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kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

生物のユートピア――遠野りりこ『マンゴスチンの恋人』

セクシュアルマイノリティと児童文学

「児童文学におけるセクシュアルマイノリティについて考える」ための読書プロジェクトの一環として、遠野りりこ『マンゴスチンの恋人』を読みました。

www.shogakukan.co.jp

 

左から、単行本版、文庫版、マンガ版になります。

 

表だって「ヤングアダルト」を掲げているわけでもないのですが、小学館文庫小説賞を受賞して、マンガ化もしているというあたり、実際の中高生の読書環境にかなり近いところにある本なのではないか、と思ったからです。

ヤングアダルト文学とライトノベルの境界に関心があったこともあり、ライトノベル的でもあり、YA文学的でもあるような、セクシュアル・マイノリティ文学が読んでみたいと思い、この本を手にとってみました。

ちなみに私が読んだのは、文庫版です。

 

これまで、如月かずささんのYA文学を読んで感想を綴ってまいりましたが、セクシュアル・マイノリティが登場する如月かずささんの2作品と、今回読んだこの作品、かなりタイトルの付け方が似ていると思います。

並べてみましょう。

 

『カエルの歌姫』(如月かずさ)

『シンデレラウミウシの彼女』(如月かずさ)

マンゴスチンの彼女』(遠野りりこ『マンゴスチンの彼女』所収)

『テンナンショウの告白』(同上)

『ブラックサレナの守人』(同上)

ヒガンバナの記憶』(同上)

 

すべて「生物(動物あるいは植物・カタカナ表記)」+「二字熟語」なんです!

 

なんだかうまくプログラムを組めば、タイトル・ジェネレーターが作れてしまいそうです。

もちろん、たった2人の作家の作品を読んだだけなので、セクシュアル・マイノリティが登場する日本のすべての児童文学が(あるいは、ほとんどの児童文学が)、人間以外のなんらかの生物にその理想を象徴させる傾向にあると言えるわけではありません。

ただ、日本で現在発行されている児童文学のなかで、物語のなかにセクシュアル・マイノリティが登場する作品のひとつの流れに、このような傾向を認めることはできるのではないか、と考えました。

 

ヒガンバナの記憶』で主人公として登場するレズビアンの生物教師は、物語のなかで、このような言葉を生徒たちに投げかけます。

 

「動物だけじゃなく植物にも色々な性別のあり方があります。大きくはチューリップや桜のように、ひとつの花にオシベとメシベを持つ両性花と、どちらか一方のみを持つ単性花に分かれる。銀杏に雄の木と雌の木があるのはよく知られているわね。銀杏のようにメシベだけを持つ雌花とオシベだけを持つ雄花が別の個体につくものを雌雄異株と言う。同じ個体に雌花と雄花が付くものは雌雄同株と言って、柿やスイカがそう。高山植物クロユリは雄花と両生花が咲く。群生したクロユリは一見同じ姿をしているけれどひとつひとつよく見ると、花弁の中が違っているものを見つけられる。あとマンゴスチンって東南アジアのフルーツがあるでしょう。あれは花粉を持たない花を咲かせて実を付ける。単為生殖と言って雌だけで繁殖できるの。また、サイトモ科のテンナンショウ属は栄養状態によって性転換するの。若くて小さいうちは雄で、ある程度の大きさになると雌になる。このように自然界の性は本来多様であって、それは人間だって同じ。とは言っても、人間は単為生殖できないけど」(文庫版p.133。『テンナンショウの告白』より)

 

マンゴスチンの恋人』に所収される4つの短編では、「自然界の性は本来多様であって、それは人間だって同じ」という理屈が、さまざまな意味でセクシュアル・マイノリティであることに悩む主人公たちを支えています。

その構図はとてもシンプルだけど、とても美しい。

この作品が評価をうけるのは、そのシンプルな美しさなのだと、思います。

 

如月かずささんの作品『シンデレラウミウシの彼女』と『カエルの歌姫』において、セクシュアル・マイノリティであることに悩みはじめた主人公たちは、「自然界の性の多様性」を知るのですが、あくまでそれは、自分たちでは到達できない「理想」として描かれます。だからこそ、『シンデレラウミウシの彼女』では、神様のマジカルパワーでその不可能性が超えられてしまう。『カエルの歌姫』では、到達できない「理想」であることを認めつつ、「現実」と「理想」のあいだで、主人公が自分のあるべき姿を模索していくという意味で、一歩進んでいるといえます。

 

一方、『マンゴスチンの恋人』では、「自然界の性の多様性」は「理想」ではなく、みんなが知らないだけで本当はある「現実」として描かれ、そこから物語がスタートします。

そのような意味で、同じような構造をもつタイトルを持ちつつ、2人の作家の描くセクシュアル・マイノリティの世界は異なる方向性を持っているように見えます。

 

しかし、そのような違いが存在するもののやはり、なんらかの「生物(動物あるいは植物)」が<いま・ここ>には実現されていないなにか、として描かれ、その「生物」との関係性のなかで、主人公自身や主人公をとりまく関係性が変化していく・・・という点では共通している。

この共通性のなかに、日本の児童文学におけるセクシュアル・マイノリティの位置づけが見えてくるような気がします。

 

これについては、現在読んでいる、LGBTの若者をとりあげた米国のノンフィクション『カラフルなぼくら: 6人のティーンが語る、LGBTの心と体の遍歴 (一般書)』を読んでから考えてみたいと思います。