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「見る」の限界と「見えない」の可能性~松本美枝子《具(つぶさ)にみる》

国際芸術センター青森(ACAC)にて、4/16~6/19まで開催している、松本美枝子《具(つぶさ)にみる》を鑑賞する。

今回の展覧会のご案内をいただいてからずっと、わたしは、タイトルの《具(つぶさ)にみる》という言葉そのものが気になっていた。

それは、私がこれまでの松本美枝子さんの作品(仕事)のなかに、遠くにいる人びとに向けた言葉の存在を感じてきたからかもしれない。

kimilab.hateblo.jp

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『精選版 日本国語大辞典』の「具・備(つぶさ」の項目を見てみると、次のように記されている。

〘形動〙

① すべてそなわっているさま。もれなくそろっているさま。完全なさま。

※地蔵十輪経元慶七年点(883)序「如来の所説菩薩の所伝、已来未来、一朝に備(ツフサ)に集りたり」

 

② こまかくくわしいさま。つまびらかなさま。詳細。

※書紀(720)神代下(寛文版訓)「乃ち更に還(かへ)り登りて具(ツフサ)に降(あまくた)りまさざる状(かたち)を陳(まう)す」

※平家(13C前)五「或御堂には三百余人、つぶさにしるいたりければ、三千五百余人なり」

 

この二つの意味を備える「具(つぶさ)」。

そこからは、砂粒を一粒一粒拾い上げながら、それを精工に丹念に並べ直すことによって、砂浜全体を完全に構築しなおすような途方もない試みがイメージされる。

目には見えないような一粒一粒に目をこらすような細やかさと、それを並べ上げることによって完全なる全体を創り上げるような壮大さとが、「具」という言葉には備わっている、ように思う。

 

そのようなことを考えつつ会場に足を運んだわたしを、はじめに出迎えてくれたのは、ピンホールカメラによって陸奥湾の波を映し出した作品だった。

陸奥湾の波が、独特のおだやかなスピードで寄せては返していくさまをピンホールカメラでとらえた作品は、とらえどころがなくぼんやりしているようで、「具」という言葉のイメージからは、ほど遠いところにあるようにも見える。

一方、その曖昧な視界のなかで突き刺さるように現れる光や、突然くっきりとした造形を見せる波のかたちは、私たちの記憶のなかにある「像」の姿を照射しているようにも見える。

私たちがあるものを見て、そこからある「像」を浮かび上がらせるためには、何かを「見る」ことと同時に何かを「見ない」ことが重要で、そうでないと、私たちはそこにある多大な情報の洪水のただなかにいるしかない。そのときわたしは、何も「見えて」いない。

そのように考えてみると、《具(つぶさ)にみる》こととは、ふだんの意識ではこぼれおちてしまうような、細かな粒を見ようと目をこらし、それを見ながら、自分自身が世界のなかを動きまわり、一つ、また一つ、「見る」ことを繰り返していくしかない。その果てしない、一つ、一つを「見る」ことの繰り返しによって、それを積み重ねながら、全体像を描こうとすること。それが「具にみる」ということなのだろう。

 

ある限られた角度から何かを「見て」、それを記憶したあとに、世界のなかを歩き、他の角度から同じものを「見る」ことで、世界の全体像が(遅遅としながらも)ゆっくりとその姿を現していく。

 

一方、世界はわたしたちがひとつひとつ丁寧に見ようとするその瞬間にも、大きく変わっていってしまう。だから本当は、ある瞬間の世界の全体像を完全に再現することは不可能なのだ。

このことを、ハッとするような経験とともに思い起こさせてくれるのが、《46番目の街》である。

青森大空襲をモチーフにしたこの作品は、青森市内の夜景を映し出した高精細の写真と照明、音響を組み合わせたインスタレーション作品だ。

展覧会入口側から歩き、夜景の写真を観ようと壁側に近づいていくと、突然、高い熱をもった強い照明に照射されるような感覚に陥る。光源をみようとしても、光があまりも強いなかで何も見えず、ただ近くにある暗い鉄の物体が強い光に照らされて厳しい光を放っている。その影を見た瞬間に、なぜか、ハッとした恐怖を感じる。

松本美枝子《46番目の街》(1)

一歩、二歩と先に進み、あらためて振り返ってみると、そこにあったはずの美しい夜景の写真は、完全に白い闇のなかに消失している。

残っているのは、さきほど恐怖とともに見た黒い鉄の物体と、その影がむきあう姿だ。

そのあまりにも似た二つの暗い物体とその影との間に、白い闇がある。

消そうとして消えたものとも思えない、あまりにも残酷な、記憶の消失。

松本美枝子《46番目の街》(2)

岡真理『記憶/物語(思考のフロンティア)』岩波書店)の議論を思い出すまでもなく、歴史的に残酷な瞬間を「具にみる」とは、そもそも、このような経験ではないのか、と思い知らされる。

あったはずのその瞬間、たしかに存在したその瞬間は、少し角度を変えて見直そうと思った瞬間に、いつの間にかその姿かたちを消してしまっていたり、かろうじてその存在を保っていたとしてもその姿かたちを大きく変貌させたりする。

その瞬間はその瞬間のものでしかなく、私たちが「具にみる」ことは、不可能であるのかもしれない。

そのくらいに、世界は、わたしたちが認識するよりもはるかに早く、知らないところで変わり続けている。

 

展示会場にある高精細な写真群は、それでもなお、写真家とテクノロジーの力によって、世界を「具に見る」ことに挑戦した形跡のように見える。

世界は知らぬまに変わり続けており、それをすべて見ることは不可能だ。だからこの挑戦ははじめから不可能な挑戦ではあるのだが、だからこそこの試みは可憐であり、そのなかで映し出される写真は、悲しく、美しい。

 

そして映像作品《もつけの幽霊》は、これら一連の「見ること」に迫る作品のちょうど裏側にあるかのように「見えない」世界を「見えない」まま、虚構によってつなぎあわせることによって、「見ること」の限界を融解させていくような可能性を提示する。

映像中、語り手が何度も「見た」と語る「見えない」ものの存在は、「見た」歴史的な瞬間のはかなさと、「見えない」ものを語りによって「見える」ものへと変えていくことの両方とを感じさせる。

 

「見る」ことの限界と、「見えない」ことの可能性。

それは、冒頭にみたピンホールカメラの写真映像で感じたことと、実は、ほとんど同じことであったことに気づく。わたしたちが日常的に「見る」「見ない」を組み合わせることで、はじめて何かが「見えて」くるように、「見える」「見えない」を組み合わせることによって、また違った「見える」を生み出すこともできるのだ。