kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「ここにいる」を言うための言葉を育てる~フェミニスト国語教育学に向けて

本日は、横浜国立大学教育学部附属横浜中学校の授業研究会(非公開)でした。

2021年度の研究発表会が、コロナウイルス感染拡大の影響で開催できなくなってしまったこともあり、本年度こそ公開で開催できればよいなぁ、とは思っていたのですが、オミクロン株の影響が著しく、本年度も非公開での開催となりました。

今年も3月中旬頃、こちらのページ「基調提案」「教科提案」「指導案」が掲載されるとのことです。

本年度、研究発表会で公開予定であった授業は、中学2年生・国語科「書くこと」の実践として、同校・国語科の柳屋亮教諭によって行われた、以下の実践。

 

「Fy74期生のコロナ禍における○○論

~根拠の適切さを考えて自分の考えが伝わる文章になるように工夫する~」

 

「Fy」というのは、「(横浜国立大学教育学部)附属(Fuzoku)横浜(Yokohama)中学校の頭文字をとった略称*1

柳屋先生は、これまでにも、『TEACHannel』にて、これからICT導入をしはじめる先生方に向けて「はじめての1人1台端末」というタイトルのコラムを書かれているなど、自身の実践から見出された知見の発信にも取り組まれています。

teachannel.kanken.or.jp

今回の授業実践を行うことになった附属横浜中学校の「74期生」は、中学校に入学するやいなや、長きにわたる休校期間と、突然の全面オンライン授業に直面した世代にあたります。

そして、そのあまりにも特異なスタートで始まった中学校生活が、いわゆる「通常」のかたちに戻ることはなく、いまでも「ウィズ・コロナ」の学校生活が続いています。

そんな中学校生活を送ってきた生徒たちに、「歴史的な事件」であるとすらいえる自分たちの中学校生活を振り返るとともに、少しだけ距離を置いたところからそれを眺めなおしつつ、社会全体に向けて「私(たち)にとって、コロナ禍の中学校生活というのはこのようなものであった」ということを伝えてほしい。

「個人的なものに過ぎない」「主観に過ぎない」と、自分の経験をとるにたらないものとして切り捨ててしまうのではなく、今、たしかにここに生きている自分たちの経験とそこから編み出されたストーリーを社会へと伝えていくこと、そのことに意義があるのだ、と伝えたい。

そんなことを、柳屋先生と、時間をかけて話し合っていきました。

桐光学園中・高等学校(監修)(2021)『学校! 高校生と考えるコロナ禍の365日』や、内田樹(2020)『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』などを見ながら、「『学校!』だと、「生」の声がそのまま吐露されているだけだけど、生徒たち自身に相対的に振り返ってほしい」「そうすると、視点の取り方としては『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』のように、ある特定の立場・観点を決めたほうがよいのでは?」などと話し合ったことを思い出します。

 

 

そんなやりとりを重ねた結果、まず1月から「話すこと・聞くこと」の単元として、生徒たちの「声」を掬い上げるためのインタビューを行ってみようということになりました。

まずはとにかく、思う存分、自分たちの2年間の学校生活について振り返って、大変だったことも、楽しかったことも、イライラしたことも、不満だったことも…いろいろひっくるめて、お互いに語り合うなかで、お互いの思いを知ってほしい。

 

柳屋先生のそんな思いを聞いて、わたしが思いついたのが、「わすれン!録音小屋」の試み。ふたり1組で、録音小屋に入って、東日本大震災にまつわるストーリーを残していくプロジェクトです。


www.youtube.com

わすれン!録音小屋とは? - おしらせ - 3がつ11にちをわすれないためにセンター - 東日本大震災のアーカイブ

 

このプロジェクトから着想を得て、生徒たちに、2人1組(あるいは3人1組)で、自分たちで語り合いたい「問い」を決めてから、語り合いインタビューをしてもらう活動を行うことになりました。

語り合ったインタビューについては、Microsoft Office Wordのディクテーション機能を使って、インタビュー音声をそのままテキスト化していくという荒業(?)を使いました*2

www.itmedia.co.jp

 

その後、「話すこと・聞くこと」の授業としては、質的データの分析手法である「SCAT(Steps for Coding and Theorizing)」を簡略化したような方法を使って、中学生なりにストーリーラインを作成。それを、Microsoft Teamsで全員分「インタビューデータ(ストーリーライン)」として共有することになりました。

 

 今日の授業は、そのあとに引き続くかたちで行われた「書くこと」の単元のなかの1コマでした。

約40名分のストーリーラインから、自分なりに観点を決めていくつかを選び、それらのストーリーラインを「根拠」として、自分なりの「〇〇論」を書く、という学習活動です。

 

…と、授業を説明するだけで、とても長くなってしまいましたが、このような授業を今日、ご発表いただいた結果、次のような趣旨のコメントがありました。

 

「生徒たちが書いているものが、『部活』とか『友達』とか、日常のことばっかりで狭くなっちゃってる。もっと社会につなげたを議論するのだと思ったのだけど。」

 

「必ずしも『悪い』ということではないのだけど」と前置きしつつ発された、この指導助言には、とても考えさせられるものがありました。

 

私自身は、いま・ここに生きている生徒たちが「ここにいる」ということ、生徒たちがどんなふうに生き、なにを感じ、生活しているのか――そんな彼らのストーリーを残したい、社会に届けたい。そして、生徒たち自身がそういうかたちで「ここにいる」ということを社会に向けて発信していけるように、そのための言葉を育みたい、と思っていたけれど、そんなことを考えるわたしは、国語教育界において、マイノリティだったのだ、ということをあらためて思いました。

自分が、国語教育界において周縁的な存在であるということは、常々感じていたのですが、ここまではっきりと、感覚的に「マイノリティ」であることを感じたのは、はじめてでした。

 

さきほど紹介した「わすれン!録音小屋」は「3がつ11にちをわすれないためにセンター」の1プロジェクトですが、これにかぎらず、東日本大震災を経験した「ふつうの人たち」の声を残し、後世に伝えようとする、市民アーカイブ的なプロジェクトは数多く行われています。

そのような被災者や支援にあたった人たちの「語り」に注目したプロジェクトは、阪神淡路大震災からずっと、大切なプロジェクトとして行われ続けています。

最近では、「#あちこちのすずさん」プロジェクトをはじめ、「ヒロシマ」「ナガサキ」の被爆者・被曝者のみならず、戦争の時代を生きた「ふつうの人たち」の声に着目しそれを集めようとする動きは、とても大きくなっているように思います。

www.nhk.or.jp

そういうなかで、わたしにとっては、社会全体でその価値が共有されていると思っていた、「ふつうの人」の「声」に着目し、それを社会へと届けることの意義は、けして、国語教育の世界では「当たり前」に認識されているわけではなかったのだ、と。

そのことを、今日、実感しました。

 

そうであるとすれば、わたしがやるべきことは、明白です。

子どもたちが「ここにいる」を言うための言葉を育てる。

そのための、国語教育を考えていくこと。

その大切さを、他の人たちと一緒に考えていくこと。

 

2020年5月に発売された『フェミニズム現象学』(稲原美苗ほか, 2020, ナカニシヤ出版)では、当事者の経験の記述をもとに、これまで「規範」「当たり前」とされてきたさまざまなテーマを捉えなおそうと試み、これを「フェミニズム現象学」と呼んでいます。

このような「フェミニズム現象学」の立場を援用するならば、そして、米国の第二派フェミニストたちのモットー「個人的なことは、政治的なこと」にならうとするならば、わたしが、今日思いついた、このような方向性をもつ国語教育学は、フェミニスト国語教育学」とでも呼べるものなのかもしれません。

 

今年の4月から使用されはじめている、教育出版の中学校国語教科書には、中学2年生教材として、ロバート・キャンベルさんの「「ここにいる」を言う意味」」が掲載されています。

国語教育界では、まだ、子どもたちが「「ここにいる」を言う意味」よりも、マクロな言葉で社会的に発信できる力のほうが大切だと思う人の方が多いのかもしれないけれど、それでも、「ここにいる」ことを言う意味を大切にする言葉の教育の萌芽は、たしかに存在している、と信じています。

 

※追記(2022/2/21)

柳屋先生より、氏名などの情報の掲載の許可をいただくとともに、本ブログ記事に掲載されていた情報の誤り(分析対象となったストーリーラインの量:「約120分」→「約40名分)をご指摘いただきましたので、修正しました。

*1:いまだにこの略称には疑問があるのですが、すでに「74期」ともなるともはや変えられないのだろうとも思っています

*2:1人1台タブレットが普及すると、こんなことも簡単にできるようになるので、本当にありがたい…。