kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

コンヴィヴィアル(共愉的)な研究/実践の場で生まれたコンヴィヴィアルな知~岡部大介『ファンカルチャーのデザイン』

東京都市大学・岡部大介先生より、2021年8月に発刊されたばかりの『ファンカルチャーのデザイン:彼女らはいかに学び、創り、「推す」のか』(共立出版)をご恵投いただきました。

 

岡部大介先生とは、大学院不登校時代に、何かのきっかけで参加した研究会ではじめてお会いして以来、なにかと研究の相談にのっていただいて、日本認知科学会の企画シンポジウムにおよびいただいたり、挙句の果てには、『オタク的想像力のリミット』(宮台真司監修、2014年)に寄稿した論考「『少女文化』の中の『腐女子』」に共著者として支えていただいたり…と、研究者としての走り出した時期に、さまざまなかたちで応援・サポートしていただきました。

さらに、社会に出たばかりで右も左もわからない時期に、無謀にも私がサブ担当者としてかかわっていた事業(「学生とアーティストによるアート交流プログラム」)に参加してくださったのちに、「墨東大学」のチームメンバーとして本事業の展開に関わってくださいました。

つい最近も、Connected Learning Allianceホームページ上に、2020年に公刊されたレポート「The Connected Learning Research Network: Reflections on a Decade of Engaged Scholarship」の邦訳版(PDF) 作成・公開にあたって、分担分の翻訳のみならず、編集やデザイン、公刊に向けたコーディネートを一手に担ってくださいました*1

 

そんな長きにわたる関わりがあったこともあり、ご恵投いただいてザっと読んだ段階で、「とてもじゃないけど、シラフじゃ読めない!」と思い、しばらく読めずにおりました。(申し訳ありません。)

しかしちょうど数日前に、新型コロナウイルス予防のためのワクチン接種(武田/モデルナ・2回目)があり、良い塩梅に(?)高熱を出すことができたので、少し軽めの本で、高熱のなかで読むことへのウォーミングアップ(?)を図ったあと、「今だ!」とばかりに本書を読み始めました。

結局、高熱状態はそれほど長く続かず、高熱のなかで読めたのは2章くらいまでだったのですが、それでもなんとか読み切りました!*2

 

冒頭に述べた、私とのかかわりからも推察されるように、研究/実践の場それぞれにおいて、とても多様なネットワークとフィールドで動かれている岡部先生なので、「いったい、これら一連のさまざまな研究/実践のフィールドやネットワークが、岡部先生自身のなかで、どのようにつながっているのだろう?」というのが、ずっと疑問でした。

そのような意味で、本書は、わたしにとっては、まるで、私がずっと10年以上にわたっていただいて抱いてきた「謎」を解き明かしてくれる、「謎解き本」でした。

一方、本書は、現在のDEE(日本認知科学会・教育環境のデザイン分科会)主査である土倉先生が、本書の合評会告知のなかで「読者は、彼女たちの活動を追いかけ、巻き込まれていく岡部氏自身の活動を追いかけることで、いつのまにか状況論の歴史をたどり、その考え方や背景を知ることもできる、そんなユニークな本になっています。」と紹介しているように、状況論(状況的学習論)や活動理論に関心のある研究者(の卵)・実践者(の卵)たちによるコミュニティ・ヒストリーを個人の視点から描き出したものでもあります。

…と書いていて、これが正確な書き方でないことに気づきました。

「状況論の歴史」「状況論のコミュニティにおける議論の歴史」という言い方は、一面的な言い方でしかないですね。

私から見れば、本書に描き出されている「歴史」なるものがあるとすれば、それは、研究/実践のコミュニティのなかで議論しあったり、お酒を飲んだり、いろんな予想外の不祥事(?)が起きたり、笑えないような失敗をしでかしたり、武勇伝を披露しあったり、そしてそれが後日談となり、後日ネタとしてそれを語り合って笑い合ったりした、その「歴史」なのだと思います。

そのことを、象徴的に示す存在が、「ボス」の存在ではないでしょうか。

これだけ丁寧すぎる注釈が羅列されるなか、読者にまったく断りもなくその実在性が一切触れることなく、あたかも当たり前の前提知識であるかのように語られない「ボス」

この実在なんだか、虚構なんだかわからない「ボス」の存在が、「研究書」として刊行されながら、どこか、エンタメ本のような語り口をもつ本書を、フィクショナルな「歴史物語」のようなものへと構成している感じがします。

三国志」の例を出してよいなら、陳寿がまとめた「三国志」ではなく、明代に書かれた「三国志演義」のような……そんな印象を抱くのです。(誰が、このメタファーでわかるのか、とか、細かいことは考えていません)

 

そして、(これがもっとも大切なことですが)そのフィクショナルな「歴史物語」の中で暗示される状況論コミュニティの姿は、とても、コンヴィヴィアルです。

本書中で「共愉的」と訳される「コンヴィヴィアル」は、研究対象であるファンたちの実践を形容する言葉のみならず、ファンたちとともにある岡部先生の研究(イコール知の生み出し方)そのもの、岡部先生がかかわってきた状況論コミュニティの中での知の生み出し方そのものを形容する概念であるかのようです。

 

腐女子」コミュニティの自虐的/自慢的語りに晒され続けた岡部先生の本書での語りは、非常に「自虐的」であり、その「自虐的」な語りを表面的に受け取ると、フィクショナルな「ボス」はとっても「悪いやつ」で、高熱のなか読んでいると、夢うつつに『スターウォーズ』のジャバ・ザ・ハットがイメージとして出てくるような、そんな書かれれ方がされている気がする(当社比)のですが、それでも、とっても「楽しそう」なのです。

少なくとも、私には、そう読めます。楽しい「自虐語り」が、まさに、ここにあり、そのなかで見え隠れする、そのコミュニティの姿は、とっても、コンヴィヴィアル

 

岡部先生は、本ブログでもご紹介した『大人につきあう子どもたち』の著者である伊藤崇先生と、10月よりラジオ企画を始動されるとのことで、9月にはその準備企画がかいされました

kimilab.hateblo.jp

inn.finnegans-tavern.com

その名も、「コンヴィヴィアラジオ 生まれたときから状況論!」

…ということで、9月の配信を聞いたときには、岡部先生だけならともかく、なぜ、伊藤先生との二人のラジオ企画で「コンヴィヴィアリティ」がこんなにフィーチャーされるのかわからなかったのですが、本書を読んで、その拝見がわかったような気になりました。

このラジオの趣旨が、「2010年代以降の,さらには「生まれたときから状況論」の若手研究者や大学院生とその熱狂を展開し,分かち合うこと」であるのだとしたら、そのラジオ企画は、本書の語り口に暗に示されているような、「コンヴィヴィアルな研究/実践の場」そのものをラジオで作り出そうとするのは、自然なことであるように思いました。

私は、お酒もほとんど飲めないうえに、頻繁に会食恐怖も発生する厄介な人間なので、状況論コミュニティでのコンヴィヴィアルな議論と語り合いのなかで、コンヴィヴィアルに、コンヴィヴィアルな知が生み出される様子を目の当たりにした機会は、本当にわずかなのですが、それでも、それが、「本」というかたちで、そしてまた「ラジオ」というかたちで、ふたたび、お二人の先生の手持ちのリソースを組み合わせながら、「なんとか作ってみる・やってみる」やり方で、創り上げようとされる姿は、とても、エキサイティングです。

 

コンヴィヴィアラジオ」第1回放送は、来週10月6日(水)17:00~18:00とのことです。楽しみです。

*1:邦訳版のレポート「『つながりの学習研究』ネットワーク:参加型の学際領域におけるこの10年を振り返って」は、心理学、社会学、経済学、そして教育学と、学際的な知見を融合しながら考えざるを得ない現在の教育状況を踏まえながら、今後のあるべき学習を考えるうえで、ひとつの方向性を示してくれるものだと思うので、ぜひ多くの方に読んでいただきたいです。

*2:結局、「シラフじゃ読めない」のは2章までだったのでした。