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ゲームを終焉させるゲームは可能か~SBGJ2021ビブリオバトルと『なぜふつうに食べられないのか』

「シリアスボードゲームジャム2021 ONLINE~図書館と一緒にシリアスボードゲームジャム!」の「前祭」として開催されたビブリオバトルに「バトラー(本を紹介する側)」として参加してきました。

sbgj2021.jimdosite.com

 

「シリアスボードゲームジャム」とは?

ゲームジャム」とは、ゲームづくりにかかわる人たち、ゲームづくりに関心のある人たちなどが集まって、短期間で一斉に、ゲーム制作をするというイベント。「ゲーム開発を行うハッカソン」とも説明されます。

日本で行われているゲームジャムとしては、NPO法人国際ゲーム開発者協会日本(IDGA Japan)のの運営協力によって開催されている「グローバルゲームジャム日本」」がもっとも知られているイベントだと思います。

ゲームジャムでは、プログラママーなどもかかわって、デジタルゲームの制作を行うことが多いようなのですが、このゲームは、ボードゲームのゲームジャム、さらにいえば、シリアスゲーム」(単なる娯楽目的ではなく、社会課題の解決をねらって作成されるゲーム。たとえば「シリアスゲーム」『IDEAS for Good』を参照)に焦点を当てたゲームジャムということで、なかなかコアなところを狙ってくるな!という感じがします。

イベント、これまでは総合地球環境学研究所(地球研)で開催されていたようなのですが、本年度は、地球研のように「シリアス」要素の凝縮した人やモノが結集している場ではなく、広く一般社会のなかで「シリアス」要素を結集しうる場である「図書館」で、このイベントが開催されることになったようです。

図書館に関する情報ポータルサイト「カレントアウェアネス」でもこのイベントが紹介されていました。

current.ndl.go.jp

 

おそらく、今回のビブリオバトルも、「シリアス」要素を担った人やモノを出会わせるための仕組みとして講じられたものではないかと思います。いまやいろいろな変種・亜種がたくさん出現していて、その実態がよくわからなくなりつつあるビブリオバトルですが、それでもやはり「人を通じて本を知る、本を通して人を知る」というコンセプトは大切にされていますし、ビブリオバトルは、そもそも、いろいろな分野で研究をしている院生たちの「遊び」として始まった、という歴史がありますからね。「シリアス」がないわけわけがない(たぶん)!

 

テーマは「食べることのジレンマ」

今回の、ビブリオバトルのテーマは、イベント全体のテーマと同様、「食べることのジレンマ」でした。

このテーマで、何の本を紹介するかを考え、最終的には、大岡昇平『野火』とどちらにしようかと悩んだ末に、わたしが選んだ本は、磯野真穂(2015)『なぜふつうに食べられないのか:拒食と過食の文化人類学』(春秋社)でした。

 

わたしが、この本を選んだのには、理由があります。

このイベントのことを知ってから、知り合いの人たちに「シリアスボードゲームジャム」のこと、そして本年度のテーマが「食べることのジレンマ」であることをお話しする機会があったのですが、そのときに、何人かの方から、

「じゃあ、ダイエットがテーマになりそうだね」

「『食べることのジレンマ』っていったら、ダイエットしか思いつかないな…」

「そのテーマでゲームにするなら、ダイエット(が題材になるん)じゃない?」

 …という反応がかえってきました。

 

わたし自身、「万年ダイエッター」を自称していた時期があるくらいなので、それは理解できます。今でも、摂食障害の飼いならし状態で、精神状態の悪い時期だと、体重減少欲求が加速して再び食べられなくなったり、体重増加していたりするとあやうく仕事場にいけなくなったりするくらいなので、まったく他人のことは言えません。

それでも、知り合いの人たち、さらにいえば、摂食障害を抱えた経験はないとおっしゃる人たちが、こんなに「食べることのジレンマ」といえば「ダイエット」と即答する事態に、社会の闇を見た気がしました

「食べること」の話が出た瞬間に、息をするかのように自然と「ダイエット」の話が出てくる社会のなかで、美容や健康のために痩せること、体型を維持することを考えずに生きることは、すごく難しい。

 今、わたしは、なんとか体重計に乗らずに数か月を過ごして生きているけれど、それがこんなにも難しい原因は、こういう、日常生活の中の「当たり前」に潜んでいるのではないか、とあらためて思わされた出来事でした。

 磯野真穂さんは、2019年に、中高生や若者世代に向けて『ダイエット幻想(ちくまプリマ―新書)』を発売されていますし、最近では、体重やBMIや体型に依存した生き方からの「回復」を描いたエッセイコミックもいくつか出版されるようになってきています。

2021年6月には、hara『自分サイズでいこう』、竹井夢子『ぜんぶ体型のせいにするのをやめてみた』が発売されて、つい最近も、ざくざくろ痩せている女以外生きてる価値ないと思ってた』(これはまだ未読)が発売されましたよね。

個人的にはharaさんのマンガが好きで、ヨガジャーナルの「#わたしとからだのことを話そう」を心の支えにしていたりします。

yogajournal.jp

このようなこともあり、あえて、一般の人たちには手の届きにくい研究書を紹介すべきかどうか、最後まで迷ったのですが、ビブリオバトルに申込をしてから、あらためて、磯野真穂『なぜふつうに食べられないのか』を読み直し、「やっぱり、この本は、研究者(文化人類学者)が、研究書でしかできない、重要なことをやっている!」と実感し、この本を紹介することにしたのでした。

 

磯野真穂『なぜふつうに食べられないのか』について話したこと・話せなかったこと

わたしが、「研究者が、研究書でしかできない重要なことをやっている」と思った、本書中のエピソードは、2つありました。

1つは、今回のビブリオバトルでもご紹介できた、摂食障害から回復するために医療者の指示に従って、BMI計算による食事管理法をカンペキに身に付けた結果、そこから逃れられなくなってしまった方のお話。

本書中でその方が、ダイエットや健康管理ができることを良しとする社会のことを「良くない」と語っている部分があり、それも含めてお話しできればと思っていました。結果的には、その部分を読み上げることはできなかったのですが、「食べることのジレンマ」といえば「ダイエット」と即答される状況への問題提起はできたのかな、と思います。

もう1つは、本書の最後に出てくる「過食(過食嘔吐/過食と下剤服用/チューニング)の経験」についての分析です。

わたしは、拒食しか経験したことがないので、過食経験者の世界を垣間見ることができることそのものがエキサイティングだったのですが、この分析のなかで、著者の磯野さんが「過食嘔吐」の経験を、M. チクセントミハイの「フロー」概念(M. チクセントミハイ(1996)『フロー体験:喜びの現象学』)によって分析しているところが興味深く、これをぜひご紹介したいと思ったのでした。

…というのも、ゲームに関する研究や実践をはじめるようになってから気づいたのですが、ゲームデザイン論やゲーム体験の分析のなかで、「フロー」に関する理論がけっこう引用されるのですよね。たとえばこんな感じ。たぶん、自分の論文でも先行研究を検討する際に引用してたと思います。

online.sbcr.jp

はじめは、「嘔吐」を、適切な難易度をもった挑戦しがいのある課題と位置付けることに違和感があったのですが、本書で紹介される過食経験者たちの語りや議論を読むうちに、「日々、過食嘔吐をする語り手たちの意味の世界からみると、たしかに、身体に吸収されないうちにそれを排出することは、そこそこに難しい挑戦課題であり、過食中の無我状態は『フロー』体験と相当に近しいものなのかもしれない」、と思うようになりました。

振り返ってみると、我ら拒食症者にとっての「体重(BMI)を減らす」とか「(プロテイン摂取量を増やしつつ)カロリーを減らす」というのも、すごくゲーム的で、そうであるがゆえに「フロー」体験をもたらしうるものだったのではないか、と思えてきます。

そういえば、以前、わたしが長期間の拒食期に入ったきっかけは、食事管理アプリ×ゲーミフィケーションと紹介されたりもする「あすけん」が原因でした。

note.com

「あすけん」を使ったダイエットは、楽しいです。

毎日、できるだけ摂取カロリーを減らして、消費カロリーを増やして、そして、できるだけ栄養バランスを整える。その結果、わたしは毎日、プロテインバーとサラダだけを食べるようになりました。

「あすけん」もそのあたりのリスクはしっかり考えてくださっていて、目標体重は、BMI18.5(標準の下限値)以下に設定できなかったり、あまりに糖質量が少なかったり、カロリーが少なかったりすると、栄養士のおねえさんが泣いて注意してくださったりするんですけどね。

でも、そんなこと、関係なくなっちゃうんです!カロリー減らすの楽しい!そして体重減るの楽しい!!レッツ・フロー!みたいになります。

ゲームを終焉させるゲームは可能なのか?

このように考えてみると、本書で提起されている問題を題材にゲームを制作しようとすることが、いかに無謀であるかがわかります。

過食も拒食も、ゲームとして(ではないかもしれないけど)めちゃくちゃ楽しかったり、ゲーム以上に喜びをもたらす経験であったりするわけです。

少なくとも、わたしにとって、食べないことはゲームみたいに楽しいです。

いろいろな種類のダイエット・メニューが、選択可能なオプションとして無数に用意されていて、それを選んでトライしてみて、うまくいくのは、めちゃくちゃ楽しい。失敗したら落ち込むけど、次にチャレンジするゲームを選べばいい。

 問題なのは、そのときに、「敵」として登場するのが、自分にとって親しい人たちであることです。「一緒に食べよう」「もっと食べたほうがいいよ」と言ってくれる人たち。現実をゲーミファイしたときに怖いのは、「敵」がハッキリした瞬間です。「敵」は攻撃すべき対象となる。でも、現実にそれを適用した瞬間、そのゲームは日常の人間関係をバリバリに破壊します。

わたしは、そういう事例をいくつか知っています。

 だから、このゲームは、終わりにしなければならない。

しかし、ゲームを終わりにできるゲームを設計することは、果たして可能なのでしょうか。

 もしかしたらわたしが今直面している問題は、「ゲーム障害を治療するゲーム」を考えようとするようなことなのかもしれません。

もし、それが可能であるとしたら、それは、どういう論理によってなのか。

おそらく現実的にこのゲームを実装することには、果てしなく時間がかかりそうですが、自分自身の思考実験としては面白そうなので、しばらく考えてみようと思います。

 …と言いつつ、おそらく、本年度のSBGJ2021に向けた方向性としては、おそらく、当事者ではない(当事者も含まれるかもしれませんが)人たちにアプローチするようなものにすると思います。

「食べることのジレンマ」といえば「ダイエット」と即答される世の中について、私たちは、一度考え直してみるべきだと思うので。