近藤銀河(2024)『フェミニスト、ゲームやってる』(晶文社)を読みました。
書店に並びはじめてからかなり早い時期に、本書と出会い、「この本…わたしが買わなきゃ、だれが買う!?」と、妙な使命感にかられて、すぐに入手したのですが、ひとつひとつのゲーム批評記事を、ゆっくりのんびり、味わいながら読んでいたら、1か月半もかかってしまいました。
本書に対する感想やレビューを見ていると、本書のなかで紹介されているたくさんクィアなゲームたちよりも、すでに広く知られている「有名なゲーム」をこれまでとは異なる視点から、批評している記事が、多くの人の心を打っているようです。
その評価のなかには、はっきりと「フェミニズム(理論)」あるいは「クィア(理論)」の視点からゲーム批評を行っていることを高く評価しているものもあるようですが、わたし自身は、「フェミニズム」「クィア」といった大文字の理論に基づいて批評を行っているようなゲーム批評よりも、「フェミニズム現象学」*1のようなアプローチで、すなわち、ある固有の身体と感情をもち、それらを時にはもてあましながらゲームと向き合い、ゲームをプレイしてきた「わたし」個人としての経験から紡ぎ出されるような批評の方が好きでした。
本書のなかには、著者である近藤銀河さん自身のゲームプレイの経験、そこで自身が感じてきた違和感やあきらめ、ためらいのようなものが率直に語られている箇所があります。これら、著者自身の具体的な経験を通じて見出された考察は、わたし自身がこれまでにゲームプレイを感じていたいろいろな違和感に気づき、言語化するためのきっかけを与えてくれるように思えました。
そしてそのような、個人の具体的な語りにもとづく記述の延長戦上に、これまで知らなかった、クィアなゲームたちの紹介があり、そのゲームプレイのなかで著者自身が感じたであろう「光」のようなものが共有されることで、読者である私たちも、心ときめくような期待を感じることができる。「自分は、これからも、ゲームをプレイしていっていいんだ」「ゲームプレイを語っていくことができるんだ」と思える。――そんな感覚がありました。
本書の「おわりに」には、フェミニストとしてゲームをプレイし語ることの困難について書かれています。
著者の近藤さんがおっしゃるように、「ちょっとしたことにも罵詈雑言が飛んでくるような状態ではフェミニストとしてゲームをプレイすることを発信したり語り合ったりするのは難しい」(p303)状況があります。
わたし自身は、どの程度の人たちがこの言葉に共感するかはわかりません。ゲームプレイに対する典型的な言説とは異なる語りをしたい、と思う人は、そもそもそれほどいないのかもしれません。
私自身は、自分自身がゲームプレイが得意でなく、ほとんどのデジタルゲームをクリアできていないこともあり、またゲーム世界のなかでうろうろと彷徨ったり、そのなかでいろいろな発見をしたりすることそのものが「面白い」と思うような人間だったので、ゲームを語ろうとする場面で、いつも、そのような困難に直面してきました。
どんなに、「わたし」という個人のゲームプレイの経験を語ろうとしても、その声や語りがまったく届かない。いつの間にか、それはゲームというコンテンツの話になっていて、彷徨っていることそのものの経験をいくら語っても、それは「『成功ルート』に、たどりつけない失敗者」の経験として片付けられてしまう。価値のないものとして、むしらされてしまう。
誰とどのような語りをしていても、いつの間にか、「標準的」だったりあるいは「成功的」であったりするプレイだけが唯一絶対のゲーム経験としてみなされ、その視点からのみで、特定のゲームの意味や価値が語られてしまう。……そういう言説の場に受けたときの傷が、ずっと、自分のなかに、残り続けていたように思います。
以前、バトラーとして登壇した、デジタルゲーム関連本ビブリオバトルでは、まさにそのような場の1つであったように思います。
そのようななか、本書が『ピクミン4』のプレイを断念した経験に基づくゲーム批評(「かくして私は収奪と救済に失敗する」)から始まるのは、いろいろな意味で、わたしにとって画期的なことでした。
この『ピクミン4』のゲーム批評の存在そのものが、(そしてそれが本書の冒頭に位置づけられていることが)高らかに宣言しているように、プレイに「失敗」すること、途中で断念することも含めて、すべてがゲームプレイという実践であり、そのゲームプレイが達成された、というそのことそれ自体が、そのゲームの意味であり価値であるのに。そのことそのものが、なぜか、いつも忘却されてしまう。
本書は、あらゆる個人が行うあらゆるゲームプレイの実践とそこから見出される意味、それについての語りを、全面的に肯定します。それが、どんなにマイナーな経験であっても、「フェミニスト」としてゲームをプレイする、というのは、まさにそういうことであるはずなのです。
今、わたしは、あらためて、もう一度、ゲームがプレイしたい!と、思っています。
ここにいる、他ならぬ「わたし」自身としてゲームをプレイすること。そこからすべてが始まるのだ、と。
さあ、ゲームをしよう!そして、わたし個人の経験を語りはじめよう!
*1:「フェミニズム現象学」については、『フェミニスト現象学入門―経験から「普通」を問い直す』を参照。