kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「遠くにいるあなた」のためのパブリック・リレーションズ

水戸のキワマリ荘で、開催された「よんでみる9 鳥取藝住祭をよんでみる」に参加してきました。

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鳥取藝住祭」は、2014年9月~11月にかけて行われている「アーティスト・イン・レジデンス型の芸術祭」。
「土着する文化 住み着く芸術」をテーマに、「芸術が身近にある日常」を地域の人々とともに創りだそうとする試みと説明されているとおり、開催されているエリアが鳥取県内の各所に点在しており、さらに、「アーティスト・イン・レジデンス型」なのでその期間にいけばいつでも作品が見られるというわけでもない

 

「ウチ」にはじまり「ウチ」に終わるように、コンセプトも何もかもが組まれていて、そのようななかで「ソト」の人たちをどのように考えるか、「ソト」の人たちにどのように関わりを持たせようとするのか、が難しいところなのではないかと思う。

そのような問題圏のなかにあるアートプロジェクトが行った試みとして、面白いと感じたのが、今回のトークのトピックの一つでもあった「コンセプトブック」だった。

トークでは、「コンセプトブック」の写真とエッセイを担当した松本美枝子さん(水戸のキワマリ荘のメンバーでもある)が、なかば話し手としてトークに参加していたこともあり、「ひとりのアーティストとして、『コンセプトブック』づくりに関わる一連の活動やそこで得た経験はどうだったのか」という点に焦点が置かれがちだった。

けれど、私はそれよりも、この「コンセプトブック」が、そんなアートプロジェクトのなkで、「ソト」とのつながりを創りだす、ほぼ唯一とも言ってよいくらいの役割を担っていることに興味があった。

 

「『観光地』ではない、鳥取」をつくりたい、見せたいのだと、総合ディレクターの林さんは言う。

だけど「『観光地』ではない、〇〇」をつくり、見せるための手段は、いまや、巷にあふれていると、私は思っている。そのような中で、なぜ、松本美枝子さんを選ばれたのか、が知りたいと思った。

 

「よんでみる9」でトークがはじまる前に、配布された「コンセプトブック」。

 

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たまたま早くついてしまった、わたしは、トークがはじまるまでの時間、これを眺めることができた。

 

表紙をめくり、うつくしい砂丘の写真が出てきたのち、バラバラな物語の断章を集めたかのような写真群が連なる。ひとつひとつの写真は、異なる物語の中から切り出されてきたかのようで、そのつながりを読み取ろうとする読み手の視点を、やんわりと拒絶する。

写真を最後までみると、写真を撮影した松本美枝子さんのエッセイがある。

エッセイを読むと、突然、これまでバラバラに見えてきた物語がひとつの糸でつながっていたことがわかる。

エッセイを読んでいただければわかるけれども、写真を見ていたときの拒絶される感じはこれだったのか、と納得するほど、ひとつひとつのエピソードは私的(プライベート)な物語に裏付けられている。

 

 ゴロゥちゃんの住む、山の家に行く。ゴロゥというのはあだ名で、本当は女の子だ。町からずいぶん離れた集落から、さらに山を登って載って、集落が五軒しかない山の中に住んでいる。たまには熊も出没するようだ。

 夜には森の奥から、昔、ぬえ鳥と呼ばれたトラツグミの鳴き声が響く。ひぃーひぃーと啼く。こんな鳴き声、生まれて初めて聞いた。昔の人の心の中で、「ぬえ鳥」が、いつしか妖怪の「ぬえ」へとすり替わっていったのがよく分かる。その響きにはおよそ鳥の声をは思えない、なんとも言えない恐ろしさがあるのだった。そんなことを考えながら、広いボロ屋のなかで身震いする。(松本美枝子「船と船の間を歩く」より)

 

このテキストを読んだにとって、「ゴロゥちゃん」とはどのように想像され、どのような心象風景を創りだすのだろう、と想像する。

もちろん(?)、「ゴロゥちゃん」は実在の人物で、偶然にもわたしは彼女のことを直接知っていたりもするのだけど、おそらくこのテキストを読む多くの人たちにとって、「ゴロゥちゃん」はフィクションともリアルともつかない不思議な存在にうつるのではないか。わたしは読者が勝手に思い描く、「ゴロゥちゃん」という男名の女の子を想像して、つい笑ってしまう。

「ゴロゥちゃん」との私的(プライベート)な物語は、日本人が集合的につくりだしてきた「ぬえ」の物語と接合していく。「ぬえ鳥」と「ぬえ」の関係もフィクションとリアルの間を縫っていく。

ふたつのフィクション/リアルの間が重ね合わされて、宙ぶらりんの「間」の世界が私たちの前に、立ち現われる。

 

このように考えてみると、はたして、この「コンセプトブック」をつくろうとする人(たち)は、何をもって、これを作ろうとしたのだろうか、と思わざるを得ないのである。

フィクション/リアルが重ね合わされた、宙ぶらりんの「間」の世界は、現地に訪れた途端に消えてしまう。…いや、もしかしたら本当は消えないのかもしれないけれど、あまりに読んだあとの感覚が、リアルから浮遊していて、「現地にいったとたんに、この世界は消えてしまうのではないか」という不安感を覚えさせる。

この「コンセプトブック」が創造/想像した世界を、そのままにするために、私たちに残された選択肢は、現地に行かないこと、なのである。

 

そういう意味で、私たちが「コンセプトブック」から受け取るメッセージは、「現地に行かなくてもよい」ということ、「あなたは遠くにいたままでよい」ということである。もっと積極的に「来てほしくない」と受け止めることすら可能だ。

「遠くにいるあなた」は、ただひたすら肯定される。「そのまま、遠くにいていいのだ」とうなづいてもらえる。

 

しかし考えてみれば、そもそも、PR(Public Relations;パブリック・リレーションズ)とは、そういうものであったのかもしれない。

 

パブリック・リレーションズ

一般には PRと略称される。企業公私の団体が「公衆」の理解共感協力をかちえ,これを恒久的に維持発展させるために組織的に行う活動。この考え方は 20世紀の初めアメリカに生れ,1930年代の世界的な不況を経験するなかで組織体の広報活動の理念経営哲学として著しく発達した。(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』

 

パブリック・リレーションズは、本来、パブリック・インフォメーション(Public Information)=「広報」とは区別されなければならない。パブリック・リレーションズは、「パブリック(公衆・民衆)の理解、共感、協力」を目的として行われるべきものだ。

アートプロジェクトにおけるパブリック・リレーションズを考えれば、それは必ずしも、その対象者にイベントに参加してもらう、現地に来てもらうことだけが目的とされるわけではないだろう。

 

鳥取藝住祭」についていえば、鳥取という遠くの地に思いを馳せる人たちを、1人でも2人でも増やすこと、がその目的になりえるのだろう。

 

「遠くにいるあなた」のためのパブリック・リレーションズとして、この「コンセプトブック」は大切な役割を担っているのかもしれない。

 

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