わたしが担当すべきすべての審査過程を終えたので、
そろそろ書いてもよい頃かと思われるが、
先日、ある御方からのご紹介をいただいて、生涯ではじめて、ラジオ番組の審査員をすることになった。
さて、ラジオ番組の審査員であるからには、自分が聞いたラジオ番組の「番組評」をしなければならないわけだが、この「○○評」について、わたしは先日、こんなことを書いた。
わたしも,ぼちぼち「○○評」のお仕事を頼まれるようになってきたけれど,
読んだ人がしみじみと深く,そのテクストと関わった経験を思い起こせるような文章が書きたいものだ。
実をいうと、わたしがこのように強く思い始めたのは、
内田樹『子どもは判ってくれない』(文春文庫)の中に収録されているエッセイ「ヨイショと推量」を読んでからだ。
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長くなるが引用する。
筆者の方が「ほんとう」は何をめざしていたのか、私には分からない。分からないから、「こういうことをめざして書かれた本だったとしたら、すてきだろうな」と想像したことを書いたのである。
それが「当たり」だったわけである。
佳話である。
書評においては、「その本の蔵しているいちばん豊かな可能性にピンポイントする」というのが私のポリシーである。「いちばん豊かな可能性」をめぐる議論は書いている私も愉快であるし、何よりもそれを読んだ書き手がさらに「分かっている読者がいて、うれしい」と元気になってくれる。結果的にこの先さらに豊かな知的生産物を享受できることになって得をするのは私たち読者だからである。書き手が「何という愚かな書評だ」とがっくり落胆し、知的生産の意欲を喪失することによって私たちが得るものは何もない。誤解している人が多いようだが、けなすのは簡単で、ほめるのはむずかしい。
けなすとき、私たちはいくら主観的な論拠から自説を展開しても少しも構わない。もとから相手を説得する気なんてないからだ。批判された相手が「オレはそんなこと言ってないぞ、どこに眼をつけているんだ」と怒り狂っても、もともと「相手を怒り狂わせたい」から書いているわけであるから、うすでに所期の目的は果たしている。悪口を言うときには対象への適切な理解は不要である。
しかし、ほめるときには対象への適切な理解(と少なくとも書き手自身に承認されること)が必要である。
なお、教育実践やワークショップなど、人と人との活動を組織する「実践」というか「デザイン」については、「○○評」(教育実践やワークショプの成果を記述する論文も含まれる)もうひとつ別の枠組みを参考にしたとらえ方をしているのだが、これについてはそのうち別の記事で書くことにしたい。
さて、ここで内田氏が指摘していることと、わたしが以前言ったことは微妙な食い違いを見せているわけだが、それは、わたしが書いた記事の対象(小説など)が、わたしがおそらく制作者と一切関わることがないことを前提にして書かれていたからである。
でも、今回は違う。
ラジオ番組の放送局や制作担当に、自分の「声」が直接届けられるのである。
そんなわけで、審査過程に関わる間、終始、「そのラジオ番組の蔵しているいちばん豊かな可能性にピンポイントする」ことを心がけた。
送られてきた番組数は、約1時間×13本=約13時間。
それぞれのラジオ放送局に送らなければならない「評価」のスペースは、A4用紙の約半分。
字数で言ったら、1000字強の文章の評価を各社にあてて書いた。
自分で言うのもなんだが、これは、かなりの苦労を要する作業である。
昨年の参加番組数は17作品だったと聞いたが、あと4作品も多かったと思うと、正直なところ、ゾッとしてしまった。
それでも、やはり、「わかってくれるリスナーがいてくれてうれしい」とラジオ放送局や制作担当が元気になってくれて、
「元気がない」と言われているラジオ局が元気に、新しいチャレンジへの意欲が芽生えたり、新しい活動へのきざしが見えるようになってくれればいいな、と願いながら、ひとつひとつの番組評を書いていった。
もし、研究者とか評論家と呼ばれる人たちに意味があるのなら、
「○○評」に社会的な役割があるとすれば、それはこういうかたちでしかありえないのではないか、とわたしは思う*1。
「あなたが行ったこういう試みは、こういう可能性がありますね」と、
もしかしたら、当事者も意識していないような可能性を伝えることで、また新しい活動が生み出される。
そういうサイクルの中に、「論文」とか「評論」といったものは位置づけられるべきなのだろう。
そんなことをあらためて思わされた仕事だった。
*1:先日の『働きすぎる若者たち』に関する記事についてわたしがやたら批判的なのは、著者や著者の論がすでに社会的に意義を認められているから…ということでご理解いただきたい。社会的に賞賛を受けすぎている論についてはストップをかけることが必要だとわたしは思っている