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Literacy, Culture and contemporary learning

コモン(共有地)としての「事実」を考える~「教育言説のファクトチェック:プレ入門」

NPO法人教育のためのコミュニケーションによる読書会イベント「教育言説のファクトチェック:プレ入門編」に参加しました。

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「教育言説のファクトチェック プレ入門編」

EVENT|教育言説のファクトチェック<プレ入門編>

 

岩波ブックレットとして発行されている『ファクトチェックとは何か』(立岩陽一郎・楊井人文, 2018, 岩波書店)を読んできて、それを手がかりにしながら、

「教育言説における「ファクト」とは?」「教育言説をファクトチェックすることには、果たして意味があるのか?」などなど、わたしと山崎さんが見出した論点を中心に、いろいろ議論をしつつ、「教育言説におけるファクトチェックの可能性(と限界)を見出していこう、というイベントでした。

  

「ファクトチェック」には、以前から関心を寄せていたのですが、それが決定的になったのは、自分自身が、ミスリード情報をリツイートしてしまったことでした。 

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 しかも、あとからこの記事の中にも誤情報があることが判明。当時、ファクトチェック・イニシアティブ(以下、FIJ)で、インターンをされていた方がこの記事を読んですぐに連絡をくださり、それをきっかけとした、インターンのかたとのやりとりを通じて、ますます「ファクトチェック」への関心が高まりました。

今でも覚えているのですが、わたしのブログ記事への誤情報の指摘してくださるその文体が、とても真摯で、かつ、ニュートラなものだったのです。

誤情報を指摘するとき、人はどうしても、「マウントをとった」ような語り口になったりがちです。でも、そういうものが、一切なかった。

わたしが記事中の誤情報を、即座に訂正すると、むしろ、丁寧に御礼まで伝えてきてくれました(わたしの見落としで完全に修正しきっていなかったので、再修正が必要だった、という間抜けなオチもあるのですが)。

わたしは、そのインターンの方とのやりとりを通じて、ファクトチェックという活動が「透明性」を大切にしているということ、その仕方を、体感的に理解したように思います。

 

ちょうど同じくらいの時期に、文部科学大臣の記者会見のなかで、 「今の教職養成課程では…昭和の時代からの教職課程をずっとやっているわけじゃないですか」「教えている大学のトップの人たちは、まさに昔からの教育論や教育技術のお話をしているわけですから」という発言がなされました。

そして、このような記者会見の内容が、「文部科学大臣が述べた」ということの「事実確認」だけでマスメディアで報道される様子を目にしてきました。

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 報道する側では、たしかにその内容を文部科学大臣が述べた、という「裏」さえとれれば問題ないのかもしれないけれど、一方で、そこで述べられている内容についての「裏」はとられない。

教育政策の動向をみれば、「昭和の時代からの教職課程をずっとやっている」とは言えないはずなのに、それがあたかも「事実」として出回ってしまう、そしてそれが次なる制作の「根拠」とされてしまう…そんな危機感を感じました。

そのようなことを、NPO法人を設立したばかりの山崎一希さんに相談していたところ、今回の読書会イベントに至った、というわけです。

 

 

昨日の読書会では、『ファクトチェックとは何か』(立岩陽一郎・楊井人文, 2018, 岩波書店)から、山崎さんはじめ、皆さんと議論したい論点として、「『事実』ってなに?」という問いを提示しました。

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昨日の読書会では、「『事実』ってなに?」という問いから、「事実」なるものの社会的構成(!)にまで議論が発展していきました。(突然、「ナラティブ・ターン」の話が出てきたり、社会構成主義の話が出てきたりして、聞き手の方には不親切なトークであったと反省しております)「事実」というものが、本質的に存在せず、それが社会的に構成されたものである、と指摘することは、けして、「事実」なるものを見なくてもよい、「事実」を等閑視してよいということとイコールではありません。むしろ「事実」を構築し、維持し、変化させていくような、わたしたちの日々の「事実」をめぐる実践をつぶさに観察し、それともに、わたしたちが幸せに生きることのできる社会・文化を生み出しうるような「事実」構築実践について、考えていくことが必要なのではないか。――昨日のディスカッションの至った地点は、このようにまとめられるのではないか、と思います。

 

 

昨日のトークイベント中、「教育言説のファクトチェック」について考えるための書籍として、佐藤郁也(2019)『大学改革の迷走』松岡亮二(2019)『教育格差』、小松光・ジェミールラプリー(2021)『日本の教育はダメじゃない:国際比較データで問い直す』(すべて、ちくま新書筑摩書房)が話題にあげられました。

 

また、「ファクトチェック」についてもっと学ぶためのおすすめ書籍として、FIJの元インターン生の方からは、立岩陽一郎(2021)『コロナ時代を生きるためのファクトチェック』(講談社)を挙げていただきました。山崎さんからは、ディビット・パトリカラコス(2019)『140字の戦争:SNSが戦場を変えた』(早川書房)をおすすめいただきました。今回の読書会で読んだ『ファクトチェックとは何か』を含む、FIJ・立岩陽一郎さんの書籍リストも作成してみました。よろしければご覧ください。

booklog.jp

こういうブックリストも、もっと作っていっていきつつ、また読書会などを継続していけると面白いのかな、と思います。最後に、昨日のトークイベントでは紹介できなかったけれど、わたし自身が昨日の議論を踏まえて、さらにこのような議論を深めていくために、皆さんと読んで語り合えたら面白いのではないか、と思う本を紹介しておきます。

 

1冊目は、筒井淳也(2020)『社会を知るためには』(ちくまプリマ―新書、筑摩書房)。書影の帯を見るとわかりますが、先行きが見えない世界のなかで「わからない」社会との向き合い方について、社会学の視点から論じた本です。

社会学のなかでの「知る」という行為を相対的に見ることのできる本で、社会入門としても、社会学入門としてもおすすめです。

 

 

2冊目は、佐倉統(2020)『科学とはなにか:新しい科学論、いま必要な三つの視点』(講談社ブルーバックス、講談社)。こちらは科学論です。1冊目と重ねていえば、科学の「正しさ」について批判的に議論しながら、科学至上主義にも陥らず、科学不要論にも陥らない、第三の道を探ろうとしている本です。

 

 

昨年、コロナ禍のなかで、この2冊が生み出されたことは、偶然ではないような気がしています。

ふたたび、この議論を発展できる機会があることを、願っています。

山崎さん、今回ご参加くださった皆さま、ありがとうございました。