以前、こちらのブログで、ニューヨークのカスティロ劇場で行われているプログラム「若者のための発達支援学校(Development School for Youth)」について、ご紹介しました。
わたしたちは、今回のイマージョン・プログラムの中で、カスティロ劇場での公演も観劇したのですが、わたしにとっては公演そのものと同じくらい、その前に行われていたレセプション・パーティでの会話が印象深いものでした。
わたしがレセプション・パーティーでたまたま出会った女性に、「あなたは、どのようにカスティロ劇場と関わっているの?」と尋ねると、彼女はとても自信に満ち溢れた様子で、「わたしは、ファンド・レイザーよ!」と答えてくれました。
彼女によると、ビジネスなどでの経験から、いろいろな方々に一人一人電話をかけて、寄付を願い出て、資金集め(ファンド・レイジング)をすることに自信もあるし、そのことでカスティロ劇場に参加していることに、喜びを感じている様子。
自分の今のおすすめは、大人のための発達・学習の場である「UX」で、「UX」の開講講座リストをもとに、電話をかけて、それについて人々と話しをし、寄付を願いでているのだとのことでした。
事実、カスティロ劇場の地下にある一室には、彼女のようなファンドレイザーたちが、ボランティアで活動するための部屋があり、3~4つの丸テーブルにそれぞれ、5台くらいの電話が置かれていました。
部屋の中のホワイトボードには、こんな感じで、ファンドレイジング目標(?)が示されていたりして……資本主義のシステムがビッチリと張り巡らせたその根の中に寄生するかのように存在する贈与経済システムに、クラクラと目眩がするような感覚になりました。
自信たっぷりに「わたしは、ファンドレイザーよ!」と答えてくれた彼女との会話のあと、日本に帰ってからずっと、「必要とすること」「欲すること」と、(彼女が誇りを持って行っている)「願うこと」との違いについて考えていました。
フレド・ニューマン『みんなの発達!』の中に、次のような文章があります。
望むことと必要とすることについて、少し追加しましょう。ソーシャルセラピーの視点に立てば、望むことは大いにギブに関連しています。必要はよりゲットに関連します。誰かに望むのは、その人が誰なのかに関連します。誰かに望まれるというのは、知られていて、そしてギブされることです。必要とするのは、通常、必要とするのは誰なのか、必要とされる、ギブしなければならないのは誰なのかに関係します。(『みんなの発達!』, p44)
すでに知っている人に対して何かを望むことは、ひとつのギブ(贈与)であり、誰かの何らかのニーズに基づいて「これが必要なので、提供してほしい」と訴えることは、ゲット(獲得)の文化に関連づいている。
こう考えてみると、その提供を求めたり、求められたりするものがどんなものであったとしても、そこに基づくものが、ゲット(獲得)の原理である限り、結局は何も変わらず、自分や他人を苦しめるだけなのではないか、コミュニティをより貧しいものにするだけなのではないか、と思えてきます。
このような考えがあり、しばらく、自分がこれまで「何かの役に立てれば」とか「恩返し」とかの気持ちで関わってきたコミュニティと距離を置かなければという気持ちが強くなりました。
特に、アートや地域コミュニティに関する活動対しては、そもそもわたしからギブできるものが何なのか、いろいろ考えてみてもよくわからないので、しばらく意図的に関わらないようと、なんとなく距離を置いてきました。
そうして、しばらく時間がたって、ゴールデンウイーク。このまま、水戸芸術館現代美術センターの「アートセンターをひらく」にも行かないまま、そっと時間が過ぎさっていくのかな…と思っていたところ、いろいろあって、5月5日に、水戸に行くことになりました。
自分のなかで何かが変わるのか、変わらないのかはわからないのですが、それを含めて、わたしにとってはひとつのチャレンジの機会なので、まずは、逃げずに行ってみようと思います。