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Literacy, Culture and contemporary learning

児童書ビブリオバトル×39アート「この児童書がすごい!@水戸芸術館~ケアリング編」を開催しました

水戸芸術館現代美術ギャラリーにて現在開催中の企画展「ケアリング/マザーフッドー「母」から「他者」のケアを考える現代美術」にあわせて、「ケアリング(caring)」をテーマにした児童書ビブリオバトルを開催しました。

その名も、児童書ビブリオバトル×39アート「この児童書がすごい!@水戸芸術館~ケアリング編」です。

この児童書がすごい@水戸芸術館~ケアリング編

当日は、ゲストバトラーとしてご登壇いただいた、矢代貴司さん(読み聞かせ・朗読活動家/第1回児童書ビブリオバトル・バトラー)、後藤桜子さん「ケアリング/マザーフッド」展企画担当)さんに加えて、「ヴぃクトリーTATE」さん、「あーや」さん
をバトラーにお迎えし、わたしも含めて、5名でのビブリオバトルとなりました。

昨年12月に、児童書ビブリオバトル「この児童書がすごい!!~科学・学術コミュニケーション編」を開催しましたが、この企画をやってみてあらためて、「何かよくわからないけど知りたい」「これから探求していきたい」テーマやキーワードと、自分自身との関わりを見出そうとするときに、児童書はとても良い入り口になってくれるのでは?…ということでした。

そんな矢先、水戸芸術館「ケアリング/マザーフッド」という、抽象度高めのキーワードをタイトルに盛り込んだ展覧会が開催されると聞き、さらにいえば、この期間内に数年ぶりの開催となる「高校生ウィーク」が開催されるという情報が耳に飛び込んできました。
高校生ウィーク「書く。部」顧問として、展覧会をみて、語る、そして書くということを軸に、高校生や大学生と展覧会の鑑賞者とをつなぐことを試みてきたわたしとしては、めちゃくちゃ血が騒ぐ状況。
そういえば、5年前の「ポスト・ヒューマン時代の歩き方」展のときも、血が騒いでいました。難解なキーワードがあったりして、「これは、展覧会観にきただけだと「???」ってなるやつやろ!!」と思った途端に燃えるタイプです。

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とはいえ、今年いきなり「書く。部」再開はできません(なにしろ、そのニュースに気づくのが遅かった)。だとしたら、展覧会のキーワードについて考えていくための入り口を、児童書ビブリオバトルみたいな、ささやかな単発企画で作っていけないだろうか?と思いたちました。

以下、当日のビブリオバトルでのバトラーの皆さんの紹介を振り返りつつ、「ケアリング/マザーフッド」展の内容とからめながら、紹介された本のご紹介をしていきたいと思います。

 

 1.  広瀬浩二郎 ・日比野尚子 『音にさわる:はるなつあきふゆをたのしむ「手」』

わたしが「ケアリング/マザーフッド」展を観て、この展覧会をもとに、さらに「ケアリング(ケアすること)」について考えていくとしたら、この本だろう!と思ってご紹介したのは、広瀬浩二郎・日比野尚子(2021)『音にさわる:はるなつあきふゆをたのしむ「手」』です。

広瀬浩二郎さんは、国立民俗学博物館に所属する研究者。「『座頭市流フィールドワーカー」を自任する全盲文化人類学者』*1です。
広瀬さんは「触文化」を研究していることでも知られています。*2

とはいえ、わたしがこの本を紹介したいと思ったのは、「触文化」について知ってほしいからではありませんでした。

以前、看護でのケアを「そのときどきの状況や物事の意味…(中略)…を、それとして対象化して〔言語化〕することなく瞬時に認知してそれに応じる、優れて知的な活動」(『医療ケアを問い直す』, p121)と記述している文章に出会ったことがあり、展覧会のいくつかの作品から、その言葉を思い出したからなのでした。

とくに、「対象化して〔言語化〕することなく瞬時に認知してそれに応じる」ということと関わろうとする作品がいくつもあったように思いました。

たとえば、第1室にあるマーサ・ロスラー《キッチンの記号論は、かなり直球で、過剰に記号化されることで、人間的な生活のためのの意味を失い、単なる搾取の道具になってしまった家事という労働について、ユーモラスに批判しているように見えます。


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そして、そんな第1室を抜けた先に現れる第3室の青木陵子によるインスタレーション《三者面談で忘れてるNOTEBOOK》が、日常の小さな抵抗の可能性をささやかに、かつパワフルに見せてくれるような気がして、それが、なんとも美しい。

なにもかもがすぐに記号化されてしまうような日常のなかで、対象化し言語化しないこと――言語化されつくさない、その前の段階で瞬時にそれを自分につなぎとめ、それを大切に保存しておくこと。それが「ケア」なのであるとしたら、青木陵子作品に見られるそれは、そんな「ケアリング(ケアすること)」の実践そのものであるようにすら見えます。
そんなことを思っていたので、春や夏、秋や冬の空気のなかで感じる雰囲気、そこで流れる音を、言語を介さずに、手で触ったときの質感へと「翻訳」している(ように見える)この本は、ケアリング(ケアすること」の実践について、言語を介さずに考えることのできる「入口」になりえるのではないか、と考えたのでした。

 

 2.  ヨハンナ・シュピリ『ハイジ(上・下)』

次のバトラー「ヴィクトリーTATE」さんがご紹介くださったのは、ヨハンナ・シュピリ『ハイジ(上・下)』

ヴィクトリーTATEさんが、熱く語ってくれたのは、『ハイジ』におけるケアリングの相互性であり、多層性でした

ヴィクトリーさんがとくに注目したのは、フランクフルトの医師・クラッセンの存在。アニメ『アルプスの少女のハイジ』のイメージだけでぼんやりハイジを理解している多くの人にとって、クラッセンは、おそらく、ハイジとクララをアルムの山に戻したキーパーソンというイメージでしょう。ハイジの症状を見抜き、クララの病気を治癒させるためにはアルムの山で生活させるとよいのでは、と提案するのみならず、自分もアルムの山まで来てしまうクラッセン

こう書いてみると、それだけでも、「この医者ただものじゃない!」という感じがしますが、ヴィクトリーTATEさんが着目するのは、物語の最後で、クラッセンがおじいさんに、自分もハイジの養父になるからともにハイジを育てていこうではないか、と提案するところです。
ラッセンにとってのケアは、幅が広く、多層的であることを思い知らされます。医師であるクラッセンにとってのケアは何よりもまず、病気の治癒であるでしょうが、それだけではく、家族としてのケアが提案されていく。

ケアを必要とする者がそこにいて、ケアを提供できるものがいる。その関係のなかで、今、できることを提案し、行った結果として、多層的なケアが実現されていく…それを自然に提案したり実践したりできる存在としてのクラッセンが浮かび上がってきます。*3

ヴィクトリーさんはさらに、『ハイジ』の物語が単に、「自然」の側が、「都会」の側にケアを与えるだけではない、という点も強調します。『ハイジ』後半におけるペーターの凶暴化に、読者はいろいろ考えさせられるものがありますが、そんなペーターは、都市文明とのかかわりのなかで、文字を教えられるなかで、調和を取り戻していく。こう考えてみると、都会や都市文明が一方的に、ギブされる側でないことが見えてきます。

 

 3. 佐野洋子『あのひの音だよ おばあちゃん』

矢代貴司さんも、ヴィクトリーTATEさんと同様、血縁上でいえば家族ではない人たちが、家族的な関係をつくっていく話を紹介してくださいました。

以前、横浜国立大学で開催された「ちいさな朗読会 in 横浜」でも、読み聞かせをしてくれた、佐野洋子『あのひの音だよ おばあちゃん』です。


一人暮らしをしているネコ嫌いのおばあさんの家に、ぶたが自転車をこいでやってきます。ブタがはじめに連れてきたのは、なんにもできないネコ。次は、なんでもできちゃうネコ。ネコ嫌いのおばあさんは、そんなネコたちを、ネコは嫌いだから、という理由で引き受けずにいるのですが、ブタが連れてきたネコが、病気にかかっている、と聞いたとたん「なんですって」といって、そのネコと暮らし始めます。…そんなお話。おばあさんは結局、ネコが好きになるわけでもありません。でも、おばあさんと、ネコとの間には、たしかに、家族みたいなお互いを思いあう関係が創り出されていく。そんなことを感じるお話です。

ヴィクトリーTATEさんも、矢代さんも、特に、「ケアリング/マザーフッド」展のなにかを念頭において、選書してくれたわけではないということでしたが、わたしは2人の本の紹介を聞きながら、ラグナル・キャルタンソン《私と私の母》シリーズを思い出していました。


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おそらく、2000年から、5年ごとに、同じシチュエーションで動画を撮り続けること…それが並べられるなかで見えてくる時間、とか、その時間がつくりだしてくれるかけがえのない関係の質感のようなものが、『あの日のおとだよ おばあちゃん』と通底するように思ったのだと思います。

そして、『ハイジ』についていえば、ヴィクトリーさんの語ってくれたクラッセン像、そして、クラッセンのなかに自然に生み出されるケアのアイデアのようなものの質感が、この作品に近いような気がしたのです。

「ケアリング/マザーフッド」展に展示されている作品は、けっこう、「ケア」や「マザーフッド」というのを真面目に捉えた作品が多いのですが、ラグナル・キャルタンソン《私と私の母》シリーズは、そこにあるのはたしかに、あたたかみある家族関係なのだけど、それがあまりにゆるやかでユーモラスなので、ケアする/されるみたいな枠組みでカッチリ考えることがばからしくなってくるような、そんな力があります。

そのあたりが、『ハイジ』にみられるケアの多層性、相互性と繋がって感じられたのかもしれません。

 

4.  下山田志帆『女子サッカー選手です、そして彼女がいます』

あーやさんが紹介してくださったのは、下山田志帆『女子サッカー選手です、そして彼女がいます』でした。
わたしは、司会をする都合上、自分が展覧会を観にいく前に、皆さんの選書を知ってしまったわけですが、この本が選書されているのを見て、「どこかの展示室で、クィアがテーマになっている展覧会なのかな?」と思って、なおさら展覧会に興味がわいた、という経緯があります。

そして、実際に観に行ったところ、実際に、クィアがテーマになっている作品はあったのですが、想像と全然違ったので、これもまた面白かったです
それが、こちら、リーゼル・ブリッシュ《ゴリラ・ミルク》(映像)と、《クィアな授乳(Queer Nursing)》(書籍)でした。(書籍なので、売っているし買えます)

shop.gorilla-milk.net

展示室には『クィアな授乳(Queer Nursing)』の翻訳が置いてあって、それを読むことができます。サブタイトルに「段階的なシステム(Phasing System)」とあるように、女性という身体に結び付けらた「授乳」概念をいかに段階的に解体していくための戦略が書かれており、もちろん、それはそれでテンションが上がるのですが、今回、バトラーのあーやさんの紹介のポイントは、クィアに関わる議論そのものではなく、むしろ『女子サッカー選手です。そして、彼女がいます』に記載されていた、一方的で他者不在の「ケア」についてでした。


社会的弱者(マイノリティ)に関する情報が、マスメディアやソーシャルメディアを通じて、たくさん出てくるようになった一方、どうしても、それらメディアを通して構築されるイメージは、どこかステレオタイプ化されたものになりがちです。

マイクロ・アグレッションに関する議論が明らかにしてきたように、ステレオタイプや偏見に基づく「配慮」によって手を差し伸べようとすることそのものがが、「小さな攻撃」となることすらあります。

人をケアすることにかかわるあーやさん自身も、10年以上、仕事にかかわるなかで、「ケアすること」への考え方が、いわゆる「察し」「思いやり」に基づくものから、ニーズの聞き取りと把握にもとづいたものへと変化していったことを実感しているという話もありました。

あーやさんが、話してくれたこのエピソードは、いったいその「ケア」は誰のためのものなのか?という問いを投げかけます。

単に「ケアするとは、こういうことだから」と、相手のことも具体的な状況も考慮せずに、パッケージ化されたサービスを提供することは、果たして「ケア」といえるのか。それこそ「ケア」からもっとも遠いものとすら言えるのではないか。

この問いは、第6室に展示されている、ヨアンナ・ライコフスカ《バシャ》が投げかける問いでもあります。
作品名の「バシャ(Basia)」というのは、「バルバラ」という名前に対して一般的に用いられるニックネームとのこと。ヨアンナ・ライコフスカ《バシャ》は、アーティストが行ったパフォーマンスの記録映像なのですが、このパフォーマンスがいろいろすごい。
ライコフスカの母親は、認知症にかかり、晩年を施設で過ごしたということなのですが、ライコフスカは老齢の認知症患者に見えるように、自分自身にメイクを施し、自分の母親に扮して、施設から脱走し街中を徘徊するというパフォーマンスを行います。施設からの脱走した認知症の高齢者らしく、パジャマを着て、川へと降りていき、川を渡り、ビショビショに濡れたズボンのまま街中を歩くライコフスカに対して、多くの人々は冷ややかなまなざしと嘲笑を向けていきます。
しかし、さらに衝撃的な出来事が起こります。ある女性がライコフスカを追いかけてきて、「わたしはあなたの同級生よ。怖がらないで。一緒にコーヒーを飲みましょう」と、親しげに声をかけてくるのです(この女性が最終的に、「バシャ」とライコフスカのことを呼ぶようになります)。そして、おそらくこの女性が、どこかのタイミングで警察を呼んだために、警察が来て、ライコフスカヤは病院のような場所に連れていかれる…という展開。

問題になるのは、この通りがかりの女性が行っていることは、果たしてなんなのか?ということです。
映像を見るかぎり、暴力的にすら見える彼女の行為ですが、おそらくその女性自身は、認知症で本人も家族も困っていることを配慮して、手助けしようとして、善意で、これら一連の行為を行っているのだろうということは、想像に難くありません。

だとしたら、それは、いったいなんなのか。


 5.  五十嵐太郎『誰のための排除アート? 不寛容と自己責任論』

このような流れのなか、「ケアリング/マザーフッド」展の企画者である後藤さんが紹介してくださったのは、岩波ブックレットの『誰のための排除アート?』でした。*4

アフォーダンス」の観点が広まるなかで、「アフォードしない」デザインのようなものも生み出されてきた、というような話(例:客の回転率をあげるために、長く座っていられない椅子をデザインするとか)を、昔、どこかで耳にしたような記憶がありますが、デザインの話として議論されていた「アフォードしない」ものたちが、なぜか「アート」の名をつけて呼ばれるようになる。それっていったい、何なのか。

bijutsutecho.com

これについて、本書の著者である五十嵐太郎氏は、『美術手帖』の記事で次のように述べている。

筆者も表現としてのアートではなく、目的をもつデザインだと思うのだが、「アート」と呼ぶことが定着したのは、日本におけるアートの受容と関係があるかもしれない。なんだかよくわからない、不思議なかたちをしたものを、とりあえず「アート」と呼ぶという風潮だ。例えば、今年オープンしたミヤシタパークには、通路に不定形のフォルムをもったベンチ、間仕切りはないが、途中に2つのリブが入るメッシュ状のベンチ、細い座板と細い天板をV字型の側面でつないだベンチ+椅子が存在するが、いずれも長居したくない、あるいは寝そべることが難しいデザインである。が、これらを紹介しているネットのレポートなどを読むかぎり、「アートがたくさん!」という風に、目に楽しいオブジェ的なベンチとして受容されているようだ。座りにくいベンチが、アートという美名のもとにカモフラージュされている。

(「排除アートと過防備都市の誕生。不寛容をめぐるアートとデザイン」-『美術手帖』

ここで、ポイントになるのは、「アート」という言葉が、排除をカモフラージュするための美名になっているという指摘でしょう。

《バシャ》に登場する女性は、街中を徘徊する見知らぬ認知症者に対して自身が感じる不安感や恐怖に対処するための手段として、「ケア」という名で、「ケア」するためとされるさまざまな制度や方法を使って、それを排除することに成功しました。
日本では、同じことが「アート」という名によって可能になっているようです。街中にいるなんだかわからない人たち、知らないがゆえに不安感や恐怖感をもってしまう「他者」を、「アート」という名で排除することを、「排除アート」は行っているのかもしれません。

「排除アート」という語が示唆するように、本来相反するものであるべき「アート」と「排除」が結びつくように、「ケア」と「排除」すらも結びつきうる。そんなことを、《バシャ》は明らかにしているように見えました。

以上、児童書ビブリオバトルで出た話題を入口に、「ケアリング/マザーフッド」展で紹介されているいくつかの作品についてもご紹介してきました。
今回、紹介できなかった作品はたくさんあり、ビブリオバトルのアフタートークで出た論点についてもほとんど紹介できなかったのですが、この記事をきっかけに「ケアリング/マザーフッド」展そのものにも、児童書にも関心をもっていただけたらと思います。

この企画の実現にご協力くださった皆さま、登壇してくださったバトラーの皆さま、ありがとうございました。

ビブリオバトルで紹介された本

推薦図書館内にあった「ケアリング」に関する本




*1:産経新聞オンライン, 2021年9月13日記事「触って考える未来の社会 全盲の文化人類学者 広瀬浩二郎さん」より。)

*2:NHKハートネット「「触る」を取り戻したい。広瀬浩二郎さんの挑戦」より。

*3:このあたりについては、NHK「100分で名著」での『アルプスの少女ハイジ』解説も参考になりそうです。

*4:岩波ブックレットは、もはや児童書ではなかろう、という声もあろうかと思いますが、「児童書ビブリオバトル」は、バトラーが「これは児童書だ」と思えば児童書!という相当ゆるやかなきまりになっておりますので、バトラーが「岩波ブックレットは、薄くて読みやすいから児童書」とおっしゃるのであれば、それは児童書です