kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「隠れたカリキュラム」のなかの量的調査~「ここにいる」を言うための言葉を育てる(2)~

前回の記事で、2022年2月18日に行われた横浜国立大学附属横浜中学校での校内研究会(非公開)での提案授業「Fy74期生のコロナ禍における○○論~根拠の適切さを考えて自分の考えが伝わる文章になるように工夫する~」と、それに対する協議会での反応(に、わたしがショックを受けたこと)について書いた。

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この研究会のために、単元を構想し、当日授業を提案してくださった柳屋亮先生にとっては、それこそ休日返上で丁寧に考えてきた授業。

それが一蹴されたように感じたのではないか、と心配になり、前回記事で書いたような私自身の考えをメールでお伝えしたところ、これまた丁寧なご返信をいただいた。

 

柳屋先生ご自身から、転載の許可もいただいたので、メールの一部をそのまま引用する。

 

国語の授業やTOFY(総合的な学習の時間)などで生徒が自分の考えを述べる場合、ランキングやアンケート(文章記述ではなく点数)を根拠に述べる傾向が強く感じることから始まった授業構想でした。

経験や思いなど質的な情報を基に自分の考えを述べようとすると、考えと根拠がうまくつながっていないことが多く、質的な情報を基に自分の考えを読み手に伝わる文章を書けるようにさせたいという思いがありました。

だから、インタビューを基に自分の考えを読み手に伝わるように書かせるという学習活動については自分自身とても納得しています。

 

一方で、当初(というより授業を開始する直前まで)指導要領との関係を考えた時に自分の中で指導事項と学習課題との関係がうまく結び付けられませんでした。

教科書を見ても一般的な「意見文」はまず自分の考えがあり、その考えを支える根拠を探し出すという流れになっています。

もちろん、自分の考えを導き出すために様々な情報を探し出すのですが、自分の考えは自明のこととして扱われているように感じます。

しかし、今回はインタビュー内容を読んだことを基に自分の考えを導き出します。そこには、それまでの自分の考えを基にしながらも他者の経験や思いを見ながら自分の考えが形成されます。

だからこそ、先生がおっしゃってくださったようにインタビュー内容の比較と自分の考えを往還しながら最終的な考えの形成にいたるのだと思っています。

教科書の意見文を書き方については自分の考えから根拠を探すようなトップダウン的な書き方を求めているように思います。

しかし、今回の授業構想では、生徒の経験や思いから自分の考えを導き出すようなボトムアップ式の書き方をしていく必要があります。ここにどうやって、今回行う学習活動と「根拠の適切さ」という指導要領にある指導事項を結び付けたらよいのかということに戸惑いが生じました。

 

しかし、最終的には生徒の経験や思いは事実であり、それを解釈して自分の考えを支える根拠とすることは、適切な根拠を考えることをつながることであるという考えに至りました。あまり意見文でこのような実践はなく、不安なこともありましたが、提案性はあったと思います。

 

これについては様々な反応があると思います。

現に協議の時にも様々な意見が出されました。そのことについて、緊張はしていましたが、嫌な思いをしてはいません。むしろ、そういう議論ができる授業を提案できたことはよかったと思っています。

自分の考えから根拠を探し出すトップダウン的な考え方・書き方が意見文の一般的なものでしたから、今回のような根拠となる事実をじっくり比較しながら自分の考えを出して書くようなボトムアップ式の考え方・書き方は一般的ではないだろうな、ということは想像できていました。

しかし、一般的ではないからと言って間違ったやり方では決してないと思っています。

 

個人的な経験や思いは根拠たりうるのか、もっと社会的な提言をすべきではないかというご意見は真摯に受け止める必要があり、今後の実践の中で考えていかなければならないと思います。

しかし、だからと言って、今回行ったような自分の経験や思いから自分の身近なことについて考えを書くということは価値のあることだと思っています。…(略)

 

柳屋先生のこのメッセージを受け取って、以前、あすこま先生が、Twitterで以下のような投稿をしていたのを思い出した。

「安易なアンケート調査をしないで調べる方法」を重視した、子ども向けの調査法入門書としては、最相葉月(2014)『調べてみよう、書いてみよう』(講談社がある。

 

ノンフィクションライターである最相さんだから(?)なのか、この本には、アンケート調査のことが一切書かれていない。

ここでいう「調べる」こととは、文献にあたることであり、現地に赴くことであり、人に話を聞くことなのだ。

 

子ども向けの調査法の本は、他にもあるけれど、その他は、ほとんど、情報リテラー関連・文献の調査の仕方に関するもの(図鑑での調べ方、インターネットで調べ方など)が多くて、実際の人を対象とした調査に関する文献は、これ以外あまり見たことがない。(おそらく、わたしが知らないだけなので、ぜひ情報をお持ちの方はお教え願たい)

そういう意味では、実際にこの場に生きている人を対象にした調査としての入門書はこれになると思うのだけど、そんなものとは無関係に、なぜか「安易なアンケート」ばかりが行われている状況があるのは、なぜなのか。

正直なところ、よくわからなかった。

 

しかし、今回研究会でみた協議会での反応を通じて、そして、柳屋先生からいただいたメールを読んで、「おそらく、こういうことなのではないか」という仮説を立てることができた。

それは、生徒たち自身はもちろんのこと、学校の教師たち、そして、もしかしたら、それを指導する教師教育者たちすらも、

「量的調査は、質的調査よりも、正統である」

「量的調査は、質的調査よりも、信頼性・妥当性が高い」

「量的調査を行うのが本来であるが、それができない場合に仕方なく、質的調査を行うことが許される」

…というような信念を抱いており、それがあたかも「隠れたカリキュラム」のようなかたちで、生徒たちに伝わり、生徒たちの「量的調査>質的調査」という信念を強化しているのではないか、ということ。

 

わたしがもっともびっくりしたのは、ご自身も、定性的なデータを用いて研究を行いその成果を論文発表をしたこともあるはずの方が、「(生徒たち同士のインタビューを「根拠」とするという話に対して)他の先生とも話していたんですけど、この場合の『根拠』ってなんですかね?」と発言されていたこと。

 

インタビューデータを「根拠」として認めることに疑義があったのだ、ということだとしたら、なぜ、ご自身の研究データとして、定性的データ(*1を使ったのか?

定量的なデータがとれないから「しかたなく」、定性的なデータを使うことにしたか?

それとも、大学・大学院以上であれば、定性的なデータを使用することは許されるけれど、高校までの教育段階では「量的調査」をスタンダードとして教えるべきだという「ダブルスタンダード」の信念をお持ちだったか?

いろいろなことがわからなくなりました。

 

いまや、質的研究も一定のプレゼンスを得ているとはいえ、それでも、「量的調査>質的調査」という信念や神話が、社会のなかに根強く存在していることは、理解しています。

実際、それだからこそ、生徒たちはマスメディアでの情報などを通じて「量的調査こそが本来あるべき調査だ」という信念をもって、学校で授業を受ける。「量でいえないものは、主張できない」と思っている。

そうだとすると、こんなに不幸なことはありません。

 

たった1人しか主張しないことであっても、正当性のある主張は存在する。

たった1人しか語らないストーリーであっても、傾聴し社会へと届けるべきストーリーは存在する。

 

社会における言葉の力を信じ、子どもたちに言葉の力を育もうとする国語(科)教育が、観察やインタビューから導き出した「言葉」を、「根拠」としてみなせないという立場をとるのであるとしたら、私たちは、「根拠」としての「言葉」を見出せばよいのでしょうか。

「根拠」たるものは既存の文献の中にしかない、とるのであれば、それはあまりにも、今を生きる人たちの経験と、その「言葉化」の意義をないがしろにしている、と思います。

*1:現場での相互行為の音声記録