ようやく、宇佐美りん『推し、燃ゆ』を読んだ。
芥川賞受賞作であり、かつ本屋大賞にもノミネートされていることもあり、とにも書くにも評判は高いのだが、本の「あらすじ」を見ようとしても、ほとんど、帯コピー(「推しが炎上した。ファンを殴ったらしい。」)と同内容の分しか見ることができない。
さらにいえば、帯の裏面に記載されているコメントも、なんだか、てんでバラバラで、とにかく「推しが、燃えた」=「推し、燃ゆ」=タイトルしかわからないところが、まず、面白い。
一読後、なによりもまずはじめに思い出したのは、岩井俊二監督映画『リリイ・シュシュのすべて』。
この240秒版TVSpotの最後に流れる、ブラック画面上のメッセージー《僕にとって》《リリイだけが、》《リアル。》――は、『推し、燃ゆ』の基底に流れているものと、とても似通っている。
しかし、『リリイ・シュシュのすべて』において、世界が、中心的な視点人物のみならず、その周囲の《14歳》たちすべてにとって「灰色(グレー)」であったのに対し、『推し、燃ゆ』では、もっぱら、語り手の視点のみに靄がかかり、そこから見える視界だけがぼやけている。
語り手自身がもっている特殊なレンズによって、ある時はクリアに見え、かと思ったら突然靄に覆われてまったく視界不良になったりそんな世界の「見え」を、驚くべきほど正確に記述している、という点が、この作品があれほどまでに絶賛される所以なのだと思う。
もっとも単純な例をあげれば、悪天候のなか、母親の運転する車の後部席に乗って、海岸沿いの道を走るシーンがある。
目をひらく。雨が空と海の境目を灰色に煙り立たせていた。海辺にへばりつくように建てられた家々を暗い雲が閉じ込めている。推しの世界に触れると見えるものも変わる。あたしは窓に映るあたしの、暗いあたたかそうな口のなかにかわいた舌がいるのを見て音もなく歌詞を口ずさむ。こうすると耳から流れる推しの声があたしの唇から漏れでているような気分になる。あたしの声に推しの声が重なる、あたしの眼に推しの眼が重なる。
母がハンドルを切る。ワイパーの範囲から外れた雨が窓を垂れていき、タッターッ、タッターッ、と規則的な音とともにぬぐわれた窓ガラスがまた曇る。並んだ木は輪郭を失い、鮮やかすぎる緑色だけが目に残る。
(宇佐美りん『推し、燃ゆ』、pp.31-32)
車で移動しているのだから、そもそも映る景色は変わっている。悪天候時によくあるように、その薄暗さも移り変わっているのかもしれない。
そんなことを考えてしまうくらい「目をひらく」の直後の文に感じた明るさや温度感が、次の段落の最後には失われている。窓ガラスは、また曇っているのに、それでも、読者のイメージする視界いには、鮮やかな緑色が残る。その世界は、薄暗い世界のなかでも、美しくクリアーだ。
瞬間瞬間で変わっていく、焦点のぼやけかた、視界の明暗を、このくらいの正確さで描出しながら、悪い方向に向かっていくけれどもなんだか靄がかかったようにぼやけていてよく見えない世界と、推しの光のなかで何もかもがクリアーに見通せる世界とが対比的に描きだされる。
そしてそれによって、描き出されるのは、第三者的な記述のなかでは、「ほっておいてください」*1という言葉で象徴的に表現されてきた、ファンたちの世界だ。
宇佐美りんさんは、『好書好日』のインタビューで「一方通行だから、いい」という推しの感情のありようが、あまりにも理解されないままでいることが、本書を書く原動力になったと語っている。
宇佐見りんさん「推し、燃ゆ」インタビュー アイドル推しのリアル、文学で伝えたかった|好書好日
「ほっといてください」という言葉で象徴されるような、一方通行的な愛情。
一方向的で、自分の側を見返されることがないという安心感のなかでこそ得られる心理的な癒しや支え。
それは、一方で、自分自身の暴力性に対する無自覚さとして批判されるべき対象ではあるが、その一方で、それがなければ生きていけない、というほどの切実さをもって、一方向の愛情を必要とする人々がいることも事実なのだ。
カズオ・イシグロが述べるように、小説家の役割が「感情(emotion)を物語に乗せて運ぶこと」なのであるとしたら、『推し、燃ゆ』は、「ほっといてください」としか言えないがゆえに批判・非難されてきたファンたちの感情を、物語に乗せて、社会に共有しようとする企てなのだろう。
「時空を超えて伝わる『感情』を描き出す」作家、カズオ・イシグロの野心 | WIRED.jp