特定非営利活動法人教育のためのコミュニケーションによる「教育広報講座~哲学編:教育・学習と広報の関係を哲学する」に参加してきました。
当日の様子については、「入門編」「実践編」「哲学編」あわせて、下記のページにレポートが記載されていますので、そちらをご参照ください。
NPO法人教育のためのコミュニケーションには、以前、「教育言説としてのファクトチェック:プレ入門編」にゲストとして(?)お呼びいただいたことがあります。
もともと、エスノグラフィックな手法を用いる研究者として、教育・学習のフィールドで起きていることをいかに記録するのか、いかに伝えるのか、ということに関心があったこともあり、NPO法人教育のためのコミュニケーションは、とても気になる存在なのです。
今回の「教育広報講座」では、代表理事の山崎一希さんご自身が、現在、茨城大学の広報担当として行っている仕事と、そこで考えてきたことの紹介を中心に、集まった人たちと「教育・学習と広報の関係を哲学する」ということだったので、「これは、行かねばなるまい!」と思い、参加してきました。
さて、講座でははじめに、山崎さんがかかわってきた教育広報の具体的な事例がいくつか紹介され、そのなかで、「茨城大学コミットメント」という「言葉」の創出と、それをもちいた具体的な広報の展開についてお話しがありました。
いわゆる「大学の広報」といえば、「新しい学部(学科)ができました!」「新しいキャンパス(校舎)がオープンしました!」というような、わかりやすいニュースが注目されます。一方、そのような、キャッチーなニュースがない中で、なにを広報していくか。
これについて考えた結果、山崎さんが思いついたのは、大学がこれまでにも行ってきた、いわば「当たり前」化しつつある日常的な取り組みを価値づけ、それを広報に用いること。
具体的には、茨城大学がこれまでに行ってきた「ディプロマ・ポリシー(DP)の達成をサポートし、それを評価するシステム」そのものを、広報として打ち出すことにしたそうです。
そうして生み出された「言葉」が、「茨城大学コミットメント」。
この「言葉」を軸に、ロゴが創り出され、冊子が制作され…
SNSの活用ということで「茨城大学コミットメント」のTwitterアカウントができ…、
「コミットメントセレモニー」が行われるようになった、ということでした。
そしてその様子が新聞記事でもとりあげられた、ということなのですが…
…「いやいや、ちょっと待てよ。これ、1週まわって、『洗脳』っぽくなってない?」というのが、わたしの初発の感想。
もちろん、第1次志望の大学に合格できて、入学式からその大学で学ぶモチベーションにあふれているような学生ばかりではないので、大学に自分自身の居場所を見出せない学生たちに対してエンロール・マネジメントを行うことの重要性は、とてもよくわかります*1。
そして、たぶん、「コミットメントセレモニー」に参加している学生たちは、どこか「ごっこ」的に、「遊び」としてこのセレモニーに従事しているのかもしれないし、むしろ、そういう「遊び」のような雰囲気こそがとても大切にされているのかもしれません。
…とはいえ、「セレモニー」によって所属感・一体感を醸成しようとする発想や、「わかりやすい”画”」として新聞に掲載される「黄色いコミットメントブックを手に、記念撮影する入学生」は、なんだか、「コミットメント」という名前で人々を同じ色に染めあげて、一人ひとり違うはずの個人を、全体のなかの一部にしてしまっているようで(そしてそれを「善きもの」として提示しているようで)、わたしにとっては、気持ち悪い。
写真に関しては、10年くらい前に、就活サイト「マイナビ2013」のポスターが炎上したことがありましたが、おそらく、あのときそのポスターに感じた気持ち悪さと同型のものを感じたんだと思います。
みんなが所属となって、ハッピーに、ともに活動に従事している姿は、「画」としてもパワフルだし、おそらくそこにいる人たち(の多く)も幸福感や高揚感を感じているのかもしれません。
だけど、その幸福感・高揚感のなかで、自分ひとりで悶々と考えたり、悩んだりする余地が奪われてしまうのではないか、さらにえいば、違和感を感じたりそれを表明したりする機会やその自由を奪っているのではないか…と不安になります。
そして、ある集団に所属感・一体感をもつことの教育・学習的機能を考える際には、常にそのようなリスクもあわせて考えるべきなんだろうな、と。
一方で、山崎さんが、大学のなかで「当たり前」に行われているけれども実は大切な試みを、広報の視点から、価値づけ直し、発信してきたことは、「大学教育とは何か?」「大学教育とはどうあるべきか?」という問いをめぐるコミュニケーションを考える際には、とても重要なことであったと思います。
既存の「わかりやすい」紋切型のストーリー、すなわち「支配的なストーリー(dominant story)」に乗っかるのではなく、支配的なストーリーに乗っかりつつ、それを拡張したり、脱線させたりする「戦術」を駆使することによって、そこに新たな語り口を生み出すこと、その語り口をきっかけに、既存のストーリーそのものに揺さぶりをかけていくこと。
そういうことが、大学広報というフィールドでも可能なのだ、ということを感じることのできる時間でした。
今回の講座は「哲学編」であったこともあり、私自身が感じていた違和感を表明し、そこから皆さんとこの問題について議論をすることができました。
またそれ以前に、そもそも、大学の広報制作物のなかにある「戦略」(そして今回の場合であれば「戦術」も!)をしっかりと分析したり、考察したりしようとする機会もありませんでした。そういう意味では、ひとりの大学教員として、大学広報について考え、自分では何ができるか、を考えることが、今後の課題となるのかもしれません。
振り返ってみると、私自身は、大学広報という名目で、公の場を専有し、「遊びたおす」ようなことしかやってこなかったので、それはそれとしてひとつの「戦術」として認めつつ、大学教育をめぐるコミュニケーションそのものに切り込むようなことも、なにか考えたみたい、と思いました。
※(8/25追記)
上記記事を公開したところ、山崎一希さんより、下記のコメントをいただきました。いただいたコメントを拝読し、「茨城大学コミットメント」を一連の広報プロジェクトとしてみたとき、その学内的/学外的側面についてみる必要があると感じました。
ありがとうございました。
自分にとっては実践上の倫理的課題として日々悩みつつ向き合っている問題です。
石田さんの記事の中で参照されていますが、もともとは高等教育論におけるエンロールマネジメントやエフェクティブネスという課題に対して、デザインは何ができるかという発想があるのですが、一方で僕自身が教育に対する強いマネジメントには懐疑的なので、ノリやすい形にしつつ脱臼させる、みたいなことは意識しています。
あとはそういう前提のもと、学務やIRの担当者と密に議論ができているか、というところもポイントです。石田さんも懸念されていましたが、そういう葛藤や議論が骨抜きになって、デザインやアイデアだけが一人歩きしてしまうリスクは、それが「広報」である以上どうしてもあると思います。そのリスクを自覚してどう行動するかが、私のような仕事の要諦であるということを先日の講座と今回の記事で改めて認識しなおしました。
考えてみれば、「広報」というのは、Public Relations、すなわち、公共との関係づくりの試みを意味しているわけで、大学教育に関していえば、その対象となる「Public」を学内にいる教職員や学生も含めてグラデュエーション的に捉えていくべきなのでしょう。
そう考えたときに、その延長線上に「学務やIRの担当者と密に議論」することを重要視した、という山崎さんの今回の試みを、Public Relations戦略の一環として位置づけていく可能性も見えてくるかもしれません。これについては自分でもまた考えてみたいと思います。
*1:寺島哲平・若林正智・石田喜美(2016)「エンロールメント・マネジメントに向けたゲーミフィケーションの実践報告」『人間科学:常磐大学人間科学部紀要』第34巻1号, 55-62. 本文はこちらから(PDF)。