言語文化教育学会(ALCE)の恒例企画のようになってきた、「トガルための100作品」のためのお気に入り紹介トーク&対話企画。
2024年度は「『トガル』ための評論対話」というタイトルで、この企画が行われました。
わたしはなぜか、初回開催から毎年登壇していて、2022年度「『トガル』ためのビブリオバトル」で、TRPG「ダイアレクト(Dialect)」を、2023年度「かえってきた『トガル』ためのビブリオバトル」で、ヴィジュアルノベルゲーム「7 days to end with you」をご紹介してきました。
テーブルロールプレイングゲーム(TRPG)にしても、デジタルゲームにしても、ゲームプレイにそれなりに多くの時間がかかるものばかりだったので、今回は気軽にプレイできるテーブルゲームを紹介しよう、と思い立ち、わたし自身が5年近く「普及委員会」としてかかわっている、辞書ゲーム「図書館たほいや」をご紹介することにしました。librarytahoiya.wixsite.com

本や映画、音楽、演劇、芸能、ゲーム…などなど、あらゆるものが、自分自身の言葉に対する考え方、言葉の教育に対する考え方が揺さぶられる契機になりえます。
そのなかでも、アナログゲーム特有の影響の与え方があるとしたら、それはやはり、そのゲームをプレイするために人々が集まり、ともに場を過ごす必要がある、ということでしょう。
ともに時と場をともにしながら、同じゲームをプレイするという経験、そこで生み出される関係性の質はかけがえのないものです。與那覇潤・小野卓也 (2023)『ボードゲームで社会が変わる:遊戯(ゆげ)するケアへ』が「思想」として言語化しようとしたものは、まさにそのような関係性の質なのではないか、と思っています。
今回の「評論対話」でのトークおよび、その後の記事では、そういうゲームプレイが行われるその時・その場で起きた出来事や、その積みかさねに焦点を当てることにしました。
今年で、「図書館たほいや普及委員会」は発足して、5年を迎えるそうです。この5年のなかで、わたし自身が出会ってきたこと、そこから生じたわたし自身の変化について、少しでも伝わる文章になっているといいなぁ、と思います。
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「知ることで遊ぶゲーム(knowing game)」を超えて、言葉と出会う
―辞書ゲーム「図書館たほいや」―
わたしがはじめて、「図書館たほいや」というゲームと出会ったのは、2018年秋のことです。このゲームの存在を知り、それに魅了されたわたしは、2019年春から、「図書館たほいや普及委員会」のメンバーとして活動を続けています。
「図書館たほいや」は、当時、日本大学芸術学部に所属していたひとりの学生の手によって生み出されました。
もともとこのゲームは、「クロスワードパズル」や「しりとり」のような、誰が生み出したともいえないゲームであったようです。
英語圏で、 “Dictionary”あるいは“Fictionary”と呼ばれ親しまれていたこのゲームは(“Fictionary”-Wikipedia)、1993年に、フジテレビ系列のバラエティ番組「たほいや」で取り上げられることで(フジテレビ〈たほいや〉編(1993)『たほいや』扶桑社)、日本でも人気を博し、広くプレイされるようになりました。
この番組の影響が大きかったためか、日本では、「辞書ゲーム」といえば「たほいや」、すなわち、岩波書店『広辞苑』を用いて遊ぶスタイルの“Dictionary/Fictionary”をイメージする人が多いようです。
この流れのなかで「図書館たほいや」を位置付けるとすれば、次のように言えるかもしれません。
「図書館たほいや」は、”Dictionary””Fictionary”の「亜種」として発展してきた「たほいや」を、もう一度、多種多様で個性的な辞書・事典の世界へとひらいていったゲームだ、と。
しかし単に、「どんな辞書・事典でも使用可」とするだけのゲームであれば、
これまで行われてきた「たほいや」とそれほど大きく変わるところはありません。
「図書館たほいや」の魅力は、単に「どんな辞書・事典でも使用可」とするのではなく、むしろ、より積極的に、図書館に所蔵されている、個性的な辞書・事典を使用することを、ゲームルールのなかに導入した点にあります。
これによって起きた、重要な出来事のひとつは、『広辞苑』の権威の解体であり、それを筆頭としたさまざまな辞書・事典の権威の解体でした。
これまで、「たほいや」をプレイしてきた人たちは、おそらく、『広辞苑』に記載されている語釈を、シンプルに「事実」としてみなす傾向にあったのではないかと思います。
「たほいや」のルール説明においては、しばしば、「本当の意味を当てる」という言い方がなされますが、これが象徴するように、『広辞苑』をはじめとした辞書・事典に記載されている内容は「本当」のこと、すなわち、「事実」として捉えられているのです。
これに対して、「図書館たほいや」では、「本当の意味」よりも、むしろ、個性あふれる辞書・事典のなかでの独特な「書きぶり」に焦点が当たります。
たとえば、「図書館たほいや」をプレイしていると、出題語の選ばれ方に「たほいや」とは異なる、独特の傾向があることに気づきます。
はじめのうちは、誰も知らないような語(例:「たほいや」)が出題語として選ばれることが多いのですが、プレイヤーがプレイに慣れてくるうちに、あえて、他のプレイヤーがすでに意味を知っている語(例:「パンケーキ」「自転車」)が出題されることがあるのです。
つまり、すでに意味を知っている語について、「その辞書ではどのように書かれていそうか」を推測し、「いかにその辞書・事典っぽく、書くか」を競うのです。
このようなプレイがあまりに一般的になってきたため、いつの間にか、暗黙のルールとして、「『親』は、出題する辞書・事典の任意のページを開き、その辞書・事典の語釈の書き方をプレイヤーに開示する」というルールが加わっていきました。
このようなかたちで、年月をかけて「図書館たほいや」のプレイと関わっているうちに、自分が、いつの間にか、(『広辞苑』を含む)辞書・事典に書かれていることを「事実」とみなす風潮から、遠く離れた世界に、来ていることに、ふと気づく瞬間がありました。
それは、わたしにとって、長い歴史のなかで、ある意味、凝り固まってしまった意味をもつ語との関わり方が変化したことに気づく瞬間でもありました。
たとえば、最近、こんな出来事がありました。
2024年初夏に行われた、高校生たちとの「図書館たほいや」プレイ会でのことです。
ある高校生たちのグループが、『日本語オノマトペ辞典 : 擬音語・擬態語4500』(小野正弘編, 2007, 小学館)から「ぴかどん(ピカドン)」という語を出題していました。「オノマトペ(擬音語・擬態語)」のひとつとして「ぴかどん(ピカドン)」が収録されているという事実も興味深いですが、それ以上に、高校生たちがこの語を、自分たちにとって未知な語であるという理由で出題していることにも、新鮮な驚きを覚えました。
そして、高校生たちのプレイを見守る、他の大人たちにもその思いは共有されているようでした。
「ピカドン」を、高校生たちが知らない、ということ。
そのことを、シンプルに、新鮮な驚きとして、受け止めることができている自分がいました。
また、そこにいる大人たちも、「そんなことを、知らないのか」と怒ったり、「知らない」という事実に絶望したりする様子はまったくなく、単純に、新鮮な驚きとして、そこで起きている出来事を受け止めています。
「知らない」ということ。
そのことをその場にいる人々が興味深く受け止め、いま・ここから、その言葉の意味をともに考えていこう、
意味を生み出していこうとする、その場がそこにあったのだと思います。
このことが、とてもかけがえのないことのように、わたしには思えました。
わたしたちは、言葉と遊ぶなかで、過去から続いてきた言葉と出会いなおすことができるのでしょう。
そして、「知らない」ということと、新鮮な気持ちで向き合いなおし、
そこからともに意味を創りあげていくことができるのではないでしょうか。
クイズのように「知っている」ことを遊ぶのではなく、「知らない」ことを遊ぶ「図書館たほいや」が生み出す、言葉との出会い方。
その可能性のすべてに、わたしは出会ったわけではありません。
これからも「図書館たほいや」と遊びながら、プレイヤーとともに、未知なる可能性と出会える瞬間を、いつかいつかと待ちながら、このゲームと関わり続けていきたいと思います。