kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

社会との関係のなかで、研究倫理を考える

朝日新聞の社説で、軍民両用研究の話題がとりあげられていました。

www.asahi.com

この話題については、TBSラジオ・『荻上チキ・Session』でもとりあげられています。

この番組では、科学ジャーナリストの須田桃子さんが、大学における研究費の状況なども含め、昨今の科学技術や学術研究の話題をまとめて、わかりやすく話してくださっているます。とりあえず、何がどうなっているのか、現状を把握したい、というかたにおすすめ。

youtu.be

 

さて、この記事を読んでいて、先日参加したある学会の会議のことを思いだしました。

企画関連の会議をしていたときの出来事です。


その会議のなかで、「今年は研究倫理に関する企画をやろう」、という話になったのですが、研究倫理委員会審査や、研究倫理関連の規定・基準の話、一歩進んで、研究協力者へのインフォームドコンセントや個人情報保護の話は出てくるのだけど、いつまでたっても、研究の社会的側面、つまり、研究それ自体が社会にもたらすリスクとか、負のインパクトについての話がまったく出る気配がありませんでした。

 

あまりに状況がよくわからないので、

「研究って、なんらかのかたちで、社会を善くすることのためにやってると思ってるんですけど、そういう研究のもたらす社会的側面については、議論の対象にならないんですか?」
…と聞いてみたところ、どうやら、それは「研究インテグリティ」の話であって、「研究倫理」の話ではない(?)ということのよう。

さらに言えば、皆が、社会を善くするために研究しているわけではない。単に、興味があり知りたいだけだったり、業績のために研究をしている人もいるのだから、「社会を善くする」ということ自体が、一部の関心に過ぎない(?)ということのようでした。

 

でも、それって、本当に、それでいいんでしょうか。

もちろん、わたしだって、基本的には、自分の興味関心に駆動されて研究を始めることが多いですし、業績や昇進のために研究を続ける人もいるのかもしれません。

ですが、どんなモチベーションで始められようと、研究調査が行われ、それが世に出されることで、世界は、社会は、研究者が望むと望まないとにかかわらず、良かれ悪しかれ変化してしまいます。


研究者が何気なく行ったカテゴライズ、因果歓迎の物語が、それを受け取った者たちの人生を変える。徹底的に傷つけ、絶望に突き落とすことだって、あるんです。

 

いくら当時の研究者が、「そんなふうに使われるなんて、考えてなかった」と言おうと、知能検査は、幼少期のわたしを「劣った者」にカテゴライズし、担任がわたしを「ダメな子」扱いする根拠を与えていたわけだし、拒食症をめぐる言説は、わたしの両親を苦しめていました。

そういう研究をめぐる功罪の話は、枚挙にいとまがない。

そういうことを無視して、研究発表をすることなんて、できないと思います。

 

冒頭の記事でも紹介したように、軍民両用研究が推し進めようとしているそんな時代。

それそれぞれの研究者が、研究が社会にもたらすリスクやインパクトについて、自分なりの倫理観をもって考え、判断していくことが必要なのではないか。

そしてそれこそが、研究倫理の問題として、考えられなければならないのではないか。

 

そんなことを考えました。

 

朝日新聞の社説では、社会のウェルビーイングや平和に貢献していくことこそが、大学の役割であると述べられています。

そうであるとしたら、学会や研究者の役割とはなにか。

わたし自身は、自分にできることが、どんなにわずかでも、それでもほんの少しでも、社会のベターメント(betterment)を目指して、研究者としてできることを考えたいと思っています。

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