kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

子どもの「お仕事」―映画『モンテッソーリ 子どもの家』

フランス最古のモンテッソーリ学校に通う子どもたちを、2年3カ月にわたって観察・記録し続けた、教育ドキュメンタリー映画モンテッソーリ 子どもの家』を観にいきました。

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モンテッソーリ 子どもの家』

わたしは、映画を鑑賞後に、公式ホームページを見たので、幸いなことに、そこに掲載されている宣伝文句を(鑑賞前に)目にせずに済みました。が、これをはじめに見ていたら、映画館に行くのを躊躇したかもしれない、少なくとも、映画の見方には影響したかもしれない…と思いました。

そう考えてみると、映画のレビューサイトに「モンテッソーリ教育の宣伝映画だ!」みたいな批判を書く人の気持ちもわからなくもないな…と思います。

日本における映画の宣伝の仕方のひどさについては、『バードマン』のときも、『パラサイト』のときも話題になり、それをネタにした記事も目にするようになりましたが、いったいなんなんでしょうね。

今回に関していうと、ドキュメンタリー映画そのものの魅力を、そのまま受け取れなくなってしまう、という意味で、罪すらあると思いました。

…というわけで、この記事をご覧くださっている方は、ぜひ(予告映像の方ではなく)こちらをご覧いただいて、以下の記事を読んでいただきたいと思います。(最後に、予告編の動画もそのままくっついているのですが、予告編だけ視聴するよりはずっと良いと思います)


映画『モンテッソーリ 子どもの家』本編映像

ドキュメンタリー映画のいくつかのシーンを、かなりシンプルに、ぶつ切りでつなぎあわせたような本編映像ですが、これを視聴していただくだけでも、「教育ドキュメンタリー」の映像として、とても学ばせられるところがあります。

映像を撮影する監督の視点を追いながら、そこに共感や違和感を覚えることによって、教育現象を観察したり、それを記録に残すことについて、自分が今まで何を大切にしてきたのか、を振りかえる機会にもなり、そのような意味で、「もう一度、見たい」と思わせる映画でした。

 

この映画について、3月13日には、岩岩さや子さん主催で「語り合う会」が開催されました。

そのときに話題になったことのひとつが、上記、本編映像の冒頭にもテロップで登場する「お仕事」という言葉。

この映画のなかでも何度も「お仕事」という言葉が登場するのですが、モンテッソーリ学校に通う子どもたちが、自分の行っている作業を「お仕事」と呼ぶのはもちろんのこと、先生たちも(!)自分自身の仕事(子どもへに教具の使いかたを示したり、相談にのったりしていることなど)も「お仕事」と呼んでいたので、素朴に、「この『お仕事』というのはどういう言葉なんだろう?」という疑問がわいてきました。

 

この言葉、定義があるようでどうもそうではないような気がする。

映画を視聴していると、「お仕事」という言葉は、実践をスムーズに組織するうえでなくてはならない言葉だけれども、「お仕事」を定義せよ、と言われるとなんとも難しそうです。もしかしたら、不可能である、とすらいえるのかもしれません。

まさに、モンテッソーリ教育という言語ゲームのなかにあるツール(としての言葉)、という感じがします。

 

「語る会」では、渡辺貴裕先生(東京学芸大学)から、デューイ・スクールにおける「仕事(occupation)」概念に関する論考*1をご紹介いただき、「『仕事』というのが新教育において共通する、一種の流行りだったのでは?」というような話も出たりしました。

また、その後、個人的にリサーチをするなかで、モンテッソーリ学校の先生たちが、子どもたちに「Buon Lavono!(ブォン・ラヴォーノ)」(直訳すると「良い仕事を!」で、イタリア語としての使われ方としては「お疲れさま!このあとも仕事頑張って!」みたいなニュアンスらしい)と言っているという投稿記事を見たり、モンテッソーリガンジーに共有された視点として「作業(Lavono)」への視座がある、というような論考*2を読んだりして、どうも、この「お仕事」は「Lavono」で、デューイ・スクールの「Occupation」とは違うらしい…?というところまでたどり着いたりもしました。

…が、やっぱり、フィールドワーカーとしてこの映画を見るかぎり、この「お仕事」は、子どもたち同士の、また子どもと大人がかかわるときの実践に埋め込まれた言葉、そしてその実践を編み出し、新たなかたちで組織化していく言葉と見たほうが、良いような気がしています。

「語る会」のなかでは、わたしが個人的に抱いていた、「(映画中にみられるような)高度に設えられた教具がないような環境において、モンテッソーリ教育は成り立つのか?(モンテッソーリは「ここでも教育はできる」というのか否か)」という問いに対して、その場に参加していた複数の方々から、「教具がなくても、モンテッソーリの哲学・思想があれば、そこにあるもので、素材を工夫して、モンテッソーリ教育は行うことができる」「少なくとも、モンテッソーリは、その状況において(状況が完全に『無』であることはありえない)なにかを教具と見立て、あるいは教育可能性を見出し、そこから教育を始めるだろう」と。

 

そうであるとしたら、まさにそういう状況のなかで、何か「見立て」たものを、教育的実践を編み出すためのツールとして、「お仕事」という言葉が位置付けられるのではないか、と考えました。

 

あらためて、教育・学習という実践に埋めこまれ、それを成り立たせる言葉、について考えさせられた時間でした。