ドキュメンタリー映画『作家、本当のJ. T. リロイ』を観に行きました。
J. T. リロイを巡る一連の事件については、事件発覚直後くらいに映画評論家の町山智浩さんが「要するに竹宮恵子が『風と木の詩』を『ジルベールという少年の自伝です』と言って売り込んだようなものだ。」と評していたり、
映画公開直後には、J. T. リロイの一連の小説を書いていたローラ・アルバート(映画のタイトルに沿って言えば「本当のJ. T. リロイ」)が「腐女子」のような存在として語られていたりしていて、ちょっと話題になっていたこともあり、居てもたってもいられなくなったというのが理由です。
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— 腐女子の情報サイト ちるちる (@chillchill_bl) 2017年2月25日
女装男娼美少年作家は存在しなかった!?文芸界を賑わせた騒動が映画化https://t.co/6Tq39H0Nap
ドキュメンタリー映画『作家、本当のJ.T.リロイ』 4月8日公開
ゴースト・ライター騒動(と言ってしまえるほど、こちらの事件は単純ではないけど)といえば、日本でも、佐村河内事件のその後を追った、森達也監督のドキュメンタリー映画『FAKE』がDVDで発売・レンタルされたばかり。
これらの作品が同じタイミングで、世に出てくるというのは、あまりに良くできすぎていて、なんだか不思議です。
J. T. リロイとは、『サラ、神に背いた少年』(日本では、金原瑞人訳で、2000年に出版)、『サラ、いつわりの祈り』(日本では、同じく金原瑞人訳で、2005年に出版)の"作者"とされていた人物。
今でもAmazonの書籍紹介を見ると、「自分を忌み嫌う母への愛憎、純粋さと残酷性を持った少年の微妙な心の揺れ動きを繊細に描いた、自伝的青春小説」(『サラ、神に背いた少年』)「著者の衝撃的な実体験をもとに、痛ましいまでの少年の想いをクールに描いた短編連作集」(『サラ、いつわりの祈り』)と書いてあったりします。
そう。これらの小説は「フィクション」として売り出されていたけれど*1、その作者たる人物はいてその「実体験に基づいている」というのが売り文句だったわけです。
…でも、そんな人物は存在せず、これらの小説を書いていたのは、ローラ・アルバートという既婚者で子どももいる女性だった…というのが事件の顛末。
この映画は、ローラ・アルバートが「J. T. リロイ」という薄幸の美少年(わたしによる脚色が入っています)をなぜ、いかに作り上げられたのか?について、ローラ・アルバート自身の一人称的な語りと、その期間に関わっていた、心理カウンセラーやアーテイスト、セレブたちとの電話会話記録の音声をもとに再構成されています。
わたしは、この事件の具体的な顛末について、この映画を通じてはじめて知ったのだけど、率直にいって、なぜ、さまざまな人々の前に現れ、マスメディアでも写真や動画で映し出されてきたこの「J. T. リロイ」の身体が、その少年の身体として受け入れられてきたのかが、謎でした。
この写真をはじめに見たときに、どう見ても女性だと思ったんですが、
「小さいときに男性器を切除された」的な逸話があったり、J. T. リロイ本人が「自分が男性か、女性かわからなくなる…」みたいな語りをしていたから、みんななんとなく納得していた(?)ということなのでしょうか。
こちらの記事では、当時、J. T. リロイに実際に会い、インタビューされた佐久間裕美子さんが次のように語っています。
シャイだという触れ込みのJ.T.リロイは、たしかに饒舌とはいえなかったけれど、質問にはゆっくりと、丁寧に答えた。柔らかそうな唇から出る細い声に、「女の子みたいだな」と思ったことを覚えている。けれど、トランスジェンダーであれば驚くべきことでもない。深く考えもしなかった。
おそらく、ここで佐久間さんが述べられているように、出会った方の多くが、それなりに、「女性では?」と疑問に思いつつも、すぐに「トランスジェンダーであれば驚くべきことでもない」と思い直してきたのかなぁ…と思います。
あらゆる人々を「トランスジェンダーだからそんなもんか」と思わせるだけのパワーがいったい、どこにあったのか?
…と考えてみると、J. T. リロイの身体であり続けた、サヴァンナ・クヌーのことをもっと知りたい!と思ってしまうわけですが、この映画中でサヴァンナは、一言二言しか語っておらず、ほとんどがローラの語りの中に埋没していくので、最後までそのパワーの正体はわからぬまま。
サヴァンナは映画中で、人々がリロイの存在を信じつづけた理由について、「それは、自分がJ. T. リロイを名乗ったからだ」としか言いませんが、私は、逆にそれしか言っていないにも関わらず、これだけ世界が「J. T. リロイ」の存在を信じ続けた理由、「J. T. リロイが存在し続けた理由」に興味があるのです。
そんなわけで、現在制作中だという、サヴァンナの著作『Girl Boy Girl: How I Became JT Leroy』をもとにした伝記映画のほうに興味があります。
とはいえ、おそらく、サヴァンナがすべての答えを持っているわけでもないでしょう。
おそらく、「J. T. リロイ」が存在し続けられたのは、ローラ・アルバートやサヴァンナ・クヌーが「J. T. リロイ」の存在を守り続けたからだという以上に、やはり、J. T. リロイの作品に感銘を受けたあらゆる人たちが、「J. T. リロイが、実在していてほしい」と強く願い、その存在を(さまざまなかたちで)構築し、維持し続けたからなのだと思います。
「J. T. リロイ」の正体(?)がわかったとき、ローラ・アルバートたちのもとにたくさんの非難や批判が寄せられたそうですが、その時、人々はいったい何に憤っていたのだろう?と考えました。
もちろん、「HIVやマイノリテイ性をダシに、名実を獲得した!金儲けをした!」という非難も多かったのでしょうが、「J. T. リロイが存在しなかった」ということへの悲しみを怒りにかえて非難・批判している人も相当数いたのではないか…と思わせる映画でした。
ある人が、ある存在が、世界の中に「存在する」というのはどういう状況を指すのでしょうね?
私の立場からいえば、「J. T. リロイ」はある一定の時期に、この世界のなかに、たしかに存在したのだ…と言わざるを得ないのではないか、と思います。
*1:ノンフィクションとして売っていた!…という記事もちらほら見かけるのですが、当時一読者だったわたしは「ノンフィクション」として読んだ記憶がなく、ソースも見つけられなかったので、とりあえず「フィクション」だったということにしています。「ノンフィクション」として売り出されていたことがわかるソースがあったら知りたいです。