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Literacy, Culture and contemporary learning

行動主義的児童虐待と子どものレジリエンスー『立派なこどもの育て方(Birthmarked

Netflixで公開されているインディー映画『立派なこどもの育て方(Birthmarked)』(2018年、カナダ映画、エマニュエル・ホス=デマレ監督)を観た*1


Birthmarked Trailer #1 (2018) | Movieclips Indie

この映画、とあるサイトのレビューで、「科学的児童虐待の「コメディ」(scientific child abuse "comedy"」と形容されていて、まあ、なかなかに評判が悪い。ロッテントマトの評価をみると、オーディエンス評価は、まぁそこそこ?くらいなのに、批評家による支持率は11%(18名中2名が「Fresh」評価、16名が「Rotten」)である
たぶん、「(科学的)児童虐待」がコメディとして扱われていて、しかも最後がちょっとほんわかハッピーエンドだというのが悪評の原因なのかなぁ…という感じ。

www.original-cin.ca

 

「科学的児童虐待(scientific child abuse)」とは、なんのことか?

それは、この映画で行われている、心理学者(おそらく、行動主義心理学者)夫妻による、3人の子どもたち(1人は自分たちの子どもで、他の2人は養子)を対象とした養育実験のことである。

この映画の舞台は、1977年。心理学・教育学における「遺伝か、環境か(氏か育ちか)」論争において、遺伝説が圧倒的に優位を占めるなか、環境説をとる2人の研究者夫妻が、ワトソンの名言――「私に1ダースの健康でよく管理された子どもを与え、自分に環境を自由に支配することを許してくれるなら、子どもを医師にでも弁護士だろうと、泥棒にでも望むものに育ててみせる」――よろしく、子ども3人を「望むものに育ててみせよう」とする映画である。

(実際に、映画中に、ワトソンによるアルバート坊やの恐怖条件付け実験の映像が引用される。)


Baby Albert Experiments [with CC]

冒頭に示した予告編にもあるとおり、彼らは、自分たちの子ども(ルーク)をアーティストに、短気で怒りっぽい親の子ども(モーリス)を、平和主義者に、馬鹿な(idiot)親の子どもを知能の高い子に育てようとする。

…のだが、まあ、いくら実験的に統制したところで、そんなにうまくいくはずはなく、いろいろおかしなハプニングが起こっていく、という「ファミリーコメディ」のストーリが展開する。

 

おそらく、そのような「ファミリーコメディ」のようなまとめかたが不評を買っているのだが、個人的には、コメディという仕掛けによって、子どもの発達におけるレジリエンスのようなものを描き出している気がして、むしろ興味深かった。

人里離れた一軒家で、研究者夫妻と3人の子ども、そして研究アシスタント(兼ベビーシッター?)の6人だけで、他のコミュニティと断絶した状況で十数年も暮らしているにもかかわらず、途中で母親からの依頼で様子を見にきた児童精神科医に「こんな状況のなかで育ったのに、ソーシャルスキル的にはまったく問題がない」と判断されたり、何らかのフラストレーションや感情の大きな動きを感じたときには表現行為でそれを昇華するように統制されてきたルークがエロ本ベースの脚本を書いてほかの2人の子どもと上演をして両親を困惑させたり…、なんというか、けっこう「そんなものなんじゃない?」と思える演出が多かった。

 

教育の場にいると、こちらがどんなに精緻に考えて、必死に何かをさせようとさせたところで、案外、子どもたちに拾われているのは別のところだったりして、ため息をついたり、逆に予想外の展開に驚かされたりすることって、けっこうある。

それはたぶん、この映画で扱われているような、実験的統制状況でも同じで、どんなにパーフェクトに、実験プロトコルのとおりに働きかけることができたとしても、子どもに掬い取られる世界はまったく違っていて、それはまったく違った学習を生む。

映画では、知能を育もうとして行われた実験プロトコルのなかで、『アルジャーノンに花束を』的なネズミ実験(ちょっと違うかもしれない)を受けた子どもが、のちに、大学中退して動物愛護運動をはじめたり、

平和主義者として育てられるためにガンジーの教えを教授され、感情的に大きな動きがあった場合には瞑想するようにしつけられているモーリスが、フェンシングのレフェリーになることを望んだり、

たしかに、この実験による子どもへの働きかけは、何かの影響を及ぼしているらしいのだけど、それはなんだか、子どもの側のフィルターを通して、なんだか少しだけ違うものに変換されている。

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恵比寿映像祭2020参加作品より

松嶋秀明先生の『少年の「問題」/「問題」の少年』(松嶋, 2019, 新曜社)の第1章では、「レジリエンス」について議論した節(「第2節 非行少年のレジリエンスを育てよう」)があり、わたしはそれを読んではじめて、「カウアイ研究」(「リスクの物語」を検証するために行われたとされる、ハワイ州カウアイ島を舞台とした研究)のことを知った。

1995年にいくつかのリスク要因をかかえて生まれた700人の赤ん坊を40以上にわたって追跡した結果、ハイリスクであっても3分の1は、10代になったときに非行に走ったり、若年妊娠といった不適応に陥ることはありませんでした。さらに彼(女)らが30代をむかえる頃の調査では、全体の3分の2がレジリエンスを発揮していることがわかりました。この数値を多いとみるか少ないとみるかは人それぞれかもしれませんが、いずれにせよ、レジリエンスはそれほど特異なことではないことを示しています。(松嶋, 2019, p14) 

 

わたしが、この「科学主義的児童虐待」のファミリーコメディを「コメディ」として見られるのは、おそらく、ここで描き出されているような、子どもたちのレジリエンスを信じているからではないか、と思う。

もちろん、この映画で描かれているような心理学実験は倫理的な違反があるし、行われるべきではない。「科学的児童虐待」と非難されるべきものであることには、同意する。

しかし、その顛末を「ファミリーコメディ」として描いたことの意図は、子どもたちの側の「思い通りにいかない」力強さを描きだすことにあったのではないか、と思う。

*1:インディー映画ゆえ(?)日本での映画公開はなく、Netflixによって日本での鑑賞が可能になった作品。Netflixの登場によって、こういうことが当たり前に起こるようになったことは、本当にすごいと思う