だからこそ、わたしは、子どもを真摯に眼差そうとした結果、「大人につきあう子どもたち」の姿を見出して、落ち込んでしまっている養育者、保育者、先生方に、この本が届くといいな、と思います。

 

本書では、「大人につきあう子どもたち」を認めたうえで、そこに、子どもたちの学習・発達の可能性を見出します。

 

子育てもまた同じように考えられる。子どもにとって子育てとは自分にとっての活動ではない。しかし、それにつきあうことは、自分にとっての活動やその背後にある動機が変わる機会となるのである。大人との会話の成立に寄与した子どもには、次にまた大人と会話したいという動機が生まれるかもしれない。一斉発話の成立に寄与した子どもには、保育者による保育実践に不可欠なメンバーとして自己を規規定したくなる(つまり、クラスの一員となる)かもしれない。そして、準備過程の途中で呼びかけ遊びが成立した子どもたちは、さらに別の遊びを探索したくなるかもしれない。(伊藤崇(2020)『大人につきあう子どもたち:子育てへの文化歴史的アプローチ』, p182)(太字は引用者)

 

子どもたちの活動の世界は、大人が触れると「悪」にしかならないような、あるいは即座に壊れてしまうような、ガラス製の「ネバーランド」ではない。

大人たちが「子育て」によって新しい活動の可能性を広げていくように、子どもたちも、自分にとっての活動ではない「子育て」に付き合うことによって、未知なる世界を拓く機会を得る。これまでには知らなかった世界にジャンプしていける。

 

 2018年、全国大学国語教育学会・東京ウォーターフロント大会のラウンドテーブルで、「国語教育における即興的パフォーマンスとしての学習」を開催した。

そのときに登壇してくださった、堤真人先生(横浜市立永田台小学校(当時))は、「教師が手探りで捉えようとする子どもの世界.でも,捉えられない葛藤.そして,その先」というタイトルで、以下のような文章を寄せてくださいました。

「『わからない』という,ある種の諦念」からはじまりながら、一人称小説の文体を借りて語られる「ようこ」の物語には、「大人につきあって」短いゲームみたいなものを遊んであげながら、その中で、ちょっとずつ変わっていっているかもしれない自分が語られているように思います。

 

教師が手探りで捉えようとする子どもの世界.でも,捉えられない葛藤.そして,その先(堤真人)

教師による子どもへの即興的な関わりは,「わからない」という,ある種の諦念から始まる.クラスというコミュニティを構成する他の子どもたちと同様に,教師も自らの主観を通じて,ひとりひとりの児童のことを知ろうとする.教師が知り得るあるひとりの子どもの姿は,あくまで,その児童のひとつの側面に過ぎない.そのような主観の限界を知りながら,それでも,ひとりひとりの子どもたちの世界を知ろうとし,その限界の中で葛藤する.「わからない」という前提に立ち,「わかりえない」という限界を知りながら,子どもたちと関わるために,即興的なアクティビティが取り入れられ,そこで即興的に生み出される言葉や身体,関係性から,次なる学習への手がかりが少しずつ見出される.そのような姿を,虚構の「告白体の物語」(ヴァン=マーネン, 1999)を通して描き出してみたい.このような即興的な学習の姿は,いかに記述することが可能なのか.

3.1. 「ようこ」の物語①
 今日も 輪になって一日が始まる.いつものようにみんなで短いゲームをする.
「みんなとは親友にはなれないけど,一緒にゲームができるぐらいの関係にはなってほしい.」とうちの担任はよく言う.いきなり授業よりはずっとまし.授業時間短くなるしラッキー!うちの担任は,遊べ遊べって,いつも言う.なんかいつも教室や校庭で,「アクティビティ」(?)やらドッジボールをしている.いつも男子と先生はふざけてばかりいる.どっちが子どもなんだろうってよく思う.


3.2. 「僕」の物語①
今年も,一年間輪になって朝をスタートしようと思う.飽き性の僕がずっと続けている唯一の実践だ.僕は朝が弱い.しんどい日だってあるし,テンションの高い日だってある.家庭でいろいろある日だってある.きっと子どももそうだと思う.一人一人違う背景があるんだから.学校来ていきなり学校モードになるんじゃなくて,みんなで顔を合わせて遊びながら「今日もまぁ楽しくできそうだ」って思えてもらったらうれしい.

 

3.3. 「ようこ」の物語②
今日のゲームは,カウントダウン.20から1の数字の中でひとつ選ぶ.先生が20からカウントダウンしていって,自分が選んだ数字の時に手をあげるというものだ.でも誰かとかぶったら負け.1に一番近い数字で一人だけが手を挙げた人が勝ちだ.
「20!」いつものようにおふざけ男子が何人か手を挙げている.もう面白くないのに.私が選んだ数字は「3」.意外と誰も選ばない数字なのだ.「3!」私は思いっきり手をあげる.周りを見る.「あー,お前手上げんなよー!」とゆうすけが笑いながら言っている.私も思わず「うわっ」って言っちゃった.うるさいよ,ゆうすけ.


3.3. 「僕」の物語②
今日は,朝から何やらテンションが高い子が多い.今日の遊びは,静かに推理するものをしようと思う.カウントダウンにしよう.「20!」数人の男子が手を挙げる.安定した手出しだ・・・「19, 18…」 「3」「あー,お前手上げんなよー!」「うわっ」 ゆうすけはともかく,ようこが「うわっ」だって!そんなこと言うんだなぁ.しかも嫌そうな顔で.意外な一面が見れたなぁ.ようこも少しずつ自分が出せるようになったのかなぁ.いや,そればっかりはようこにしか分からないか・・・僕の見えている子どもの世界なんてごくわずかなんだよな.ついつい,子どものことを分かったようになってしまうのが僕の悪い癖だ.

 

3.4. 「ようこ」の物語③
毎日,毎日,朝の遊びをしている.ペアとかも毎日変わるから,いろんな子とかかわるようになったと思う.今も,休み時間は決まった子とあそんじゃうけど,それでいいと思ってる.みんなと親友にはなれないしね.でも,なんかうちのクラス,仲良くなってきたと思う.昨日も,喧嘩ばかりしているあつしとペアでかくれんぼだったから心配だったけど,「お前探すのうまいな」だって.あつしも意外といいところもあるんだなと思った.


3.5. 「僕」の物語④
毎日,毎日,遊んでいてだんだん,仲良くなってきたのが分かる.もちろん,今日みたいにルールでもめることもあるけど,そんな日もあると思う.ただ,この仲良くっていうので,苦しんでしまう子はいないだろうか.強い凝集性が働いていないだろうか.いつも不安だ.僕が見ようとしている子どもの世界はあまりにも広大で,大人の僕には霞んで見える.僕が感じていることが,ほんとに子どもが感じていることかどうかなんて分からない.人のことなんて分かりやしない.それでも,なんとかこうしよう,ああしようって子どもの様子を見ながら決断していかないといけない.その矛盾は苦しい時もあるけど,「また明日!」って子ども達が言えたらいいなって思うんだ.

 堤先生自身が最後にかたる「『僕』の物語」は、不安と葛藤だらけ。

でもそのなかに灯るひとつの希望、ひとつの願いとして、「『また明日!』って子どもたちが言えたらいいなって思うんだ」と締めくくられていることも、今あらためて振り返ってみると、とても感慨深い。

 

子どもたちの「わからなさ」「理解しあえなさ」に日々不安と葛藤をかかえ、時には絶望し、落ち込んでしまう先生方は、けして、堤先生だけではないと思います。

 

そういう人たちに、本書が届くことを、祈らずにいられません。