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Literacy, Culture and contemporary learning

ゲーム×教育は、いま、どうなっているのか~日本デジタルゲーム教育学会2026年夏季研究発表大会

日本デジタルゲーム学会2026年夏季研究発表大会に参加してきた(プログラムはこちら)。

会場は、東京工科大学八王子キャンパス。

このキャンパスそれ自体が、『ドラゴンクエスト』のマップみたいに見えてしまうのは、わたしだけだろうか。

東京工科大学八王子キャンパス

1日目には、「ゲーム×教育の現在地」(企画2)に参加。

2日目は、セッション8「ゲーム×教育1」、セッション13「ゲームアーカイブ」に参加したのち、昼食をはさんで、ライトニングセッションで発表(石田喜美・格闘系司書「司書と研究者とともに考える、ゲーム関連資料の届け方・残し方」)。その後、インタラクティブセッションと、セッション14「ゲーム・スタディーズ」に参加してきた。1日目の企画やセッションにはほとんど参加できなかったとはいえ、十分に楽しく、充実した2日間だった。非学会員であるにもかかわらず、あたたかく迎えてくださった皆さん、声をかけてくださった皆さんには、心から感謝!

本記事では、ゲームと教育に関する発表のいくつかに参加した報告と感想を記す。

 

教材から、授業・カリキュラムへ、そして教師教育へ

ゲーム×教育については、いくつかの発表を聞いたのだが、そのメインともいえるのが、1日目に開催された企画「ゲーム×教育の現在地―ゲーミフィケーション、ゲームフルデザイン、ゲーム学習」(企画2)。

登壇者は、「ゲームフルデザイナーLv99・きっしー」こと、岸本好弘さん(遊びと学び研究所)、明治大学のジェームズ・ヨーク(James YORK)さん、東京学芸大学の小林真也さん。

副題にあるように、本企画のテーマは、「ゲーミフィケーション(gamification)」によってゲームを教育(大学の留学生を対象とした日本語教育)に導入しようとする小林さん、「ゲームフルデザイン(gameful design)」によって教育を「夢中になるもの」へと変革しようとするきっしーさん、「ゲーミフィケーション」という語にはどちらかというとアンチの立場で、より本来的な意味での「ゲーム学習」を実現しようとするヨークさんが、それぞれの立場から、ゲーム×教育を議論するための用語・概念を議論しようとするもの。

「ゲーミフィケーション」という語が広まるなかで、「ポイント(Poiint)・バッジ(budge)・リーダーボード(Leader Bord)(略して、PBL)」さえあれば良い、というような語られ方がするなか、「ゲーミフィケーション」という語そのものが「ゲーム×教育」の議論を貧しくしているのではないか、という議論は、とてもよくわかる。

学校教育でも、「学習を楽しくするためのゲーム」として、「すごろく・トランプ・かるた」(「PBL」にならって「STK」とでも呼べばよいだろうか)にしておけばいいんでしょ!とばかりに、教科内容の「すごろく」化・「トランプ」化・「かるた」化が行われることがある。

あまりになんでもかんでも「STK」だし、さらにいえば、「教育・学習へのゲーム導入」についての話をするたびに、結果的には、「すごろく(トランプ/かるた)にすればいいんですよね?」と受け取られることもあり、この(わかりやすさに裏打ちされた)パワーの強さが、教育・学習へのゲーム導入の議論や実践の進展を阻んでいると思うことも、しばしば。

そして「PBL」が「STK」と同じくらいか、それ以上にパワフルであることはよくわかる。読書教育ではどちらかというと「PBL」のほうが力を持っていて、「読書マラソン」(リーダーズボード)や「読書スタンプラリー」は、それこそ、どこに行っても見られる取り組みだ。PBLの威力!

そんななか、登壇者の皆さんが発表した取り組みでは、単なる教材提案、単発の授業やワークを乗り越えて、カリキュラム・レベルでの提案が行われており、おそらく、このあたりは、「教育×ゲーム」の実践を開発するためのスタンダードになっていくのだろうと(なっていってほしいと)感じる。

さらに、今回の発表では、詳細な議論を聞くことができなかったのだが、小林さんが、コルトハーヘンの「ALACTモデル」*1をもとに、ゲーム×教育の議論を教師教育に接合することを提案されていたこと。

ジェームズ・ヨークさんの発表は、それ自体が、トライ&エラーを重ねながら、カリキュラムを改善していく「省察的な実践家(reflective practitioner)」としての教師の物語そのものだったし、今回の企画からさらに発展させるかたちで、教師教育への接合という議論も展開できるのではないか、と思った。

 

生成AIは、生徒たちのゲームづくり教育に何をもたらすのか?

2日目の「ゲームと教育」をめぐるセッション(セッション8・セッション10)やインタラクティブセッションでは、どちらも、中学生・高校生のデジタルゲーム制作に、生成AIを導入する実践の報告が行われていた。

わたしは「セッション8」の「生成AIを用いた開発ワークショップの実践と評価:言語化スキルと成果の関係に着目して」(小野憲史ほか、2026a)と、「インタラクティブセッション」の「生成AIによるゲーム開発プロセスの共通構造と経験差:プロンプト運用にみるAI活用の三層モデルの探索的検討」(小野憲史ほか、2026b)に、参加。

前者は、高校生年代の生徒たち自身が認識する「国語」「言語化」の力と、自身の制作物に対する主観的評価との相関関係を調査した結果の報告。

後者は、大学生5名とプロ5名の生成AIによるゲーム開発プロセスの違いを、生成AIとの対話ログや観察、事後インタビューによって見出そうとしたもの。

前者の発表では、「国語の授業が得意」「文章を書くのが得意」「自分の考えを言葉で説
明できる」「作りたいものを言葉で説明できる」の4項目と、自分自身が制作したゲームの主観的な「面白さ」(つまり、自分が制作したゲームの納得度?)との相関を見ているのだが、このうち、「文章を書くのが得意」と「自分に考えを言葉で説明できる」の2項目のみ、「面白さ」と有意な相関があったらしい。

「作りたいものを言葉で説明できる」の方ではなく、「自分の考えを言葉で説明できる」とのみ関係があったというのが興味深い。

後者のインタラクティブセッションの発表では、学生とプロとのプロンプト字数の差なども見ているのだけど、学生が5名とも同じじような幅の字数でプロンプトを書いているのに対し、プロのほうは、ものすごく短いプロンプトを書きながらやりとりしていくタイプの人から、非常に長いプロンプトを書く人までばらつきがある、という報告があったが、このあたりと、この結果との間の関連性を考えると面白そうだ。

またインタラクティブセッションでの発表者(小野さん)とのやりとりのなかで、プロのプロンプトのなかでは、「社会関係」(自分と相手との関係。相手(プレイヤー)の想定とそれに対してどのようにアプローチしたいか)に関わる内容があったという話も聞いた。この話などは、国語科と英語科を連携させながら生成AI時代における言語能力を育成しようとした、小水亮子・朝倉慶顕(2026)「生成AI時代に求められる言語能力の育成」(『教育デザイン研究』)とも接続できそうだ。

なにを表現するにしても、何を創作するにしても、誰かとやりとりしながら、何かを創っていく…というその言葉のスタイル、伝え方・やりとりの仕方のスタイルを自分なりに確立できていて、それを生成AIにも応用できるか否かが、重要なポイントになってくるのかもしれない。

逆にいうと、自分らしい言葉の使い方のスタイル、コミュニケーションのスタイルがあまり確立されていないうちに、生成AIとともに何かを創ろうとすると、生成AIに振り回されてしまう結果にもなりそうだ。

 

そして、あらためて、そういうことも含めて、「やっぱり、選択体系機能言語学(SFL)に基づく言語教育を、どこかでやっておいたほうがいいんじゃないの!?」と思った。

佐野大樹(2018)『生成AIスキルとしての言語学』をふたたび、読みなおしておこうと思う。

kanki-pub.co.jp

 

*1:「ALACTモデル」については、渡辺貴裕先生のノート記事を参照。ALACTモデルを形骸化させないために|渡辺 貴裕|教育方法学者

博物館はアニメ聖地巡礼になにができるのか?~『ゆるキャン△』と山梨▲」展@山梨県立博物館レポート

2026年7月18日から9月7日まで、山梨県立博物館で開催している「『ゆるキャン△』と山梨▲」展に行ってきた。

企画展「『ゆるキャン△』と山梨▲」 山梨県立博物館 -Yamanashi Prefectural Museum-

山梨県立博物館・外観。晴天。青天。空と建物の対比がきれい。

展覧会公式サイトには、「本展では作品の魅力とともに、歴史的観点からモデル地の解説を楽しんでいただき、より深く山梨の魅力を知っていただく機会にいたします」と書かれており、単に、「『ゆるキャン△』を入口にして、山梨のあちらこちらの観光資源を知ってもらおう」というのではなく、博物館のミッション「山梨の自然と人との関わりの歴史を学ぶこと」(使命1)との関わりでこの展覧会が企画されていることがわかる。

※参考- 概要 博物館の使命: 山梨県立博物館 -Yamanashi Prefectural Museum-

  • 1. 「山梨の自然と人との関わりの歴史」のなかの『ゆるキャン△』
  • 2. 『ゆるキャン△』×山梨▲をみる5つのアプローチ~展示構成
    • 第1章 富士山の見え方やその感動は、今も昔も。
    • 第2章・第3章 「観光」的まなざしとそれによってつくられる「風景」
    • 第4章 登場人物たちの生活する舞台に焦点を当てて
  • 3. 「武士キャン」と「ゆるキャン△」~「序章」
  • 4. 地域(ローカル)から社会史・文化史を編む場としての博物館へ
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「読書家」である、と言えないあなたのための読書社会学――桜井政成『読書スタディーズ:本好きはどうつくられるのか』

もう5年も前の話になるが、「自己啓発本」ばかりが並べられた「「読書の秋」に読みたい本100選」のポスト(当時は「ツイート」)が“炎上”したことがあった。

「自己啓発本100冊」を紹介するツイ民にネットが大荒れ「これはキツイ」「こち亀200巻の方がいい」 | まとめまとめ@最新ニュース

すでに元ツイートは削除されてしまっているが、次のようなコメントともに、『7つの習慣』をはじめとした自己啓発本等*1の書影が100冊分並べられた画像が投稿されていたようだ。

 

何度でも言います。本を読もう。お金・健康・人間関係・夢…。苦しい時に助けてくれたのはいつも本でした。文化庁が調査した国語に関する世論調査によると、週1冊読むだけで上位15%、2冊読めばそれだけで上位5%に入ることができる。そして、人生を豊かにしている人たちはこの5%の人たちと一致する。(「自己啓発本100冊」を紹介するツイ民にネットが大荒れ「これはキツイ」「こち亀200巻の方がいい」 | まとめまとめ@最新ニュース より)

 

“炎上”させている投稿を見てみると、「自己啓発本」およびその愛好者を否定的に評価するコメントが数多く並ぶなかに、そのようなかたちで「自己啓発本」(愛好者)を差別したりそれによって「マウント」をとろうとするようなコメントに嫌悪感を示したり、それを正したりするようなコメントも見られる。

『「読書の秋」に読みたい本100選」(俗称:自己啓発本100冊」)のまとめ - posfie

 

このようなSNS上のバトルに見られるように、わたしたちは日々、「読書」をめぐる価値づけの実践と、それをともなう「マウンティング」合戦を目にしているし、ある時に、自らそれに参戦し、だれかの「読書」スタイルを否定したり賞賛したりしている。そしてそんなことを繰り返しながら、なんとなく、日々、疲弊してしまっている。

その結果、「読書家」であるといえる自信を失い、「趣味は、読書です」なんて言えなくなる。「趣味は、読書です。」なんて言って、相手に「マウント」をとったと思われたくもないし、ましてや、それによってマウンティング合戦を始めたいわけでもない。

 

現代の日本社会において、「読書家である」と自称すること、「趣味は読書です」ということは、非常にリスクが高いことなのだ。

 

桜井政成(2026)『読書スタディーズ―本好きはどうつくられるのか』は、私たちが日々感じている、「読書」をめぐる疲弊の正体を知るための、「補助線」を与えてくれる本だ。

私たちがなぜ、こんなに「読書」について語ることにこんなにリスク感じてしまうのか。なぜそれが、マウント合戦の道具になってしまっているのか。そして、なぜ「読書家である」というアイデンティティを持つことが、こんなにも難しいのか。

*1:実際には、『Twitter集客のツボ98』といった実用本も含まれていたらしい

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日本語習熟論学会シンポジウム「外国にルーツのある児童生徒のことばの教育を考える―国語教育と日本語教育と―」レポート

日本語習熟論学会第5回年次大会シンポジウム「外国にルーツのある児童生徒のことばの教育を考える:国語教育と日本語教育と」に、登壇者として参加してきました。

日本語習熟論学会第5回シンポジウムサムネイル画像

日本語習熟論学会 - 大会関連

 

  • 1. 大会シンポジウムの概要
  • 2. 青木由香「国語教育と日本語教育の下で学ぶ子どもの姿とその先にあるもの」
  • 3. 神吉宇一「ことばの教育をどうとらえるか:ともに学ぶためのことば」
  • 4.石田喜美「言葉するわたしたちの国語/日本語―複言語主義の視点から国語教育を捉えなおす―」
  • 4.議論

 

1. 大会シンポジウムの概要

はじめに、本企画のとりまとめと裏方を一手に担ってくださった、勘米良祐太先生(武蔵野大学)より、シンポジウムへの参加の仕方や資料のダウンロード先(第5回大会 - Google ドライブ)についてご案内いただいたあと、コーディネーターの成家雅史先生による趣旨説明(「今」を語り合い、「意識」をボトムアップする―外国人児童・生徒へのことばの教育の先にあるものを見据えて―」(抄録PDF))が行われました。

その後、青木由香先生(NPO法人アレッセ髙岡)、神吉宇一先生(武蔵野大学)、そしてわたしの順番で話題提供が行われ、フロアを含めたディスカッション、という流れです。

各登壇者による発表タイトルと、資料リンクは以下のとおり。

  1. 青木由香(NPO法人アレッセ髙岡)「国語教育と日本語教育の下で学ぶ子どもの姿とその先にあるもの」(抄録PDF)
  2. 神吉宇一(武蔵野大学)「ことばの教育をどうとらえるか―共に学ぶためのことば―」(抄録PDF)
  3. 石田喜美(横浜国立大学)「言葉するわたしたちの国語/日本語―複言語主義の視点から国語教育を捉えなおす―」(抄録PDF)
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理解しあえないだれかにとっての大切なものと出会う――映画『トロフィー』

ハングルのパーツをカタカナに読ませる題字と、予告編に心をつかまれ、映画『トロフィー 』(孫明雅監督作品)を観に行った。

「トロフィー」ポスター画像

トロフィー - K2 Pictures

 

本作は、是枝裕和監督 率いる映像集団「分福」に所属する孫監督の初長編映画作品。

そのことに期待をもって観に来る映画ファンと、在日四世で朝鮮学校に通う14歳の少女を描いた作品を観にきている人たちとが、同じシアターのなかで、同じ映像を観ている。そういう情景がそこにはあった。

そして、さまざまなルートを通ってここに集まった人たちが、ラストに映し出される朝鮮舞踊の舞台シーンに涙を流している。そのこと、それ自体が、わたしの心に深く染み入った。

映画『トロフィー』の予告でも、最後のほうに、朝鮮舞踊を踊る主人公ソヒの姿が映しだしているけれど、ひとりでこの予告編を観ることと、シアターで他の観客たちとともに、ラストシーンのソヒの姿を観ることは、まったく異なる。

いま、予告編を見直しながら、その「違い」をあらためて感じている。

 

youtu.be

 

2020年代の今、いかに「在日」を描くのか

本作についてはいくつかの記事がレビューやインタビュー記事を出しており、そのなかには、映画における在日(コリアン)について、そしての描かれ方について、異なるかたちの評価も見られて、興味深い。

たとえば、『Japan Times』のレビュー記事では、映画『かぞくのくに』と比較して、本作を「在日としてのアイデンティティの複雑さについては、あまり深く掘り下げていない(“Trophy” doesn’t dig too deeply into the complexities of Zainichi identity)」と評している。

www.japantimes.co.jp

 

たしかに、本作は「在日としてのアイデンティティ」の複雑さ、難しさのようなところにあえて焦点をあてず、むしろ、「在日としてのアイデンティティ」とは距離をおきながら、そいまの日本を生きる、在日四世の14歳の姿を描きだそうとしている。

 

本映画の前半、主人公のソヒが、日本人の友人とともに「フリマ」(ネットオークションでの販売)で、北朝鮮ルーツのCDを高値で売ったあと、「在日でよかったー」と述べるシーンがある。

この「在日でよかったー」があまりにもくったくなくて、『GO』や『パッチギ!』などの在日コリアン(を描いた)映画を観てきた世代からすると、そのあまりのくったくなさに、ちょっとびっくりしてしまう。

 

またほかのシーンでは、自宅で一緒に遊んでいたその日本人の友人・未来(みらい)を、家族に対して、「未来(みらい)も在日だよ。ミレ。」と、うそをつくシーンがあったりする。

ここでうそをついたことに対して、母親から「(「在日」だっていって)相手がどう思うか考えなかったの?」とたしなまれても、ソヒ自身は、そのことについてそれほど気にしない。

「在日」という言葉の重さなんて、まったく関係ないかのように現実を生きる14歳の姿が、そこにある。

 

異なるイデオロギーを生きる他者と、共に在ること。

そんなソヒは、父親が大切にしている勲章をネットオークションで販売してしまったことをきっかけに、「在日」や「北朝鮮」と出会っていく。

映画は、父にとっての「勲章」や、ソヒにとっての「朝鮮舞踊」が、突然、その重みを失い、好奇の目線にさらされていく瞬間を描いていく。

その描かれ方は、とても残酷で、映画中に描かれる、朝鮮学校やそこにかかわる人々のイデオロギーにはまったく共感できなくても、その残酷さだけは、(ソヒという主人公の目を通じて)しっかりと観客の心のなかに、落ちてくる。

 

イデオロギー的にはまったく賛同できず理解できないかったとしても、誰かが自身の人生をかけて大切にしている唯一無二のなにかが、文脈を引き離されて、交換可能な「One of them」にされてしまうこと。

その残酷さを、わたしたちは、理解できる。共感できる。

 

ラストシーンの朝鮮舞踊のシーンを観るという経験は、そのような意味で、特別な意味を、持っていた。

ラストシーンとして描かれる、ソヒたちの朝鮮舞踊のパフォーマンスを、静かな感動をもって見ることができる。これまでマスメディアで取り上げられる、朝鮮舞踊のイメージを超えて、ひとつの感動をもって、朝鮮舞踊のパフォーマンスを観ることができる…ということ、それ自体が、とてもかけがえのないことであるように思えた。

自分自身にとっての朝鮮舞踊に対する見え方が、シアターに来る以前の朝鮮舞踊の見え方とまったく違ったものになっていることに、ふと気づき、そのことに、驚き、感動した。

 

映画は人間に対して、社会に対して、いったいなにができるのか。

そのような問いに対して、本作は、ひとつの答えを与えてくれるような気がしている。

映画は、おくして、人の「見え」をかえることができる。そしてそのことによって、わたしたちの理解や共感の可能性を、ひとつ、またひとつと切り開いてくれるのだ。

そういう映画の可能性を、実感させてくれる映画だ。

 

まだ、本作を観ていない方には、ぜひ、映画館で、他の人たちとともに、この映画を、そのラストシーンを観る体験をしてほしい。

 

社会との関係のなかで、研究倫理を考える

朝日新聞の社説で、軍民両用研究の話題がとりあげられていました。

www.asahi.com

この話題については、TBSラジオ・『荻上チキ・Session』でもとりあげられています。

この番組では、科学ジャーナリストの須田桃子さんが、大学における研究費の状況なども含め、昨今の科学技術や学術研究の話題をまとめて、わかりやすく話してくださっているます。とりあえず、何がどうなっているのか、現状を把握したい、というかたにおすすめ。

youtu.be

 

さて、この記事を読んでいて、先日参加したある学会の会議のことを思いだしました。

企画関連の会議をしていたときの出来事です。


その会議のなかで、「今年は研究倫理に関する企画をやろう」、という話になったのですが、研究倫理委員会審査や、研究倫理関連の規定・基準の話、一歩進んで、研究協力者へのインフォームドコンセントや個人情報保護の話は出てくるのだけど、いつまでたっても、研究の社会的側面、つまり、研究それ自体が社会にもたらすリスクとか、負のインパクトについての話がまったく出る気配がありませんでした。

 

あまりに状況がよくわからないので、

「研究って、なんらかのかたちで、社会を善くすることのためにやってると思ってるんですけど、そういう研究のもたらす社会的側面については、議論の対象にならないんですか?」
…と聞いてみたところ、どうやら、それは「研究インテグリティ」の話であって、「研究倫理」の話ではない(?)ということのよう。

さらに言えば、皆が、社会を善くするために研究しているわけではない。単に、興味があり知りたいだけだったり、業績のために研究をしている人もいるのだから、「社会を善くする」ということ自体が、一部の関心に過ぎない(?)ということのようでした。

 

でも、それって、本当に、それでいいんでしょうか。

もちろん、わたしだって、基本的には、自分の興味関心に駆動されて研究を始めることが多いですし、業績や昇進のために研究を続ける人もいるのかもしれません。

ですが、どんなモチベーションで始められようと、研究調査が行われ、それが世に出されることで、世界は、社会は、研究者が望むと望まないとにかかわらず、良かれ悪しかれ変化してしまいます。


研究者が何気なく行ったカテゴライズ、因果歓迎の物語が、それを受け取った者たちの人生を変える。徹底的に傷つけ、絶望に突き落とすことだって、あるんです。

 

いくら当時の研究者が、「そんなふうに使われるなんて、考えてなかった」と言おうと、知能検査は、幼少期のわたしを「劣った者」にカテゴライズし、担任がわたしを「ダメな子」扱いする根拠を与えていたわけだし、拒食症をめぐる言説は、わたしの両親を苦しめていました。

そういう研究をめぐる功罪の話は、枚挙にいとまがない。

そういうことを無視して、研究発表をすることなんて、できないと思います。

 

冒頭の記事でも紹介したように、軍民両用研究が推し進めようとしているそんな時代。

それそれぞれの研究者が、研究が社会にもたらすリスクやインパクトについて、自分なりの倫理観をもって考え、判断していくことが必要なのではないか。

そしてそれこそが、研究倫理の問題として、考えられなければならないのではないか。

 

そんなことを考えました。

 

朝日新聞の社説では、社会のウェルビーイングや平和に貢献していくことこそが、大学の役割であると述べられています。

そうであるとしたら、学会や研究者の役割とはなにか。

わたし自身は、自分にできることが、どんなにわずかでも、それでもほんの少しでも、社会のベターメント(betterment)を目指して、研究者としてできることを考えたいと思っています。

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聴こえかたがつくる、さまざまな世界とその壁~映画『私たちの話し方』

映画『私たちの話し方』。

4月中旬で上映が終わってしまうかと思っていたら、まだ上映されている館があると知って、喜んでいる。

 

この映画は、とても精巧に音響が設計されている映画だ。

さらにいえば、バリアフリー字幕も含めて、さまざまな「聴こえ」の世界、正確にいえば、「聴こえること/聴こえないこと」と文字情報(視覚情報)とがさまざまなバランスで組み合わせられることによって構築される「世界」の経験が、実に巧みに作り出されている。

音響設計については、Youtubeでインタビュー動画が公開されている。

まずはじめに見てほしいのは、00:46あたりからの映画の冒頭部分のシーン。

この動画を見るだけでも、そこでどのような音響設計がなされているかはわかるけれど、このシーンだけでも映画館で体験する価値があると思う。

youtu.be

字幕では〔周囲の音が雑音に聞こえる〕と表示されるけれど、その「雑音」が、本当に、しんどい。

こんな「聴こえ」の世界に生きていなければならないのなら、いっそ、その世界で生きることをあきらめてしまいたい、と思う気持ちが、よくわかる。

それでも、人工内耳をつけなさい、人工内耳をつけながら聴者とともに「普通に」見えるようい生活しなさい、と言われ続けることが、いかに暴力的なことか。

 

そんな、文字にするとどこか白々しいようなことが、冒頭の数分間の映像だけで、経験として自分のなかに飛び込んでくる。

 

この映画は、幼少期から、耳の聞こえの障害を抱えながら、まったく異なる人生を歩んできた、三人の若者たちの物語だ。


三人のうち二人は人工内耳をつけていて、そのうち一人は途中でその人工内耳が故障していることがわかる。

さきほど紹介した冒頭のシーンに登場するのは、その、一人だ。

 

映画では、三者三様に異なる聞こえの状況を、音響と字幕を通じて、聴者である観客にも体感させようとする。

静寂のユートピアと、騒音とズレの連続からなる現実世界との対比を通じて、私たちが想像する「聴こえる」世界/「聴こえない」世界を反転させながら、そのなかで、さまざまな「聴こえ」を持つわたしたちが、それぞれに選んだ「聴こえる/聴こえない」世界のなかで、自分なりに、そして、自分らしく生きることを、承認してくれる映画だ。

 

映画のなかに登場する、手話の語、ひとつひとつの扱われ方も美しくて、言葉としての「手話」に、あらためて出会わせてくれる映画でもある。

 

映画館でないとできない経験があるだけに、上映されている今、映画館に足を運んでみてほしい。