萩生田文科相は、1月19日の記者会見で、文部科学省内に「「令和の日本型学校教育」を担う教師の人材確保・質向上に関する検討本部」を立ち上げることを表明しました。
この件に関しては、教育新聞が「「教師を再び憧れの職業に」 文科相、検討本部設置を表明」(2021/1/19)と報じるほか、Yahoo!ニュースに前屋毅さん(フリージャーナリスト)の記事「「憧れの職業」になっていないのは教員の責任なのか、萩生田文科相の気になる言い方」(2021/1/20)が掲載される他、それほど話題になっているわけではないようですが、私はこの省内の検討本部立ち上げと、それに対する文科相の説明に、大きな違和感を覚えました。
検討本部の立ち上げに関する違和感というのは、簡単にいえば、「なんで、それ、必要なの?」ということです。
記者会見では、これについて、はじめに次のように説明されています。
最後に、本日、私の下に「『令和の日本型学校教育』を担う教師の人材確保・質向上に関する検討本部」を設置することとしましたのでご報告いたします。
…(中略)…
この点、中央教育審議会においても、「『令和の日本型学校教育』を実現するための、教員養成・採用・研修の在り方」について、今後更に検討していくこととされており、また、教育再生実行会議におけるご議論においても、個別最適な学びを実現するためには教師の指導力の向上も重要であるとのご意見を多くいただいていることから、当面の取組とともに、中長期的な実効性ある方策を文部科学省を挙げて検討していくために、私の下に検討本部を設置することといたしました。
私自身が先頭に立ち、質の高い教師の確保に向けて取組を進めてまいりたいと思います。
ここで言及されているとおり、 すでに、この件についてはすでに、中央教育審議会でも議論が進められているのです*1。
中央教育審議会の「『令和の日本型学校教育』を実現するため…」は、昨年(2020年)10月に中間報告を出しています。
「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(中間まとめ)(令和2年10月 初等中等教育分科会):文部科学省
その中で、教員養成・採用・研修について議論について言及された部分は、以下のとおり(概要PDF, p11)
なお、1/26に答申そのもののまとめも出されましたが、その内容を見ても、中間まとめから、(2)と(3)のレイアウト(概要版に示されているスライドのレイアウト)が変更されたくらいで、内容としては、それほど大きな変更はなさそうでした。
「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(答申)(中教審第228号):文部科学省
さてこれらの中に「(5) 教師の人材確保」として示されている内容の本文にあたると、以下のような記述があります。
● 近年、採用倍率の低下や教師不足の深刻化など,必要な教師の確保に苦慮する例が生じており、教育の仕事に意欲を持つより多くの志望者の確保等が求められている。(本文PDF, p71)
記者会見の中で「この点、中央教育審議会においても、…更に検討していくこととされており」と言われているのは、おそらく、このことを言っているのだろうと思います。
そうだとしたら、これまでどおり、中央教育審議会による議論の経過を見守り、答申を受けて、その政策的実現に努めれば良いのではないでしょうか。
なぜ、わざわざ中間報告が出されて数か月の段階で、その中の1項目について、突然、検討本部を設置することになったのか、がよくわかりません。
おそらく、同じような疑問を持たれたからではないかと思いますが、記者会見の中でも記者から、その検討本部の「具体的な運営方法と検討事項」って何なの?、と質問を受けています。
それに対する回答のなかで「目指すべき出口」として示された内容が、こちら。
最後、目指すべき出口は何かと言ったら、私、常に申し上げているように、教師という職業を再び憧れの職業にしっかりとバージョンアップしてですね、志願者を増やしていくということにしたいと思います。
そのためには、働き方改革や免許制度や、あるいはせっかく少人数やICT教育が始まるのに、今の教職養成課程では、もう誤解を恐れず申し上げれば、昭和の時代からの教職課程をずっとやっているわけじゃないですか。
そうすると、こんなに学校のフェーズが変わるのに、教えている大学のトップの人たちは、まさに昔からの教育論や教育技術のお話をしているわけですから、この辺も含めてちょっと大きく変えていかないと、時代に合った教員養成できないし、
また、その目指す教員の皆さんが、何となく今までは大変な職業だというのが少し世の中に染み付いてしまっていますけれど、やっぱり夢のある、やりがいのある仕事なのだということをしっかり理解してもらえるような、そういう教師像っていうものを求めて検討していきたいなと思っています。
教育新聞では、この冒頭の一文がタイトルで取り上げられていたわけですが、それに便乗するかたちで、突然出てきた「教職養成課程」への非難(?)がなかなかな内容です。「誤解を恐れず申し上げれば」という前置きをしつつ…
「昭和の時代からの教職課程をずっとやっている」
「昔からの教育論や教育技術のお話をしている」
…という批判が述べられます。
なぜ、突然このようなことを言いだしたのか。その根拠が、わたしにはよくわかりません。
さきほどお示しした、中央教育審議会の中間報告でも、「(5)教師の人材確保」は検討事項として挙げられていますが、その中に、教職養成課程の問題を指摘している部分はありません。
ではもうひとつ挙げられている教育再生実行会議の方かもしれない、と思って会議資料を見てみたのですが、最近の会議資料を見てみても、教職養成課程について述べられているのは「教職養成課程における『教育格差』の必修化」(松岡亮二「『教育格差』縮小のための政策提言」)くらいしか少し探したくらいでは見当たらず(探し方が悪いのかもしれませんが…)、ちょっとよくわかりません。
それもそのはずで、教職養成課程に関しては、2016年の教育職員免許法改正と「教職コアカリキュラム」の作成、2017年の教育職員免許法施行規則の改正を受けて、いま、「改革の真っ最中」という感じなのです。
これについては、2018年12月7日に行われた日本教職大学協会の研究大会で、文部科学省総合政策教育局長が発表された際の資料にも、わかりやすくまとめられています(『2019年度日本教職大学院協会年報』, p68)
このようは法改正、政策の実行をおこなっているただ中に、「昭和の時代」から変わっていない、「昔」から変わっていない、という非難の言葉を向ける意味は、いったいなんなのでしょうか。
佐藤郁也(2019)『大学改革の迷走』(ちくま新書)の第2章「PDCAとPdCaのあいだ―和製マネジメント・サイクルの幻想」では、大学改革のなかでよく求められる「PDCA」が実際には、書類としての「P」と「C」の作成ばかりが強調される(=「PdCa」という)ミス・マネジメントサイクルになっていることが批判されています。が、今回の検討本部の立ち上げは、もはや「PdCa」ですらない。
「PdPd」(あるいは「PPPP」?)で、「Plan」の作成ばかりが目的化して、その根拠となるような「C」や「A」がないを合理化するために、「昭和時代」「昔」といったステレオタイプ的な見方が使われているのではないでしょうか。
同書のなかでは、大学改革が「道徳劇」となってしまっており、大学がその「道徳的」というドラマの中の主要キャラクター(=「馬鹿(愚か者)」)として位置付けられていることが、批判的に論じられています。
今回の批判も、大学における教職課程の教員を「馬鹿(愚か者)」役として位置付けることで、「道徳劇」としての教育改革を推し進めようとしているもののように見えます。
このような「道徳劇」を続行させ、一部のうまくいった大学や教員だけを「英雄」として位置付け続けたとしても、教師が「憧れの職業」になることはないでしょう。
教師をふたたび「憧れの職業」にしたいのであれば、誰も「馬鹿(愚か者)」にも「悪漢」にもならない、新たな「劇」を、みんなのパフォーマンスによって創り上げていく必要があるのだと思います。
*(2021/1/28) 1/26に、中央教育審議会答申「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して」が公開されたことにともない、記事内容を加筆しました。答申については、以下のページをご参照ください。