ノンフィクション本大賞をはじめ、数多の賞を受賞して話題になっている、ブレイディみかこ(2019)『ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』(新潮社)。3月に入って時間ができたこともあり、ようやく読むことができました。
親子でのやりとりが軸になって話が進んでいくので読みやすいうえに、そこでレポートされていることは、今の時代を生きるわたしたちが考えざるを得ないことばかりで…本屋大賞を受賞しているのみならず、司書が進めたい本に選ばれたりしていることも納得!という感じの本でした。
本書は、すでにあまりに多くの人に知られているので、今さらレビューを書くまでもないと思います。が、昨年、大学の書店でたまたま出会い、その対話的で真摯な文体に感銘を受けた『みんなの「わがまま」入門』(富永京子, 2019, 左右社)と共通する印象を受けたので、そのことについて書いておきたいと思います。
今年2月、『みんなの「わがまま」入門』の一部が、私立中学校の「国語」の長文読解問題で出題されたことがちょっとした話題になりました。
著者である富永さんご自身が、問題を解こうとしたものの「筆者の考えを正確に読み取れ」なかったということで、富永さん自身がそのことをTwitterで公にされたのでした。
【悲報】筆者、筆者の考えを正確に読み取れずーー pic.twitter.com/6WhfJ2CrFr
— TOMINAGA, Kyoko (@nomikaishiyouze) 2020年2月22日
正直なところ、わたしにとっては、本書の一部を「国語」の長文読解問題として出題することそのものが驚きでした。なぜなら、本書の文体が、類書とは異なる独特なものであると感じていたからです。
わたしはその独特な感じを、「『ごめんね』感」という言葉で表現しました。
そもそも『みんなの「わがまま」入門』を国語の問題として使おうと思った人がいるのはけっこう驚き。
— Kimi Ishida (@kimi_lab) 2020年2月27日
うまく伝わるかわからないけど、全体的に「ごめんね」感(?)の強い文体で書かれているので、いわゆる「読解」になじまないんじゃないか、と。https://t.co/iSabxeOOp4
ある程度、文体そのものにドヤ顔で言い切っている感じというか、「こんなこと言ったぜ!キリッ」みたいなのがないと、"筆者の考え"を読み取ることは困難なのではないか、と。だって筆者自身が「わたしも迷ってるの。一緒に考えよう」みたいなメッセージを送ってるんだもん。https://t.co/CL2ijQK4Ha
— Kimi Ishida (@kimi_lab) 2020年2月27日
このようなコメントをTwitterで投稿したところ、著者の富永さんから、この「『ごめんね』感」について、次のようなコメントがありました。
“「ごめんね」感の強い文体“は言い得て妙だと感じる。そう言われれば終始「ごめんね」に行き着く何かを考えていた気がする。とどのつまり「ごめんね」を動機とした本だからかとも思う。
— TOMINAGA, Kyoko (@nomikaishiyouze) 2020年2月27日
あとから振り返ってみると、わたしが本書の文体を「『ごめんね』感」と表現した理由は、本書の「あとがき」にあるのだが、それよりも何よりも、そのような文体で、中高生のための社会運動論入門が記述されているという点が興味深い。
寒いので、毛布をお願いしたい。しかし、それは「わがまま」と思われてしまうかもしれない――そうか、「わがまま」か。寒いのだから暖かくなりたいのは当たり前で、そういう自分の権利(この場合、消費者としての権利なので、すこし社会運動が希求しているものとは違うかもしれないが)をなぜ言いにくいかというと、「わがまま」に見られてしまうからか。みんな一枚の毛布でがまんしているのに、「ずるい」と思われないかも不安だ。
「わがまま」をキーワードに、「わがまま」を言うこと、「わがまま」だと思うことへの抵抗をなくそう、「わがまま」のように見えても、人に共感されて、共有することで社会の歪みを明らかにできるんじゃないか、それが社会運動の萌芽になるんじゃないか。そういう言葉であれば、もしかしたら10代の人にも通じるかもしれない。…(後略)
(富永京子『みんなの「わがまま」入門』左右者、pp.268-269)
中高生に向けて社会運動論を語ろうとする中で見いだされた言葉、文体だからなのだろうか。
『ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』を読む中で、わたしは何度も、この「ごめんね」感を思い出した。
たとえば、最終章「16 ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとグリーン」では、これぞまさに「社会運動」(!)ともいえる「スクール・ストライキ」の話が登場する。英国各地で気候変動問題のデモが行われた2019年2月のことだ。
この時、英国では、生徒の「スクール・ストライキ」への参加を許可する学校とそうでない学校が現れるのだが、本書に登場するブレイディさんの息子が通う公立学校は、スクール・ストライキへの参加を許容しなかった。
これに関して、後日、ブレイディさんと息子さんとの次のような会話が行われる。
「カトリック校の生徒もデモに行けなかったって聞いて、なんか安心した」
エスカレーターを降りながら息子が言った。
「デモを楽しめなかったのが自分たちだけじゃなかったから?」
と尋ねると、息子はうつむきがちに応えた。
「ちょっと悲しかったんだもん。成績とかいろんな意味でイケてる学校の子はデモに参加できて、しょぼい学校は参加させてもらえないなんて、仲間はずれにされてるっていうか、疎外されてる感じがしたから」
「マージナライズド(周縁化されている)って呼ぶんだよ、そういう気分を」
と私が言うと、息子が利いてきた。
「それって、マージン(端っこ)に追いやられてる感じってこと?」
「そう」
(ブレイディみかこ(2019)『ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』新潮社, pp.245-246)
デモに参加すること、デモに参加したいにもかかわらずそれが学校によって禁止されること。いずれも、「公正」や「権利」といった大文字の言葉で、その是非が議論されそうなことばかりだ。
でも、ここで記述されているのは、そんな大文字の言葉で交わされる議論とはかけ離れている。あくまで「仲間はずれにされている」「疎外されている感じがした」こと、そしてそれが「ちょっと悲しかった」という小さな感情のさざなみである。
それに対して、ブレイディさんは「マージナライズド」という言葉を与えるけれども、その言葉そのものも、息子さんの言葉として反芻されるなかで、いつしかそれは、彼が所属するパンク・ラップバンドの歌詞(!)へと変化する。
どちらも「社会運動」というあまりにもほど遠いものと、私たちが日々感じる「ちょっと、しんどい」「ちょっと悲しい」といった、ちょっとした感覚・感情とを結びつけてくれる。
これが、今、わたしたちが社会運動をあらためて語っていくために、わたしたちが自分たちと社会とをつなぐことを否定しないため、必要とされる文体なのかもしれない。
そんなことを思わされる2冊だった。