本日、横浜にあるシネマジャック&ベティで公開中の、小野さやか監督『恋とボルバキア』を見てきました。
この映画、昨年12/9から公開されているのですが、ドキュメンタリ―映画であることもあって公開されている映画館が少ない。今回(たった1週間とはいえ)シネマジャック&ベティで上映され、それを観ることができたのは本当にラッキーでした。
『恋とボルバキア』には、「カラフルにトランスする恋とか愛とかのドキュメンタリー」というキャッチコピーが付けられているけれども、まさに、「カラフルにトランスする」とか「恋とか愛とか」としか言いようがないような…そんな、「何ものか」に括りきれない、わたしたちの性や恋や愛…そしてその遠くに見え隠れする家族のかたちを、ぎこちないままに見せてくれる映画だったと思いました。
2017年は映画レビュー記事の中でも、「2017年はLGBT映画が興隆」であることが話題になったり、日本でも、いわゆる「LGBT」「性的マイノリティ」が登場する映画をいくつも見た実感があります。
しかし、その一方で、いわゆる「LGBT」「性的マイノリティ」という言葉から零れ落ちてしまう生き方やアイデンティティ、関係性のありようから、かえって目がそらされていくような、そんな印象をありました。
政治的なカテゴリーとしての「LGBT」「性的マイノリティ」が着目されていく中で、その人自身の「こうありたい自分」の表現や権利の問題がクローズアップされている感じがあったのも事実だと思います。
もちろん、「こうありたい自分」を表現していくことも、自分が「こうありたい」と願うライフスタイルを実現するために権利を主張していくことは、とても重要なこと。
すべての人たちが、自分らしく生きていくためのエンパワーメントを、できるだけサポートしていきたい、とわたしも思う。
でもその一方で、「こうありたい」という願いばかりがクローズアップされたときに、その人をとりまく他の人たちとの関係性や、その人自身が他の人との関わりで変わっていくことのできる可能性を閉じてしまったりはしないのだろうか…という点が気にかかっていて、そのことが、自分のなかに、違和感として存在していました。
『恋とボルバキア』は、そんな違和感をそのまま、掬い取ってくれた映画だったように思います。
本映画の監督である小野さやかさんは、『i-D』のインタビューに次のように答えています。
——トランスジェンダーは、性別規範・役割を押しつけられたり、男性あるいは女性としての身体的特徴に違和感を持ち、服装や生活に切り替えたり、身体レベルで性別を移行する人もいる。しかし、そういう在り方が受け入れられる土壌は、例えば(男性から女性に性別を移行する)トランス女性なら「ニューハーフ」として水商売・風俗の世界が主だったりしますよね。だからこそ、「プロパガンダ」のような空間では、見られる自分を消費される代わりに華やかな自分こそを見てほしい、という意識に傾きがちなのかなとも考えました。そのあたりの強い自意識はアイドルの在り方に通じるとおもいます。
まさにその通りだとおもいます。ですが、私が撮りたいと依頼した出演者のみんなは、他者への関心がちゃんとあった人たちなんですね。撮られることはもちろん、他人との関わりで化学反応が起きることを引き受ける気概が感じられた。本人たちとちゃんと話したわけじゃないんですけど、「こう見せたい自分」という自意識から一旦離れて、やりとりができる人たちでしたね。映画っていう枠の中で、こちらがこんなふうに撮りたいって言うと、もっとおもしろい代案が出てきたり。( 恋と性の振る舞い:『恋とボルバキア』 小野さやか監督インタビュー - i-D)(太字は引用者)
映画鑑賞後、この記事を読んで、「ああ、なるほど。そういうことだったのか」と、納得してしまいました。
このドキュメンタリ―映画に出てくる人たち―その人たちの生きる性や愛のスタイル、性や愛の問題との関わりかたは、実にさまざまだけれども―、あの人たちに共有していたのは、「他人との関わりで化学反応が起きることを引き受ける」ことができるという…そういうことだったのだな、と。
「愛」も「性」も、そして「家族」も、誰かとの関係なしには成り立たないし、そうであるとすれば、そこに、他人との関わりが生じないはずがない。
だけれども、「LGBT映画」といったときに登場する他者のありかたは、どこか固定されていて、極端な言い方をしてしまえば、「アライ」か「非-アライ」かの二分法でくくられてしまっているように見えるときすらある。
「当事者以外」(と括られてしまっている人たち)にできることは、「当事者」の要求や表現を「受け入れるか」「受け入れないか」のどちらかで、当事者はほとんど変わることがない。
もしかしたら、わたしが感じていた違和感は、その「変わらなさ」なのかもしれない…とあらためて思いました。
もちろん、マイノリティに対して、マジョリティが「お前が変われ」と要求することは暴力でしかない。でもだからといって、「変わらない」ことを要求するのも、同じように暴力なのだと思う。
私たち皆の中に「変わりたい」と思える部分、「変わりたくない」と思える部分が存在していて、そしてそれは私たちの生活や人生の流れのなかで、流動的に変わっていきつつあるものでもあって…そういうなかで、愛や性の問題が出てきたり、消えていったりする。
そんな、考えてみれば、私たちすべてにとって当たり前に存在しているような世界。そんな世界を『恋とボルバキア』はそのまま、提示してくれている。
この映画は、シネマジャック&ベティでも、たった3/30までしか上映せず、その後も(地方映画館ではいくつか上映が予定されているところもあるようだが)あまり観られるところは多くないようで、とても、もったいないと思う。
この映画、これからどうなっていくんだろう…。
もっともっとたくさんの人たちに観てもらいたいし、その観た人たちといろいろな話がしてみたい。…そんなことを思わせる映画だった。