「国語教育相談室」と書いてみましたが、新たにそんなコーナーを始めるというわけではありません。「国語教育相談室」みたいなものが必要ですね、という話です。
先日、教育に関わられている方より、中学校で出題された文法問題について、質問を受けました。
「次の各文の主語と述語を書き抜きなさい」という指示のもと示された複数の文の中に以下のような文があったのだが、この文の主語と述語は何になるのかを教えてほしい、ということでした。
誰だって落ち込むことはある。
文法教育においては、「学校文法」というちょっと特殊な文法の存在を考慮しなくてはいけなかったり、そもそも、私自身が、文法のことをよくわかっていないので、専門家にお聞きすることにしました。
今回、ご相談したのは、文法教育史の専門家・名古屋女子大学の勘米良佑太先生と、文法史の専門家・大阪教育大学の清田朗裕先生です。
国語教育と日本語学(国語学)、バランスよくお話がお聞きできるのでは?というご期待のもと、お二人に(ボランティアで)お考えをお聞きしました。
まず、勘米良先生からのご回答です。
まず、日本語学的な文法論にもとづくとどのように説明できるか、とういことで、三上章『象は鼻が長い』に基づくご説明をいただきました。
これに従うと、「主語」は「落ち込むことは」(今回は、「主語」を問われているため、一文節を書き抜く課題なので「ことは」になるでしょうか)、「述語」は「ある」になりそうです。
しかし、これはあくまで、日本語文法論にもとづく説明。
中学生たちが学校で学習しているのは「学校文法」ですので、「学校文法」ではどのように考えられるのでしょうか。
…というわけで、連文節の考え方を使えば「主部」「述部」という構成で考えられそうです。ただ、「主語(主部)」は、「誰だって」で考えられる、そうすると対応するのが「述部」になってしまって、ちょっとうまくいかなそう…というのが、勘米良先生の見解でした。
続いて、清田先生のお考えです。
清田先生は、はじめに、「学校文法」にもとづく説明をしてくださいました。
考える順序までしっかり説明してくださっていて、わたしのように文法の考え方がよくわからっていない者にとっては、大変ありがたいです。
「学校文法」にもとづくと、2つの「正解」がありそうだ、というのが清田先生の説明でした。
【正解1】「誰だって」(主語)・「落ち込む」(述語)
【正解2】「ことは」(主語)・「ある」(述語)
また、連文節の考え方を使って、「主部」「述部」にわけて考える説明できる、という考え方は同じだけれども、「主部」「述部」の分け方は違うんですね。これはどうしてなんだろう。
そして、日本語学的な文法論に基づく説明もしてくださいました。
複合助動詞!
すごい!この考え方でいうと「落ち込むことがある」全てが「述語」になるのですね。
そして、このような考え方について、勘米良先生は、連文節で(主部・述部として)解釈可能とおっしゃっていました。
結局、このような考え方は、学校文法的にも成立可能なのかそうでないのか。
お二人の先生にお聞きしたいことが溢れてくるばかりです。
今回、お二人の先生にお話しをお聞きして、思ったのは、「文法問題を、正誤問題として扱うのには限界があるのではないか」ということでした。
おそらく今回のような複雑な文法問題が出される背景には、「『は』『が』があるから主語!」「人だから主語!」というような、ナイーブな文法の捉え方(「疑-文法論」、とでもいいましょうか)をしていないかどうか確かめたいからですよね。
そうだとしたら、一文一答式で正誤を問うようなやり方には限界がある。テスト理論の専門的知見も持たないうちに、オリジナルな問題を作成するリスクが高すぎると思います。
そして、もっと大切なことは、子どもたちが「文法」というツールを使いこなして、自分たちの日常の言葉を分析してみたり、新たな文を生成することの手がかりにしていけることですよね。
そうだとしたら、むしろ今回のような、ナイーブな感覚では分析しにくい文法問題をあえて出題したうえで、子どもたちに「なぜ自分はそう考えたのか」を説明してもらっては、どうでしょうか。
子どもたち一人一人によって辿りつく「解」は異なっても、その道筋が適正なものであるかどうか、を評価することはできます。
今回お二人の先生にお話しをお聞きしながら、「謎解き」のように文法問題を考えていくことができました。
二人の先生がそれぞれに違った概念的とツールを使いながら、別々の説明をしてくださるのを聞くのは本当に面白い。
こういうかたちで、文法の考え方が生き生きと活用されていくような場面を、もっと子どもたちと共有できたらいいのに。
…というわけで、子どもや保護者、そのほかいろいろな人たちが、国語教育にかかわる、こういう疑問を感じたときに、問い合わせたり、その問いをもとに専門家が、コンセンサスの形成に向けて議論できる場があったらいいいな、と思ったのでした。