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kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

研究と実践の間

わたしが属する研究分野は「教科教育学」と名づけられている。
「教育学」…その中でも、「教科教育学」というのは、とかく、研究と実践との間で悩まされる学問分野であると思う。
「教育学」の中でも、「教育哲学」「教育史」という分野は、外側の人間から見ても、その学問分野としての立ち位置が明確である。
先人たちの遺した教育思想や資料に基づき、過去にいったいどのようなことがあったのかを明らかにする学問。
そこにはハッキリとした学問の体系性のようなものがある。

しかし、「教科教育学」にはそれがない。
そもそも「教科教育学」とは、教員養成が高等教育機関で行われるようになった結果、制度上の必要に迫られて生み出された学問分野(乱暴な言い方をすれば、擬似「学問分野」)であって、はじめから学問の体系があるわけではない。
現在でも、教科教育学分野の大学教員は、博士課程で研究者としてのトレーニングを受けていない、
いわば「現職あがり」の教員であることが多く、さらにその傾向は「教職大学院」構想のもと、拍車がかかっている。

教育学が志す大学生にこの話をすると驚かれることが多いのだが、
「日本国語教育学会」は、研究者が集まり、研究を探求する学会組織ではない。
実践家が集まり、教育実践の情報を交換しあう研究会が、国語教育に関わる学会の中でも最大規模の会員数を誇る「学会」なのである…。
この事情は、けして国語科だけにあてはまらない。
これが「教科教育学」全体の現状である。


わたしは落ち込むたびに、こう思う。

「教科教育学」の大学教員になるためには、現職経験が必須とされ、
最大規模の会員数を誇る「学会」が、現職教員によって成り立っているなら、
そもそも、この学問領域に、アカデミックな視点など不要なのではないか…、と。


きっと、わたしのような絶望感を抱える研究者や院生は、たくさん、いるのだと思う。
アカデミックな視点から、「教科教育」を語りなおそうとする研究者は、
少しずつ、しかし、確実に、増えているように感じている。
そういう研究者は、「教科教育学」の現状に、絶望する。

アカデミックな視点から行った研究は、現職の先生方には届かない。
学会で発表するたびに、
「いったいそれが、何の役に立つの?」
…と聞かれる。

ちなみに、わたしが、これまでにもっとも傷ついたのは、
「じゃあ、次はどこの学校でも使えるような『指導案』みたいなものを作れると良いですね。」という、コメント。


ここには、大きな誤解がある。
「研究は、実践に役立つはずだ」…という誤解である。
他の学問分野にはないのに、
「教科教育学」だからこそ生じる大きな誤解。

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研究と実践は別物である。

もう少し正確な言い方で言えば、
研究者がその研究実践を営む世界と、教員たちが教育実践を営む世界は、まったく異なるルールで動く、まったく異なる世界なのである。

小説作家は、文学研究の動向を気にして、自らの作品を制作するわけではない。

それは「小説を書く」という営みと、「小説作品を批評する」「小説作品を論ずる」という営みがまったく異なる次元で行われているからだ。
もちろん、作家と批評家が対談を行ったり、同じ雑誌にエッセイを寄稿したりすることはあるけれど、
それがあるからといって、作品制作の営みが行われる世界と、作品批評が行われる世界は異なるものとしてありつづける*1

しかし、
教育実践に関していうと、研究者が教員に講演を行ったり、講義を行ったりする機会が多いためなのかなんなのか、あたりまえにあるはずの、この二つの世界の断絶が見えずらくなっている。
そして、だからこそ、逆説的に、
二つの世界の断絶が、一種の絶望感をもって、研究者と教員双方に実感されてしまうのではないだろうか。

「わかりあえている」と思うからこそ、「わかりあえない」ことの絶望感は大きくみえる。
はじめから「わかりあえない」という前提に立っていれば、それなりの関係性を「ゼロ」から作り上げていくことができる。


「いったいそれが、何の役に立つの?」
…という質問が絶望的なのは、
それが「わかりあえている」という「甘え」に根ざしているように思えるからだ。
研究者は、実践家に向けてわかりやすいかたちで語りなおしてくれるはずだし、
それが研究者の義務だ…ということが、当然視されているように思えるからだ。

確かに、研究をしているある人間が、そういうことを行うことは、ある。
講義をしたり、講演をしたりするときが、まさにそれだ。

しかし、(これをハッキリさせておきたいのだが)、
講義や講演は「教育」という営みとして行われているのであって、それは「研究」という営みとは無関係である。


例を挙げよう。
わたしは、さまざまな場で「ボランティア」として参加することがあるのだが、
「kimistevaさんは、研究者だから、ボランティアのリーダーにしましょうか」…なんて話になるはずがないし、なったとしたら、それはアカデミズムによる日常世界の過剰な侵犯であると思う。

それは、わたしが「ボランティア」に関わるとき、
わたしはあくまで「ボランティア」であって、「研究者」とい立場とは無関係だからだ。


研究の世界も、教育実践の世界も、ボランティアの世界も、
それぞれ、同等の重みをもって、別のルールで動く別々の世界である。

だから、
研究者がもし何か、実践に貢献できるところがあるのなら、二つの方向性しかありえないと思っている。
ひとつは、とても大きな方向。もうひとつは、とても小さな方向。

一つ目の大きな方向とは、
(1)新しい「ことば」を作り出すこと。
これまで見えなかったさまざまな現象が見えるようになったり、
新しい実践の方向性を見せてくれるような「ことば」を、研究の中で提示すること。
それは、数値データのかたちをとっていたり、
文字通り、言語のかたちをとっていたりするかもしれない。
それによって、混沌とした世界の中に、新たな秩序が見え始め、実践にかかわる方々が、
「ああ、これはこういうことだったのか」
「こういう可能性があったのか」
「こういう方向性に向かっていくことができるのか」
…などの、発見をすることができたなら、
それは、すばらしい研究であると思うし、
わたし自身は、こういう研究を目指している。

そのための研究方法は、実は、なんでも良いのだと思う。
わたしはたまたま質的研究法しかできないので、実際の子どもの様子をもってきて「これはこうこう、こういう意味があるんですよ」と解説することによって、新しい「ことば」、新しい「物語」を生み出そうとしているわけだけれど、統計調査でも新しい「ことば」を生み出すことはできるし、新しい「物語」を提供することもできる。原理研究も、歴史研究もまったく同じだ。


(2)二つめのとても小さな方向とは、
今、「アクション・リサーチ」(action research)と呼ばれているような方向。
つまり、実際に現場の中に、「研究者」として入りこむことによって、その現場に生じていることの意味や課題を見出し、実践が営まれる世界そのもの、実践そのものを、長い時間をかけてじっくりと変革していくこと。
ここでの「研究」のありかたについては、杉万俊夫『コミュニティのグループ・ダイナミクス』(京都大学出版会)の第一章に、必要なことはすべてまとめられている。

コミュニティのグループ・ダイナミックス (学術選書―心の宇宙 (005))

コミュニティのグループ・ダイナミックス (学術選書―心の宇宙 (005))


「教科教育学」はもういちど、ゼロの地点から、実践現場と研究との関わりかたを考える地点にきていると思う。
現在、流行している「アクション・リサーチ」にしても、ただ「大学教員になると、現場に行かざるを得ないから」(ある大学教員の方がおっしゃっていて、ショックを受けました)という理由でやろうとするなら、そんなものは研究のゴミを生み出すだけだ。
もういちど、現場との関係を考え直した上で、研究のありかた、実践現場との関係のありかたを考えていかないと、「教科教育学」は、これまでと同じ関係性を繰り返していくだけだろう。


わたしは、研究と実践の間にある大きな断絶に、絶望してきた。
でも、これからは、
絶望した上で、それから何ができるのか考えたい。
それでこそ、ようやく、新しいゼロからの一歩が踏み出せるんじゃないかと、そんなことを思うのだ。

*1:大塚英志の場合は、自分の批評者としてのスタンスを「物語」制作に持ち込んでいるけれど、それは特殊な例としておきたい