kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

コンヴィヴィアル(共愉的)な研究/実践の場で生まれたコンヴィヴィアルな知~岡部大介『ファンカルチャーのデザイン』

東京都市大学・岡部大介先生より、2021年8月に発刊されたばかりの『ファンカルチャーのデザイン:彼女らはいかに学び、創り、「推す」のか』(共立出版)をご恵投いただきました。

 

岡部大介先生とは、大学院不登校時代に、何かのきっかけで参加した研究会ではじめてお会いして以来、なにかと研究の相談にのっていただいて、日本認知科学会の企画シンポジウムにおよびいただいたり、挙句の果てには、『オタク的想像力のリミット』(宮台真司監修、2014年)に寄稿した論考「『少女文化』の中の『腐女子』」に共著者として支えていただいたり…と、研究者としての走り出した時期に、さまざまなかたちで応援・サポートしていただきました。

さらに、社会に出たばかりで右も左もわからない時期に、無謀にも私がサブ担当者としてかかわっていた事業(「学生とアーティストによるアート交流プログラム」)に参加してくださったのちに、「墨東大学」のチームメンバーとして本事業の展開に関わってくださいました。

つい最近も、Connected Learning Allianceホームページ上に、2020年に公刊されたレポート「The Connected Learning Research Network: Reflections on a Decade of Engaged Scholarship」の邦訳版(PDF) 作成・公開にあたって、分担分の翻訳のみならず、編集やデザイン、公刊に向けたコーディネートを一手に担ってくださいました*1

 

そんな長きにわたる関わりがあったこともあり、ご恵投いただいてザっと読んだ段階で、「とてもじゃないけど、シラフじゃ読めない!」と思い、しばらく読めずにおりました。(申し訳ありません。)

しかしちょうど数日前に、新型コロナウイルス予防のためのワクチン接種(武田/モデルナ・2回目)があり、良い塩梅に(?)高熱を出すことができたので、少し軽めの本で、高熱のなかで読むことへのウォーミングアップ(?)を図ったあと、「今だ!」とばかりに本書を読み始めました。

結局、高熱状態はそれほど長く続かず、高熱のなかで読めたのは2章くらいまでだったのですが、それでもなんとか読み切りました!*2

 

冒頭に述べた、私とのかかわりからも推察されるように、研究/実践の場それぞれにおいて、とても多様なネットワークとフィールドで動かれている岡部先生なので、「いったい、これら一連のさまざまな研究/実践のフィールドやネットワークが、岡部先生自身のなかで、どのようにつながっているのだろう?」というのが、ずっと疑問でした。

そのような意味で、本書は、わたしにとっては、まるで、私がずっと10年以上にわたっていただいて抱いてきた「謎」を解き明かしてくれる、「謎解き本」でした。

一方、本書は、現在のDEE(日本認知科学会・教育環境のデザイン分科会)主査である土倉先生が、本書の合評会告知のなかで「読者は、彼女たちの活動を追いかけ、巻き込まれていく岡部氏自身の活動を追いかけることで、いつのまにか状況論の歴史をたどり、その考え方や背景を知ることもできる、そんなユニークな本になっています。」と紹介しているように、状況論(状況的学習論)や活動理論に関心のある研究者(の卵)・実践者(の卵)たちによるコミュニティ・ヒストリーを個人の視点から描き出したものでもあります。

…と書いていて、これが正確な書き方でないことに気づきました。

「状況論の歴史」「状況論のコミュニティにおける議論の歴史」という言い方は、一面的な言い方でしかないですね。

私から見れば、本書に描き出されている「歴史」なるものがあるとすれば、それは、研究/実践のコミュニティのなかで議論しあったり、お酒を飲んだり、いろんな予想外の不祥事(?)が起きたり、笑えないような失敗をしでかしたり、武勇伝を披露しあったり、そしてそれが後日談となり、後日ネタとしてそれを語り合って笑い合ったりした、その「歴史」なのだと思います。

そのことを、象徴的に示す存在が、「ボス」の存在ではないでしょうか。

これだけ丁寧すぎる注釈が羅列されるなか、読者にまったく断りもなくその実在性が一切触れることなく、あたかも当たり前の前提知識であるかのように語られない「ボス」

この実在なんだか、虚構なんだかわからない「ボス」の存在が、「研究書」として刊行されながら、どこか、エンタメ本のような語り口をもつ本書を、フィクショナルな「歴史物語」のようなものへと構成している感じがします。

三国志」の例を出してよいなら、陳寿がまとめた「三国志」ではなく、明代に書かれた「三国志演義」のような……そんな印象を抱くのです。(誰が、このメタファーでわかるのか、とか、細かいことは考えていません)

 

そして、(これがもっとも大切なことですが)そのフィクショナルな「歴史物語」の中で暗示される状況論コミュニティの姿は、とても、コンヴィヴィアルです。

本書中で「共愉的」と訳される「コンヴィヴィアル」は、研究対象であるファンたちの実践を形容する言葉のみならず、ファンたちとともにある岡部先生の研究(イコール知の生み出し方)そのもの、岡部先生がかかわってきた状況論コミュニティの中での知の生み出し方そのものを形容する概念であるかのようです。

 

腐女子」コミュニティの自虐的/自慢的語りに晒され続けた岡部先生の本書での語りは、非常に「自虐的」であり、その「自虐的」な語りを表面的に受け取ると、フィクショナルな「ボス」はとっても「悪いやつ」で、高熱のなか読んでいると、夢うつつに『スターウォーズ』のジャバ・ザ・ハットがイメージとして出てくるような、そんな書かれれ方がされている気がする(当社比)のですが、それでも、とっても「楽しそう」なのです。

少なくとも、私には、そう読めます。楽しい「自虐語り」が、まさに、ここにあり、そのなかで見え隠れする、そのコミュニティの姿は、とっても、コンヴィヴィアル

 

岡部先生は、本ブログでもご紹介した『大人につきあう子どもたち』の著者である伊藤崇先生と、10月よりラジオ企画を始動されるとのことで、9月にはその準備企画がかいされました

kimilab.hateblo.jp

inn.finnegans-tavern.com

その名も、「コンヴィヴィアラジオ 生まれたときから状況論!」

…ということで、9月の配信を聞いたときには、岡部先生だけならともかく、なぜ、伊藤先生との二人のラジオ企画で「コンヴィヴィアリティ」がこんなにフィーチャーされるのかわからなかったのですが、本書を読んで、その拝見がわかったような気になりました。

このラジオの趣旨が、「2010年代以降の,さらには「生まれたときから状況論」の若手研究者や大学院生とその熱狂を展開し,分かち合うこと」であるのだとしたら、そのラジオ企画は、本書の語り口に暗に示されているような、「コンヴィヴィアルな研究/実践の場」そのものをラジオで作り出そうとするのは、自然なことであるように思いました。

私は、お酒もほとんど飲めないうえに、頻繁に会食恐怖も発生する厄介な人間なので、状況論コミュニティでのコンヴィヴィアルな議論と語り合いのなかで、コンヴィヴィアルに、コンヴィヴィアルな知が生み出される様子を目の当たりにした機会は、本当にわずかなのですが、それでも、それが、「本」というかたちで、そしてまた「ラジオ」というかたちで、ふたたび、お二人の先生の手持ちのリソースを組み合わせながら、「なんとか作ってみる・やってみる」やり方で、創り上げようとされる姿は、とても、エキサイティングです。

 

コンヴィヴィアラジオ」第1回放送は、来週10月6日(水)17:00~18:00とのことです。楽しみです。

*1:邦訳版のレポート「『つながりの学習研究』ネットワーク:参加型の学際領域におけるこの10年を振り返って」は、心理学、社会学、経済学、そして教育学と、学際的な知見を融合しながら考えざるを得ない現在の教育状況を踏まえながら、今後のあるべき学習を考えるうえで、ひとつの方向性を示してくれるものだと思うので、ぜひ多くの方に読んでいただきたいです。

*2:結局、「シラフじゃ読めない」のは2章までだったのでした。

「正しい」ジェンダーの演じ方を求める世界のなかで~『息子のままで、女子になる』

日本質的心理学会第18回大会(10/24国内大会)のなかで、いくつか、「ジェンダーとパフォーマンス」が話題になりそうなシンポジウムに参加することになったこともあり、『シアターアーツ 3:演技・身体の現在』(晩成書房)に掲載されていた、ジュディス・バトラー(吉川純子訳, 1995)「パフォーマティヴ・アクトとジェンダーの構成」を読んでいます。

現在の自分自身のコンテクストを踏まえながら、あらためて丁寧に1つ1つの文を解釈しながら読み直してみると、以前にも出会ったかもしれないキーフレーズがふたたび新たな輝きを見せてくれたり、以前には気づかなかったものに気づくことがあります。

 

表現と演技/推敲の区別は非常に重要である。と言うのは、もしジェンダーの属性、行為/演技、すなわち身体がさまざまなやり方でその文化的な意味作用を示すこと、作り出すことが遂行的であるなら、行為/演技や属性を判断する基準となるアイデンティティは、前もって存在しないことになるからだ。ジェンダーの行為/演技や属性には、本物もにせものもなく、現実味のあるものもゆがんだものもなく、真のジェンダーアイデンティティなるものは、規制力を持つ虚構なのだとわかるだろう。(バトラー, J. 吉川純子訳, 1995, p68)

 

バトラーは、「表現(expression)」と、「演技/遂行(performativeness)」を区別して考えることを提案し、ジェンダーとは前もって存在する何かを「表現」するものではなく、ジェンダーとは「演技/遂行」なのだと述べます。

ここでは「真のジェンダーアイデンティティなるものが「規制力を持つ虚構」であることも述べられています。

 

自らのジェンダーの演じ方を誤れば、露骨に、かつ遠回しなかたちで処罰を受けることになり、うまく演じれば、やはりジェンダーアイデンティティという実体があるのだと安心させることになる。(同上, p69)

 

こんな論文を読んでいた矢先に、サリー楓さんが「世に出る」までのプロセスを追ったドキュメンタリー映画息子のままで、女子になる(英題:You decide)を鑑賞しました。

 

 

この映画についてはいくつもの紹介記事・レビュー記事があるけれども、私がなによりもこの映画を観よう、と思ったきっかけになったのは、朝日新聞GLOBE+のインタビュー記事「LGBT理解の「同調圧力」超えて トランスジェンダー、サリー楓さんが父親に見た希望」でのサリー楓さんの以下のコメントが、とても印象的だったからだ。

 

「私はまだ理解できない」とはっきりと言ってくれたことが、何か父親としての責任を果たしているような気がして尊敬したし、うれしかったです。

でもそうはっきり言ってくれたことで、学び合える面もあると思うんですよ。私も色んな情報を提供したり、自分の気持ちを言えたりするので。

そこは何か、父親としての責任を果たしているような感じがして、うれしかったです。もちろん、受け入れてもらえるのが一番ハッピーエンドなんですが、でも世の中の「認めてあげないといけない」みたいなある種の同調圧力に乗っかって、表面上だけ親子を取り繕うよりはよかたったです。私にとってはかけがえのない財産になりました。(朝日新聞GLOBE+のインタビュー記事「LGBT理解の「同調圧力」超えて トランスジェンダー、サリー楓さんが父親に見た希望」

 

このコメントを見て、この映画はいわゆる「LGBT映画」みたいなものではなく、いろいろな意味で――企業への就職、トランスジェンダーとしての出発、そして「ミス・インターナショナル・クイーン」へのエントリーー今から「世に出よう」とするプロセス、社会という複雑に編み込まれたテクストの中に自分を位置付け、誕生させるプロセスを追った映画なのだろう、と思い、映画館に足を運ぶことにしました。

globe.asahi.com

 

想像したとおり、この映画を鑑賞したあとの印象は、私のなかで、朝井リョウ監督・脚本の『何者』に近く、「LGBT映画」というよりは「就活映画」でした。

 

『何者』をはじめ、「就活」をモチーフとした作品のなかでは、「何者かになること」「社会のなかで自分の位置を見出すこと」への苦難や葛藤が描かれるように、このドキュメンタリー映画のなかに描かれるサリー楓さんの葛藤や苦悩も、徹底的に「何者でもない/何者にもなれない」自分に向けられている気がします。

 

そしてその「何者でもない/何者にもなれない」自分が、「何者か」になる方法を求めて、とにかく必死で藻掻きながら、それでも、画面上にあらわれるサリー楓さんの表情は、いつも、同じ写真を見続けているかのように、ピッタリと変わらない同じ笑顔のままで、そのギャップに終始、ぞっとさせられました。

アニメーション《就活狂走曲》では、まさにピッタリと変わらないままの笑顔が、「就職活動」への皮肉として用いられ、その恐怖を描き出しますが、私には、映画中のサリー楓さんの笑顔が、そのようなものに見え続けていました。

 

 

 

それで、思い出したのが、本記事冒頭にも示したバトラーの言葉でした。

 

自らのジェンダーの演じ方を誤れば、露骨に、かつ遠回しなかたちで処罰を受けることになり、うまく演じれば、やはりジェンダーアイデンティティという実体があるのだと安心させることになる。(同上, p69)

 

本映画の英題は「You decide」です。

これは映画中、サリー楓さん自身のスピーチの中でも出てくる言葉で、自信を表明するような力強い言葉でもあるのだけれど、映画全体の文脈のなかでの「You decide」という言葉の意味を再度考えてみると、それは、「自らのジェンダーの演じ方は誤っているのではないか」という不安に裏打ちされた言葉なのではないか、と思えました。

決めるのは「わたし」ではなく、あくまで「あなた」なのだというメッセージは、そういう意味で、とても不安定です。

 

本映画の終盤に出てくる、はるな愛さんとサリー楓さんの対談は、それまで映画中に登場するさまざまな強さと弱さの揺らぎを、一息に貫きつつ、それすべてを包摂してしまうような、ものすごいパワーに溢れていて、まさに「圧巻」です。

そこに、答えがあるというわけではないのだけれども、少なくとも、ジェンダーを正しく演じることで既存のジェンダーアイデンティティを承認し続けること、でも、ジェンダーの演じ方を誤り処罰を受けることでもない、別の「第三の道」を探し求めることは可能であることを、示唆してくれるような気がします。

f:id:kimisteva:20200325164039j:plain

塩田千春《記憶の雨》(金沢21世紀美術館

 

言語学SFで描かれるフェミニズム・ユートピア~李琴峰『彼岸花が咲く島』

彼岸花が咲く島』で芥川賞を受賞した李琴峰さんの芥川賞受賞スピーチが話題になっているのを目にし、その中で、彼女が受賞式後、数多の攻撃を受けていけながらそれを「彼らは心無い言葉によって、『彼岸花が咲く島』という小説を、寓話的なフィクションから、より一層予言に近づけたのです。」と跳ね返しているのを見て、「これは読まねば」と思い、本書をさっそく入手しました。

 

 www.nippon.com


これまでも「文学にはこんなことができるのか!」と思わされる作品には、いくつか出会ってきたけれど、『彼岸花が咲く島』はそのなかでもトップに入る「実験」度の高さであったと思います。


あらためて、文学というのは「言葉の芸術」であり「言葉の実験場」なのだと、思い知らされました。


一方で、「文学は抵抗のための武器(「武器」とは言わなかったけど)」と言わんばかりの芥川賞スピーチがあまりに社会的なショックを与えたうえに、SNSで政治的であることを微塵も隠さない彼女なので、そのポリティカルな側面ばかりが注目されてしまっていて、なかなか『彼岸花が咲く島』の話にならないのが、残念でした。


そんな中、Business Insiderの記事が、本作の「言葉の実験」としての側面に焦点を当てたインタビューを(一部)掲載していました。

www.businessinsider.jp

 

このインタビューの中で李琴峰さんは、次のように語っています。

 

言語の実験をやってみたかった。SFの小説や映画では、言語の問題は解決された世界が多い。例えば、人間が団結して宇宙人と戦う話では、通訳システムを使って意思疎通することもある。でも人間が言語を乗り越えるのは、そこまで簡単ではないという思いもあった」

 

彼岸花』では、〈ひのもとことば〉〈ニホン語〉〈女語〉日本語をベースにした(と言っていいのかわからないけれど)3つの言語が使われて、それら3つの言葉を使う人たちが「意思疎通できない」場面も取り扱われています。


重なり合いつつ、それでも意思疎通しきれない3つの言語を使う登場人物たちの織り成す相互行為が、日本語によって記述されるのです。


そんな厄介な仕組みの作品なので、何度も「これって〈ニホン語〉での読み方なんだっけ?どういう意味だっけ?」とか言いながら、何度か、前方のページを参照する羽目になったりはしますが、私自身には、それがとても面白い経験でした。

 

彼岸花が咲く島』は、フェミニズム・ユートピア小説として説明されることもあるようです。

news.yahoo.co.jp

 

本書に描かれている「島」の様子が、はたして、「ユートピア」なのか「ディストピア」なのか。

その答えは、おそらく、ひとりひとりの読者によって異なるのではないか、と思います。
いずれにせよ、このような「フェミニズムSF」とでも言えるような作品が、芥川賞を受賞しているということが、ひとつの驚きでもあります。

 

児童文学のようなファンタジー世界、ライトノベルようなストーリー展開でありつつ、それでもやはり純文学でもあるような、不思議な読後感のある作品です。

ゲームを終焉させるゲームは可能か~SBGJ2021ビブリオバトルと『なぜふつうに食べられないのか』

「シリアスボードゲームジャム2021 ONLINE~図書館と一緒にシリアスボードゲームジャム!」の「前祭」として開催されたビブリオバトルに「バトラー(本を紹介する側)」として参加してきました。

sbgj2021.jimdosite.com

 

「シリアスボードゲームジャム」とは?

ゲームジャム」とは、ゲームづくりにかかわる人たち、ゲームづくりに関心のある人たちなどが集まって、短期間で一斉に、ゲーム制作をするというイベント。「ゲーム開発を行うハッカソン」とも説明されます。

日本で行われているゲームジャムとしては、NPO法人国際ゲーム開発者協会日本(IDGA Japan)のの運営協力によって開催されている「グローバルゲームジャム日本」」がもっとも知られているイベントだと思います。

ゲームジャムでは、プログラママーなどもかかわって、デジタルゲームの制作を行うことが多いようなのですが、このゲームは、ボードゲームのゲームジャム、さらにいえば、シリアスゲーム」(単なる娯楽目的ではなく、社会課題の解決をねらって作成されるゲーム。たとえば「シリアスゲーム」『IDEAS for Good』を参照)に焦点を当てたゲームジャムということで、なかなかコアなところを狙ってくるな!という感じがします。

イベント、これまでは総合地球環境学研究所(地球研)で開催されていたようなのですが、本年度は、地球研のように「シリアス」要素の凝縮した人やモノが結集している場ではなく、広く一般社会のなかで「シリアス」要素を結集しうる場である「図書館」で、このイベントが開催されることになったようです。

図書館に関する情報ポータルサイト「カレントアウェアネス」でもこのイベントが紹介されていました。

current.ndl.go.jp

 

おそらく、今回のビブリオバトルも、「シリアス」要素を担った人やモノを出会わせるための仕組みとして講じられたものではないかと思います。いまやいろいろな変種・亜種がたくさん出現していて、その実態がよくわからなくなりつつあるビブリオバトルですが、それでもやはり「人を通じて本を知る、本を通して人を知る」というコンセプトは大切にされていますし、ビブリオバトルは、そもそも、いろいろな分野で研究をしている院生たちの「遊び」として始まった、という歴史がありますからね。「シリアス」がないわけわけがない(たぶん)!

 

テーマは「食べることのジレンマ」

今回の、ビブリオバトルのテーマは、イベント全体のテーマと同様、「食べることのジレンマ」でした。

このテーマで、何の本を紹介するかを考え、最終的には、大岡昇平『野火』とどちらにしようかと悩んだ末に、わたしが選んだ本は、磯野真穂(2015)『なぜふつうに食べられないのか:拒食と過食の文化人類学』(春秋社)でした。

 

わたしが、この本を選んだのには、理由があります。

このイベントのことを知ってから、知り合いの人たちに「シリアスボードゲームジャム」のこと、そして本年度のテーマが「食べることのジレンマ」であることをお話しする機会があったのですが、そのときに、何人かの方から、

「じゃあ、ダイエットがテーマになりそうだね」

「『食べることのジレンマ』っていったら、ダイエットしか思いつかないな…」

「そのテーマでゲームにするなら、ダイエット(が題材になるん)じゃない?」

 …という反応がかえってきました。

 

わたし自身、「万年ダイエッター」を自称していた時期があるくらいなので、それは理解できます。今でも、摂食障害の飼いならし状態で、精神状態の悪い時期だと、体重減少欲求が加速して再び食べられなくなったり、体重増加していたりするとあやうく仕事場にいけなくなったりするくらいなので、まったく他人のことは言えません。

それでも、知り合いの人たち、さらにいえば、摂食障害を抱えた経験はないとおっしゃる人たちが、こんなに「食べることのジレンマ」といえば「ダイエット」と即答する事態に、社会の闇を見た気がしました

「食べること」の話が出た瞬間に、息をするかのように自然と「ダイエット」の話が出てくる社会のなかで、美容や健康のために痩せること、体型を維持することを考えずに生きることは、すごく難しい。

 今、わたしは、なんとか体重計に乗らずに数か月を過ごして生きているけれど、それがこんなにも難しい原因は、こういう、日常生活の中の「当たり前」に潜んでいるのではないか、とあらためて思わされた出来事でした。

 磯野真穂さんは、2019年に、中高生や若者世代に向けて『ダイエット幻想(ちくまプリマ―新書)』を発売されていますし、最近では、体重やBMIや体型に依存した生き方からの「回復」を描いたエッセイコミックもいくつか出版されるようになってきています。

2021年6月には、hara『自分サイズでいこう』、竹井夢子『ぜんぶ体型のせいにするのをやめてみた』が発売されて、つい最近も、ざくざくろ痩せている女以外生きてる価値ないと思ってた』(これはまだ未読)が発売されましたよね。

個人的にはharaさんのマンガが好きで、ヨガジャーナルの「#わたしとからだのことを話そう」を心の支えにしていたりします。

yogajournal.jp

このようなこともあり、あえて、一般の人たちには手の届きにくい研究書を紹介すべきかどうか、最後まで迷ったのですが、ビブリオバトルに申込をしてから、あらためて、磯野真穂『なぜふつうに食べられないのか』を読み直し、「やっぱり、この本は、研究者(文化人類学者)が、研究書でしかできない、重要なことをやっている!」と実感し、この本を紹介することにしたのでした。

 

磯野真穂『なぜふつうに食べられないのか』について話したこと・話せなかったこと

わたしが、「研究者が、研究書でしかできない重要なことをやっている」と思った、本書中のエピソードは、2つありました。

1つは、今回のビブリオバトルでもご紹介できた、摂食障害から回復するために医療者の指示に従って、BMI計算による食事管理法をカンペキに身に付けた結果、そこから逃れられなくなってしまった方のお話。

本書中でその方が、ダイエットや健康管理ができることを良しとする社会のことを「良くない」と語っている部分があり、それも含めてお話しできればと思っていました。結果的には、その部分を読み上げることはできなかったのですが、「食べることのジレンマ」といえば「ダイエット」と即答される状況への問題提起はできたのかな、と思います。

もう1つは、本書の最後に出てくる「過食(過食嘔吐/過食と下剤服用/チューニング)の経験」についての分析です。

わたしは、拒食しか経験したことがないので、過食経験者の世界を垣間見ることができることそのものがエキサイティングだったのですが、この分析のなかで、著者の磯野さんが「過食嘔吐」の経験を、M. チクセントミハイの「フロー」概念(M. チクセントミハイ(1996)『フロー体験:喜びの現象学』)によって分析しているところが興味深く、これをぜひご紹介したいと思ったのでした。

…というのも、ゲームに関する研究や実践をはじめるようになってから気づいたのですが、ゲームデザイン論やゲーム体験の分析のなかで、「フロー」に関する理論がけっこう引用されるのですよね。たとえばこんな感じ。たぶん、自分の論文でも先行研究を検討する際に引用してたと思います。

online.sbcr.jp

はじめは、「嘔吐」を、適切な難易度をもった挑戦しがいのある課題と位置付けることに違和感があったのですが、本書で紹介される過食経験者たちの語りや議論を読むうちに、「日々、過食嘔吐をする語り手たちの意味の世界からみると、たしかに、身体に吸収されないうちにそれを排出することは、そこそこに難しい挑戦課題であり、過食中の無我状態は『フロー』体験と相当に近しいものなのかもしれない」、と思うようになりました。

振り返ってみると、我ら拒食症者にとっての「体重(BMI)を減らす」とか「(プロテイン摂取量を増やしつつ)カロリーを減らす」というのも、すごくゲーム的で、そうであるがゆえに「フロー」体験をもたらしうるものだったのではないか、と思えてきます。

そういえば、以前、わたしが長期間の拒食期に入ったきっかけは、食事管理アプリ×ゲーミフィケーションと紹介されたりもする「あすけん」が原因でした。

note.com

「あすけん」を使ったダイエットは、楽しいです。

毎日、できるだけ摂取カロリーを減らして、消費カロリーを増やして、そして、できるだけ栄養バランスを整える。その結果、わたしは毎日、プロテインバーとサラダだけを食べるようになりました。

「あすけん」もそのあたりのリスクはしっかり考えてくださっていて、目標体重は、BMI18.5(標準の下限値)以下に設定できなかったり、あまりに糖質量が少なかったり、カロリーが少なかったりすると、栄養士のおねえさんが泣いて注意してくださったりするんですけどね。

でも、そんなこと、関係なくなっちゃうんです!カロリー減らすの楽しい!そして体重減るの楽しい!!レッツ・フロー!みたいになります。

ゲームを終焉させるゲームは可能なのか?

このように考えてみると、本書で提起されている問題を題材にゲームを制作しようとすることが、いかに無謀であるかがわかります。

過食も拒食も、ゲームとして(ではないかもしれないけど)めちゃくちゃ楽しかったり、ゲーム以上に喜びをもたらす経験であったりするわけです。

少なくとも、わたしにとって、食べないことはゲームみたいに楽しいです。

いろいろな種類のダイエット・メニューが、選択可能なオプションとして無数に用意されていて、それを選んでトライしてみて、うまくいくのは、めちゃくちゃ楽しい。失敗したら落ち込むけど、次にチャレンジするゲームを選べばいい。

 問題なのは、そのときに、「敵」として登場するのが、自分にとって親しい人たちであることです。「一緒に食べよう」「もっと食べたほうがいいよ」と言ってくれる人たち。現実をゲーミファイしたときに怖いのは、「敵」がハッキリした瞬間です。「敵」は攻撃すべき対象となる。でも、現実にそれを適用した瞬間、そのゲームは日常の人間関係をバリバリに破壊します。

わたしは、そういう事例をいくつか知っています。

 だから、このゲームは、終わりにしなければならない。

しかし、ゲームを終わりにできるゲームを設計することは、果たして可能なのでしょうか。

 もしかしたらわたしが今直面している問題は、「ゲーム障害を治療するゲーム」を考えようとするようなことなのかもしれません。

もし、それが可能であるとしたら、それは、どういう論理によってなのか。

おそらく現実的にこのゲームを実装することには、果てしなく時間がかかりそうですが、自分自身の思考実験としては面白そうなので、しばらく考えてみようと思います。

 …と言いつつ、おそらく、本年度のSBGJ2021に向けた方向性としては、おそらく、当事者ではない(当事者も含まれるかもしれませんが)人たちにアプローチするようなものにすると思います。

「食べることのジレンマ」といえば「ダイエット」と即答される世の中について、私たちは、一度考え直してみるべきだと思うので。

「ザ・ベグデルテスト」のアフタートーク~そして、リフレクションとディブリーフィング

インプロとジェンダー探求プロジェクトの第1回「ザ・ベクデルテスト(The Bechdel Test)」公演を視聴しました。

f:id:kimisteva:20210725170442j:plain

The Bechdel Test第1回公演案内

※インプロとジェンダー探究プロジェクト 第1回 The Bechdel Test 公演のお知らせ | yuriesonobe.com

「ザ・ベクデルテスト」については、以前、「ダレデモデラルテ」の公演・第2弾として行われた際に、こちらのブログ記事でも紹介しました。

kimilab.hateblo.jp

今回、第3回(7/23午前)に出演されていた内海さんが、2年前に「ザ・ベクデルテスト」の公演に出演された際のnote記事も面白かったので、こちらでご紹介しておきます。もっとも興味深いのは、公演直前に書かれたと思われる、このときの記事で内海さんが「そしておそらく僕がザ・ベクデルテストに関わるのは今回が最後だと思っている」と書かれていたこと。その後、内海さんにどのような変化があり、、なぜ、今回再度出演するに至ったのかを、ぜひ今度お聞きしてみたい、と思わずにいられません。

note.com

今回の公演は、ダレデモデラルテ第2回公演のときと同様、Zoomを用いたオンライン公演のかたちで行われました。

公演時間は、90分。 

そのうち60分がインプロによるパフォーマンス、その後、30分がアフタートークというかたちで行われました。

インプロ(即興劇)のパフォーマンス部分は、女性たちのモノローグからスタートします。 内海さんの記事にもあるように「ザ・ベクデルテスト」の本来のフォーマットでは、3人の女性が登場し、その3人のモノローグから公演がスタートするのだけれども、今回、メインキャストとして登場する女性は2人でした。

2人の女性のモノローグが始まり、そのモノローグに沿って、観客たちが彼女の「名前」や彼女の生活に関する何か(これは本当にいろいろ)についてアイデアを出しあいそこから、彼女たちの設定(の一部)が決められていきます。

その後、2人の女性がはじめのモノローグやその設定を展開させていきながら、インプロ(即興劇)をはじめとしたさまざまなストーリーの中で、見過ごされてきたり、見落とされてきストーリーを積極的に掬い取ろうとしながら、シーンが展開していきます。そして、最後は、その2人の女性たちのモノローグがクロスし、それが、あたかも一つに重なりゆくように見えたとき、その公演は終幕を迎えます。

 

その後の「アフタートーク」では、公演で起きた出来事をもとに、私たちが「当たり前」に触れている数々のストーリーのなかでのジェンダーについて考えたり、話したりしていくのですが、今回、この「アフタートーク」がとてもエキサイティングでした。

 

たとえば、第3回公演のアフタートークで、わたしは、パフォーマーに次のような問いを提起しました。

介護の件。
尾崎ゆかり(メインキャストの役名)の父役さんがまったくかかわらない、という選択をしたことが気になっています。結局、「男はかかわらない」という想定を貫く選択をしたのは、なぜですか

このインプロ公演のなかでは、翻訳の仕事に従事する傍ら、認知障をかかえる母親の介護をし続ける女性が登場しました。その女性が介護することで自分がやりたい、と思うことができなくなっている、介護そのものに疲弊してしまっているのではないか…ということが伝わるようなシーンも出てきます。

そのようなシーンが演じられたあと、その女性と女性の父親(認知症を抱える母からみれば、夫)との対話シーンが登場するのですが、その中で、父親は「旅行に行ったらどうか」という提案はするのですが、(そのメインキャストの女性が「お母さんのあんな姿を見ているのはつらいよね」と言うシーンはあっても)自分が介護を代わろうか、という提案をまったくしないのです。

わたしはそのことが、とても、不思議でした。

「What else」を探っていくはずの「ザ・ベクデルテスト」のなかであればなおさら、「介護をが彼(メインキャストの女性の父親)が担う」という可能性が探られてもよいはずなのに。

 

このような問いに対して、そのとき父役を演じたパフォーマーから、「パフォーマーとして、このとき『父』を出そうと思ったのは、(『尾崎ゆかり』を)旅行に行かせてあげたかったからだ」といいう思いとともに、「(自分が『介護を担う』と言い出さなかったのは)どこかで、そういうもんだと思っていたからだ」ということが語られました。

わたしは、このパフォーマーの発言に、いたく感動して、即座に次のようなコメントを送っています。

「そういうもんだと思ってる」!
これ、インプロにおいて根深い問題(?)だと思いました。そのキャラクターとして、オーディエンスに対して伝えようとすると、社会・文化のステレオタイプどおりに演じなければならない、ということがありますよね。
この問題を、このインプロフォーマットがどのように考えていくのか・・

また、他の話題のときであったと思いますが、別の男性パフォーマーの方から、自分が出ようとすると、どうしても「恋人」になってしまう、「恋人」以外が思いつかないので、別のパフォーマーに任せてしまった部分がある、というコメントもありました。

わたしは、「ザ・ベクデルテスト」の公演を鑑賞するのは、まだ2回目ですが、このような「アフタートーク」でのやりとりができる場は、とても貴重だ、すごいことだ、と思いました。

父役として出たときに『そういうもんだ』と思って、父が介護を引き受けるシーンへと展開できなかったこと。

女性がメインキャストとしているシーンに、男性として登場しようとするときに「恋人」以外で出る可能性が思い浮かばないこと。

こういうことが、パフォーマー自身の振り返りとして、言葉で説明されることで、インプロをはじめとした舞台のうえに存在するパワーのようなもの、私たちの身の回りにあるストーリーの典型性とそれがもたらす束縛のようなものを、私たちは、言葉にして話し合うことができます。

 

「ザ・ベクデルテスト」に出演するパフォーマーたちは、ステレオタイプに絡められつつそれを即興で演じていいく。

もちろん、脚本を書くことでそれを書き換えていくことはできるけれど、即興的なかたちで次なる一歩を考えていき、そこで起きたことをリフレクションしていく。そしてさらに、次なる一歩を考える…「ザ・ベクデルテスト」は、それを繰り返していくことで、新たな私たちのイマジネーションと現実をパフォーマンスする力を拡張していく。

そのような意味では、「観客」側の果たす役割もとても大きい。

パフォーマーの皆さんがリフレクションし言語化するしてことももちろん、観客の側もそのパフォーマンスを見ている自分自身をリフレクションし、言語化することで、このような「アフタートーク」でのディスカッションが成り立っていくのだと思うと、観客の側の役割もかなり大きな位置を占めていることは、間違いなさそうです。

パフォーマーと観客とが一体になりつつ、みんなで、「次なる一歩」を創造していく。「ザ・ベクデルテスト」は、そういう社会実践といえるのかもしれません。

 

以前、松井かおり編『演劇ワークショップでつながる子ども達』(成文堂)に寄稿した論文のなかで、ノルディックLARPにおける「ディブリーフィング」(カム・ビョーン=オーレ, 2019, [3.11]参照*1)の考え方を参照しつつ、ワークショップにおける振り返り(会)の意義について考察したことがあります。

 

 

ワークショップをはじめとした教育実践におけるリフレクション。

ノルディックLARPで事後ワークショップとして行われる、ディブリーフィング。

そして、今回「ザ・ベクデルテスト」で体験したアフタートークでのディスカッション。

それらの重なりや異なり、それぞれで見られる相互行為の可能性について、また考えていければと思います。

そして、そう思えば思うほど、せっかく翻訳したフェミニズムLARPをまたやりたい!という思いが募るばかりなので、だれか遊んでください!

そのためにも、「パジャマ・パーティ(Slumber Party)」を、オンライン(Zoomででできるように考えていかなければ。
kimilab.hateblo.jp

 

*1:カム ビョーン=オーレ. 2019. 「「Nordic Larp」入門:芸術・政治的な教育LARPの理論と実践」『RPG学研究』0号: 5-14.DOI: 10.14989/jarps_0_05

国語教育相談室:「誰だって落ち込むことはある」の主語・述語

「国語教育相談室」と書いてみましたが、新たにそんなコーナーを始めるというわけではありません。「国語教育相談室」みたいなものが必要ですね、という話です。

 

先日、教育に関わられている方より、中学校で出題された文法問題について、質問を受けました。

「次の各文の主語と述語を書き抜きなさい」という指示のもと示された複数の文の中に以下のような文があったのだが、この文の主語と述語は何になるのかを教えてほしい、ということでした。

 

誰だって落ち込むことはある。

 

文法教育においては、「学校文法」というちょっと特殊な文法の存在を考慮しなくてはいけなかったり、そもそも、私自身が、文法のことをよくわかっていないので、専門家にお聞きすることにしました。

今回、ご相談したのは、文法教育史の専門家・名古屋女子大学の勘米良佑太先生と、文法史の専門家・大阪教育大学の清田朗裕先生です。

国語教育と日本語学(国語学)、バランスよくお話がお聞きできるのでは?というご期待のもと、お二人に(ボランティアで)お考えをお聞きしました。

 

まず、勘米良先生からのご回答です。

まず、日本語学的な文法論にもとづくとどのように説明できるか、とういことで、三上章『象は鼻が長い』に基づくご説明をいただきました。

f:id:kimisteva:20210710115324j:plain

勘米良先生:日本語学的な説明

これに従うと、「主語」は「落ち込むことは」(今回は、「主語」を問われているため、一文節を書き抜く課題なので「ことは」になるでしょうか)、「述語」は「ある」になりそうです。

しかし、これはあくまで、日本語文法論にもとづく説明。

中学生たちが学校で学習しているのは「学校文法」ですので、「学校文法」ではどのように考えられるのでしょうか。

f:id:kimisteva:20210710115310j:plain

勘米良先生:学校文法では?

…というわけで、連文節の考え方を使えば「主部」「述部」という構成で考えられそうです。ただ、「主語(主部)」は、「誰だって」で考えられる、そうすると対応するのが「述部」になってしまって、ちょっとうまくいかなそう…というのが、勘米良先生の見解でした。

 

続いて、清田先生のお考えです。

清田先生は、はじめに、「学校文法」にもとづく説明をしてくださいました。

考える順序までしっかり説明してくださっていて、わたしのように文法の考え方がよくわからっていない者にとっては、大変ありがたいです。

 

f:id:kimisteva:20210710120012j:plain

清田先生:学校文法に基づく説明

「学校文法」にもとづくと、2つの「正解」がありそうだ、というのが清田先生の説明でした。

 

【正解1】「誰だって」(主語)・「落ち込む」(述語)

【正解2】「ことは」(主語)・「ある」(述語)


また、連文節の考え方を使って、「主部」「述部」にわけて考える説明できる、という考え方は同じだけれども、「主部」「述部」の分け方は違うんですね。これはどうしてなんだろう。


そして、日本語学的な文法論に基づく説明もしてくださいました。

f:id:kimisteva:20210710120423j:plain

清田先生:日本語文法に基づく説明

複合助動詞!

すごい!この考え方でいうと「落ち込むことがある」全てが「述語」になるのですね。

 

そして、このような考え方について、勘米良先生は、連文節で(主部・述部として)解釈可能とおっしゃっていました。

結局、このような考え方は、学校文法的にも成立可能なのかそうでないのか。

お二人の先生にお聞きしたいことが溢れてくるばかりです。

 

今回、お二人の先生にお話しをお聞きして、思ったのは、「文法問題を、正誤問題として扱うのには限界があるのではないか」ということでした。

おそらく今回のような複雑な文法問題が出される背景には、「『は』『が』があるから主語!」「人だから主語!」というような、ナイーブな文法の捉え方(「疑-文法論」、とでもいいましょうか)をしていないかどうか確かめたいからですよね。

そうだとしたら、一文一答式で正誤を問うようなやり方には限界がある。テスト理論の専門的知見も持たないうちに、オリジナルな問題を作成するリスクが高すぎると思います。

 

そして、もっと大切なことは、子どもたちが「文法」というツールを使いこなして、自分たちの日常の言葉を分析してみたり、新たな文を生成することの手がかりにしていけることですよね。

 

そうだとしたら、むしろ今回のような、ナイーブな感覚では分析しにくい文法問題をあえて出題したうえで、子どもたちに「なぜ自分はそう考えたのか」を説明してもらっては、どうでしょうか。

子どもたち一人一人によって辿りつく「解」は異なっても、その道筋が適正なものであるかどうか、を評価することはできます。

 

今回お二人の先生にお話しをお聞きしながら、「謎解き」のように文法問題を考えていくことができました。

二人の先生がそれぞれに違った概念的とツールを使いながら、別々の説明をしてくださるのを聞くのは本当に面白い。

こういうかたちで、文法の考え方が生き生きと活用されていくような場面を、もっと子どもたちと共有できたらいいのに。

 

…というわけで、子どもや保護者、そのほかいろいろな人たちが、国語教育にかかわる、こういう疑問を感じたときに、問い合わせたり、その問いをもとに専門家が、コンセンサスの形成に向けて議論できる場があったらいいいな、と思ったのでした。

 

プレイフルに言葉を生みだす体験を共有すること~全国大学国語教育学会2021春大会公開講座「言葉のティンカリングとことばあそび」

全国大学国語教育学会2021春大会の公開講座「言葉のティンカリングと言葉遊び」に参加してきました。

askoma.info

3時間にもわたる(!)記録動画なので、全部を視聴するのもなかなかエネルギーがいると思うけれど、Youtubeページ内にアップロードされている当日資料や、当日のワークショップの様子とそれに対するあすこま先生の感想をまとめた「あすこまっ!」ブログの記事(面白かった!詩創作のワークショップ 全国大学国語教育学会より② | あすこまっ!)を参照しつつ、早送りしながら重要なシーンをチェックしていくのがよいかもしれません。

あすこま先生の記事、「ティンカリングとはそもそも何か?」というところからはじまって、当日のワークショップで経験することができた詩教育のテクニック(「フリーライティング(Freewriting)」「マッピング(mapping)」、「おしゃべりなモノ(Object talking)」)や、ドラフトの共有とそれをめぐるディスカッションがどのような様子だったのか、まとめてくださっていて、ひたすらありがたいです……!

askoma.info

 

こんな感じで、公開講座「言葉のティンカリングと言葉遊び」がどのようなワークショップだったのかについては、すでに、かなり運営側の皆さんを中心に、情報をオープンにしてくださっているので、ここでは、わたし個人がワークショップのなかで書いたもの、創ったものを共有したいと思います。

 

わたしは、「誰かがつくった詩に対して、率直に感じたことを言って、そこでもらったコメントから新たなアイデア創発されたりするようなやりとり」が起きることを、すごくステキなことだと思っていて、もっと、こういうやりとりがいろいろなところに「飛び火」していくといいな!と思っているのですが、なんだか、それを伝えるのが難しい。

なかなか「飛び火」していかない。

だとしたら、もっと、気軽にそういうやりとりを見られるようにしたり、体験できる場を増やしたりして、「ああ、こういう感じのやりとりか!確かにステキ!」「自分もやってみたい!」って思ってもらえるようにしたらいいのかな、と思ったんです。

 

先日もたまたま参観した小学校の俳句創作の授業のなかで、子どもたちに「どうしてその表現にしたの?」「その表現の工夫を選んだ理由はなに?」と詰問していらっしゃる先生方を目にしました。日本の学校の詩創作(俳句・短歌を含む)の授業だと、あまりに周りの大人たちが、自分自身がその詩に対して思ったこと(「自分にはこう見える」「こう読める」)を伝えることを躊躇しすぎているように見えます。

子どもたちの側にも、自分の詩の良さを伝える言葉がなかったり、まだ限られた言葉しかないうちに、大人たちの側からその言葉をまったく届けることもなく、子どもたちに「どうして?」「理由は?」と聞き続けても、「なぜなら~」「その理由は~」の話型練習にはなるかもしれないけれど、「言葉の使用者でもあり、創造者でもある」という「言葉する人(Languager)」に近づけるチャンスを無駄にしてしまっている気がします。

 「言葉する人(Languager)」については2019年に日本質的心理学会での会員企画シンポジウムのテーマとしてとりあげました。こちらにアップロードされているオンライン報告書をご覧ください。
kimilab.hateblo.jp

 

そんな話を、メールで、本講座の企画者であり、共同ファシリテーターでもある中井先生にお伝えしたところ、「本当に、詩を書くこと、それを人に見せることもさることながら、人の書いた詩にコメントをすることも多くの先生方が躊躇されていることだと思います。これまであまり意識してこなかったのですが、今回のワークショップで強く思いました。」といううれしいコメントをいただけたのみならず、中井先生からいただいた、わたしの詩へのコメントも公開してよい!ということだったので、わたしの作品とともに、ここに掲載させていただきます。

 

1. フリーライティング(Freewriting)

 まずは、ひとつの単語から連想をふくらませていく「フリーライティング」

今回とりあげられた「お題」は、①「旅(journey)」と、②「奇妙(Strange)」の2つでした。

こちらが、①「旅(jounery)」という語をもとにおこなった、フリーライティング(連想される語を2~3分でとにかく書き続けていく)なのですが、わたしにとっては、かなり難しかった…。

当日、Sue Dymoke 先生にも質問したけれど、「旅」と聞いた瞬間に、(なぜか)青森県の種差海岸と新島の海岸線に沿って無限に続いていく道路の風景が、視覚的にバッと出てきてしまって、はじめのほうは、自分が見えているビジュアルのなかの要素をひとつひとつ拾い上げている感じになっております。

「これじゃ、いかん。ただ要素を拾ってるだけだ」と思って、他のイメージを連想しようとするんだけど、結局、場所が移動して行ったりきたりするだけ(フルーツパークからみた甲府盆地→ふたたび、新島の海岸線)になってしまい、なんだか、とにかくダメでした(笑)

次の「お題」の「奇妙(Strange)」は、もうはじめからあきらめて、映画『ダレン・シャン』のサーカスの風景(映画は駄作です)が出てきたので、そのビジュアルから思い出す単語をたくさん書きました。

f:id:kimisteva:20210608171243j:plain

Freewriting1 "Journey"

f:id:kimisteva:20210608171224j:plain

Freewriting2 "Strange"

 

2. マッピング(mapping)

そして、次に行ったのは、「自分にとってのはじめての『旅』」をテーマにした「マッピング(mapping)」。

マッピング」という名のとおり、地図のイラストを描いていきます。

f:id:kimisteva:20210608171118j:plain

Mapping "My first journey"

この「マッピング」をしたあとに、3人でそれを共有しあう活動があったのですが、このマップへの質問やそれをめぐるやりとりのなかで、「秘密」(右上)「自分だけの秘密の場所」(左中央)というキーワードが出てきました。

さらに、自分のなかで面白かったのは、他のメンバーがつくった詩から創発されるイメージがあったこと。

家族でのキャンプの体験について詩を書いていたメンバーが、地図のなかに「まむし」と書いていて、自分のなかではその「まむし」の存在がすごく怖かったのだ、と説明してくれました。

その話を聞いていて、わたしの中のイメージ・視界があしもとに降りてきて、突然、「はじめての『旅』」の視界がグッとクリアになった感じがありました。そのときに自分の視界のなかに見えてきたのが「ヘビイチゴ」で、その見えてきた色があまりにも鮮やかだったので、わざわざ赤いペンで「ヘビイチゴ」に〇をつけて、さらにイラストも赤く色づけています(左上)。

 

3. ドラフト(draft)と共有

その後、「ドラフトを書いてください」という指示があって、書いてみた「ドラフト」がこちら。

f:id:kimisteva:20210608171206j:plain

Draft "my first journey"

今だから白状しますが、実は、ドラフトはこんな感じで2ページにわたって書いていたのですが、3人での共有のときに音読をしていたら「その先には 何があるの?」で読み終わりたくなっちゃって、右側のページのものを削除しました。

 

最終的にできた(提出した)作品がこちら。

 

ヘビの道にあるへびいちご
酸っぱいかもしれないへびいちご

そこは秘密の場所
私だけの秘密の場所

ヘビの道にある私だけの場所

交換日記と手紙
かくれんぼとシーソー
飴玉とチョコレート

ヘビの道の先にあるミニボート
乗れるかもしれないミニボート
用水路の先には真っ暗なトンネルがある

その先には何があるの?

 

この詩について、英訳をつけて、中井先生にお送りしたところ、こんなコメントをいただきました。

 

ワークショップの中でも「イメージが先行して浮かんできた」というコメントをしてくださっていたと思います。

ヘビイチゴの詩を読んでいると、同じく私の頭の中でヘビイチゴがなっているちょっとした小径の映像が浮かんできました
小さい頃住んでいた田舎(とっても山奥)にまさにそのような場所があったのとリンクしているのかもしれません。
その映像と、小さい女の子がこの詩を朗読しているような、まるで映画の冒頭シーンのようなイメージです
これから物語が始まりそうな最後の行もそのように思わせてくれるのかもしれません。

 

短時間で作っただけのこれだけの詩から、こんなにいろいろなアイデアを感じ取ってくださっている。さらに、「自分にとって、それがどう見えるか」についてかなり精密に言葉を選びとり、その言葉を、詩の創り手に投げかけてくださっている。

それが、(未熟な)詩の創り手にとっては、本当に、有難いことなのだ、と身をもって実感した瞬間でした。

幸いなことに、わたしは今回の講座で、他者の詩のなかにあるアイデアを感じ取り、色とりどりの言葉でそれを返してくださるメンバーに囲まれながら、詩創作の体験をすることができたので、こんな経験をなんども味わうことができました。

 

すべての大人たちが、詩の創り手にならんとする子どもたちの詩の前に対峙し、そこに流れるアイデアを掬い取り、これだけクリアカットな言葉で届けられたら…と思わずにはいられません。さらにいえば、それがマッピングやドラフトの共有における、子どもたちのやりとりのなかで起きるとしたら…と思うと、本当にワクワクします。

 

4. 「おしゃべりなモノ(Object Talking)

最後に、もうひとつのおこなった、ある「モノ」になったつもりで語ることによって詩をつくる、という活動のなかで創った詩も共有します。

 

忙しい交差点にある信号機(A traffic light in a very busy pedestrain crossing)

 

喧噪ってなんだろう
そんな言葉の意味すら忘れてしまった
もはやとても静かだ

目の前を通り過ぎる景色は
まるで海のよう

波が寄せては
また引いていく
その繰り返し
ここはとても静かだ


繰り返される波のなか
目をつむっていると
それがまるで自分の呼吸のように思えてくる

私は呼吸する
息を吸う
息を吐く
そしてまた息を吸う

私の呼吸のなかで、この街は生きている

 

そして、これに対する中井先生のコメントは、こちら

 

もうひとつの信号機の詩は、とてもbusyな交差点なのに、いやそうだからこそ目から入ってくる情報が多量で、音が聞こえなくなってしん、としている空気を経験したような気持ちになりました。
でもその視覚情報すら閉じてしまうと、感じられるのは自分の呼吸だけになるのですね。
その第5連がとても気に入って、日本語も英語もなんども音読しました。ゆっくり。
とても素晴らしい作品をありがとうございます。

 

中井先生のコメントそのものが、とても詩的で、スーッと心のなかに入ってきます。

 

どうしたら、こんなに麗しいやりとりを、いろいろなところに、広げていけるのでしょうか。