kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

わたしの言葉/わたしたちの言葉――横浜国立大学附属中学校研究発表会

 先日開催された「平成27年度 横浜国立大学教育人間科学部附属横浜中学校研究発表会」に参加してまいりました。

私が参加したのは、2日目(20日(日))に行われた国語科の研究発表。

国語科では「『ことば』への認識を協働的に育む指導と評価」というテーマで、中学1年生の生徒たちが、1年間かけてとりくんできた「言葉ノート」を題材にした、「書くこと」の授業が行われました。

 

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(画像は、「研究発表会2次案内」(PDF)より抜粋)

 

授業は体育館で行われたのですが、体育館内には、附属横浜中学校の生徒たちが取り組んでいる「言葉ノート」の実物なども展示されており、この授業がどのような文脈の中で行われるものなのか、を知ることができます。

 

こちらが、「言葉ノート」*1

A6サイズのコクヨ・Campusノートが使われていました。

表紙には、生徒たちが思い思いに書いたタイトルも。この生徒はおそらく、「この『言葉ノート』の活動を通じて、自分を変えていくぜ!」と気合いを入れて、「言葉ノート」の活動に取り組みはじめたのでしょうか・・・?

『必殺!!変身ノート』という、かなり気合いの入ったタイトルになっています。「必殺」したい対象が何なのかについては、詳しくお伺いしたいところです*2

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この生徒は、かなり気合いの入った感じになっていますが、もちろん、そんな生徒ばかりではありません。『コトバ散歩道』『一連花生』など、エッセイ集のようなタイトルもあれば、『自分だけの広辞苑のように、辞書・事典を意識したタイトルもあります。それぞれの生徒による『言葉ノート』の意味づけによって、タイトルの付け方が様々あります。

 

生徒たちは、それぞれのタイトルに従って、あるいは、途中から方針を変えたりしながら、1年間、日常生活や学校生活で出会ったときに自分のなかの琴線に触れたさまざな言葉を、『言葉ノート』に書きためてきたようです。

 

こちらは、ツイッターで流れてきたという、いわゆる癒し系の言葉。いわゆる「ポエム」と言ってもいいかもしれません。

SNSを通じて流れてくる「ポエム」的なものに共感してしまうあたり、現代の子ども・若者っぽさをなんとなく感じてしまうわたしです。

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一方、そういう、「現代の子ども・若者っぽさ」を、乗り越えてくる言葉があるのも面白いです。

こちらは、どこかの町にあるらしい「手羽先二郎」というお店の名前。

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店の名前に注目しているのも面白いですが、なによりこれが面白いのは、「この言葉の意味は書いている私自身よくわからないのですが、」と言っているところですよね。

一般的には、「わかる」ものこそ「面白い」とされたり、高い評価を与えられたりするものですが、この生徒は、「わからない」けど「面白い」ものに気づいている。

なんだかよく「わからない」けれど、それでも、考える価値があるもの、『言葉ノート』に書いておく価値があるものがある、ということに気づいただけでも、大発見だと思います。

 

そして、(おそらく)『言葉ノート』を書きつづけるどこかのタイミングで、「このノートを、これからも続けよう」と思い立ち、はじめに名付けた『はじまり』というタイトルの下に、「No.1」と書き加える生徒もいたようです。

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こうやって、学校という文脈のなかで、教師から与えられたツールが、学習者自身の文脈の中に位置づけられていき、学習者のなかで意味をもっていくことって、ステキなことだなぁ、と思います。

 

今回は、この『言葉ノート』をもとにそこから、①「自分だったらこの言葉を残したい!」と思うものを選ぶとともに、②友達から「あなたらしい言葉」を選んでもらい、それを受けて、A4版×2枚(あるいはA3×1枚)に「言葉のノート抄」をまとめる・・・という活動が行われました。

 

 

 前回までの授業で、生徒たちはすでに①「自分だったらこの言葉を残したい!」と思うものを選んでおり、ノートには黄色の付箋でそれらの言葉がわかるようになっていました。

また、仲の良いものどおしで形成された4人程度のグループ(以下「仲良しグループ」)で、互いに互いのノートを見合っていて、それぞれに、他のメンバーの②「この言葉は残すべき!」と思われる「あなたらしい言葉」も選んであったようで、それは青い付箋に書かれていました。

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今回の授業当日は、この青い付箋をもとに、他の生徒から見た「これは残すべき!」と思った言葉について話し合いが行われていました。

 

今回見ていてとても興味深かったのは、この生徒たちの話しあいのなかで、「この言葉は、おまえの意外な一面が見られる言葉だと思うから残すべき」という趣旨の発言がいくつも出ていたことです。

本人が選ぶ言葉は、(もともと一定の趣旨をもって集めている生徒もいるのですから、当然といえば当然ですが)一定の傾向をもっています。それに対して、仲良しグループの他のメンバーにとっては、「新たな一面」「隠れた一面」「意外な一面」を持つものこそが「面白い」と映る。そして、「だから残すべきだ」と提案する。

上の写真の中にも、「ハゲ」と書かれた右上の青い付箋に「新たな視点」と書かれています。

他の青い付箋に書かれているのが、「理由もなく会えるのが友達で、理由がないと会えないのが知り合いで、理由をつくって会いたくなるのが好きな人」など、生徒たちが共感できるポエムのような言葉であることを考えると、これはたしかに相当「新たな視点」であるな、とわたしも妙に納得してしまいました。

 

この活動の興味深いポイントは、まさにここにあると思います。

残す言葉を選ぶのが、「私(I)」ひとりではなくて、「私たち(We)=みんな」であること。「面白い」ポイントを、「私」ひとりが探るのではなく、「私たち=みんな」で探っていけること。

「意外な一面から見られる言葉だから残そう」という選択は、「私」個人ではできない。「私」はすでに自分自身のからみとられた社会関係の中に生きていて、 そこから一人で脱出することは難しい、と思います。

「私たち=みんな」だからこそ、そこから逃げ出すことができる。他者の力を借りて、自分の「ことば」の 檻をちょっと変形させたりできる。

 

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学校教育の場面では、どうしても「個」VS「集団」というくくられ方で物事が語られがちです。しかし、こんな二項対立で語られるほど、これらの関係は単純ではないでしょう。

特に、言葉の問題を扱おうとする限り、完全なる「個」なるものが果たして想定できるのだろうか、と疑問に思います。

言葉が、言葉として存在しうるためには、2人以上の話者が必要になります。完全に個人に閉じられた「個人方言(idiolect)」は理念レベルでしか存在しえない。言葉はつねに、「私たち=みんな」のものなのです。

 

昨年11月に発売された『WIRED(ワイアード)VOL.19 [雑誌]』(特集:ことばの未来)に寄せてWIRED日本版編集長の若林恵さんが次のようなメッセージを書かれています。

wired.jp

 

「なるほど」と思うのは、ことばというものを通して、社会がわれわれのなかに入りこんできて、それが内面化された対話を生み出すというところだ。つまり、 ぼくらは、ことばという道具を使って、あらかじめ設定された「社会」という「外側」(=読む主体)とやりとりしているのではなく、ことばを使うという行為 によって、自分のなかに「社会」を呼び込むことをしている。言うなれば、ことばのなかに「社会」というものが含まれていて、ことばと向き合うことは、その まま社会と向き合うことでもある、というわけだ(少なくともぼくはそういうふうに理解した)。

 

いま、人工知能の世界では、機械にことばを読ませたり、書かせたりしようという研究が盛んに行われている。本号の特集のなかにも最先端の研究者たちが登場 するけれど、彼らのような天才たちをしてさえ「ことば」というものが困難なのは、おそらく、「ことば」のなかに、社会というものがすっぽり収まっていて、 それを「ことば」そのものと切り離すことが、おそらく不可能だからだ。別の言い方をするなら、読む機械や書く機械をめぐる探究は、人工知能のなかに「社会 を呼びこむ」企てと言い換えることもできるのかもしれない。

 

「個」で選ぶ言葉の中に、すでに社会が入り込んでいるのであるとしたら、もちろん、そこに選ばれた言葉にみる(既存の)社会と向き合ってみることも、とても大切なことでしょう。もしかしたら、そうして見えてきた既存の社会と自分の言葉との関係を、他の人にプレゼンテーションすることで、言葉に対する認識が深められるのかもしれない。

 

けれど、せっかく学校という場にみんなで集まっているのだから、「私たち=みんな」といっしょに、「私たち=みんな」を通じて、「私」と言葉との関係を学習・発達していく方法を考えたい。

「私たち=みんな」で「私」の言葉を選ぶというやり方は、単に、「言葉に対する認識を深める」ということを超えて、創造的に、生徒たちと言葉との関係を発達させうる環境を作り出している気がします。「私たち=みんな」の言葉を通して、「私」と言葉との関係を変化させていく・・・そんな可能性を秘めています。

 

もしかしたら、それは「言葉の認識を深める」ことではないと言われるかもしれない。

でも、言葉そのものも未来に向けて変わっていくものであるとしたら、そして、私たちが、生徒に未来をきりひらく力を求めるのであれば、言葉の未来を「私たち=みんな」と一緒に作り出していくことを、なぜ、否定的に考えなければならないのでしょうか。

 

「言葉の認識を深める」という言葉が、言葉と人間との関係を、創造的に発達させていくことを妨げるものであるとしたら、「言葉の認識」という言葉の意味そのものをアップデートしていく必要があるのではないか、とすら思います。

 

生徒たちに、過去があり、現在があり、未来があるように、

言葉にも、過去や現在だけではなく、未来がある。

その言葉の未来とともに生きる生徒たちを、どのように考えていくのか。

そのことをあらためて考えさせられた気がします。

 

情報工学×文法教育についての議論とあわせて、国語教育における言葉の未来について、これからも考えていきたいと思います。

 

togetter.com

 

 

*1:写真撮影の能力が低くて申し訳ありません。

*2:写真に記されている個人名は削除しています。以下の写真も同様です。