kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

性とか愛とかのカテゴリーと、それに戸惑うわたしたち―『恋とボルバキア』

お題「最近見た映画」

本日、横浜にあるシネマジャック&ベティで公開中の、小野さやか監督『恋とボルバキア』を見てきました。

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映画『恋とボルバキア』公式サイト


恋とボルバキア 公開記念動画

この映画、昨年12/9から公開されているのですが、ドキュメンタリ―映画であることもあって公開されている映画館が少ない。今回(たった1週間とはいえ)シネマジャック&ベティで上映され、それを観ることができたのは本当にラッキーでした。

 

恋とボルバキア』には、「カラフルにトランスする恋とか愛とかのドキュメンタリー」というキャッチコピーが付けられているけれども、まさに、「カラフルにトランスする」とか「恋とか愛とか」としか言いようがないような…そんな、「何ものか」に括りきれない、わたしたちの性や恋や愛…そしてその遠くに見え隠れする家族のかたちを、ぎこちないままに見せてくれる映画だったと思いました。

 

2017年は映画レビュー記事の中でも、「2017年はLGBT映画が興隆」であることが話題になったり、日本でも、いわゆる「LGBT」「性的マイノリティ」が登場する映画をいくつも見た実感があります。
しかし、その一方で、いわゆる「LGBT」「性的マイノリティ」という言葉から零れ落ちてしまう生き方やアイデンティティ、関係性のありようから、かえって目がそらされていくような、そんな印象をありました。

政治的なカテゴリーとしての「LGBT」「性的マイノリティ」が着目されていく中で、その人自身の「こうありたい自分」の表現や権利の問題がクローズアップされている感じがあったのも事実だと思います。

 

もちろん、「こうありたい自分」を表現していくことも、自分が「こうありたい」と願うライフスタイルを実現するために権利を主張していくことは、とても重要なこと。

すべての人たちが、自分らしく生きていくためのエンパワーメントを、できるだけサポートしていきたい、とわたしも思う。

でもその一方で、「こうありたい」という願いばかりがクローズアップされたときに、その人をとりまく他の人たちとの関係性や、その人自身が他の人との関わりで変わっていくことのできる可能性を閉じてしまったりはしないのだろうか…という点が気にかかっていて、そのことが、自分のなかに、違和感として存在していました。

 

恋とボルバキア』は、そんな違和感をそのまま、掬い取ってくれた映画だったように思います。

 

本映画の監督である小野さやかさんは、『i-D』のインタビューに次のように答えています。

——トランスジェンダーは、性別規範・役割を押しつけられたり、男性あるいは女性としての身体的特徴に違和感を持ち、服装や生活に切り替えたり、身体レベルで性別を移行する人もいる。しかし、そういう在り方が受け入れられる土壌は、例えば(男性から女性に性別を移行する)トランス女性なら「ニューハーフ」として水商売・風俗の世界が主だったりしますよね。だからこそ、「プロパガンダ」のような空間では、見られる自分を消費される代わりに華やかな自分こそを見てほしい、という意識に傾きがちなのかなとも考えました。そのあたりの強い自意識はアイドルの在り方に通じるとおもいます。

まさにその通りだとおもいます。ですが、私が撮りたいと依頼した出演者のみんなは、他者への関心がちゃんとあった人たちなんですね。撮られることはもちろん、他人との関わりで化学反応が起きることを引き受ける気概が感じられた。本人たちとちゃんと話したわけじゃないんですけど、「こう見せたい自分」という自意識から一旦離れて、やりとりができる人たちでしたね。映画っていう枠の中で、こちらがこんなふうに撮りたいって言うと、もっとおもしろい代案が出てきたり。( 恋と性の振る舞い:『恋とボルバキア』 小野さやか監督インタビュー - i-D)(太字は引用者)

 

映画鑑賞後、この記事を読んで、「ああ、なるほど。そういうことだったのか」と、納得してしまいました。

このドキュメンタリ―映画に出てくる人たち―その人たちの生きる性や愛のスタイル、性や愛の問題との関わりかたは、実にさまざまだけれども―、あの人たちに共有していたのは、「他人との関わりで化学反応が起きることを引き受ける」ことができるという…そういうことだったのだな、と。

 

「愛」も「性」も、そして「家族」も、誰かとの関係なしには成り立たないし、そうであるとすれば、そこに、他人との関わりが生じないはずがない。

だけれども、「LGBT映画」といったときに登場する他者のありかたは、どこか固定されていて、極端な言い方をしてしまえば、「アライ」か「非-アライ」かの二分法でくくられてしまっているように見えるときすらある。

「当事者以外」(と括られてしまっている人たち)にできることは、「当事者」の要求や表現を「受け入れるか」「受け入れないか」のどちらかで、当事者はほとんど変わることがない。

もしかしたら、わたしが感じていた違和感は、その「変わらなさ」なのかもしれない…とあらためて思いました。

 

もちろん、マイノリティに対して、マジョリティが「お前が変われ」と要求することは暴力でしかない。でもだからといって、「変わらない」ことを要求するのも、同じように暴力なのだと思う。

私たち皆の中に「変わりたい」と思える部分、「変わりたくない」と思える部分が存在していて、そしてそれは私たちの生活や人生の流れのなかで、流動的に変わっていきつつあるものでもあって…そういうなかで、愛や性の問題が出てきたり、消えていったりする。

そんな、考えてみれば、私たちすべてにとって当たり前に存在しているような世界。そんな世界を『恋とボルバキア』はそのまま、提示してくれている。

 

この映画は、シネマジャック&ベティでも、たった3/30までしか上映せず、その後も(地方映画館ではいくつか上映が予定されているところもあるようだが)あまり観られるところは多くないようで、とても、もったいないと思う。

この映画、これからどうなっていくんだろう…。

もっともっとたくさんの人たちに観てもらいたいし、その観た人たちといろいろな話がしてみたい。…そんなことを思わせる映画だった。

ネットワークを遊ぶ/ネットワークで遊ぶ―「39アート in 向島2018」

2018年3月1日~3月31日まで開催している「39アートin向島2018」に行ってきました。

「39アートin向島」とは、「サンキューアートの日」に地域で参加しているプログラムのひとつ。「39アートin向島」が始まったのが、2010年3月ですので、今年でもう9回目を迎えることになります。

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墨田区押上に、東京スカイツリーがグランドオープンしたのが、2012年5月。

「39アートin向島」は、東京スカイツリー建設中から、そのオープン、そしてその後の展開を見守りながら、地域の人たちとともに展開してきたプロジェクトということになります。

その間、この地域のもつ意味も、そこに住んだり働いたりする人たちの層も大きく変化してきました。

新たな観光客や住民に向けたカフェなどがオープンし、「39アートin向島」にもたくさんのカフェが参加しています

 

そのような中、墨田区京島エリアにあった長屋の取り壊しが決定し、その立ち退き期限である3月31日までの間に、取り壊しの決まった長屋を使用した展示や、そこでの様々なプロジェクトが展開されていたり(京島長屋82日プロジェクト)、

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一方で、そのような街の変化のなかで残された活気ある商店街の中で、商店街とコラボレーションした展示があったり、

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時代や社会の変化、都市構造の変化によって変わりゆく街と人々との関わりを、様々なプロジェクトが、それぞれに異なった切り口で、見せてくれる様が面白い、とあらためて思います。
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そんな中、今回は幸運なことに、関わってきた期間は異なれど、このエリアでさまざまなプロジェクトを展開してきたお二人とガッツリお話する機会を持つことができました。

その中で、現在このエリアに新たに登場しつつあるキーワードとして、「遊び(play)」というキーワードが挙げられたのが、非常に面白かったです。

 

実際、お二人とのディスカッションのあと、「39アートin向島2018」を見てみると、社会や文化に対する「抵抗」「批判」というよりは、「支配/従属」「マジョリティ/マイノリティ」「ハイカルチャーサブカルチャー」という二項対立そのものを無効化したり、転覆・融解させていくような「遊び」的なアプローチに立つ人たちや、プロジェクトの存在が印象に残りました。

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変わりゆく街の風景に対しても、「対抗」「批判」的な姿勢でそれらを守ろうとしたり、もの申していくのではなく、

「なくなっていく」「捨てられる」という状況そのものを、クリエイティブの契機として捉えなおしていくアーティストがいたり、

これまでこのエリアで培われてきた人・モノ・コトの関係性をあえて「組み替えていく」ことで、新たな可能性を生み出せるのではないかと考える人たちがいたり、

これまでにあったさまざまな地域の資源に対する見方、培われてきたネットワークに対する発想のありかたが、これまでとは異なるかたちで展開していくような予感を、そこかしこに見ることができました。

 

これまでこのエリアでは、クリエイティブな活動のための「ポイント」が作られ、それらが相互に影響しあがら、新たな「ポイント」が生み出され、さらに「39アートin向島」を含むアートプロジェクトの中で、それらの「ネットワーク」を構築されてきました。

もしかしたら、今後は、さらにその創り上げられてきた「ネットワーク」をもとに、さらにそれらをプレイし、新たなネットワークの可能性を見出したり、ネットワーキングすることそのものを遊びながら、これまでとは異なるアプローチで創造的な活動が行われていく段階へと発展していくのかもしれません。

「書く。部」によるギャラリーガイド~『チュートリアル:ポスト・ヒューマン時代の歩き方』と『GAME 超人類転生』

水戸芸術館現代美術センター「高校生ウィーク」の一環として開催した連続ワークショップ「書く。部」が、昨日、無事に終了いたしました。

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イベントの詳細については、こちらをご覧ください。

書く。部第1回 対話型鑑賞「ハロー・ワールド」展

書く。部第2回 編集会議「夢のギャラリーガイドを妄想する」

書く。部第3回 ギャラリーガイド公開制作

 

第1回対話型鑑賞「ハロー・『ハロー・ワールド』」では、チームごとにわかれて、現代美術ギャラリーで開催されている「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」を、みんなで自由におしゃべりしながら鑑賞。

おしゃべりする中で、出てきたキーワードを、カードにどんどん書いていきました。

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「高校生ウィーク」とはいえ、参加者は、中学生から社会人さまざま。

「ハロー・ワールド」展でテーマになっているような、「科学技術やコミュニケション・テクノロジーと人類との関係」についても、世代によって、その人が生きてきた文化によって、さまざまなイメージがあります。

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展示作品から、「昭和」的なサイエンス・フィクション(SF)の世界を感じたり、1990年代のテクノ・ミュージックにありそうなサイケデリック感を想起したり…「科学技術と人類」と一言で言っても、そこには、さまざまな意味がたちあがってきます

 

第2回目の編集会議「夢のギャラリーガイドを妄想する」では、第1回目のワークショップで立ち上がってきたキーワードをもとに、「ハロー・ワールド」展を、より面白く見るために、どんなギャラリーガイドがあったら面白いだろうか?と妄想を膨らませます。

 

個別の作品から、ギャラリーガイドのためのヒントを得てみたり、あるいは展覧会全体のイメージから、ギャラリーガイドのヒントを得てみたり、発想の仕方はさまざま。

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 参加者たちから出てきたアイディアを、ホワイトボードにまとめていきます。

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話し合いの結果、今回の「書く。部」では、2つのギャラリーガイドを作成することになりました。

 

ひとつは、展覧会会場に入る前に、誰もが手にとることができる①配布用ギャラリーガイド。

もうひとつは、展覧会途中に立ち寄れる高校生ウィークカフェ「YAP!」内で遊ぶことのできる②ゲーム型のギャラリーガイド。

 

第3回目のワークショップでは、具体的に、自分たちで妄想したギャラリーガイドをかたちにしていきました。

こちらは、①配布型ギャラリーガイドを作成するチーム!真剣です!

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②ゲーム型ギャラリーガイドを作成するチームは、ゲームをプレイしながら、ガイドのあり方を考えていくので、もうちょっとゆるやかな感じ。…楽しそう。

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テストプレイを終えて、カードに清書をして…
…ついに完成です!できた!

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こうして、ようやくギャラリーガイドが完成しました。

 

できあがったギャラリーガイドは、水戸芸術館現代美術ギャラリー内カフェ

YAP!」の「書く。部」ブースにて配布&設置中です!

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4月8日(日)までの「高校生ウィーク」期間中に皆さんに見ていただいたり、体験していただいたりできるようにしたいと思っています。

ぜひ、皆さま、水戸芸術館現代美術ギャラリー内カフェ「YAP!」までお越しくださいませ。

プレイフルな芸術と、遊びのアート化―「みっける365日展:アーティスと探す人生の1%」

本日、2018年2月24日、世田谷生活情報センター・生活工房にて、「みっける365日」展が始まりました。

www.setagaya-ldc.net

「みっける」は、現代美術作家の北川貴好さんが、2011年1月に、「朝から夜まで一日千枚を目標にデジタルカメラで写真を撮り、それを一コマ0.2秒の高速のスライドショーにして約4分の映像を遊びで作ったところから始まった」プロジェクト(「history」-30秒に一回みっける写真道場

www.mikkedojo.com

こちらの動画を見ていただくと、理解しやすいかもしれません。


30秒に一回見っける写真道場!

「みっける365日」展のホームページには、次のように説明されています。

切り取りたいものごととの関係性をつくろうとする、能動的な行為のこと。

これまで各地で展開してきた「みっける写真道場」は、1日に1,000枚写真を撮り高速スライドショーを作るプロジェクトです。

能動的に何かを「みっける」ことで現れた、あなたの思考や意思を映す写真――。

そんな写真の連なりを映像作品にして発表してきました。

この度の「みっける365日」は1日ではなく、1年。

つまり人生の1%以上を能動的に動き、おもしろくみっけるアクション! を積み重ねていくプロジェクトです。

 

「みっける」は、2015年頃から、それまでの「地域再発見」的な1day ワークショップの範疇を越えて、さまざまなアーティストたちとのコラボレーション・ワークを展開してきています。

「みっける365日」は、その中でも、市井の人たちが1年間撮りためた写真を使って、それを高速スライドショーなどのかたちで見せていくプロジェクト。今回は、世田谷という地域になんらかのかたちでかかわる人たちが、1年間、なんらかのかたちで撮りためた作品をもとに、アーティストたちのもと作品を制作するというプロジェクトになています。

わたしは、2016年に行われた「みっける日常ヨコハマ|だれかの365日とアーティスト」での試み―だれかが1年間スマホで撮りためた写真を素材にして、アーティストが「みっける」作品を制作するという試み―に、ある種の暴力性を感じていて、それを北川さんご本人に伝えていたこともあり、今回のプロジェクトがどのような展開になるのか、非常に楽しみにしていました。

 

…そんなこともあってか、今回、オープニング・イベント「『みっける』って、なんなん?」にゲストとしてお呼びいただきました。ありがとうございます。

 

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本日、展示会場では、まだ何人かの参加者の方々が、公開制作を続けられているような状況ではございましたが、そのような中、オープニング・トークイベントが開催されました。

わたしにとって、今回の大きな関心事は、「みっける365日」展で採用された、「ゼミ」システムが、アーティストと参加者とのどのようなコラボレーションを生み出すのか?ということ。そして、そのなかで「みっける」という仕組みがどのように意味づけられ、それが最終的に、どのような作品群に結実するのか?ということでした。

 

そんなわけで、トークイベントへの出演をご依頼いただいたことをきっかけに、森田幸江さんによる「みっける探偵FILE」のブログを熟読し、下記の記事を中心に、それぞれの「ゼミ」の特徴(?)として読み取れるものをスライド資料にしながら、トークを進めていくことにしました。

www.setagaya-ldc.net

上記ブログ記事のなかでは、各ゼミのその日の様子が、次のようなキーワードでまとめられています。

  • 北川貴好ゼミ──追加的
  • 青山悟ゼミ──魔法的
  • キュンチョメゼミ──二次元的
  • タノタイガゼミ──求心的

実際に、展示室に行って作品を見てみると、ここで書かれているような関係性がこう結実するのか…!と得心すもあり、逆に、疑問に思うこともあり…、トークイベントでは、そのあたりのことを、参加者の皆さんに、直接お伺いすることができました。

おかげで、今回の「みっける365日:アーティストと探す人生の1%」において見られた展開をもとに、あらためて、芸術でもあり遊びでもあるものとしての「みっける」のレンジが浮かびあがってきたように思います。

 

以下、展示について。

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「Tokyo Art Research Lab」初年度成果レポートに寄せて(2011年3月)

「東京アートポイント計画」のスタッフの方々より、インタビューの依頼を受け、アーツカウンシル東京ROOM302まで、行ってきました。

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わたしは、2009年度~2010年度、東京文化発信プロジェクト(公益財団法人東京都歴史文化財団)だった頃の、「東京アートポイント計画」立ち上げメンバーだったので、「東京アートポイント計画」草創期の話を聞かせてほしい、というご依頼でした。

 

とはいえ、かつての一緒にデスクを囲んでた大内さんも、坂本さんも、「東京アートポイント計画」で働いていらっしゃるし、アートプロジェクトのための評価のフレームを一緒に考えてきてくれた(と、わたしは思っている)佐藤李青さんもいらっしゃるので、わざわざわたしが出向いて話せることなんて、ほとんどなかったように思います。

 

そんなわけで、ただただ、楽しかっただけの時間で終わってしまいましたが、ひとつ、とてもうれしいことがありました。

 

「Tokyo Art Reserach Lab」の独自サイトへの移行や、東京アーツカウンシルHPへの移行の中で、消えてしまったと思っていた、わたしのテキストを、見つけていただくことができました。

このテキストは、香川秀太・青山征彦(2015)『越境する対話と学び:異質な人、組織、コミュニテイをつなぐ』(新曜社)に掲載されているわたしの論文「密猟されるオープンソースとしての「共通言語」─「Tokyo Art Research Lab」における実践のデザイン」 の考えのもとになったテキストであり、わたしが、「東京アートポイント計画」スタッフ時代に、自分自身の名前で書いた数少ないテキストのひとつだという意味で、とても大切なテキストなんです。

この他には、『アートプロジェクトを評価するために:評価ゼミ|レクチャーノート』に書いた1頁の原稿と、ブログ(笑)のみだったと思います。

 

  

 

そして、何よりも、2011年3月に起きた東日本大震災の直後に、自分自身の生活も、引っ越しの準備もままならない中、混乱を極める他のさまざまなコーディネーションをこなしつつ、その空き時間を見つけながら、「今、自分にできることは、自分が見てきたことを残すことだけだ」という必死の思いだけで書いた原稿なんです。

 

それが、こうして、またわたしの手元に戻ってきてくれたことが、うれしい。

そして、そのときのわたしの言葉を、こうして、皆さんにまた開いていけることが、うれしい。

 

もちろん、5年以上前のわたしは、研究者としても中途半端である上に、アートプロジェクトの世界についても、ようやく初級の言葉がわかり、なんとかコミュニケーションができるようになった…という段階なので、この原稿も、その未熟さをそのまま、反映している。

 

それでも、実践の現場に関わりながら、研究者としての視点を忘れないでいようとし続けたわたしの言葉には、意味がある、といまでも思う。

 

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動物たちとクリスマス~東武動物公園クリスマス・イベント~

お題「Merry Christmas!」

何年かぶりに、まったく仕事のない12月24日を確保できたので、「行ってみたい」と言いつつ行ったことのなかった東武動物公園に行ってきました。

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この時期の東武動物公園といえばウィンターイルミネーションが有名(?)らしく、「東武動物公園ウインターイルミネーション2017-2018:東武動物公園」の特設サイトができ、イルミネーション用の特別チケットが発売されたりしているようです。

 

たしかに、広大な敷地をあますところなく使ったライトアップ&イルミネーションは、なんともいえない味わいがあります。

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個人的には、やはり、遊園地のライトアップが好きですね。

あまり新しくない…見方によっては、多少、"廃墟"的な雰囲気すら感じられる遊園地なので、幻想的な雰囲気が味わえます。

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そして、クリスマスの日には、動物園エリアでもいろいろなイベントが開催されていたのに、東武動物公園のページを見たところ、まったくそんな情報が掲載されていなかったので、残念!

 

この日には、スペシャル・イベントとして、動物のパレードがあり…

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動物園の夜間開放ありで、動物園のクリスマス・イベントとしては見どころ満載でした。

 

こちらは、ライトアップされる皇帝ペンギン(王者の風格)。

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そしてこちらは、夜になってようやく動き出したビーバー(夜行性)。

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はじめて行ってみましたが、大人でも一日楽しめるなかなかステキなところでした。

最後に、今回一番ショックをあたえた、ジレンマのないヤマアラシ

ヤマアラシのジレンマ」とはいったい何だったのか…。

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思考によるリフレクション/身体によるリフレクション~上條晴夫『実践・教育技術リフレクション あすの授業がうまくいく〈ふり返り〉の技術(1)身体スキル』~

東北福祉大学の上條晴夫先生から、『実践・教育技術リフレクション あすの授業が上手くいく〈ふり返り〉の技術 (1) 身体スキル』(合同出版)をご恵投いただきました。

 

 

「あすの授業が上手くいく」という、教育技術のマニュアル本によくあるフレーズと、「リフレクション」「振り返り」という言葉が共存していることの奇妙さに、違和感を感じつつ、一方で、そういったディスコースの矛盾の中に、未来の可能性を見出してきた者の一人として強く興味を惹かれ、さっそく読んでみました。

 

すべてを読み通してみて、この書籍自体が、試行錯誤のプロセスの中にあるものだという印象を受けました。いただいた添書の中にも、本書が実験的な試みとして作られている旨が記載されていたけれども、まさに、ひとつの試行・実験として、世に出された本だという感じがします。

 

そんな本書の実験の中で、興味を惹かれたのが、読者自身に、自身の実践の「リフレクション」を促そうとする部分。

本書の中では、教師に求められる「身体スキル」を8つに分類し、それぞれのカテゴリーに分類された各スキル(例:「共犯関係をつくりだす」「フォローの技を磨く」など)に対して、

「思考でリフレクション!」

「身体でリフレクション!」

…という、2つのタイプの「リフレクション」が求められるようになっています。

 

面白いのは、後者の「身体でリフレクション!」があるというところ。

これまでも「振り返り」「リフレクション」の大切さは何度も繰り返されてきたけれども、そのときに重視されるのは、どちらかというと認知的な部分(「思考でリフレクション」)であったように思います。

それに対して、身体的な感覚や感情を用いて振り返ることを、このような教育技術マニュアル本の中に入れ込んできた(!)ところが面白いです。

私は以前、コルトハーヘン『教師教育学:理論と実践をつなぐリアリスティック・アプローチ』学文社)を読んだ際、「ALACTモデルにおける第2局面で有効な具体化のための質問」に、「あなたはどう感じたのですか?」「生徒たちはどう感じたのですか?」という、感情について振り返りが入っていることに、とても感銘を受けました。

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今回の本書の試みは、そのような感情についての振り返りを、教育技術マニュアル本の中に盛り込んでいこうとする試みなのかもしれません。

 

一方、せっかく「身体でリフレクション!」として紹介されているにも関わらず、認知的な振り返りにとどまるような問いかけになっている(と思われる)ものもけっこうあり、それが残念なところでもありました。

それは、もちろん、身体的・感情的にリフレクションをする、ということが、マニュアル化しにくいことの証でもあるように思います。そういう意味では、身体的・感情的にリフレクションをするための問いのありかたについて、本書から考えさせられる部分は、とてもたくさんありました。

 

たとえば、「一緒にゲームを楽しむ(スキル5-4)」(pp.72-73)の「身体でリフレクション!」は次のようなものです。

 

① あなたは、子どもと一緒に学ぶことを十分に楽しんでいますか?

② あなたは、子どもと一緒に学びの「フロー体験」をしていますか?

③ あなたは、子どもと一緒に学びの達成感を得ていますか?

 

これらの問いは、自分が授業のなかで感じていた自分の身体のありかた、感情の動きのようなものを見つめなおすきっかけとして機能してくれるように思うのです。

授業後に、自分を振り返ってみたときに、「今日の授業は、(子どもたちは楽しんでいたけど)私は完全にサーバント(servant)だったな」とか、「今日は、みんなで一緒に学んだー!って感じがしたな」とか、考えるときがあるけれど、まさにそれを引き出してくれる問いだという感じがする。

 

一方、その直前にある「チューニングをする(スキル5-3)」(pp.70-71)の「身体でリフレクション!」には、次のように書かれています。

 

① あなたは、子どものファッションに関心を向けていますか?

② あなたは、子どもの「エンタメ」行動に関心を向けていますか?

③ あなたは、子どもの人づき合いの仕方に関心を向けていますか?

 

たしかに、子どもの表現に「チューニング(同調・調律)」していくために、これらのようなことを普段から意識しておくことはとても大切だとは思うのですが、これらが「身体でリフレクション!」するための問いかけになっているだろうか…と考えると、少し疑問です。

「チューニングできた!」「チューニングがうまくいかない!」という感覚は、身体的・感情的な現象なので、その部分にフォーカスしないで、それがしやすくなるための条件の部分を問いかけても、「チューニング」の経験には迫れないような気がするのです。

逆にいえば、子どもたちのファッションや「エンタメ」行動、人付き合いの仕方に関心を向け続けていたとしても、〈いま・ここ〉の場で、チューニングしようと意識し、身体を意図的にオープンな状態にしないと、チューニングはできないのではないか?と思うのです。

 

上條先生には、今年の8月20日に、夏休みお試し版「即興×リフレクション体験会」を横浜国立大学にて開催していただいました。

 

aosenn.hatenablog.com

ameblo.jp

 

その時に、「即興×リフレクション」体験会での、リフレクションの際のポイントを実行委員の皆さんが考え、言語化されていたのですが、このようなポイントの提示のありかたが、身体的・感情的な振り返りを促していくためのひとつのヒントになるような気がしています。f:id:kimisteva:20170820094358j:plain

そのような意味では、同じく8月に行われた国際ワークショップ「パフォーマンス心理学の未来」を踏まえてこの日に行うことになった、「演じるリフレクション」が本書の中で紹介されているにもかかわらず(p.121)、この日に共有されていたこれら3つのリフレクションのポイントが触れられていなかったのは、ちょっぴり残念でした。

 

① 学び手としての自分の実感を語りましょう。

② 生まれたての言葉で語りましょう。

③ 一緒に意味を作ってみましょう。

 

「即興×リフレクション」体験会では、さまざまな「即興」や「リフレクション」の在り方が紹介されていましたが、その多様な「リフレクション」に通底するポイントとして、これら3つのポイントが導き出されていたのだとしたら、私たちはこれをもとに、「リフレクション」のありかたを考えていくことができるのではないか?とあらためて思いました。

 

たまたま噂で耳にしたのですが、現在ふたたび、「即興×リフレクション」のイベントの企画が動き出しているようです。

次回の開催も楽しみにしています!