紀伊国屋書店本店9階イベントスペースで開催された、「リフレクション(省察)で教師は育つ!~『リフレクション大全』『リフレクション入門』『小学校の模擬授業とリフレクションで学ぶ 授業づくりの考え方』刊行記念セミナー」に参加してきました。
以前、このブログでもご紹介した、渡辺貴裕『小学校の模擬授業とリフレクションで学ぶ 授業づくりの考え方』、REFLECT(一般社団法人学び続ける教師のための協会)編『リフレクション入門』、ネットワーク編集委員会『リフレクション大全(授業づくりネットワーク No.31)』の著者・編者が集まり、最近、教育界でますますホットになりつつある「リフレクション」についてトークする(!)という、トークイベントでした。
わたし自身の問題意識としては、今、教育界のみならずいろいろな業界で、「リフレクション(reflection; 省察)」という用語が氾濫しすぎていて、それこそ、同じ「リフレクション」という言葉でも、ピンからキリまである状態…さらにいうと、リフレクト(省察)すべきだとされている内容や、その目指すべき状況も、バラバラだったりして…いったい、この先どうなっていくんだろう…?と思っていたことがあります。
そんな中、教育業界における「リフレクション(reflection)」という用語の氾濫、その雑多な感じをそのまま提示してきたような『 リフレクション大全(授業づくりネットワーク No.31』を見て、逆に、感動を覚えたり、
『リフレクション入門』を読んで、2012年に邦訳が出版された『教師教育学』以降のコルトハーヘンの理論が、ますます、個としての教師の実存に気づくことに向かっていることに、ハッとさせられたりしていたところだったので、この三者が、今、「リフレクション」について何を語るのか、果たして、そこにクロスポイントは見出せるのか?という点が、非常に気になっていたわけです。
結果として、なにかわたしなりに、「これが答えだ!」と言えるようなクロスポイントが見いだせたわけではなかったけれど、それでも、これら、教師のリフレクションにかかわる書籍の編著にかかわった、三者の現在の問題意識についてかなりクリアにできたことで、わたしが、これから考えていくべきことも明確になった気がしています。
おそらく、今回のトークイベントは平日の午後開催でしたし、会場もほぼ満員でしたので、「行きたいけど、行けなかった」方が多くいらっしゃるのではないかと推測します。
そこで、わたしなりに、トークイベントの内容のメモをとりました。本イベントの司会でもある渡辺先生にご許可もいただきましたので、そのメモの内容をブログで公開します。
~『リフレクション大全』『リフレクション入門』『小学校の模擬授業とリフレクションで学ぶ 授業づくりの考え方』刊行記念セミナー
日時:2019年3月28日(木)14:00~15:30
会場:紀伊国屋書店本店イベントスペース
0.(渡辺)今日の流れと趣旨。
(1) 「リフレクション」と教育界
・「リフレクション」という言葉を、最近教育業界でも見るようになってきた。
(2) 教師の学び方に対する考え方の変化
・自分の外にあるものを学んで学んでいくのではなく、自分がなんらかのかたちでかかわってきたものから学んでいく、学びを引き出していくことが「リフレクション」と呼べるのではないか。
・「リフレクション」という発想は以前からあったが、この数年、特に脚光を浴びてきた。ひとつの転機を迎えているように思う。
・教師の学び方に関する考え方の転機。
・4月になると、教育書コーナーに、「こうすればうまくいく」という本がたくさん並ぶが、そうではない学びがあるのではないか。
1.それぞれの本の紹介
(1) 『リフレクション大全』
(山辺)
・授業づくりネットワークが、1988年に設立された教育科学研究会をもとにした、民間の教育団体が発行している雑誌である。雑誌から書籍のかたちにかわったが、現在も通年をとおして発行されている。
・雑誌形態からきている書籍であるため、「リフレクション大全」というタイトルをつけられていることで、ミックスフライ定食のような本だと思った。
・「リフレクション」というところでは共通しているが、果たして、ひとつひとつの記事はあっているのかな?と疑問を感じた。「同じリフレクションを話しているのか?」という点は疑問。それをつなげるのは読者の役割であると思った。かなり読者の力量にゆだねられた本である。
・出だしがすごい。流れがすごい。すべてを通して読むことが知的にとてもハードな作業。
・冒頭に佐伯先生の対談が入っているが、たった数ページなのに、とても知的な体力を必要とする。そこで佐伯先生がいっているポイントは「言語主義」の問題。報告書にかけないような、言語化できない知り方が閉ざされてしまう。報告書だけに書ける言語だけが残っていく。それ以外の感じ方が閉じられている。そのなかで「感じ方の復権」が提唱されている。このような流れのなかで、「一人称の語り」を大切にしていこうということが、対談としての結論として言われている。
・また、リフレクションのツールとして、ファシリテーショングラフィック、ブログ、日記、ティーチング・ポートフォリオなどさまざまなものを使ったリフレクションが紹介されている。
・最後まで読んでも「感じ方の復権」「一人称の語り」が、本当に大切にしていますか?というような問いかけを最後まで受けるような本になっている。
・最初に投げられた問いが、最後まで続けられている。
(渡辺)
・佐伯先生の対談・語りは、非常に面白い。
・佐伯先生は認知心理学者として非常に有名な方だが、1~2年頃前に、『ビデオによるリフレクション入門』を出版している。その中で「過激」で面白いのが、これまでのショーン本の翻訳をバンバン批判しているところである。かなり佐伯先生がわかりやすく説明していて、面白い。
・この本は、「ごった煮」である。ブログ、日記、紙皿、ノートを使ったものがある。それらは裏をかえすと、いかに我々は、「きちっと文章に書く」ということに縛られてきたかということの裏返しだと思う。だから、個々の記事がどうこうというより「ごった煮」として、一人称を大切にするリフレクションの提起の仕方を考えさせる本でらう。
(2)『リフレクション入門』
(渡辺)
・リフレクションには、いくつかの系譜があるが、コルトハーヘンの手法を紹介し、それをわかりやすく解説している。しかもコルトハーヘンに関しては、2010年『教師教育学』が出版された。これはたしかに質の高い本であったが、かなりボリュームもあるし、レベルも高い。その意味で、こちらがリフレクションの発想と具体的なやり方を解説しているという点で、手にとりやすい。
・しかも、2010年の時点では出ていなかったコルトハーヘンの考え方、「コアリフレクション」、より具体的には「コア・クオリティ」や「玉ねぎモデル」をきちんと解説している日本の本になる
・単に、コルトハーヘンの考え方の受け入れではなく、REFLECTのメンバー5人で、4年かけて続けてきたなかで、日本での展開事例も盛り込まれている。具体的に行われたワークと、その経過、日本の文脈に即したことが書かれている点で、そこがかなり手がかりになる。
→ゼミ開きのときに「コア・クオリティ」を明らかにするワークなど、イメージがわかりやすい。
(石川)
・現場実践者の人がたくさんいることを考えると、コルトハーヘンの考え方を軸としたいろいろな考え方が学べるが、コルトハーヘンを実践の人たちを背景に、理論を構築しているが、その背景の部分がよくわかる。
ショーンやコルトハーヘンを読むことは、1冊読むだけでも、現場の人間にとっては非常に大変である。もちろん「入門」とはいえ、それなりに読み解くのが難しいところがあるがはじめにリフレクションを知るための入門=『リフレクション入門』として読んでいくことができる。
・また、5名のチームで活動をしているということであるが、5名それぞれの軸としているポイントが異なるのも面白い。
・リフレクションについては、最新の情報をどんどん入れていかなければならないのだということがよくわかった。
(3) 『授業づくりの考え方』
(石川)
・自分は、現場の実践家であり、このあと実践に戻りたいと思っている。
・この書籍に関していうと、若い学び手の人たちがどのように学んでいくかということが読み取っていける。最初のページから最後のページまで、ステップのかたちで学んでいけるところが一番の強みである。
・『リフレクション入門』『リフレクション大全』をもっとも多くの方がもっていると思われるが、ミドルリーダーとしては、この書籍を手にもって、現場での教師教育にかかわってほしいと思う。
・自分がもっとも面白いと思ったのは、第7章。現在自分は大阪にかかわることが多いが、国語科の話し合いの活動のなかで、いつの間にか教科内容の話ではなくて、教材そのもののコンテンツの話が進んでいってしまうことがある。「話す・聞く」の技能について先生も学習者も進めていかないといけないのだが、いつの間にか、教師も子どももコンテンツそのもののについてフォーカスしてしまう。そこを、どのように教科の問題としてリフレクションしていくのか、という点が問題になる。
→そのようなときに、第7章でのリフレクションの進め方が非常に興味深かった。このように、教科の学びの議論につなげていけばよいのだと思った。
(山辺)
・渡辺先生が、大学・大学院の授業で、このような実践をされているということは知っていた。しかしここまで詳しくどのようにやっているのかを知る機会はなかった。
・そのため、「渡辺さんだからでしょ」というところがあったが、1冊の本をかけて、どのように実践しているのかというコツや理論を紹介してもらえると、「少しは、渡辺先生に近づけるのではないか」と思わせられる本。
・逆に、ここまで1冊かけて紹介してもらえないと、わからないのではないかと思った。
2.用意した質問をめぐってのトーク
①本書作成にいたった経緯
(石川)
・現在、「リフレクション」をめぐっておきていることの諸相が伝わるといいと考えた。
現在、現場に「リフレクション」が強圧的に入ってきている。それに対して「リフレクション」を考え直していくきっかけになればと考えた。
・しかしAmazonレビューなども見てみると「教師にとってのリフレクション」の本だと受け入れられているという問題がある。自分は、授業の中のリフレクションと、教師のリフレクションが同じ地平にあると考えるが、それが断絶したものとしてとらえられているのだと思った
・リフレクションの「型」としても、学級の中で、コア・リフレクションが機能していると思うが、教師のリフレクションの問題を考えることはそのような意味で必須だろと思うが、それを一足飛びにして、子どものリフレクションが考えられると思っている。いかに、このギャップに手が届くのか。
(山辺)
・コルトハーヘンの理論を研究してきた研究者たちが、一般社団法人REFLECTをつかって、研修・ワークショップを実施してきた。
・ワークショップでできることの限界もあるし、ワークショップが終わったあとに持ち帰ってきてもらって読んでもらえるものが何かほしいとも思った。
・コルトハーヘンの書籍は、英語でたくさん出版されているのにもかかわらず、邦訳書は1冊しか出版されていない。現場の教員にとって、英語で読むことは難しく、より多くの邦訳書が出版されることが望まれる。
・ワークショップに来られない人たちにも届けたいという思いから、『リフレクション入門』を出すことになった。
(渡辺)
・経緯については、一部、本書にも書いている。前任校で、学生たちが自主的な勉強会で議論をしているときに、自分がいって、ちょっとコメントをすると、自分の経験と結びつけて、スッと理解していけるという経験をした。
・これまでの「教育方法」のテキストは役に立ってきたのか。もっと現場の教員にとって意味のあるもの、と考えたときにこのかたちになった。
・現在の大学で取り組み発展するなかで見えてきたのは、単に模擬授業とその振り返りでやっていくと、授業の作り方のみならず、授業実践からの学び方について学習ができるということ。
・授業実践に対するリフレクションの仕方自体を、模擬授業+検討会というフォーマットを使って学んでいけるんだなぁとわかった。
・本書そのものを書き始めたのは、前任校在籍時であったが、検討会での会話やわたあめ先生の投げかけ、リフレクションを深めていくという部分については、そういう2段階があって展開されていった部分がある。
②自分の本の強みは?
(石川)
・この本の強みは、「ごった煮」であるということ。いろいろなものが総覧的に手に入る。これを本格的に展開していくには、渡辺先生の書籍のように1冊分がなければならない。
・これを入り口に、さらなる書籍にあたっていかなければならないし、現場の方であれば、自分たちで実践をしていかなければならない。
・そういう入り口としては、良い本ができたと思った。
(山辺)
・『リフレクション入門』の強みは、コルトハーヘンという最前線の研究者の、日本語に訳されていないものをたくさん盛り込めたこと。
・もうひとつは、2010年にコルトハーヘンが初来日をしてから9年経つが、その9年間、コルトハーヘンの研修を直に受け続けてきた。たくさん自分たちの研修のダメ出しをしながら実践を続けてきた。そういう意味では、論文に書かれていない部分についても盛り込めているのではないかと思っている。今のところのコルトハーヘンの議論は追えているのではないか。
Q(渡辺)REFLECTがコルトハーヘンにかかわりはじめたときと、現時点での理解でかわった部分はあるか?
A 『教師教育学』は、テーマとしては、教師がいかに児童の生活にあうように改良していくか?というところから話をしている本である。「リアリスティック・アプローチ」、すなわち子どもの生活の実態からどのように授業をするか、ということが全体的なテーマになっている。授業が前面に出ていて、教師の技法としてのリフレクションが前面に出ていたが、9年間過ごしてみると、コルトハーヘンがしていることは、教師へのコーチングなのかなと思った。教師が自分がなにもので、何がしたいのかがわかっていないと、子どもに対してもセンシティブでいられない。そういう感知できる力を身につけられない、と思っているのではないか。そういう意味で、教師のコーチングをまずして、教師の技法もひとりひとりの先生によって違ってくるという理解に変わってきている。
Q(石川)コルトハーヘン先生自身が、REFLECTとのかかわりの中で変わっていっている、成長していっているという側面もあるのでは。それが重要な部分ではないか。
Q(渡辺)東アジア圏のチームとコラボレーションをするのは、REFLECTがはじめなのか?
A(山辺)REFLECTがはじめである。米国ではそのような大学があるが、東アジアではREFLECTだけである。なぜ私たちと付き合ってくれるのはわからなない。コルトハーヘン先生自身も成長していると感じている。
(渡辺)
・「ああ、こういうことあるある!」と思ってもらえる部分が、たくさんある本であると思う。そういう共感の部分については、大切にしてきた。
③ 互いの本に関して面白かった点や尋ねてみたい点は?
Q (山辺)最初のほうで、「セッション2」で「こころみる」がおわったあとに、「かえりみる」のところで、理恵子が「今回もやっぱり先生のペースで進んでいる感じがした」と言っているが、学生同士の話で、ここまでつっこんだ話が出るのがすごいと思った。学生たちもよいことを褒め合って、傷つけあうことを怖がることが多い。このようにそこそこうまくいった授業だとなおさらそうなのに、このようにツッコミを入れるのがすごい。
このような質問が、なぜ出てくるのかが知りたい。
A 最初に自分がかいた部分は「ものの重さ」であったが、今回出版したときには文章が変わっている。模擬授業がおわったあとの「かえりみる」の段階のときに、以前だったら、学生がいきなりやり方の提案をしていた。今回出版にあたって、学生たちが「こう感じた」と言っている部分を多く掲載しているようにしている。
現在の大学院でのディスカッションの中で、「ふりかえる」でワーッと言い合うなかでいろいろなことをつかんでいると感じた。
はじめは良いことを言おうとしてしまう、しかしこのようなことを率直に言ったほうが、そういうのを出し合ったほうが、このような深まりが生じるということを、学生たちがつかんできたので、こういうことを書けるようになった。
Q 山辺さんとしては、そのようなことは起こりにくいと思うのか?
A そう思う。もともとイキの良い学生たちなのか、学生たちの関係がよほどよくないと難しい。
(石川)岸和田の小学校で、同じようなかたちで校内研修を進めているが、同じような経過をたどっている。カチカチの先生方が同じように進めていけるようになる。
(渡辺)これはなんなのだろうか?最初は「こう感じました。だから~です」と結論を付け加えてしまう。感じたことだけで発言が追われるようになること。それがひとつのステップになるように思う。
(石川)「セッション7」のことにこだわると、あそこで、ダーッと読んでいきながら「あっ」と気づいたのが、サジェスチョンの難しさ。わたあめ先生のようなサジェスチョンをすることは案外難しい
(渡辺)それがこの本の持ち味であり、限界である。どういうことかというと、この本では、上から「こういうやり方がよい」と言うような形の振り返りからは変わっているが、わたあめ先生が「降臨してくる」感じがある。わたあめ先生の「名人芸」がある。もっと学生たち自身の対話で進めていってほしいし、実際にそれはできると思う。しかし、全部対話にしてみると読みにくいし、それが難しい。今、自分が書くとしたら、まず最初に投げかける問いについて書くのではないか、と思う。突然、わたあめ先生が降臨して「こうすればいい」というのではなく、はじめにどういう問いから考えるか。
(山辺)大学の教員養成にかかわっている人間が読むと、ピリッとするのではないか。大学の教員養成にかかわる人間が、これを読むと、自分はこういうことをできなくてはならないのかと、背筋を整える感じがした。
(渡辺)これに関して『リフレクション大全』について質問をしてみたい。96頁の「インプロではどのようなリフレクションをしているのか」。
ここで言われているのが、できるだけ、短くすること。1時間~2時間の公演であっても、リフレクションは5~10分」。そのときに、感じたことをそのままいう。自分が感じたことをパパッと出し合って、そこで終わる。
けっこう言葉で浮かび上がらせることに重きをおきがちだが、インプロでは、それぞれが感じたことを浮き彫りに出したあとは、プレイヤーがそれぞれに感じればいい。それがプレイヤーの行動に反映されていくと考えるようだ。それ以上、言語化されると、「考えて動く」ことになってしまい、インプロとしては違う方向になってしまう。
そのようなことが、石川さんのいう「見れば、変わる」という点と通ずるのではないか。
(石川)九州の荒れた中学校に入り、理科の授業を見る。初任の先生の授業を見るわけだが、1番前の女の子が、ふとももをむき出しにして、棒状のところにのっけている。そういう映像を、生徒半分・教員半分の教室にいってみてもらうと、先生方は全員ふとももをみている。学生は全員ふとももに気付かないということが起こる。
さきほどの、高尾論に引き付けていうと、そこを切り出してみていくことで、自分のリフレクションの癖がクリアになっていくということはある。どこをどのように見ているのか。どのような問いをわたすか、という点はとても重要である。
高尾論そのものについては、なにも言えないが、「セルフ1」「セルフ2」については、どちらかが「良いもの」、どちらかが「悪いもの」と語られがちだが、自分としてはどちらも必要なのではないかという立場である。「セルフ1」=悪ではないのではないか。
(渡辺)「セルフ2」=身体・無意識なので、それによってパッと動けるということだと思うが、言語的に深めるということの意義もありそうだということだと思う。それについてはどう思うか。
(山辺)半分違うことを考えていた。「見えたら気付く」という話が出ていたが、それには他者が必要なのではないか。自分は『授業づくりの考え方』で、こんな模擬授業をしてフィードバックしていくコミュニティがあると素敵だと思う反面、そのようなコミュニティがない人たちにとってはつらいと思った。『リフレクション大全』でもコミュニティが大切にされている。
個人でも、無意識の部分にも目を向けて、自覚化していくことは無理なのかと思った。『リフレクション入門』でも、協働的なリフレクションが協調されているが、それはどうなのだろう?個人的にリフレクションすることはできないのか?
(渡辺)教育は社会的な営みだが、教師や教師を目指す学生たちは、お互いに協働的に学ぶということが難しいのではないかと思うところがある。
演劇的手法の研究についていうと、指導案検討のなかで演劇的手法を入れてきた授業に対して、事前に、同僚の先生と「やってみる」ということが難しいようだ。協働的に何かをやっていくというのが難しいのかもしれない。
(石川)教師たちのゴールは、ある程度のリフレクションができることではないかと思う。教師たちは、ある程度孤立しているし、チームを作れなくて苦労している。個人で読んでもらって、個人のリフレクションを突き詰めるということもあるのではないか。自分の今の段階でのゴールは、教師たちが自分自身でも、リフレクションができるようになることではないか。ただ、その道筋は難しい。
(渡辺)その点に関して、コルトハーヘンの理論において難しいと思ったのが、「コア・リフレクション」など、自分の内へ内へと向かっていったときに、そこに他者はどのように位置づくのか。
自分が大学院でやっている実践でも、立場は違うけれども、同じひとつの目標に向かってアプローチしていくということはよくいう。「コア・リフレクション」は内へ内へと向き合っていく。
(山辺)コルトハーヘンでは、違う教育観・違う目標に向かっているが、教師だから大枠ではつながっているだろうということが前提とされている。しかし教師がひとりひとり言葉にすることは違ってくるはずだ。その違いを知っていることで、わかりあえる可能性が出てくる。それがないときに、下手に気をつかったり、ぎくしゃくした関係性をつくるよりは、まずそれぞれが自分で自分自身のことを知っておくことが大事だということであると思う。
(渡辺)以前、コルトハーヘンが来日したときに、お互いに自分の実践について補佐しあうようなワークを経験した。そのときに自分のペアになったのが、「アセッサー」であった。自分の身分を隠して職場にいて、人事評価・昇任の判断を行う「アセッサー」について、自分はまったく知らなった。自分には相手のやっていることはよくわからないが、相手にとってはいろいろな気づきがあったようだ。あの感覚はたしかに面白いし、そこにつながる感じがした。
④今回の本でできなかったこと
(山辺)強みと表裏一体だが、「できなかったこと」は、個人的に思っているのは、コルトハーヘンから離れること。コルトハーヘンにとって、アジアとの付き合いについては、自分たちが一番濃いとは思うが、「日本のことは自分たちで考えて」と言われている。本書の後半の実践例は、自分たちで作ってきたものではなるが、もっと理論的に方法論になるようにまとめていく必要があると思っている。
(石川)『リフレクション大全』については、「大全」なのでとくかく網羅しようとした。40人の理事と編集者とで努力したが、もっと自分たちの気付いていなものがあるのではないか、もっと見えていない現場の流れがあるのではないかと考えている。そのような意味では、そういうものを拾っていきたい。自分たちの本では紙幅が決まっている。そのため、その制限を取り払うことはできない。
(渡辺)リフレクションについて、教育では最近言われているが、看護、精神保健などではもっと早くから言われている。そういういろいろなところでの動きとの連続性を考えていくことが必要かとは思う。
自分の本に関しては、わたあめ先生がポーンと出てくるところ。自分たちで深めていくことが必要だし、学生たちが実際にできているところでもある。それをアシストするわたあめ先生の役割…という点が、今回できなかったことである。
今回の本について、学生たちに読み合わせをしてもらったが、そのときに「自分たちのふだんやっているディスカッションのほうが、授業者のやりたいことを引き出している」と学生がコメントしていた。そういう意味では、まだこれも途中段階である。
なお、実際の学生たちの検討会の様子は、教師教育学会のホームページで、動画のリンクをつけているので、そこから見ることができる。
(5) プチリフレクション入り質疑応答タイム
Q 「わたあめ先生」がいない状況で検討会をするなかで、「8つの質問」以外にできること。
A(渡辺) 「8つの質問」についてもべったり使っているわけではない。結論を言わず、感じたことだけをいう。それをするためには、できるだけシンプルにしていくことが大事なのではないかと思っている。
Q リフレクションだけを切り分けるのに違和感がある。語りや会話とつながっていくもの。現在、リフレクションは、看護、心理療法、ビジネスなどでも同時多発的に行わている。それがいろいろなところで行われている。それをつなぐもの、ベースとなるものはなんなのか?社会構成主義的な考えなのか?
A(山辺)ひとつは、先行き不透明で多様になっていることがあるのではないか。いろいろな人が入ってくる状況があり、先行き不明になると、即興性がとても大切になる。即興性が大切になるということは、「わたあめ先生」が言っているように、予想や実験をとおして、子どもに育てないものはなんだろう?自分がしたいことはなに?を見通せてないと、わけがわからなくなってしまうので、どこでもリフレクションが大切にされているのではないか。
A(渡辺)集団の動かし方として、リーダーが引っ張るというかたちではないかたちが同時多発的に思っている。中原淳さんの組織開発の本なども手がかりになるのではないか。
(石川)学校教育的にいうと、国語・算数・理科・社会という枠組みそのものが、経年劣化で疲労骨折している。そういうことについて、みんなで少しずつ持ち寄ってお話ししなければならないという事態がどこでも起こっている。そこから目をそらさないでやることが必要なのではないか。