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kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「ごっこ遊び」と世界の転覆

教育

「復活!イメージ探検隊」

「復活!イメージ探検隊」に参加してきました。


「イメージ探検隊」とは?

「イメージ探検隊」とは、まちや公園などを使って、イメージをふくらませ、そのイメージを共有したりすることを楽しむ「遊び」でありワークショップです。
当日いただいたプリントには、次のような説明が書かれていました。

「イメージ探検隊は、イメージをふくらませながらまちや公園などを駆けめぐり、日常とは違うもう一つの別の世界を探検する遊びです。
 その場所はメンバーにふさわしい物語を即興でつくりあげ演じ合いながら、事件を解決していきます。ワクワク、ドキドキする興奮と自分のありのままを表現する快感をミックスした面白さが魅力です。」(当日配布資料より)

参加者はまず、全員で場所の下見を行います。今回のフィールドは井の頭恩寵公園。井の頭公演駅のちょうど下あたりから小川沿いに歩き、その場所に隠れている物語やイメージを自分の中で膨らませていきます。

その後、みんなで自分の描いた物語やイメージを共有。参加者それぞれに自分の考えたことを口々に出し合いました。

その後、参加者は「ファンタジーの住人」役と「探検隊」役の2つのグループにわかれます。「ファンタジーの住人」役は、フィールドの物語世界の住人。それぞれに自分のなりたいものを決め、住人として生活します。
対する「探検隊」はその世界をなんらかの目的を持って旅する人たち。なぜ「探検」「旅」をするのか、その目的はなんなのか?は自分たちで決定します。「探検隊」もそれぞれの背景に流れる物語を自分のやりたいように設定します。

わたしは「探検隊」チームだったわけですが、「探検隊」チームの物語設定はなんだか複雑でした(笑)

まず探検をする先の世界=「世界1」があって、そこで仕事をし続けている2人の「警備隊」がいる。2人の「警備隊」は相棒同士なんだけれども、1人は自分の仕事の誇りを持つプロフェッショナル。もう1人は自分が住む世界に疑いを持ち始めている懐疑派。その世界にもうひとつの世界=「世界2」から、他人に心を開かない女子中学生(中学3年生)と、自分ではコントロールできないけれど何度も2つの世界を行き来してしまっている大人が入り込み、2人は「警備隊」と出会って、この世界=「世界1」を案内してもらうことに…という設定。

こんな設定を「探検隊」チームの4人のメンバーと話し合いながらつくっていきます。
この設定を話し合いながらつくる…というのは、大人の「ごっこ遊び」だからこそできる楽しみだなぁなんて思いながら話していました。
「他人に心を開かない女子中学生(中学3年生)」とか、「ごっこ遊び」でありつつも、その設定が異様なリアリティを持っているのが面白いです。

さて、そんな設定をあらわすべく、風呂敷やバンダナ、新聞紙などなどを使いながら、簡単な衣装や小道具をつくっていき、「ファンタジーの住人」からのメールによって、「探検隊チーム」による「旅」が開始します。

「探検」で歩くルートは、下見のときに歩いたのとまったく同じルート。
だけれどもそこには、「ファンタジーの住人」たちが存在し、生きて、生活しています。
「探検隊」チームは、「旅」をして、この「ファンタジーの国」の住人たちと出会い、そこにある謎を解決していく…そんな遊びです。

「プレイ」すること=「遊ぶ」こと/「演ずる」こと

遊び創造集団「たのしーのひ」のメンバーの方と知り合いになれたおかげで、「ごっこ遊び」関係のワークショップ(「遊び」)に参加させていただく機会がありました。

それら「ごっこ遊び」に参加する中でいつも思うのが、「想像力」ととか「創造力」と「コミュニケーション力」とか…そういう、いわゆる「〇〇力」では切り取れない、何か大きなものが「ごっこ遊び」にはあるのではないか、ということ。

「〇〇力」というのは、いまある既存の社会の中で評価できるなんらかのスキルや知識のようなもの。
だけど、「ごっこ遊び」が有している可能性は、そういうものではない。
それは言ってみれば、いまある社会のありようそのものを、根底から崩してしまうような「何か」。
それはもはや、いまある社会の中の「〇〇力」というものでは測定不可能なものだと思う。だって、そもそもその社会そのものを転覆させるような力なのだから。

今回参加した、「復活!イメージ探検隊」では、たくさん面白いことがあったけれど、わたしが特に面白いと思ったのは、みんなで集まってひとつの「ごっこ遊び」的な世界をつくっていく中で、その場所の見え方が変わってきたこと。

例えば、はじめの下見の時点で、「がっかりする」感情を催させるシンボルだった、太陽光パネルは、「探検隊」と「ファンタジーの住人」とのやりとりの中で、「木になりたかったけどなれなかった、かわいそうな鉄塔」になった。
「探検隊」チームは、そんな「かわいそうな鉄塔」をなぐさめるべく、周りにある木々とつなぐこと、鉄塔に光を与えることを提案する。

そんなファンタジーのストーリーが重ね合わせられることで、「がっかりする」シンボルは、ストーリーの中の大切な登場人物になっていく…。

そういうプロセスを経て結果的に生じることは、単なる、「ファンタジーの世界」(=「ごっこ遊びの世界」)と「日常世界」の行ったりきたりということでは、括りきれないと思うのです。

「ファンタジーの世界」で生きた経験は、わたしたちの「日常世界」を浸食する。そこにもとあった価値観を変え、転覆させることすらある。
「つまらない」鉄塔が、美しくも悲しい「木になれなかった鉄塔」になるように。


そう考えてみると、わたしたちが社会に働きかけていくための、現実に働きかけていくための、もっと積極的な実践として「ごっこ遊び」を捉える可能性が見えてくる気がしています。