『あらためて、ライティングの高大接続』往復書簡を受けて
ひつじ書房のウェブマガジン『未草』の中に、今年4月から、「Book Review」の姉妹編として「Letter: Black Sheep and white Sheep」というコーナーが設けられています。
Letters:Black sheep white sheep | 未草
このはじめのシリーズとして、『あらためて、ライティングの高大接続』(ひつじ書房)をめぐる、同署の著者2人(島田康行先生・渡辺哲司先生)と、あすこまさんとの往復書簡が展開されていて、とても興味深いです。
5月10日、著者陣からの「あすこま」ブログ記事における書評へのコメントが公開され、その3日後、あすこまさんから、そのコメントへの返信が公開されました。
このやりとりの中で、「アカデミック・ライティング」を、学術論文やそれに準じた/その方向性を目指したレポートではなくて、小中学校も含む学校教育全体で書かれているような「事実や意見を伝える文章」に拡張して考えましょう、という提案がなされ、それについて、肯定されるかたちで議論が進んでいるようなので、それに対しては、ちょっと違和感をもった。
たとえば、マクミラン社が提供しているオンラインのフリーディクショナリーで「academic writing」を検索すると、次のような語釈が表示される。
ACADEMIC WRITING (noun) definition and synonyms | Macmillan Dictionary
①エッセイや研究論文、その他の学術的文章に使用される、フォーマルで、かつ、事実に関わる書くことのスタイル(a formal and factual style of writing that is used for essays, research papers and other academic texts
Whilst academic writing has its place, this mode tends )②学術的なスタイルで書かれたテクスト(texts that are written in an academic style)
なんでもかんでも辞書的な定義に忠実になるべきとは一切思わないけれど、あまりにも原語の定義から拡張すると、何がなんでも「アカデミック・ライティング」になってしまうようで、わたしにとっては、息苦しい。
わたし自身は、大学院時代に、「vocational Literacy(職業リテラシー)」とか、「venacular Litearcy(ヴァナキュラー・リテラシー)」とかに関心をもって研究をしていた時期があり、
さらにいうと、今、まさに、宮澤先生と進めている「つながりの学習(Connected Learning)」(初版のレポートはすでに日本語で読める→『つながりの学習(Connected Learning)』)と国語教育・読書教育をつなげる研究のなかでも、「アカデミック」でない領域につなぐための言葉やリテラシーの教育について考えていたところでもあったりする。
#全国大学国語教育学会 2021春大会(オンライン)にて、Miyazawa先生 @Miyazawa_1111 と紙面発表します。@TheCLAlliance の『 #ConnectedLearning Research Network: Reflections on a Decade of Engaged Scholarship』で提示された議論の日本における可能性を探ります。https://t.co/3FVnfuVpBw
— Kimi Ishida (@kimi_lab) 2021年5月18日
あすこまさんが本書についてコメントした、はじめの記事でも、大学進学率が半分強に過ぎないこと、アカデミック・ライティングが多様な書き言葉の実践のひとつにすぎないことは指摘されているので、おそらく、その当初のコメントの趣旨を踏まえたうえで、議論が修正されていくのだとは思うのだけれども、現在の議論の流れを見ると、少し不安を覚えてしまう。
私自身は、奇しくも、アカデミックに書くことの文脈のなかで、「アカデミック・ライティング」のスタイルを問い直すという、奇妙な経験をしてきました。博士論文では、1章分もかけて、「自分自身がこの論文をどのような文体で書くべきか」について論じていますし、(さすがにそんなに書く必要はなかったのでは、と今になって反省していますが)いまだに、論文を書こうとするたびに、「この論文は、どういう文体で書くべきか?」をはじめに考えてます。
おそらく、私のように、ヴァン=マーネン(1999)『フィールドワークの物語―エスノグラフィーの文章作法』に影響を受けて文体を捉えなおしたり、ケネス・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』などの議論を受けて、自分自身の研究を伝え、届け、議論するためのメディアそのものについて問い直している研究者は、たくさんいると思います。
そんな文体そのものの問い直しのなかで、「アカデミック・ライティング」とは、「書き手自身を、人々が生を営む世界から遊離した超越的存在(『神様』のような存在)に置き、第三者的に何かを眺めたような視点で書くことで、なんらかの『発見』を見出そうとする文体」ととらえ、実際に、自分自身がアカデミック・ライティングの教育にかかわるなかで、それを学生たちに伝えてきたわたしにとって、「なんでもかんでも、アカデミック・ライティングととらえましょう」という提言は、「暴力的」にすら映るのです。
タラ・ウェストーバー『エデュケーション』を読んだ感想を、このブログにも投稿しました。
本書のタラである著者が、自分自身の揺らぐ記憶を乗り越え、本書を書くことができたのは、(歴史学において通常、採用されている)「アカデミック・ライティング」の視点・技法に依るところが大きいと思います。
「アカデミック・ライティング」の視点・技法がもつパワーは、たしかに大きいし、それでないとできないことはたくさんあります。
ただ、それだけに、そこで通常に採用されている文体では「できないこと」もたくさんあって、わたしのように、質的研究にこだわってきた人たちの多くは、その文体とずっとずっと、格闘してきたのだと思うのです。
そのことを、いま、書かなければならない、と思って、ブログ記事を書きました。
わたしたちの生きる世界には、多様な読むこと・書くことがあり、その多様性を守り育むことが、国語教育の役目だと、わたしは思います。