kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

国語教育相談室:「誰だって落ち込むことはある」の主語・述語

「国語教育相談室」と書いてみましたが、新たにそんなコーナーを始めるというわけではありません。「国語教育相談室」みたいなものが必要ですね、という話です。

 

先日、教育に関わられている方より、中学校で出題された文法問題について、質問を受けました。

「次の各文の主語と述語を書き抜きなさい」という指示のもと示された複数の文の中に以下のような文があったのだが、この文の主語と述語は何になるのかを教えてほしい、ということでした。

 

誰だって落ち込むことはある。

 

文法教育においては、「学校文法」というちょっと特殊な文法の存在を考慮しなくてはいけなかったり、そもそも、私自身が、文法のことをよくわかっていないので、専門家にお聞きすることにしました。

今回、ご相談したのは、文法教育史の専門家・名古屋女子大学の勘米良佑太先生と、文法史の専門家・大阪教育大学の清田朗裕先生です。

国語教育と日本語学(国語学)、バランスよくお話がお聞きできるのでは?というご期待のもと、お二人に(ボランティアで)お考えをお聞きしました。

 

まず、勘米良先生からのご回答です。

まず、日本語学的な文法論にもとづくとどのように説明できるか、とういことで、三上章『象は鼻が長い』に基づくご説明をいただきました。

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勘米良先生:日本語学的な説明

これに従うと、「主語」は「落ち込むことは」(今回は、「主語」を問われているため、一文節を書き抜く課題なので「ことは」になるでしょうか)、「述語」は「ある」になりそうです。

しかし、これはあくまで、日本語文法論にもとづく説明。

中学生たちが学校で学習しているのは「学校文法」ですので、「学校文法」ではどのように考えられるのでしょうか。

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勘米良先生:学校文法では?

…というわけで、連文節の考え方を使えば「主部」「述部」という構成で考えられそうです。ただ、「主語(主部)」は、「誰だって」で考えられる、そうすると対応するのが「述部」になってしまって、ちょっとうまくいかなそう…というのが、勘米良先生の見解でした。

 

続いて、清田先生のお考えです。

清田先生は、はじめに、「学校文法」にもとづく説明をしてくださいました。

考える順序までしっかり説明してくださっていて、わたしのように文法の考え方がよくわからっていない者にとっては、大変ありがたいです。

 

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清田先生:学校文法に基づく説明

「学校文法」にもとづくと、2つの「正解」がありそうだ、というのが清田先生の説明でした。

 

【正解1】「誰だって」(主語)・「落ち込む」(述語)

【正解2】「ことは」(主語)・「ある」(述語)


また、連文節の考え方を使って、「主部」「述部」にわけて考える説明できる、という考え方は同じだけれども、「主部」「述部」の分け方は違うんですね。これはどうしてなんだろう。


そして、日本語学的な文法論に基づく説明もしてくださいました。

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清田先生:日本語文法に基づく説明

複合助動詞!

すごい!この考え方でいうと「落ち込むことがある」全てが「述語」になるのですね。

 

そして、このような考え方について、勘米良先生は、連文節で(主部・述部として)解釈可能とおっしゃっていました。

結局、このような考え方は、学校文法的にも成立可能なのかそうでないのか。

お二人の先生にお聞きしたいことが溢れてくるばかりです。

 

今回、お二人の先生にお話しをお聞きして、思ったのは、「文法問題を、正誤問題として扱うのには限界があるのではないか」ということでした。

おそらく今回のような複雑な文法問題が出される背景には、「『は』『が』があるから主語!」「人だから主語!」というような、ナイーブな文法の捉え方(「疑-文法論」、とでもいいましょうか)をしていないかどうか確かめたいからですよね。

そうだとしたら、一文一答式で正誤を問うようなやり方には限界がある。テスト理論の専門的知見も持たないうちに、オリジナルな問題を作成するリスクが高すぎると思います。

 

そして、もっと大切なことは、子どもたちが「文法」というツールを使いこなして、自分たちの日常の言葉を分析してみたり、新たな文を生成することの手がかりにしていけることですよね。

 

そうだとしたら、むしろ今回のような、ナイーブな感覚では分析しにくい文法問題をあえて出題したうえで、子どもたちに「なぜ自分はそう考えたのか」を説明してもらっては、どうでしょうか。

子どもたち一人一人によって辿りつく「解」は異なっても、その道筋が適正なものであるかどうか、を評価することはできます。

 

今回お二人の先生にお話しをお聞きしながら、「謎解き」のように文法問題を考えていくことができました。

二人の先生がそれぞれに違った概念的とツールを使いながら、別々の説明をしてくださるのを聞くのは本当に面白い。

こういうかたちで、文法の考え方が生き生きと活用されていくような場面を、もっと子どもたちと共有できたらいいのに。

 

…というわけで、子どもや保護者、そのほかいろいろな人たちが、国語教育にかかわる、こういう疑問を感じたときに、問い合わせたり、その問いをもとに専門家が、コンセンサスの形成に向けて議論できる場があったらいいいな、と思ったのでした。

 

プレイフルに言葉を生みだす体験を共有すること~全国大学国語教育学会2021春大会公開講座「言葉のティンカリングとことばあそび」

全国大学国語教育学会2021春大会の公開講座「言葉のティンカリングと言葉遊び」に参加してきました。

askoma.info

3時間にもわたる(!)記録動画なので、全部を視聴するのもなかなかエネルギーがいると思うけれど、Youtubeページ内にアップロードされている当日資料や、当日のワークショップの様子とそれに対するあすこま先生の感想をまとめた「あすこまっ!」ブログの記事(面白かった!詩創作のワークショップ 全国大学国語教育学会より② | あすこまっ!)を参照しつつ、早送りしながら重要なシーンをチェックしていくのがよいかもしれません。

あすこま先生の記事、「ティンカリングとはそもそも何か?」というところからはじまって、当日のワークショップで経験することができた詩教育のテクニック(「フリーライティング(Freewriting)」「マッピング(mapping)」、「おしゃべりなモノ(Object talking)」)や、ドラフトの共有とそれをめぐるディスカッションがどのような様子だったのか、まとめてくださっていて、ひたすらありがたいです……!

askoma.info

 

こんな感じで、公開講座「言葉のティンカリングと言葉遊び」がどのようなワークショップだったのかについては、すでに、かなり運営側の皆さんを中心に、情報をオープンにしてくださっているので、ここでは、わたし個人がワークショップのなかで書いたもの、創ったものを共有したいと思います。

 

わたしは、「誰かがつくった詩に対して、率直に感じたことを言って、そこでもらったコメントから新たなアイデア創発されたりするようなやりとり」が起きることを、すごくステキなことだと思っていて、もっと、こういうやりとりがいろいろなところに「飛び火」していくといいな!と思っているのですが、なんだか、それを伝えるのが難しい。

なかなか「飛び火」していかない。

だとしたら、もっと、気軽にそういうやりとりを見られるようにしたり、体験できる場を増やしたりして、「ああ、こういう感じのやりとりか!確かにステキ!」「自分もやってみたい!」って思ってもらえるようにしたらいいのかな、と思ったんです。

 

先日もたまたま参観した小学校の俳句創作の授業のなかで、子どもたちに「どうしてその表現にしたの?」「その表現の工夫を選んだ理由はなに?」と詰問していらっしゃる先生方を目にしました。日本の学校の詩創作(俳句・短歌を含む)の授業だと、あまりに周りの大人たちが、自分自身がその詩に対して思ったこと(「自分にはこう見える」「こう読める」)を伝えることを躊躇しすぎているように見えます。

子どもたちの側にも、自分の詩の良さを伝える言葉がなかったり、まだ限られた言葉しかないうちに、大人たちの側からその言葉をまったく届けることもなく、子どもたちに「どうして?」「理由は?」と聞き続けても、「なぜなら~」「その理由は~」の話型練習にはなるかもしれないけれど、「言葉の使用者でもあり、創造者でもある」という「言葉する人(Languager)」に近づけるチャンスを無駄にしてしまっている気がします。

 「言葉する人(Languager)」については2019年に日本質的心理学会での会員企画シンポジウムのテーマとしてとりあげました。こちらにアップロードされているオンライン報告書をご覧ください。
kimilab.hateblo.jp

 

そんな話を、メールで、本講座の企画者であり、共同ファシリテーターでもある中井先生にお伝えしたところ、「本当に、詩を書くこと、それを人に見せることもさることながら、人の書いた詩にコメントをすることも多くの先生方が躊躇されていることだと思います。これまであまり意識してこなかったのですが、今回のワークショップで強く思いました。」といううれしいコメントをいただけたのみならず、中井先生からいただいた、わたしの詩へのコメントも公開してよい!ということだったので、わたしの作品とともに、ここに掲載させていただきます。

 

1. フリーライティング(Freewriting)

 まずは、ひとつの単語から連想をふくらませていく「フリーライティング」

今回とりあげられた「お題」は、①「旅(journey)」と、②「奇妙(Strange)」の2つでした。

こちらが、①「旅(jounery)」という語をもとにおこなった、フリーライティング(連想される語を2~3分でとにかく書き続けていく)なのですが、わたしにとっては、かなり難しかった…。

当日、Sue Dymoke 先生にも質問したけれど、「旅」と聞いた瞬間に、(なぜか)青森県の種差海岸と新島の海岸線に沿って無限に続いていく道路の風景が、視覚的にバッと出てきてしまって、はじめのほうは、自分が見えているビジュアルのなかの要素をひとつひとつ拾い上げている感じになっております。

「これじゃ、いかん。ただ要素を拾ってるだけだ」と思って、他のイメージを連想しようとするんだけど、結局、場所が移動して行ったりきたりするだけ(フルーツパークからみた甲府盆地→ふたたび、新島の海岸線)になってしまい、なんだか、とにかくダメでした(笑)

次の「お題」の「奇妙(Strange)」は、もうはじめからあきらめて、映画『ダレン・シャン』のサーカスの風景(映画は駄作です)が出てきたので、そのビジュアルから思い出す単語をたくさん書きました。

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Freewriting1 "Journey"

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Freewriting2 "Strange"

 

2. マッピング(mapping)

そして、次に行ったのは、「自分にとってのはじめての『旅』」をテーマにした「マッピング(mapping)」。

マッピング」という名のとおり、地図のイラストを描いていきます。

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Mapping "My first journey"

この「マッピング」をしたあとに、3人でそれを共有しあう活動があったのですが、このマップへの質問やそれをめぐるやりとりのなかで、「秘密」(右上)「自分だけの秘密の場所」(左中央)というキーワードが出てきました。

さらに、自分のなかで面白かったのは、他のメンバーがつくった詩から創発されるイメージがあったこと。

家族でのキャンプの体験について詩を書いていたメンバーが、地図のなかに「まむし」と書いていて、自分のなかではその「まむし」の存在がすごく怖かったのだ、と説明してくれました。

その話を聞いていて、わたしの中のイメージ・視界があしもとに降りてきて、突然、「はじめての『旅』」の視界がグッとクリアになった感じがありました。そのときに自分の視界のなかに見えてきたのが「ヘビイチゴ」で、その見えてきた色があまりにも鮮やかだったので、わざわざ赤いペンで「ヘビイチゴ」に〇をつけて、さらにイラストも赤く色づけています(左上)。

 

3. ドラフト(draft)と共有

その後、「ドラフトを書いてください」という指示があって、書いてみた「ドラフト」がこちら。

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Draft "my first journey"

今だから白状しますが、実は、ドラフトはこんな感じで2ページにわたって書いていたのですが、3人での共有のときに音読をしていたら「その先には 何があるの?」で読み終わりたくなっちゃって、右側のページのものを削除しました。

 

最終的にできた(提出した)作品がこちら。

 

ヘビの道にあるへびいちご
酸っぱいかもしれないへびいちご

そこは秘密の場所
私だけの秘密の場所

ヘビの道にある私だけの場所

交換日記と手紙
かくれんぼとシーソー
飴玉とチョコレート

ヘビの道の先にあるミニボート
乗れるかもしれないミニボート
用水路の先には真っ暗なトンネルがある

その先には何があるの?

 

この詩について、英訳をつけて、中井先生にお送りしたところ、こんなコメントをいただきました。

 

ワークショップの中でも「イメージが先行して浮かんできた」というコメントをしてくださっていたと思います。

ヘビイチゴの詩を読んでいると、同じく私の頭の中でヘビイチゴがなっているちょっとした小径の映像が浮かんできました
小さい頃住んでいた田舎(とっても山奥)にまさにそのような場所があったのとリンクしているのかもしれません。
その映像と、小さい女の子がこの詩を朗読しているような、まるで映画の冒頭シーンのようなイメージです
これから物語が始まりそうな最後の行もそのように思わせてくれるのかもしれません。

 

短時間で作っただけのこれだけの詩から、こんなにいろいろなアイデアを感じ取ってくださっている。さらに、「自分にとって、それがどう見えるか」についてかなり精密に言葉を選びとり、その言葉を、詩の創り手に投げかけてくださっている。

それが、(未熟な)詩の創り手にとっては、本当に、有難いことなのだ、と身をもって実感した瞬間でした。

幸いなことに、わたしは今回の講座で、他者の詩のなかにあるアイデアを感じ取り、色とりどりの言葉でそれを返してくださるメンバーに囲まれながら、詩創作の体験をすることができたので、こんな経験をなんども味わうことができました。

 

すべての大人たちが、詩の創り手にならんとする子どもたちの詩の前に対峙し、そこに流れるアイデアを掬い取り、これだけクリアカットな言葉で届けられたら…と思わずにはいられません。さらにいえば、それがマッピングやドラフトの共有における、子どもたちのやりとりのなかで起きるとしたら…と思うと、本当にワクワクします。

 

4. 「おしゃべりなモノ(Object Talking)

最後に、もうひとつのおこなった、ある「モノ」になったつもりで語ることによって詩をつくる、という活動のなかで創った詩も共有します。

 

忙しい交差点にある信号機(A traffic light in a very busy pedestrain crossing)

 

喧噪ってなんだろう
そんな言葉の意味すら忘れてしまった
もはやとても静かだ

目の前を通り過ぎる景色は
まるで海のよう

波が寄せては
また引いていく
その繰り返し
ここはとても静かだ


繰り返される波のなか
目をつむっていると
それがまるで自分の呼吸のように思えてくる

私は呼吸する
息を吸う
息を吐く
そしてまた息を吸う

私の呼吸のなかで、この街は生きている

 

そして、これに対する中井先生のコメントは、こちら

 

もうひとつの信号機の詩は、とてもbusyな交差点なのに、いやそうだからこそ目から入ってくる情報が多量で、音が聞こえなくなってしん、としている空気を経験したような気持ちになりました。
でもその視覚情報すら閉じてしまうと、感じられるのは自分の呼吸だけになるのですね。
その第5連がとても気に入って、日本語も英語もなんども音読しました。ゆっくり。
とても素晴らしい作品をありがとうございます。

 

中井先生のコメントそのものが、とても詩的で、スーッと心のなかに入ってきます。

 

どうしたら、こんなに麗しいやりとりを、いろいろなところに、広げていけるのでしょうか。

パフォーマンス心理学関連シンポジウムの報告書が公開されました

2019年3月に参加してきたイーストサイド・インスティテュート(East Side Institute)イマージョンプログラムで得た経験や知見をなんとか日本につなげたい!という思いから、2年間にわたり、日本質的心理学会大会での会員企画シンポジウムの企画にかかわってきました。

私たちが、ニューヨークでのプログラムを終えて、日本に戻ったのが3月中旬。それから数週間後に公開された、ロイス・ホルツマン(Lois Holzman)先生の記事があまりにもうれしくて感涙した記憶は、それから3年以たった今でも、リアルです。

loisholzman.org

私自身のイマージョンプログラムの報告(一部)はこちら。

 

kimilab.hateblo.jp

 

これらの企画は、日本認知科学会・教育環境のデザイン分科会(SIG-DEE)に共催で行われていたのですが、そのおかげで、これらのシンポジウムのオンライン報告書を作成・公開することができました!

 

1.「関係を紡ぐ言葉の力/言葉を紡ぐ関係の力―『言葉する人(Languager)の視点から心理療法・教育・学習を横断的にとらえなおす」(日本質的心理学会第16回大会, 2019年)(PDF)

イマージョンプログラムのなかで印象的だったセッションのひとつに、グウェン・ローウェンハイム(Gwen Lowenheim)先生の「日本語と遊ぶ(Playing with Japanese)」というセッションがありました。

そのなかで、キーワードとして何度も使われていた「Languager」という言葉に焦点をあてながら、「言葉を使用する種でもあり、言葉を創造する種でもある人間」という視点から、分野横断的に、人間の発達・学習というものを捉える理論的ベースを創れないだろうか、と思い、青山征彦先生(成城大学)とともにこのようなシンポジウムを企画しました。

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2019年度シンポジウム表紙

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2020年度シンポジウム情報

松嶋秀明先生によるご発表は、松嶋先生のご著書『少年の「問題」/「問題」の少年』(新曜社)で報告されているフィールドワークの成果を、パフォーマンス心理学的な観点からとらえなおしたもので、非常にエキサイティングでした。ここでの議論は、新曜社ウェブマガジン「クラルス」での連載記事「『道具と結果方法論』から見た学校臨床での議論にもつながるもので、あわせて読むと、本連載記事でその後展開されているディスカッション部も含めて、ひとつのフィールドワーク事例から、議論が広がっていく感じがして、面白いです。

clarus.shin-yo-sha.co.jp

 

 

2.「知識偏重社会への警鐘―『知らない』のパフォーマンスが未来を創る」(日本質的心理学会第17回大会, 2020年)(PDF)

ロイス・ホルツマン(2020)『「知らない」のパフォーマンスが未来を創る―知識偏重社会への警鐘(原著名:Overweight Brain)』(ナカニシヤ出版)の出版を記念して開催されたシンポジウム。

本書の編訳者であり、ロイス・ホルツマンらによる「パフォーマンス心理学」の議論を日本へと紹介・普及してきた、茂呂雄二先生による「パフォーマンスとは何か?」「パフォーマンス心理学が日本での議論にもたらす示唆とは何か?」についてのプレゼンテーション。

佐伯胖先生による本書およびロイス・ホルツマン『遊ぶヴィゴツキー:生成の心理学へ』(新曜社)への本質をついたクリティカルなコメント発表「パフォーマンスはあやしい!」

そして、それをめぐる本書の訳者陣と、サトウタツヤ先生による(口頭およびチャットでの)ディスカッション。

……と、今考えてみると、パフォーマンス心理学の今後の日本での展開を考えるうえで、かなり重要なイベントになったな…!と思えるシンポジウムでした。

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2020年度シンポジウム表示

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2020年度シンポジウム情報

このシンポジウムの記録が残せて、本当によかったです。

本書の訳書出版のために開催した、第1回翻訳検討会を開催したのが2018年12月…思えば遠くまできたものです。

 

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わたしは当日の口頭での議論には、ほとんど参加できていませんでしたが、チャットでの情報提供を頑張りました!

オンライン報告書では、複数のチャンネル上で展開されながら「渦」をつくっていくような議論の展開をどのように「記録化」できるか、自分なりにチャレンジしてみたつもりです。

オンラインでの議論の場は、おそらく今後も続くであろう現在。

ぜひこれをきっかけに、オンラインでの議論についての「記録化」の仕方についても、いろいろな人と議論していきたいと思いました。

 

以下に示すのは、これまでに出版されている、ロイス・ホルツマンやフレド・ニューマン、イーストサイド・インスティテュートにかかわる研究者・実践家による、パフォーマンス心理学関連書籍です。

わたしがこの分野ではじめて翻訳にかかわったのは、2016年に出版された、キャリー・ロブマンほか『インプロをすべての教室へ』(新曜社)でした。

 

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フレド・ニューマン&ロイス・ホルツマン(2020)『  革命のヴィゴツキー』(新曜社)のような重厚な理論書までをも含む7冊もの書籍が日本で出版され、日本語でそれらを読むことができる(!)という事実に、あらためて感動を覚えます。 

 

   

 

オートライフヒストリーの方法論~タラ・ウェストーバー『エデュケーション(Educated: A Memoir)』

タラ・ウェストーバー(2020)『エデュケーション( Educated: A Memoir)』を、読んだ。 

 

Amazonのページにある華々しい紹介文や、推薦コメント、そして邦訳につけられた「大学は私の人生を変えた」から推察されるように、この本は、「モルモン教サバイバリストの両親から、虐待にも近いような酷い教育を受けた著者が、大学教育を通じて人生を取り戻していくサバイバルストーリー」として読まれているらしい。

そして、著者であるタラ・ウェストーバーのホームページを見ても、自身の説明(「About」)に、大学院で歴史学を学んだことについてちょっと触れている程度なので、それほど、自分自身が、「歴史学者(hisotorian)」であるということについては大切に思っていないのかもしれない。

それはそうなのだけれども、本書の意義は、歴史学を学び、ケンブリッジ大学で博士論文「アングロ・アメリカンの協力思想における家族、道徳規範、社会科学1813-1890(The family, morality and social science in Anglo-American cooperative thought, 1813-1890)」(British Libraryのオンライン論文サービスに提供されている情報。翻訳は、邦訳書p476より)を提出し、博士号を取得した「タラ・ウェストーバー博士」によるライフヒストリー(個人史・生活史)研究と位置付けた方が良いように思える。

 

本書のところどころに、日記について言及されていることから推察されるように、、本書が、子どもの頃から、ほぼ毎日欠かさずに書き続けた日記を「史料(資料)」として用いて書かれていることは、疑いようがない。

また、本書の「謝辞(acknowledgementを「謝辞」としか訳せないのはどうにかならないのか…)」には、著者の3人の兄のうち、博士号を取得した2人の兄が「時間をかけて、記憶を呼び起こす作業をしてくれた」こと、「原稿を読み、詳細を加え、本書ができる限り正確なものとなるように協力してくれた」ことが記載されている(p495)。

さらに、本書にはプロフェッショナルによるファクトチェックも行われている(p496)。

 

つまり本書は、歴史としての個人史を記述するためのデータとの対話、それを検証することのできる人物による証言の収集と対話、そして、第三者によるプロのファクトチェックまで受けてできあがった「歴史書」なのだ。

文化人類学においては、自叙伝など、自分自身が経験したことを、自身の記述によって描出したものを「オートエスノグラフィー」と呼ぶが、本書は、歴史学者が、歴史学的アプローチによって記述した「オートライフヒストリー」(とういうのも、おかしいが)といえるのかもしれない。

単なる自叙伝を越えて、ここには、歴史学の手法を学んできた研究者としての視点がある。逆にいえば、そのような視点と歴史学的技法を身に着けていたからこそ、タラ・ウェストーバーは、モルモン教サバイバリストの両親を中心とした「記憶改ざんワーク」が派手に展開し、親族の多くから「お前の記憶は間違っている」と言われながらも、本書を書き上げることができたのかもしれない。

本書の最後の方では、両親による「記憶改ざんワーク」によって、著者自身も、「自分の記憶は信用できないのではないか」と疑いはじめたりして、そのことが、記述する主体によってオートエスノグラフィックに記述される様は、エキサイティングですらある。

わたしは、質的研究の立場から、研究者による「絶対的な視点」を疑ってきたし、フィールドノートを見直せば見直すほど、自分の記憶の不確かさに絶望することがあるけれそ、その記憶の不確かさそのものを記述する言葉をもっていない。

 

本書の凄みは、記憶が揺れつづけること、常に、異なる記憶を提示する人々に囲まれつつ、その中で、その記憶の揺らぎを含みつつ「書く」ための文体を提示したことにあると思う。

オートエスノグラフィーの手法に関心のある人々にとっては、必読書だといえるかもしれない。

 

そして、それを踏まえたうえで、わたしは本書の最後に著者が記した以下の文に疑問を呈したいと思う。

 

これを何と呼んでくれてもかまわない。変身。変形。偽り。裏切りと呼ぶ人もいるだろう。

私はこれを教育と呼ぶ。(邦訳書, p491)

 

わたしは、英語の"education"にどのような含意があるのか、まではわからない。

それでも「教養ある(educated)」という意味と近しい含意があることはわかる。

欧米における「教養」がどこまでのことを意味するのか、わからないし、近年の教養教育が、アカデミックリテラシーやリサーチリテラシーの教育までをも含んでいることは知っているけれど、それでも、わたしは、これを「教育」ではなく、「研究」と呼びたい。

著者が、記憶改ざんワークを乗り越えて、本書をかけたのは、やはり、歴史学の技法、その問いかた、その「確かなるもの」の定め方を信じることができたからだと思うのだ。

研究の方法論に依拠しながら、一方で、それをクリティカルに見ながらそこに立ち続けることで、何かを見出そうとするそのことを、わたしは「研究」と呼びたいと思う。

 

『あらためて、ライティングの高大接続』往復書簡を受けて

 ひつじ書房ウェブマガジン『未草』の中に、今年4月から、「Book Review」の姉妹編として「Letter: Black Sheep and white Sheep」というコーナーが設けられています。

Letters:Black sheep white sheep | 未草

 

このはじめのシリーズとして、『あらためて、ライティングの高大接続』(ひつじ書房)をめぐる、同署の著者2人(島田康行先生・渡辺哲司先生)と、あすこまさんとの往復書簡が展開されていて、とても興味深いです。

5月10日、著者陣からの「あすこま」ブログ記事における書評へのコメントが公開され、その3日後、あすこまさんから、そのコメントへの返信が公開されました。

www.hituzi.co.jp

www.hituzi.co.jp

このやりとりの中で、「アカデミック・ライティング」を、学術論文やそれに準じた/その方向性を目指したレポートではなくて、小中学校も含む学校教育全体で書かれているような「事実や意見を伝える文章」に拡張して考えましょう、という提案がなされ、それについて、肯定されるかたちで議論が進んでいるようなので、それに対しては、ちょっと違和感をもった。

たとえば、マクミラン社が提供しているオンラインのフリーディクショナリーで「academic writing」を検索すると、次のような語釈が表示される。

ACADEMIC WRITING (noun) definition and synonyms | Macmillan Dictionary

①エッセイや研究論文、その他の学術的文章に使用される、フォーマルで、かつ、事実に関わる書くことのスタイル(a formal and factual style of writing that is used for essays, research papers and other academic texts
Whilst academic writing has its place, this mode tends )

 

②学術的なスタイルで書かれたテクスト(texts that are written in an academic style)

 

なんでもかんでも辞書的な定義に忠実になるべきとは一切思わないけれど、あまりにも原語の定義から拡張すると、何がなんでも「アカデミック・ライティング」になってしまうようで、わたしにとっては、息苦しい。

わたし自身は、大学院時代に、「vocational Literacy(職業リテラシー)」とか、「venacular Litearcy(ヴァナキュラー・リテラシー)」とかに関心をもって研究をしていた時期があり、

さらにいうと、今、まさに、宮澤先生と進めている「つながりの学習(Connected Learning)」(初版のレポートはすでに日本語で読める→『つながりの学習(Connected Learning)』)と国語教育・読書教育をつなげる研究のなかでも、「アカデミック」でない領域につなぐための言葉やリテラシーの教育について考えていたところでもあったりする。

 

kimilab.hateblo.jp

あすこまさんが本書についてコメントした、はじめの記事でも、大学進学率が半分強に過ぎないこと、アカデミック・ライティングが多様な書き言葉の実践のひとつにすぎないことは指摘されているので、おそらく、その当初のコメントの趣旨を踏まえたうえで、議論が修正されていくのだとは思うのだけれども、現在の議論の流れを見ると、少し不安を覚えてしまう。

 

私自身は、奇しくも、アカデミックに書くことの文脈のなかで、「アカデミック・ライティング」のスタイルを問い直すという、奇妙な経験をしてきました。博士論文では、1章分もかけて、「自分自身がこの論文をどのような文体で書くべきか」について論じていますし、(さすがにそんなに書く必要はなかったのでは、と今になって反省していますが)いまだに、論文を書こうとするたびに、「この論文は、どういう文体で書くべきか?」をはじめに考えてます。

 

おそらく、私のように、ヴァン=マーネン(1999)『フィールドワークの物語―エスノグラフィーの文章作法』に影響を受けて文体を捉えなおしたり、ケネス・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』などの議論を受けて、自分自身の研究を伝え、届け、議論するためのメディアそのものについて問い直している研究者は、たくさんいると思います。

 

そんな文体そのものの問い直しのなかで、「アカデミック・ライティング」とは、「書き手自身を、人々が生を営む世界から遊離した超越的存在(『神様』のような存在)に置き、第三者的に何かを眺めたような視点で書くことで、なんらかの『発見』を見出そうとする文体」ととらえ、実際に、自分自身がアカデミック・ライティングの教育にかかわるなかで、それを学生たちに伝えてきたわたしにとって、「なんでもかんでも、アカデミック・ライティングととらえましょう」という提言は、「暴力的」にすら映るのです。

 

タラ・ウェストーバー『エデュケーション』を読んだ感想を、このブログにも投稿しました。 

kimilab.hateblo.jp

本書のタラである著者が、自分自身の揺らぐ記憶を乗り越え、本書を書くことができたのは、(歴史学において通常、採用されている)「アカデミック・ライティング」の視点・技法に依るところが大きいと思います。

「アカデミック・ライティング」の視点・技法がもつパワーは、たしかに大きいし、それでないとできないことはたくさんあります。

ただ、それだけに、そこで通常に採用されている文体では「できないこと」もたくさんあって、わたしのように、質的研究にこだわってきた人たちの多くは、その文体とずっとずっと、格闘してきたのだと思うのです。

 

そのことを、いま、書かなければならない、と思って、ブログ記事を書きました。

わたしたちの生きる世界には、多様な読むこと・書くことがあり、その多様性を守り育むことが、国語教育の役目だと、わたしは思います。

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華雪《紙に字を植える》ワークショップより

 

 

 

 

 

ドリームランド、夢の跡地を生きる神鹿たち

横浜に移住いしてきたときから「行きたい」と繰り返し言いつつ、なぜか、行くことができなかった、横浜ドリームランド跡地に行ってきました。

旧ドリームランドに興味がありすぎて、年に一度の、横浜薬科大学の先生方との邂逅の折には、本来の業務も忘れて、現在、薬科大学の図書館として利用されていると噂の旧エンパイアホテルについて聞きまくり、

hamarepo.com

元日に最上階の展望ラウンジを地域の人たちに開放しているらしい、」とか、

「実は地下のボウリング場がいまも薬科大学の施設として残されていて学生や教職員の交流イベントで使われているらしい」とか(このニュースによると、地域の人にも開放されていたっぽい!)そんな話を、聞いては、ドリームランド跡地への妄想ばかりを膨らませていたのですが、ついに、訪問が実現しました!

 

今回、訪問したのは、かつて「ドリームランド春日神社」という名前であったこともあるという相州春日神社

ドリームランドを運営する日本ドリーム観光は、横浜ドリームランド開園以前に、「奈良ドリームランド」(ミラーサイト)を開園しており、そのご縁で、奈良・春日大社の御分霊を歓請してできたのがかつての「ドリームランド春日神社」であり、現在の相州春日神社であるということです。(なお、このご由緒は、実際に神社に「由緒」として示されています

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相州春日神社・手水舎

 神社について、それほど詳しいわけではないけれど、それなりにいろいろな神社の「由緒」を知ってきた人間としては、「そんなのアリなんだ…」と思うような「由緒」で、まだまだ、世の中には知らないことが多いんだな…と思わされます。

 

そしてそんな相州春日神社ですが、それほど大きいわけでもない神社の敷地内に「神鹿苑」があり、10頭以上もの鹿が飼育されています。

 

…なんですが、なんだか、やたら遠い目をしているような…

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相州春日神社の神鹿

なんか、やたら、何をするにも渋い顔をしているような…

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相州春日神社の神鹿

人生、酸いも甘いも知りきっている感じがする鹿たちです。

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相州春日神社の神鹿

 遠く、奈良の春日大社から、「ドリームランド」つながりで、横浜にきた神鹿の子孫たち。

その子孫たちに、この夢の跡地は、どう見えているのだろう、と気になって仕方ありません。

自閉症的世界のトランスレーションのトランスレーション~映画『僕が跳びはねる理由 (The Reason I Jump)』

日本語版のタイトルが、東田直樹さんの原作タイトル『自閉症の僕が跳びはねる理由』ほぼそのままなので、『自閉症の僕が跳びはねる理由』の映画化か、東田さんのドキュメンタリ―映画か?と誤解されそうだけれども、まったくそんな映画ではありません。
 
 むしろ、日本で映画公開するときにも、David Mitchellの訳書タイトル『The Reason I Jump』のままにしたほうが誤解が少なかったと思うくらい、トランスレーションにトランスレーションを重ねることによって、日本固有の「東田直樹」という固有名を離れて、ひとつの〈普遍〉へと向かおうとする作品だと思いました。
 
この作品を、あえて、東田直樹の語りという文脈に差し戻すことは、果たして、東田さん含む関係者にとって、望ましいことなのか…わたしには、わからないところがあります。今回の映画公開にあわせて掲載された、東京新聞での東田さんのインタビュー記事も見てみましたが、やっぱりよくわからない。東田さん自身の語りと、マスメディアの作り出そうとするストーリーとの間に距離を感じてしまいます。
 
自閉症の僕が跳びはねる理由』を英訳したDavid Mitchellは、SF超大作『クラウド・アトラス』の原作者です。
クラウド・アトラス』は、わたしも映画しか見たことないですが、予告編ですでに5分もある(!)という超対策で、19世紀から24世紀までの過去-現在-未来を横断しながら、様々な時代・地域で展開される6つのエピソードが、ひとつの共通するテーマでつながりあっていくSF超大作です
映画レビュー的には、トム・ハンクスが1人で6役を演じているというところも話題になっていました。他の役者さんもそれぞれかなり多数の役を演じているんですが、けっこうそれがわからなくて、びっくりする映画です。…うん。こんなこと書いていたら、また観たくなりました。
 
David Mitchellはそのの原作者なのですが、『The Reason I Jump』も(読んだことないけど)『クラウド・アトラス』的なナラティブをもった訳出がされているんじゃないか、と思うほど、このドキュメンタリー映画の持つ世界観が「クラウド・アトラス」的に見えました。
生きている時代は同じながらもバラバラの地域で、我々と異なる世界を生きてる人たち……その世界の異なる地域に生きる自閉症者たちの世界観が「東田直樹」の言葉のもとにつながっていくイメージです。
…あれ?そんな演出、『クラウド・アトラス』にもあったような……?と思いました。
 
予告編をみると、「驚きと感動の”体感”ドキュメンタリー」と書かれていて、「驚きと感動の」というのはあまりにも陳腐だと思つつ、体感に迫る音と映像のなかで、これまでとは異なる世界の「見え」が開かれた感じになるのは事実です。
いくつか異なる角度から切り取られた本編映像が公開され、すでにオンラインでも見られるようになっているようなので、いくつか見てみて、興味を持ったかたはぜひ映画館で観てほしい、と思う映画でした。
 
せっかくなので、いくつかご紹介します。
 
1.「雨が降っている」という状況を理解するまでのプロセスを描出する
 
2.すべての記憶がスライドショーのように共存していて、それが突然、嵐のように襲ってくる
そして、記憶の話。
かなり以前の記憶であるはずの幼少期の記憶も、さっき起きたばかりの真新しい記憶も、すべてが同じレベルで共に存在していて、それがスライドショーのように移り変わる……そして、それらの記憶とそこにある感情が嵐のように襲い掛かってくる、という風景です。
 
わたし、今も、この本編公開映像を視聴して、少しつらい気持ちになったのですが、そのくらい、記憶が襲い掛かってくるそのときの体験が、そのときの感情が沸き起こってくるような感じがしました。
わたしも、ときどき、過去のつらい記憶が突然襲いかかってきて、道端に座り込んでしまうときがあるのですけど、そのときのことが、それこそ、ワーッと「襲いかかってくる」感じがあります。
 
3.言いたいことが言えない、自分が自分の思うとおりに動かない
これは、いくつか視聴したなかでも、もっとも、好きな本編映像です。

わたしみたいに、学部から教育学などを学んできた人間にとっては、ここで映し出される「自閉症児者の言動」は、観察者的言語で「理解」される対象(「知識」)であったと思うのです。そして、いつの間にか、現実でそういう場面に触れるときに、ついそういう言動を見るだけで、観察者的になってしまっている自分に気づくことすらあります。そして、そういう自分を離れることは、本当に、難しいことなのです。

そういう観察者的な言語でしか見られなかった「言動」が、この映像のなかでは、彼ら自身の内なる世界観として現れ出てきていて、それを見るだけで、自分の世界がフワッと変わったように感じられました。同じものを観ているはずなのに、「観察者的言語」で観ずに、「うん。どんなことが言いたいの?」と、二人称的に向き合える関係になtっている……そんな自分に気づきました。

(さすがに、本編を観たあとだからそう見えるんでしょうか?これだけを観てもあまりわからないかもしれませんね。だとしたら、ごめんなさい!本編観てください!)

 

4.「僕が跳びはねる理由」

最後に、タイトルでもある「僕が跳びはねる理由」について描き出された本編映像をご紹介します。

この映像も公開しちゃうんだ!タイトルだけ見て映画を知った人から見ると、「こんな映像を本編映像として公開しちゃうんなんて、一種のネタバレでは?」とか言われそうだな、と思ってしまいました(笑)


www.youtube.com

 「跳びはねる理由」は、とても不自由で重いものだけど、跳びはねているその時間は、やっぱり「自由」で、その清々しさが映像からも伝わってきます。

 

KADOKAWA映画だし、マスメディアでもたくさん記事化されているみたいだし、きっと、たくさんの映画館で上映されるんだろう…と思って、「劇場情報」を確認したら、思ったより多くなくて、ちょっとびっくりしています。

映画館で、スクリーンの映像と音で観たほうが良い映画だとは思いますので、興味のあるかたはぜひ!とおすすめしておきたいと思います。

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21_21design sight「トランスレーションズ」展入口より