kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

理解しあえないだれかにとっての大切なものと出会う――映画『トロフィー』

ハングルのパーツをカタカナに読ませる題字と、予告編に心をつかまれ、映画『トロフィー 』(孫明雅監督作品)を観に行った。

「トロフィー」ポスター画像

トロフィー - K2 Pictures

 

本作は、是枝裕和監督 率いる映像集団「分福」に所属する孫監督の初長編映画作品。

そのことに期待をもって観に来る映画ファンと、在日四世で朝鮮学校に通う14歳の少女を描いた作品を観にきている人たちとが、同じシアターのなかで、同じ映像を観ている。そういう情景がそこにはあった。

そして、さまざまなルートを通ってここに集まった人たちが、ラストに映し出される朝鮮舞踊の舞台シーンに涙を流している。そのこと、それ自体が、わたしの心に深く染み入った。

映画『トロフィー』の予告でも、最後のほうに、朝鮮舞踊を踊る主人公ソヒの姿が映しだしているけれど、ひとりでこの予告編を観ることと、シアターで他の観客たちとともに、ラストシーンのソヒの姿を観ることは、まったく異なる。

いま、予告編を見直しながら、その「違い」をあらためて感じている。

 

youtu.be

 

2020年代の今、いかに「在日」を描くのか

本作についてはいくつかの記事がレビューやインタビュー記事を出しており、そのなかには、映画における在日(コリアン)について、そしての描かれ方について、異なるかたちの評価も見られて、興味深い。

たとえば、『Japan Times』のレビュー記事では、映画『かぞくのくに』と比較して、本作を在日としてのアイデンティティの複雑さについては、あまり深く掘り下げていない(“Trophy” doesn’t dig too deeply into the complexities of Zainichi identity)」と評している。

www.japantimes.co.jp

 

たしかに、本作は「在日としてのアイデンティティ」の複雑さ、難しさのようなところにあえて焦点をあてず、むしろ、「在日としてのアイデンティティ」とは距離をおきながら、そいまの日本を生きる、在日四世の14歳の姿を描きだそうとしている。

 

本映画の前半、主人公のソヒが、日本人の友人とともに「フリマ」(ネットオークションでの販売)で、北朝鮮ルーツのCDを高値で売ったあと、「在日でよかったー」と述べるシーンがある。

この「在日でよかったー」があまりにもくったくなくて、『GO』や『パッチギ!』などの在日コリアン(を描いた)映画を観てきた世代からすると、そのあまりのくったくなさに、ちょっとびっくりしてしまう。

 

またほかのシーンでは、自宅で一緒に遊んでいたその日本人の友人・未来(みらい)を、家族に対して、「未来(みらい)も在日だよ。ミレ。」と、うそをつくシーンがあったりする。

ここでうそをついたことに対して、母親から「(「在日」だっていって)相手がどう思うか考えなかったの?」とたしなまれても、ソヒ自身は、そのことについてそれほど気にしない。

「在日」という言葉の重さなんて、まったく関係ないかのように現実を生きる14歳の姿が、そこにある。

 

異なるイデオロギーを生きる他者と、共に在ること。

そんなソヒは、父親が大切にしている勲章をネットオークションで販売してしまったことをきっかけに、「在日」や「北朝鮮」と出会っていく。

映画は、父にとっての「勲章」や、ソヒにとっての「朝鮮舞踊」が、突然、その重みを失い、好奇の目線にさらされていく瞬間を描いていく。

その描かれ方は、とても残酷で、映画中に描かれる、朝鮮学校やそこにかかわる人々のイデオロギーにはまったく共感できなくても、その残酷さだけは、(ソヒという主人公の目を通じて)しっかりと観客の心のなかに、落ちてくる。

 

イデオロギー的にはまったく賛同できず理解できないかったとしても、誰かが自身の人生をかけて大切にしている唯一無二のなにかが、文脈を引き離されて、交換可能な「One of them」にされてしまうこと。

その残酷さを、わたしたちは、理解できる。共感できる。

 

ラストシーンの朝鮮舞踊のシーンを観るという経験は、そのような意味で、特別な意味を、持っていた。

ラストシーンとして描かれる、ソヒたちの朝鮮舞踊のパフォーマンスを、静かな感動をもって見ることができる。これまでマスメディアで取り上げられる、朝鮮舞踊のイメージを超えて、ひとつの感動をもって、朝鮮舞踊のパフォーマンスを観ることができる…ということ、それ自体が、とてもかけがえのないことであるように思えた。

自分自身にとっての朝鮮舞踊に対する見え方が、シアターに来る以前の朝鮮舞踊の見え方とまったく違ったものになっていることに、ふと気づき、そのことに、驚き、感動した。

 

映画は人間に対して、社会に対して、いったいなにができるのか。

そのような問いに対して、本作は、ひとつの答えを与えてくれるような気がしている。

映画は、おくして、人の「見え」をかえることができる。そしてそのことによって、わたしたちの理解や共感の可能性を、ひとつ、またひとつと切り開いてくれるのだ。

そういう映画の可能性を、実感させてくれる映画だ。

 

まだ、本作を観ていない方には、ぜひ、映画館で、他の人たちとともに、この映画を、そのラストシーンを観る体験をしてほしい。

 

社会との関係のなかで、研究倫理を考える

朝日新聞の社説で、軍民両用研究の話題がとりあげられていました。

www.asahi.com

この話題については、TBSラジオ・『荻上チキ・Session』でもとりあげられています。

この番組では、科学ジャーナリストの須田桃子さんが、大学における研究費の状況なども含め、昨今の科学技術や学術研究の話題をまとめて、わかりやすく話してくださっているます。とりあえず、何がどうなっているのか、現状を把握したい、というかたにおすすめ。

youtu.be

 

さて、この記事を読んでいて、先日参加したある学会の会議のことを思いだしました。

企画関連の会議をしていたときの出来事です。


その会議のなかで、「今年は研究倫理に関する企画をやろう」、という話になったのですが、研究倫理委員会審査や、研究倫理関連の規定・基準の話、一歩進んで、研究協力者へのインフォームドコンセントや個人情報保護の話は出てくるのだけど、いつまでたっても、研究の社会的側面、つまり、研究それ自体が社会にもたらすリスクとか、負のインパクトについての話がまったく出る気配がありませんでした。

 

あまりに状況がよくわからないので、

「研究って、なんらかのかたちで、社会を善くすることのためにやってると思ってるんですけど、そういう研究のもたらす社会的側面については、議論の対象にならないんですか?」
…と聞いてみたところ、どうやら、それは「研究インテグリティ」の話であって、「研究倫理」の話ではない(?)ということのよう。

さらに言えば、皆が、社会を善くするために研究しているわけではない。単に、興味があり知りたいだけだったり、業績のために研究をしている人もいるのだから、「社会を善くする」ということ自体が、一部の関心に過ぎない(?)ということのようでした。

 

でも、それって、本当に、それでいいんでしょうか。

もちろん、わたしだって、基本的には、自分の興味関心に駆動されて研究を始めることが多いですし、業績や昇進のために研究を続ける人もいるのかもしれません。

ですが、どんなモチベーションで始められようと、研究調査が行われ、それが世に出されることで、世界は、社会は、研究者が望むと望まないとにかかわらず、良かれ悪しかれ変化してしまいます。


研究者が何気なく行ったカテゴライズ、因果歓迎の物語が、それを受け取った者たちの人生を変える。徹底的に傷つけ、絶望に突き落とすことだって、あるんです。

 

いくら当時の研究者が、「そんなふうに使われるなんて、考えてなかった」と言おうと、知能検査は、幼少期のわたしを「劣った者」にカテゴライズし、担任がわたしを「ダメな子」扱いする根拠を与えていたわけだし、拒食症をめぐる言説は、わたしの両親を苦しめていました。

そういう研究をめぐる功罪の話は、枚挙にいとまがない。

そういうことを無視して、研究発表をすることなんて、できないと思います。

 

冒頭の記事でも紹介したように、軍民両用研究が推し進めようとしているそんな時代。

それそれぞれの研究者が、研究が社会にもたらすリスクやインパクトについて、自分なりの倫理観をもって考え、判断していくことが必要なのではないか。

そしてそれこそが、研究倫理の問題として、考えられなければならないのではないか。

 

そんなことを考えました。

 

朝日新聞の社説では、社会のウェルビーイングや平和に貢献していくことこそが、大学の役割であると述べられています。

そうであるとしたら、学会や研究者の役割とはなにか。

わたし自身は、自分にできることが、どんなにわずかでも、それでもほんの少しでも、社会のベターメント(betterment)を目指して、研究者としてできることを考えたいと思っています。

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聴こえかたがつくる、さまざまな世界とその壁~映画『私たちの話し方』

映画『私たちの話し方』。

4月中旬で上映が終わってしまうかと思っていたら、まだ上映されている館があると知って、喜んでいる。

 

この映画は、とても精巧に音響が設計されている映画だ。

さらにいえば、バリアフリー字幕も含めて、さまざまな「聴こえ」の世界、正確にいえば、「聴こえること/聴こえないこと」と文字情報(視覚情報)とがさまざまなバランスで組み合わせられることによって構築される「世界」の経験が、実に巧みに作り出されている。

音響設計については、Youtubeでインタビュー動画が公開されている。

まずはじめに見てほしいのは、00:46あたりからの映画の冒頭部分のシーン。

この動画を見るだけでも、そこでどのような音響設計がなされているかはわかるけれど、このシーンだけでも映画館で体験する価値があると思う。

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字幕では〔周囲の音が雑音に聞こえる〕と表示されるけれど、その「雑音」が、本当に、しんどい。

こんな「聴こえ」の世界に生きていなければならないのなら、いっそ、その世界で生きることをあきらめてしまいたい、と思う気持ちが、よくわかる。

それでも、人工内耳をつけなさい、人工内耳をつけながら聴者とともに「普通に」見えるようい生活しなさい、と言われ続けることが、いかに暴力的なことか。

 

そんな、文字にするとどこか白々しいようなことが、冒頭の数分間の映像だけで、経験として自分のなかに飛び込んでくる。

 

この映画は、幼少期から、耳の聞こえの障害を抱えながら、まったく異なる人生を歩んできた、三人の若者たちの物語だ。


三人のうち二人は人工内耳をつけていて、そのうち一人は途中でその人工内耳が故障していることがわかる。

さきほど紹介した冒頭のシーンに登場するのは、その、一人だ。

 

映画では、三者三様に異なる聞こえの状況を、音響と字幕を通じて、聴者である観客にも体感させようとする。

静寂のユートピアと、騒音とズレの連続からなる現実世界との対比を通じて、私たちが想像する「聴こえる」世界/「聴こえない」世界を反転させながら、そのなかで、さまざまな「聴こえ」を持つわたしたちが、それぞれに選んだ「聴こえる/聴こえない」世界のなかで、自分なりに、そして、自分らしく生きることを、承認してくれる映画だ。

 

映画のなかに登場する、手話の語、ひとつひとつの扱われ方も美しくて、言葉としての「手話」に、あらためて出会わせてくれる映画でもある。

 

映画館でないとできない経験があるだけに、上映されている今、映画館に足を運んでみてほしい。 

 

「ゼミマンガトーク~「次はキミの番」になりたかったアナタへ」開催レポート

先週末、4月25日(土)に、スパイスとヒト(山形県鶴岡市)1階スペースにて、「ゼミマンガトーク~「次はキミの番」になりたかったアナタへ~」を開催しました。

「ゼミマンガトーク」会場風景Ⅰ(ポスター掲示風景)(C)Ryotaro Ishida
  • 会場内に展示された、300冊近くの「ゼミマンガ」
  • 展示されたゼミマンガ群を見てみる
  • 進研ゼミDM講座ダイジェスト
  • 参加者それぞれが語る「ゼミマンガ」
  • 「次はキミの番だ!」

 

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サラエボ包囲下の市民たちの知恵とヒューマニティ、そして、エンターテイメント:映画『キス・ザ・フューチャー』

さすがにもう観られないかとあきらめていたら、横浜にあるシネマジャック&ベティで、『キス・ザ・フューチャー(KISS THE FUTURE)』の上映が始まるとわかり、映画館まで行ってきました。

観にいけて、良かった。

unitedpeople.jp

サラエボ包囲の4年間の間に起きた出来事と、その間に交わされた約束を果たすかたちで紛争終結後に開催された、U2サラエボでのライブを描きだした、ドキュメンタリー作品。


そもそもサラエボ包囲そのものが現実感のない出来事です。

映画の冒頭では、当時のサラエボを生き抜いた市民たちの語りによって、いかにサラエボ包囲が始まったが語られるのですが、市民にとってもあまりにも突然に世界が逆転するような出来事だったことがわかります。

サラエヴォ包囲 - Wikipedia

そして、そんな、サラエボの市民たちが、当時を思いだしながら、「あと5分後に死ぬとしたら何をする!?それが俺たちがロックをやった理由だよ」(石田意訳)などと語っているのを見ると、ますます、これはどこかの誰かが創りあげたフィクションなのではないかと思えてきます。

…が、この映画では、数々のアーカイヴ映像と、当日を知る人びとのインタビューが、その真実性を突き付けてきます。

そう。これは、まぎれもなく、現実に起きた出来事なのです。

youtu.be


映画のなかでは、銃撃のリスクに晒されながら、道を走り抜け、地下シェルターに集って皆でディスコをしたり、ミュージカル「ヘアー」を上演したり、「ミス包囲都市コンテスト」という名のミスコンを開催したり、いろいろとわけがわからい出来事が続いていきます。

youtu.be

 

「ミス包囲都市コンテスト」は、とても印象的でした。

美を競うコンテストに出場した女性たちが一列に並んで「彼らに殺させないで(Don't let them kill up)」と書かれた横断幕をもっている様は、なんだか不思議な迫力があり、サラエボを生き抜こうとした人たちの「これこそが我々の抵抗なのだ!」という強い宣言のようにも見えてきます。


そのような、市民たちのパワフルで無茶苦茶な抵抗(としてのエンターテイメント)に、これまた無茶苦茶な人たちが外からやってきて、「U2サラエボに呼ぼうぜ!」と言い出すあたりが、面白い。


伝説のサラエボライブと、それをめぐる動きも、もちろん奇跡的で感動するけれど、それまでのサラエボ市民たちの驚くべきパワーと、(こんなに非人道的な状況のなかで)人間らしく、人間として生き続けるための知恵を見届けてほしいと思います。

youtu.be

映画の最後のシーンのメッセージにも通じることですが、世界が簡単に分断してしまう今だからこそ、観るべき映画だといえるのではないでしょうか。

『KISS THE FUTURE』ポスター

 

「1カ月ルール」で誕生日を祝っていただきました

卒論修論発表会&歓送迎会のときに、在校生たちが卒論生・修論生への「卒業&修了御祝」としてプレゼントしていた、国語領域教員トレカがあまりに素敵だったので、X(旧Twitter)で紹介したところ、それを目にとめてくださったウェブライターの方が、記事にしてくれました。

trilltrill.jp

それから、はや1カ月以上が過ぎ、年度も変わり、トレカを作ってくれた学部3年生たちも、今度は、自分たちが、就職や卒業論文に向けて動き出す季節に。

年度の変わり目は、これまで当たり前に頼りにしていた方々が去っていって寂しさや悲しさを感じていたかと思うと、新たにいらっしゃったフレッシュな方々とお会いして、新たな予感にうきうきしたりして、なんだか毎日、気分のアップダウンが激しく、それをサーファーのように乗りこなすだけで、あっという間に五月の連休が目の前にきてしまいます。

そのため、年度末にある自分の誕生日のことなんて、つい自分でも忘れがちなのですが、そんな話をしていたら、4年生たちが、サプライズで、1カ月遅れのバースデーケーキ&誕生日プレゼントを用意してくれました。

年度はじめに誕生日を迎えられる隣の研究室の先生との合同バースデーケーキ!は、なんと学生の手作り!

ケーキをぐるっと取り囲んでいるのは、LINEスタンプ「れか様の敬語干支スタンプ Vol.1」でおなじみ、「れか様」による「干支」イラストです!

store.line.me

学生たちの手作りバースデーケーキ

今年は、3月から4月にかけて、自分でもびっくりするほど忙しかったので、「誕生日なんだから、お祝いしなきゃ、ですね」と、当たり前のように言ってくれる学生たちや、周りの人たちの存在に、とても助けられている気がします。

 

誕生日プレゼントをわざわざ選ぶその時間も、なにもかも、もったいないし申し訳ない、とも思いつつ、その選ばれたプレゼントのなかには、たしかに、プレゼントをくれる一人ひとりの「あなた」と「わたし」のの関係、そのなかで編み出されている「わたし」の存在がたしかにあるような気がして、あらためて、写真を見直しながらしみじみとしてしまいます。

プレゼントは「ねないこだれだ」&「パンどろぼう」のパスボール。ここでこの2作品が選ばれてくるっていうのが、またなんとも言えず、うれしい。

ワインセットのプレゼント。ラベルがかわいい。

他にも、いただいたものはあるのだけど、写真を撮りきれていないのが残念。(ヨシタケシンスケのグッズももらって「これは…!」ってなったのに!)

(誕生日プレゼントにもらったそのときの気持ちと一緒に、今度、きちんと、写真にとっておこう。

『集団で言葉を学ぶ/集団の言葉を学ぶ』への応答の輪。その広がり

今年1月28日に、『集団で言葉を学ぶ 集団の言葉を学ぶ』(ひつじ書房)が発刊されました。

 

このブログでも、前回の記事で、本書のブックデザインのすばらしさに言及しつつ、本書の目次とともに、わたしから見た本書の魅力を紹介しました。

kimilab.hateblo.jp

わたしにとっては、興味深いフィールドでの知見を見出してこられた研究者や実践家の人たちの、これぞ!と思う論考を集めた書籍。しかし、だからといって、それが、どのようなかたちで世にであるのか、どのように受け止められるのかはわかりません。

そのため、本書が編著者以外の人々の手に届きはじめた1月下旬からは、なんだか毎日そわそわドキドキして、いろいろなことが手につきはじめませんでした。そのような中、Okamoto先生を皮切りに、少しずつ、わたしのもとに、本書を読んでくださった方々の感想が届くようになり、ちょうど発刊から1か月経つ頃には、大変熱のこもったレビューもいただけるようになりました。

本記事では、それら、『集団で言葉を学ぶ/集団の言葉』を学ぶに寄せられたコメントやレビューについてご紹介したいと思います。

 

  • 「議論を巻き起こす書籍です。」~『ひつじメール通信』(27-2)でのご紹介
  • 「学ぶということが、そもそも状況と切り離されては成り立たないものであるということを、明確に示してくれる一冊」~いち早く届いた、Okamoto先生によるコメント
  • 「『そもそも言葉って人と人との間に生じるものでしょ』という前提のうえでその意味を考える、そういう本」~渡辺貴裕先生「共に学ぶことの意味」
  • 「議論が上手でないというか、もっと議論しましょう。」~ひつじ書房房主の日誌「『集団で言葉を学ぶ/集団の言葉を学ぶ』(石田喜美編)を集団で読もう」
  • 書籍を出版するとは、どのようなことなのか。書籍になりができるのか。
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