kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「繰り返しのデザイン」が教えてくれること~「第3回 リアル脱出ゲーム甲子園」見学記

8月3日・8月4日にかえつ有明中・高等学校を舞台に行われた、第3回リアル脱出ゲーム甲子園(本選)と、その前日(8月2日)に行われたテストプレイ会に行ってきました。テストプレイ会に「プレイヤー」として参加するほかは、ずっと「見学者」としての参加です。
昨年8月に開催された第2回リアル脱出ゲーム甲子園は、残念ながら本選に参加できず、準備日に高校生たちが、本選に向けて準備をするさまを見学するだけだったので(昨年は、テストプレイ会もなかった)、本選に立ち会うのは今年がはじめて!

本選大会だからこそ見られる、「魔法」とすら思えるような奇跡、リアル脱出ゲーム甲子園というイベントがもつパワーのようなものを目撃することができました。

第3回リアル脱出ゲーム甲子園
  • 「リアル脱出ゲーム甲子園」とは
  • そして、「第3回リアル脱出ゲーム甲子園」!
  • 自動販売機からの脱出」がもたらしたもの
  • 「繰り返しのデザイン(iterative design)」が教えてくれること
  • 「繰り返しのデザイン(iterative design)」のなかでつくられる物語

 

 

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「わたし」のゲームプレイを語ること、価値づけ、批評すること:近藤銀河『フェミニスト、ゲームやってる』

近藤銀河(2024)『フェミニスト、ゲームやってる』(晶文社)を読みました。

書店に並びはじめてからかなり早い時期に、本書と出会い、「この本…わたしが買わなきゃ、だれが買う!?」と、妙な使命感にかられて、すぐに入手したのですが、ひとつひとつのゲーム批評記事を、ゆっくりのんびり、味わいながら読んでいたら、1か月半もかかってしまいました。

フェミニスト、ゲームやってる

本書に対する感想やレビューを見ていると、本書のなかで紹介されているたくさんクィアなゲームたちよりも、すでに広く知られている「有名なゲーム」をこれまでとは異なる視点から、批評している記事が、多くの人の心を打っているようです。

その評価のなかには、はっきりと「フェミニズム(理論)」あるいは「クィア(理論)」の視点からゲーム批評を行っていることを高く評価しているものもあるようですが、わたし自身は、「フェミニズム」「クィア」といった大文字の理論に基づいて批評を行っているようなゲーム批評よりも、「フェミニズム現象学*1のようなアプローチで、すなわち、ある固有の身体と感情をもち、それらを時にはもてあましながらゲームと向き合い、ゲームをプレイしてきた「わたし」個人としての経験から紡ぎ出されるような批評の方が好きでした。

本書のなかには、著者である近藤銀河さん自身のゲームプレイの経験、そこで自身が感じてきた違和感やあきらめ、ためらいのようなものが率直に語られている箇所があります。これら、著者自身の具体的な経験を通じて見出された考察は、わたし自身がこれまでにゲームプレイを感じていたいろいろな違和感に気づき、言語化するためのきっかけを与えてくれるように思えました。

そしてそのような、個人の具体的な語りにもとづく記述の延長戦上に、これまで知らなかった、クィアなゲームたちの紹介があり、そのゲームプレイのなかで著者自身が感じたであろう「光」のようなものが共有されることで、読者である私たちも、心ときめくような期待を感じることができる。「自分は、これからも、ゲームをプレイしていっていいんだ」「ゲームプレイを語っていくことができるんだ」と思える。――そんな感覚がありました。


本書の「おわりに」には、フェミニストとしてゲームをプレイし語ることの困難について書かれています。

著者の近藤さんがおっしゃるように、「ちょっとしたことにも罵詈雑言が飛んでくるような状態ではフェミニストとしてゲームをプレイすることを発信したり語り合ったりするのは難しい」(p303)状況があります。

わたし自身は、どの程度の人たちがこの言葉に共感するかはわかりません。ゲームプレイに対する典型的な言説とは異なる語りをしたい、と思う人は、そもそもそれほどいないのかもしれません。

私自身は、自分自身がゲームプレイが得意でなく、ほとんどのデジタルゲームをクリアできていないこともあり、またゲーム世界のなかでうろうろと彷徨ったり、そのなかでいろいろな発見をしたりすることそのものが「面白い」と思うような人間だったので、ゲームを語ろうとする場面で、いつも、そのような困難に直面してきました。


どんなに、「わたし」という個人のゲームプレイの経験を語ろうとしても、その声や語りがまったく届かない。いつの間にか、それはゲームというコンテンツの話になっていて、彷徨っていることそのものの経験をいくら語っても、それは「『成功ルート』に、たどりつけない失敗者」の経験として片付けられてしまう。価値のないものとして、むしらされてしまう。

誰とどのような語りをしていても、いつの間にか、「標準的」だったりあるいは「成功的」であったりするプレイだけが唯一絶対のゲーム経験としてみなされ、その視点からのみで、特定のゲームの意味や価値が語られてしまう。……そういう言説の場に受けたときの傷が、ずっと、自分のなかに、残り続けていたように思います。

以前、バトラーとして登壇した、デジタルゲーム関連本ビブリオバトルでは、まさにそのような場の1つであったように思います。

kimilab.hateblo.jp

そのようななか、本書が『ピクミン4』のプレイを断念した経験に基づくゲーム批評(「かくして私は収奪と救済に失敗する」)から始まるのは、いろいろな意味で、わたしにとって画期的なことでした。


この『ピクミン4』のゲーム批評の存在そのものが、(そしてそれが本書の冒頭に位置づけられていることが)高らかに宣言しているように、プレイに「失敗」すること、途中で断念することも含めて、すべてがゲームプレイという実践であり、そのゲームプレイが達成された、というそのことそれ自体が、そのゲームの意味であり価値であるのに。そのことそのものが、なぜか、いつも忘却されてしまう。

本書は、あらゆる個人が行うあらゆるゲームプレイの実践とそこから見出される意味、それについての語りを、全面的に肯定します。それが、どんなにマイナーな経験であっても、「フェミニスト」としてゲームをプレイする、というのは、まさにそういうことであるはずなのです。

 

今、わたしは、あらためて、もう一度、ゲームがプレイしたい!と、思っています。
ここにいる、他ならぬ「わたし」自身としてゲームをプレイすること。そこからすべてが始まるのだ、と。

さあ、ゲームをしよう!そして、わたし個人の経験を語りはじめよう!

「言葉する人(languager)になるためのささやかな冒険」@東京都現代美術館 開催レポート

東京都現代美術館で7月7日まで開催中の翻訳できない、わたしの言葉」展

その関連プログラムとして、6月22日に、レクチャー+ワークショップ「言葉する人(languager)になるための、ささやかな冒険」というタイトルで、レクチャーとワークショップを混ぜ合わせたような企画を開催してきました。

www.mot-art-museum.jp

  • 「言葉する人(languager)」
  • 滅びゆく言語のRPGロールプレイングゲーム)「ダイアレクト」
  • 企画展会場での「ダイアレクト」プレイ会~「我らの言葉は皆違う」
  • レクチャー+WS「言葉する人(languager)になるためのささやかな冒険」
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ゲームのメカニクスと、ボードゲームによる学び~『ボードゲーム教育概論Ⅰ』を読んで考える

 

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日本ボードゲーム教育協会(2022)ボードゲーム教育概論Ⅰを読みました。


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booth.pm

sites.google.com

2023年12月に行われたゲームマーケット2日目に参加でき、そこでも委託販売は行われていたようだったので、本来だったらそこでゲットすべきだったのですが、委託販売の情報に気づけなかったため、通信販売でゲット。

 

ボードゲーム教育概論Ⅰ』では、下記の記事にも書かれているとおりメカニクス(mechanics)」に注目しそれを網羅しながら、「メカニクス」と教育・学習上の可能性とを結び付けようとした試みがなされています。

gamemarket.jp

この「メカニクス」は、ゲームデザインの議論の際によく引き合いに出されるMDAフレームワーク」(「メカニクス(mechanics)」「ダイナミクス(dynamics)」「遊びに見出す楽しさ・美的価値(Aesthetics)」*1の「メカニクス」というよりは、もう少し幅広く、「ゲームを実際にプレイするための仕組み」のようなものととらえたほうが良いかもしれません。Jesse Terrance Daniels/金井哲夫訳(2022)『自分だけのボードゲームをつくろう』では、ゲームを構成する要素を「ルール」「メカニクス」「コンポーネント」にわけて考えていますが、こっちのイメージのほうに近いのかもしれません。…が違っていたら、すみません。

makezine.jp

メカニクス」に着目したうえで、そのようなゲームプレイのための仕組みを成立させるために、あるいはゲームプレイをうまく運ぶためにどのような「力」が必要かを考えつつ、その能力を言語化していく…というかたちで、ボードゲームの「メカニクス」とそのゲームプレイによって育成可能な(?)力が考えられていったようです。

  ボ教概論制作よもやま話(29)律する系の学び」や、「ボ教概論制作よもやま話(30) 「自分から系」能力」には、そのあたりの考えのプロセスが書かれています。

徹底的に「メカニクス」に着目しながら、それと、そこで必要とされる資質・能力や、あるいはそのゲームプレイによって育てられるであろう力や態度を、実践家が集まって言語化し、それを整理していくこと。そしてそれをマッピングし、ひとつの体系のようなものを示していこうとすること。

それそのものは「パターン・ランゲージ」のように、実践家の知を集積し、それを公開・共有する試みとして評価できると思います。

これまで漠然と「ボードゲームには教育的効果がある」という言葉だけが独り歩きして、その内実がなかなか明らかになっていないなか、東京大学大学院藤本徹研究室が2022年3月に教育的観点からのゲームレビュー(2022年3月版)(PDF)が発行されたり、2023年12月に『ボードゲーム教育概論Ⅰ』が発行されたりしたことは、ゲーム×教育・学習の研究・実践に関わるものとして、単純にありがたいし、喜ばしいです。

ludixlab.net

本書に示されている学びの要素のリストは、紙面デザインとしての見やすさなど、いろいろなことを考えて選ばれ配置されたもののようなので、これが網羅的なリストとは言えないし今後も議論の余地があるものとはいえ、ボードゲームを教育に活用しよう、と考えはじめる人たちのスターティングポイントにはなりそうです。

が、一方で、これまで、どちらかというと、国語教育や読書教育の立場から、コミュニケーションや言葉、物語・文学関係のゲームと教育・学習との結びつきを考えてきた者としては、「メカニクス」に焦点を当てすぎることで見えなくなってしまう、何かが気になってしまうような気がして、ちょっとだけ、もやもやした思いを抱えたのも、確か。

たとえば、本書のなかで『はぁって言うゲーム』よりもさらに進んだ学習者のためのおすすめゲームとして紹介されている『ヒットマンガ』は、純粋に「メカニクス」だけ切り出してしまうとしたら、単なる「カルタ」になってしまうようにも思います。

同じように、ゲームのメカニクスとしては、単なる「カルタ」だけれども、プラスアルファでさまざまな「遊び」(『ヒットマンガ』でいえば、セリフをそれっぽく言う・演じること)を組み合わせることで、新たな「楽しみ・価値(Aesthetics)」を生み出しているゲームはけっこうあり、コミュニケーションとか、言葉や物語、文学を主軸として扱ったゲームの場合、そのプラスアルファの部分こそが、ゲームの楽しみ方、ゲームの価値そのものにとって、より大きな意味を持っていたりもするんじゃないかなぁ、と思いました。

これは実際にプレイしてみた人でないとわからないかもしれないけれど、2023年12月のゲームマーケットで新作として発売されていた『むずかしくない広辞苑かるた』と、これまでの『広辞苑かるた』のプレイ体験は、まったく違っていて、驚くほどです。

でも、これら2つの違いは、そこで選ばれている語彙の違いでしかない。まったく誰も知らない語彙で遊ぶことと、知っているけれどもその語釈がどのように書かれているかがわからない語彙で遊ぶことは、まったく異なる質の「遊び」なのだということに、気づかされる瞬間でした。

言葉の学びという観点からみれば、これら2つで可能になる「学び」は、まったく異なるわけで、そういう観点からすると「メカニクス」だけで分析できる学習・教育の範囲は、かなり限られたものになってしまいそうです。

これは、おそらく、言葉や読書の教育にかかわる私たちの、今後の課題になってくるのかもしれません。


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*1:MDAフレームワーク」についてはこちらの開設がざっくりしていてわかりやすかったです。「時代遅れと言われようとMdaフレームワークの紹介」-Slideshare

ボードゲームの体験を言葉にし、思想にする~『ボードゲームで社会が変わる』

那覇潤・小野卓也 (2023)『ボードゲームで社会が変わる:遊戯(ゆげ)するケアへを読みました。

「「ボードゲームを思想にする」ために」(p.3)作られたという本書。

その言葉どおり、ボードゲームを思想にする」ための数々の試みが、書籍全体にちりばめられており、その切り口そのものが興味深いです。

こちらのレビューでは、「目的」に縛られることによって奪われものについての議論に焦点が当てられているようですが、わたしは論じられている思想以上に、本書が、ボードゲームをプレイするという経験に根付きながら、その経験を言語化し続けることによって思想にたどりつこうとしていることに、感銘を受けました。

 

たとえば、いいだ・なむ(2022)『ゲームさんぽ 専門家と歩くゲームの世界』のアナログゲーム版みたいな感覚で読めてしまう、第2章。
文芸オタクのわたしが教える バズる文章教室』などのエッセイで有名な三宅香帆 さん(日本古典系の書評家、ライター)さんの記すDixit(ディクシット)論(正確にいえば、『Dixit』から見る現代若者論)も面白いし、『「その日暮らし」の人類学』、小川さやかさん(文化人類学者)の『 ハイソサエティ論も面白いです。『ハイソサエティ』なんて、めちゃくちゃシンプルな賭けゲームなのに、よくあれだけ書けるなぁ…と普通に感心してしまいました。

そして何といっても面白いのが、歴史学者・辻田真佐憲さんの主計将校レビュー(というかプレイレポート)。

ボードゲームによる歴史の書き換え(日本・ドイツ・イタリアが、連合国軍に勝っちゃいました!)を、歴史家的文体(?)で語っているのを見るとワクワクします。


様々な分野の研究者・専門家がそれぞれのアカデミックな知見と文体で記述される「ボードゲームをプレイする」経験を読むのは、とてもエキサイティングです。

そしてこれらを読むことで、「ボードゲームを思想にする」ために我々はいかなる言葉で、何を語ることができるのか、という問いを突き付けられます。

また、與那覇潤氏と小野卓也氏の二人が、それぞれに異なる言葉を重ねながら、ボードゲームをプレイすることの「本質」を語ろうとする対談(第1章・第3章)では、まさに「対談」だからこそ可能になる、対話を軸とした言語化と思想の探求が行われています。

那覇氏が、自身のゲームプレイ経験に基づく経験を分類・整理しながら言語化すると、それが即座に、インド哲学者であり住職でもある小野氏によって、宗教的な実践と結びつけられその実践の意味が重層化されていく様は、まさに思想が作られていく瞬間を見ていくようで、それ自体がとても興味深いです。

 

そのようななか、個人的にもっとも印象に残ったのは、與那覇潤「ボードゲームはなにをわたしに考えさせたか――リワークデイケアでの体験から」(第4章)での、「人狼」についての考察でした。

那覇氏はリワークデイケアで何度も「人狼」のファシリテートをしてきた体験をもとに、本来、「遊び」であったはずの「人狼」が「必勝法」の持ち込みによって「作業」になってしまうことを指摘しながら、それを避けるために私たちができることのひとつに、「長くつづけること」を挙げています。

つまり、同じメンバーで対面で集まりながら長く続けていくことによって、お互いのことがわかってくること、お互いのことを気にかけあうことで、みんなでみんなが楽しめるようなゲームプレイのありかたができあがってくる――與那覇氏は、ここに、「社会思想としてのボードゲーム」の可能性を見出します。


このことは、同じメンバーで何度も何度も同じゲームをプレイする機会そのものが珍しい中、どうしても見過ごされがちであると思います。

嫌な思いをするプレイヤーがゼロになるように、ゲームシステムのルールを複雑にすることでみんなが楽しめるようにすることが、ベストソリューションだと短絡的に思われがちですし、わたし自身もよくそういう方向でゲームプレイに関わってしまっていると思います。

でも、そんなかたちでファシリテーターに依存しなくても、私たちは、ゲームを自分たち自身で楽しめるようにするための場を、自分たち自身で作り出せる。
ボードゲームが、そんなかたちで、私たち自身がその場にいる人たちと皆で楽しみあえる場をつくる「練習場」になるのだとしたら、そういうプレイの場を易々と放棄するのは、あまりにももったいないのではないか。

そうであるとすると、「ボードゲームで社会が変わる」「ボードゲームで社会を変える」ために、わたしたちは、どんなプレイの場を用意できるのか。

そんなことを考えさせる本でした。

ボードゲームで社会が変わる: 遊戯するケアへ (河出新書)

わかちあえない記憶をともに支える共同体は可能なのか~サトウアヤコ「日常記憶地図 in 福島県双葉町」

日本質的心理学会・研究交流委員会企画として開催された、サトウアヤコ「日常記憶地図」のワークショップに参加してきました(チラシPDFはこちら)。

 

日本質的心理学会研究交流委員会企画「日常記憶地図」ワークショップ・フライヤー

【研究交流委員会企画 サトウアヤコ「日常記憶地図」ワークショップ開催のお知らせ】 – 日本質的心理学会

my-lifemap.net

今回は、「日常記憶地図」オンラインプロジェクトで実施されているようなオンラインでのワークショップと、福島県・双葉町にて双葉町役場の職員の方々とともに行われる「日常記憶地図インタビュー*1が実施されました。

同じタイトルの下で開催される企画のなかで、かなり質の異なる2つのワークショップが実施されることを興味深く思いつつ、両方に参加することはせず、双葉町で行われる「日常記憶地図インタビュー」のみに参加することにしました。

*1:TOKAS(トーキョーアーツアンドスペース)の公募企画で開催された展覧会の、関連イベントとして実施された「日常記憶地図インタビュー」の概要はこちら

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社会文化的コミュニケーションの中の読書~日本国語教育学会大学部会シンポジウム「自立した読者を育てる読書指導」

2019年8月の対面開催依頼、4年ぶりの対面開催となった日本国語教育学会の全国大会に参加してきました。( 2023年度大会のプログラムはこちらからPDFでダウンロードできます。)

日本国語教育学会の集まりに参加することが苦手なわたしが、今回、なんとか参加しようと思った理由がこちら。

昨年2月に発売された、『中高生のための文章読本:読む力をつけるのフィクション選』(澤田英輔・仲島ひとみ・森大徳編, 筑摩書房, 2022)の編者3人がシンポジウムにご登壇!しかもテーマは「自立した読者を育てる読書指導」!ということで、この御三方がそれぞれ「自立した読者」に対してどのようなことを考えていて、さらに、それを巡ってどのようなディスカッションをされるのかが楽しみで楽しみで、居てもたってもいられなくなったのでした。

シンポジウムの概要は、以下のとおりです。

日本国語教育学会令和5年度研究大会

大学部会シンポジウム「自立した読者を育てる読書指導」

日時:2023年8月11日(金・祝)13:00~15:00

会場:筑波大学附属小学校・講堂

テーマ:自立した読者を育てる読書指導

シンポジスト:澤田英輔・仲島ひとみ・森大徳

コーディネーター:松本修

日本国語教育学会・全国大会チラシ(PDF)より)

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