10月2日まで、国立近代美術館で開催中のゲルハルト・リヒター展に行ってきました。
ゲルハルト・リヒター展、皆、観に行くと何かを語らずにはおれないという感じになるのか、オンライン上に、すでにたくさんの記事が溢れていて、いまさら付け加えることは何もないのですが、それでもやはり、何かを言わずにいられない。
…それほど強く、感情を動かされる展覧会です。
私自身は、高校生ウィーク「書く。部」、そして小中学生のための対話型鑑賞プログラム「あーとバス」、また個人的に、視覚に障害がある人との鑑賞ツアー「Session!」に一般参加者としてあるいはボランティアとして参加したこともあったりして、「誰かといっしょに、鑑賞する」ということについては、たぶん人一倍考えてきたんだと思うのです。
が、そんな私にとって、ゲルハルト・リヒター展は、子どもと一緒に鑑賞したい展覧会トップ5に入る展覧会でした。
残念ながら、私自身は、子どもたちを連れて、会場に行けたわけではないので、会場内を自由に動き回りながら、自由にお話ししている子どもたちの姿を見たり、彼らの声に耳を傾けたりすることで、ここで展示されている作品や展示の仕方について、とてもたくさんのことを教えてもらいました。
子どもを連れて会場に来てくださっていた皆さん!本当にありがとうございます!
お子さんのいる家庭の中には「子どもがいるから美術館や博物館はちょっと…」と躊躇してしまっている方もいらっしゃると思うのですが、リヒター展は、お子さんと一緒に来てくださると、他の鑑賞者の鑑賞のサポートになりますのでぜひ来てください!ソースはわたし!と声を大にして言いたい気分です。
私が、今回、ゲルハルト・リヒター展を観るなかで、展示会場にいた子どもたちに教えてもらったことを、共有しますね。
これからリヒター展にいらっしゃる方は、ぜひ、ご自身で「発見」してみてください。
1. 《アブストラクト・ペインティング》には人がいる
入口入ってはじめの部屋には、《アブストラクト・ペインティング》のシリーズが並びます。
その《アブストラクト・ペインティング》の部屋で「あ!人がいる!ここにも!」と言ってまわっている子どもがいました。
リヒター展の感想として、「正直、《アブストラクト・ペインティング》のシリーズはわからん」と言っている大人たちもいるなか、なかなか抽象画鑑賞能力のある子どもがいるものです。
ちなみに、近くにいた大人(保護者の方ですかね)に「これは(人がいるのが)わかるから!」みたいな感じで一生懸命伝えていた作品はこちら。
それを聞いて、「確かに!」と思いました。もしかしたらその子が見ているものとは違うかたちで認識しているかもしれないけれど、少なくとも、わたしには、中央あたりにある黒いなにかが「人(の影)」が見えるような気がします。
そして今、写真を見直していたら、左側の白い何かも人のように見えてきました…。たしかに「人」がいます。わかりやすいよ!うん!
2. 《ビルケナウ》の中の「幽霊」
そして、今回の目玉ともいえる《ビルケナウ》。
日本初公開!で、しかも、ゲルハルト・リヒター自身が展示構成を考えたカンペキな状態で鑑賞できるという、贅沢な展示室です。
そんな《ビルケナウ》は、リヒター自身がこれまで自身のなかで、いつかは取り組まなければと思っていたアウシュビッツを扱った作品群であるため、会場に入るだけで、ものすごい黒い、闇のようなパワーに包まれます。
そんなパワーをおそらく感じていたからなのかもしれませんが、「幽霊がいる!」と言っている子どもがいました。その方向を見てみると…
…たしかに…これは……うわぁぁ!!
今、写真を見直していて、あまりに心霊写真か何かのようにくっきり映っているので、「これは撮ってしまってよかったものなんだろうか…」とどぎまぎしています。
実際、《ビルケナウ》のシリーズは、アウシュビッツの当時の4枚組写真をもとに、オーバー・フォト・ペインティングで制作されているので、そこに何かが出現してしまうというのはとても納得がいきます。そんなオーバーなんちゃらとか知らずに、幽霊の現出が見えてしまう子ども……恐るべし。
3. 割れているドローイング
最後の(出口近くにある)展示室では、新作のドローイングが何点も飾られています。
そこで、通りかかった親子がこんな会話をしていました。
子「お父さん、なんで、これ、割れてるの?」
親「割れてる?…え?どれ?」
子「これ」
そう言って、子どもが指さしていたのはこのドローイングでした。
たしかに、割れてますね…!
これら新作のシリーズは、紙と鉛筆だけで書かれた、ドローイング作品として、紹介されます。
チラシや展示案内には「新作のドローイング」と書かれているので、ドローイング作品だと思ってみていると、たしかに、この「割れている感じ」は消失してしまう。
おそらくお父さんが、子どもの「割れている」という感覚がはじめわからなかったのは「ドローイング作品」として見ようとしすぎていたからなのではないか、と思いました。
「割れている」と言われてみれば、「割れている」ようにしか見えない。
「ドローイング」と言われてみると、そこには書かれている鉛筆の線しか見えない。
でも、この作品を「観る」ということは、たぶん、これを「割れている」ように見ること(さらにいえば、鉛筆で書かれたということもわかったうえで「割れている」ように観ること)なんじゃないか、とこのとき思いました。
そういう意味では、「新作ドローイング」のシリーズとして見ようとすればするほど、本来の鑑賞体験からは遠のいてしまう。「割れている」画面はいつまでたっても見えてこないのです。
4. ふだんは見ないようにしているものを見る
言葉にしない・できない子どもたちも、その行動から、いろいろなことを教えてくれます。
今回もっとも感動したのは、《8枚の鏡》。
この作品は入口から見ると、《8枚の鏡》の名のとおり、ただ鏡が8枚並べてあるだけにしか見えません。この作品の横側、斜め前方あたりに、ちょっと低い姿勢で止まっている子がいました。
「なにが見えるんだろう?」と思って、しゃがんでみると…
わわわわわ!!これは…すごい!!
会場内を動く人たちのたくさんの影が映り込み、それがすごいスピードで動いていきます。人の影が重なりあいながら動きつづける、アニメーションのような作品がそこには、ありました。
そして、次の瞬間、ゾッとしました。
わたしは、この子がいなかったら、この子に気づかなかったら、きっと、この作品を観られていなかったと思うのです。
それこそ「8枚鏡があるなー」で終わっていたと思う。
今あらためて、リヒター展の展示案内を見てみましたが、「リヒター作品を読み解くためのキーワード」の1つに「ガラスと鏡」があるだけで、この作品の見方なんて書いてありません。
オーディオガイドにはなんらかの説明があったのかもしれませんが、この作品の前で、こんな見方をしている他の鑑賞者はいなかった。だからこそ、この子の存在が印象に残ったのだとも言えます。
いったい、作品を「観る」というのはどういうことなのでしょう。
ゲルハルト・リヒターの作品は、私たちに、「見る」とはどういうことなのかを問いかけている…というのはよく聞く評ですが、こんなに、問いかけられた経験はありませんでした。
リヒターの作品そのものはもちろん、子どもたちの存在によって、私は自分自身がいかに「見えて」いないかに気づかされたし、彼らの手助けで、そのほんの一部を「見る」ことができました。
そしてそれはわたしの「見える」世界を、大きく変えるものであり、今回の鑑賞経験の大きな部分を占めています。
他の人たちと観たら、また違った世界が広がるのだろうか。そう思うと、果てしない可能性が広がる気がします。