インプロとジェンダー探求プロジェクトの第1回「ザ・ベクデルテスト(The Bechdel Test)」公演を視聴しました。
※インプロとジェンダー探究プロジェクト 第1回 The Bechdel Test 公演のお知らせ | yuriesonobe.com
「ザ・ベクデルテスト」については、以前、「ダレデモデラルテ」の公演・第2弾として行われた際に、こちらのブログ記事でも紹介しました。
今回、第3回(7/23午前)に出演されていた内海さんが、2年前に「ザ・ベクデルテスト」の公演に出演された際のnote記事も面白かったので、こちらでご紹介しておきます。もっとも興味深いのは、公演直前に書かれたと思われる、このときの記事で内海さんが「そしておそらく僕がザ・ベクデルテストに関わるのは今回が最後だと思っている」と書かれていたこと。その後、内海さんにどのような変化があり、、なぜ、今回再度出演するに至ったのかを、ぜひ今度お聞きしてみたい、と思わずにいられません。
今回の公演は、ダレデモデラルテ第2回公演のときと同様、Zoomを用いたオンライン公演のかたちで行われました。
そのうち60分がインプロによるパフォーマンス、その後、30分がアフタートークというかたちで行われました。
インプロ(即興劇)のパフォーマンス部分は、女性たちのモノローグからスタートします。 内海さんの記事にもあるように「ザ・ベクデルテスト」の本来のフォーマットでは、3人の女性が登場し、その3人のモノローグから公演がスタートするのだけれども、今回、メインキャストとして登場する女性は2人でした。
2人の女性のモノローグが始まり、そのモノローグに沿って、観客たちが彼女の「名前」や彼女の生活に関する何か(これは本当にいろいろ)についてアイデアを出しあいそこから、彼女たちの設定(の一部)が決められていきます。
その後、2人の女性がはじめのモノローグやその設定を展開させていきながら、インプロ(即興劇)をはじめとしたさまざまなストーリーの中で、見過ごされてきたり、見落とされてきストーリーを積極的に掬い取ろうとしながら、シーンが展開していきます。そして、最後は、その2人の女性たちのモノローグがクロスし、それが、あたかも一つに重なりゆくように見えたとき、その公演は終幕を迎えます。
その後の「アフタートーク」では、公演で起きた出来事をもとに、私たちが「当たり前」に触れている数々のストーリーのなかでのジェンダーについて考えたり、話したりしていくのですが、今回、この「アフタートーク」がとてもエキサイティングでした。
たとえば、第3回公演のアフタートークで、わたしは、パフォーマーに次のような問いを提起しました。
介護の件。
尾崎ゆかり(メインキャストの役名)の父役さんがまったくかかわらない、という選択をしたことが気になっています。結局、「男はかかわらない」という想定を貫く選択をしたのは、なぜですか
このインプロ公演のなかでは、翻訳の仕事に従事する傍ら、認知障をかかえる母親の介護をし続ける女性が登場しました。その女性が介護することで自分がやりたい、と思うことができなくなっている、介護そのものに疲弊してしまっているのではないか…ということが伝わるようなシーンも出てきます。
そのようなシーンが演じられたあと、その女性と女性の父親(認知症を抱える母からみれば、夫)との対話シーンが登場するのですが、その中で、父親は「旅行に行ったらどうか」という提案はするのですが、(そのメインキャストの女性が「お母さんのあんな姿を見ているのはつらいよね」と言うシーンはあっても)自分が介護を代わろうか、という提案をまったくしないのです。
わたしはそのことが、とても、不思議でした。
「What else」を探っていくはずの「ザ・ベクデルテスト」のなかであればなおさら、「介護をが彼(メインキャストの女性の父親)が担う」という可能性が探られてもよいはずなのに。
このような問いに対して、そのとき父役を演じたパフォーマーから、「パフォーマーとして、このとき『父』を出そうと思ったのは、(『尾崎ゆかり』を)旅行に行かせてあげたかったからだ」といいう思いとともに、「(自分が『介護を担う』と言い出さなかったのは)どこかで、そういうもんだと思っていたからだ」ということが語られました。
わたしは、このパフォーマーの発言に、いたく感動して、即座に次のようなコメントを送っています。
「そういうもんだと思ってる」!
これ、インプロにおいて根深い問題(?)だと思いました。そのキャラクターとして、オーディエンスに対して伝えようとすると、社会・文化のステレオタイプどおりに演じなければならない、ということがありますよね。
この問題を、このインプロフォーマットがどのように考えていくのか・・
また、他の話題のときであったと思いますが、別の男性パフォーマーの方から、自分が出ようとすると、どうしても「恋人」になってしまう、「恋人」以外が思いつかないので、別のパフォーマーに任せてしまった部分がある、というコメントもありました。
わたしは、「ザ・ベクデルテスト」の公演を鑑賞するのは、まだ2回目ですが、このような「アフタートーク」でのやりとりができる場は、とても貴重だ、すごいことだ、と思いました。
父役として出たときに『そういうもんだ』と思って、父が介護を引き受けるシーンへと展開できなかったこと。
女性がメインキャストとしているシーンに、男性として登場しようとするときに「恋人」以外で出る可能性が思い浮かばないこと。
こういうことが、パフォーマー自身の振り返りとして、言葉で説明されることで、インプロをはじめとした舞台のうえに存在するパワーのようなもの、私たちの身の回りにあるストーリーの典型性とそれがもたらす束縛のようなものを、私たちは、言葉にして話し合うことができます。
「ザ・ベクデルテスト」に出演するパフォーマーたちは、ステレオタイプに絡められつつそれを即興で演じていいく。
もちろん、脚本を書くことでそれを書き換えていくことはできるけれど、即興的なかたちで次なる一歩を考えていき、そこで起きたことをリフレクションしていく。そしてさらに、次なる一歩を考える…「ザ・ベクデルテスト」は、それを繰り返していくことで、新たな私たちのイマジネーションと現実をパフォーマンスする力を拡張していく。
そのような意味では、「観客」側の果たす役割もとても大きい。
パフォーマーの皆さんがリフレクションし言語化するしてことももちろん、観客の側もそのパフォーマンスを見ている自分自身をリフレクションし、言語化することで、このような「アフタートーク」でのディスカッションが成り立っていくのだと思うと、観客の側の役割もかなり大きな位置を占めていることは、間違いなさそうです。
パフォーマーと観客とが一体になりつつ、みんなで、「次なる一歩」を創造していく。「ザ・ベクデルテスト」は、そういう社会実践といえるのかもしれません。
以前、松井かおり編『演劇ワークショップでつながる子ども達』(成文堂)に寄稿した論文のなかで、ノルディックLARPにおける「ディブリーフィング」(カム・ビョーン=オーレ, 2019, [3.11]参照*1)の考え方を参照しつつ、ワークショップにおける振り返り(会)の意義について考察したことがあります。
ワークショップをはじめとした教育実践におけるリフレクション。
ノルディックLARPで事後ワークショップとして行われる、ディブリーフィング。
そして、今回「ザ・ベクデルテスト」で体験したアフタートークでのディスカッション。
それらの重なりや異なり、それぞれで見られる相互行為の可能性について、また考えていければと思います。
そして、そう思えば思うほど、せっかく翻訳したフェミニズムLARPをまたやりたい!という思いが募るばかりなので、だれか遊んでください!
そのためにも、「パジャマ・パーティ(Slumber Party)」を、オンライン(Zoomででできるように考えていかなければ。
kimilab.hateblo.jp
*1:カム ビョーン=オーレ. 2019. 「「Nordic Larp」入門:芸術・政治的な教育LARPの理論と実践」『RPG学研究』0号: 5-14.DOI: 10.14989/jarps_0_05