kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

言葉への信頼を取り戻すために

9月19日未明に、参議院本会議で、安全保障関連法案が可決・成立したことを、9月20日以降、安保保証関連法案採決を実現するための政府与党による一連の手法や、「自由と民主主義のための学生緊急行動(SEALDs)」を中心とした安保保障関連法案への反対運動、これらと関連しあいながら行われた野党議員による一連の動きに対する批判的な反省、検討が行われています。

9月20日は、早くも、共産党がほかの野党との選挙協力を呼びかけたことが報道され、話題となりました。

jp.reuters.com

 

そのような一連の問い直しのなかで議論されていた論点のひとつに、「なぜ、安保関連法案賛成派と反対派の議論はかみあわないのか?」というものがあり、わたしもこのことにとても興味を持っていたので、関心をもってこの記事を読みました。

jbpress.ismedia.jp

 

・・・というのも、9月12日に新宿で開催された安保関連法案賛成派の集会が開催された際にスピーチした内容がこちらの記事で取り上げられていたのですが、そこでとりあげられているスピーチを見る限り、安保関連法案反対派の運動がますます激しくなり、主張をしたり議論をしたりすることよりも、(どんなに強いかたちであれ)声を届かせることが優先されるように見えるなか、本来であれば「中立派」にいたような人たちの一部が、「賛成派」に動いているように見えたからです。

 

blogs.yahoo.co.jp

 

賛成の人の意見も読んで反対の人の意見も読んで
それで、まっすぐ真ん中から考えて
右とか左とかどうでもいいです 
(1人目のスピーカーの発言より)

 

戦争はしたくありません。

過去に戦ってくれたおじいちゃんたちのおかげで
好きなことができて、仕事ができる暮らしがあること忘れないでください。
だからもう二度と戦争はしてはいけません。
だから安保賛成です。
みなさんもまっすぐ真ん中から考えてください。 
(1人目のスピーカーの発言より)

 

戦争は嫌ですよね。
だからこそ、安保法案に賛成です。

同じ過ちを繰り返さないというならば、
それは戦争のことではなく、無知無関心のまま雰囲気に流されるという過ちを繰り返してはならないのだと思います。

(5人目のスピーカーの発言より)

 

「戦争には反対。もう二度と戦争をすべきではない」

「(左でも右でもなく)中立的な立場から考えるべき」

「無知無関心なままで、雰囲気に流されて、自分の頭で考えないことはよくない」

・・・などなど、現在、安保関連法案反対派の皆さんのスピーチのなかにも出てくるような言葉がたくさん共有されています。

違うのは、「戦争には反対」だから「安保関連法案が必要である」と考えるか否かの違いだけ。

おそらく、「中立」といったときに、あるいは「自分の頭で考える」といったときに見ている風景も大きく異なるのでしょう。

 

現在起きている、賛成派と反対派の「わかりあえなさ」は、この絶望的なまでの「見えている世界」の違いに起因しているように思います。

 

 さきほど紹介した、「なぜ、安保関連法案賛成派と反対派の議論はかみあわないのか?」について書かれた記事を執筆されているのは、九州大学大学院理学研究院教授(生態学・進化生物学)の矢原徹一氏

7月には、社会心理学者アーヴィング・ジャニスの「集団浅慮」についての議論を引用しながら、強行採決の問題点を指摘されています

 

矢原氏は、「国会前に足を運んでいる多くの市民は、安保法制に関する与党の態度に不安を感じた無党派層であるという認識を示したうえで、本来、安保関連法案に賛成でも反対でもない無党派層が声をあげはじめたのは、「2つの道徳的規範が破られた」からだと分析しています。

2つの「道徳的規範」とは、「他人に危害を加えないこと」と「嘘をつかずルールを守ること」。政府答弁などのやりとりの中で、これら2つの道徳的規範に抵触する危険性が示されたことが、無党派層に不安を感じさせた。それが反対運動の盛り上がりを生ん可能性があるわけです。

記事では、この後、賛成派と反対派の相克が生じたのは、「忠誠心」をめぐる道徳的規範の違いによるものではないか、と論じられていて興味深いです。

 

ここでは、それとは異なる提言に着目してみたいと思います。

矢原氏は、記事の最後に、保守とリベラルの相克を乗り越えるための3つの提言を行っています。そのうちの2つ目は次のとおりです。

 

第2に、「嘘をつかずルールを守る」という道徳規範については、保守・リベラルの立場を超えて厳守すべきだ。今回の安保法制をめぐっては、与党側がこの道 徳規範を軽視したために、議論が混乱した。立憲主義は長い歴史を経て作り出された基本的ルールであり、これを軽視した点で、与党の提案は改憲派憲法学者自民党の長老議員からも批判を浴びた。

 

今回、わたしが、(他の無党派層の方々同様)安保関連法案の成立に反対していた、主な理由はおそらくこれでした。

 

与党による強行採決が行われるたびに、「これは民主主義の否定だ!」という声が聞かれ、参議院での可決に至るまでの理事会や委員会での審議の進め方の乱暴さが報道されることによって、さらに、その声は大きくなっているように思います。

が、わたしとしては、強行採決が行われることそのものよりも、強行採決の前に行われる議論が非常に空疎なものであり、ほとんど議論としての意味をなさなかったことのほうが問題であると考えています。(参考記事:安保法案で野党が批判する「強行採決」とは? 問題点はどこにあるのか

 

そして、その不安をもっとも強く感じたのは、政治家たちの使う言葉のひとつひとつに、「まったく意味がない」ことに気づいた瞬間でした。

このことについては、今年7月に映画監督の想田和弘さんがアップされていた記事が、非常に示唆的でした。

 

www.magazine9.jp

 

想田さんは次のように述べています。

 

要は、言葉が崩壊している以上、法案について首相から国会でいかなる政治的言質を取ろうとも、何の意味もないのである。

 

それはそのまま、民主制の無意味化ないし崩壊を意味する

 

なにしろ、政治家との約束が、約束を意味しない。私たちは選挙の際には、候補者の公約=言葉を信じるしかないわけだが、その公約が意味をなさなく なる。思えば、憲法の「解釈改憲」自体が、憲法に明記された言葉を無意味化し崩壊させる行為であった。立憲民主政治の崩壊は、言葉の崩壊から始まるのであ る。

 

そしてそのことで不利益を被るのは、政治家ではない。

 

私たち主権者なのである。 

 

わたしはこれまで、「なぜ安保関連法案に反対なの?」と聞かれたときには、こう答えるようにしていました。

 

「安保関連法案そのものが今後の外交戦略として良いかどうかは、議論の余地があると思う。安保関連法案が存在しないことによるリスクの想定が、あまりに人によって異なるし、そんな状態で、なにがベストな策なのかを議論できるはずがない。

問題なのは、そういう議論をするためのスタート地点すら用意されず、ともに議論していくためのコースすらグチャグチャに壊されてしまっているところだと思う。こんな状態で『変更する』ことに賛成できない。」

 

今年4月から、本格的に「国語教育」「国語科教育」に関わるようになり、いつも、言葉の教育が、社会にたいしてできることはなんだろう、と考えつづけています。

おそらく、今、社会や教育にできるのは、まずは、完全に崩壊してしまったように見える言葉への信頼を取り戻すことなのではないか、と考えはじめています。

 

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