kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

インターン受入担当のための異文化間発達トレーニング~若者のための発達学校(Developmental School for Youth)

East Side Instituteのご厚意で、日本の研究者や実践家、学生のために特別プログラムとして開講された、3泊4日の「Immersion Program for Japanese scholars/students」(3/6~3/10)に参加してきました。

loisholzman.org

「Immersion Program」の名のとおり、朝から晩までみっちりプログラムが詰まった、充実の4日間で、なかなかそこで自分自身が考えたことなど、整理しきらずにいるのですが、少しずつ、できる範囲でまとめていきたいと思います。

 

まず、邦訳されているいくつかの文献でそのプログラムの存在が語られていながら、なかなか詳しい情報が日本に入ってきていない(ように思われる)若者のための発達学校(Developmental School for Youth)」(DSY)について。

www.youtube.com

 

DSYは、貧困コミュニティに暮らす若者たちの発達をサポートするプログラム。

貧困コミュニティに暮らす若者たちは、そもそもコミュニティの外に出ていくことが難しく、貧困コミュニティで生活し仕事をする以外の自分自身を想像することもできないし、また、自分自身が、貧困コミュニティに暮らす今の自分とは異なる存在になれる、と思い描くことも困難な状況です。

つまり、今ある自分自身に囚われて、自ら「なることのできる自分」を狭めてしまっているんです。

 

DSYでは、そんな貧困コミュニティの若者たちに、「なることのできる自分」を拡張して想像する機会を提供します。

 

具体的には、ニューヨーク市に本拠地を置く名だたる企業に、CSR活動(社会貢献活動、慈善活動)の一環として、貧困コミュニティの若者をインターンとして受け入れてもらい、数週間、有名企業での生活を経験してもらう、というプログラムです。

 

これらの有名企業において人びとが通常行っているパフォーマンスー話し方、振るまい方などーは、若者たちが慣れ親しんだ貧困コミュニティのものとは、まったく異なります。

 

DSYでは、若者たちに、今までの自分にはないパフォーマンスをするチャンスを与えることで、若者たちが思い描くことのできる「なることのできる自分」の限界を突破しようとしているのです。

 

日本でも、2007年に、山田昌弘希望格差社会』という本が話題になったりしましたが、そういう意味で、想像力の限界、「なることのできる自分」の限界を突破していこう、とするDSYの発想は、とてもパワフルだと思います。

 

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DSYについては、ロイス・ホルツマン『遊ぶヴィゴツキー:生成の心理学へ』(新曜社)にも紹介されていますが、わたしが、今回のプログラムでぜひ聞いてみたい!と思っていたのは、キャシー・サリット『パフォーマンス・ブレークスルー』に書かれていた、企業側のインターン受入担当へのトレーニングに関してでした。

 

DSYでは、貧困コミュニティの若者たちに対し、企業でのインターンが始まる前に、14週間にわたるトレーニングを実施しています。

この14週間のプログラムでは、ソーシャルセラピーの理論に基づいた、パフォーマンス中心のアクティビティが行われるわけですが、その中で、たとえば、「毎日、職場に行くこと」「遅刻をしないように、時間に余裕をもって職場に向かうこと」などの指導も含まれます。

何しろ、そういうパフォーマンスそのものが、彼らの親しむカルチャーの中にないので、新たなパフォーマンスとして、それらをやってみる必要があるわけです。

 

しかし、わたしにとってより新鮮だったのは、DSYがこのような若者向けのトレーニング・プログラムを行うのみならず、企業の受入担当者(DSYのプログラム担当者は「スーパーバイザー」と呼んでいました)へのトレーニング・プログラムを実施していたことです。

 

キャシー・サリット『パフォーマンス・ブレークスルー』のなかには、彼女がCEOを務めるPerformance of a lifetime(POAL)が、どのようなかたちで、企業の受入担当者へのトレーニングを行っているのかが、少しだけわかるエピソードが記述されています。

そのエピソードでは、意気揚々と、社会貢献のために貧困コミュニティーの若者を受け入れようとした担当者が、トレーニング・プログラムの一環として、「インターン初日」のシーンを即興的に演じています。

インターン初日」のシーンを演じてみるおとを通して、そして、一緒にシーンを演じてくれた「貧困コミュニティーの若者」役のボランティア(DSYの卒業生!)とPOALからのアドバイスを通して、受入担当は自分自身のパフォーマンスのありかたを見直し、パフォーマンスを変えていくというエピソードです。

 

「勝手に休む」「職場に遅刻してくる」「話しかけても、きちんと対応できない」「わからないことを、きちんと聞けない」…などなど、日本のインターンシップだったら、即座に「最近の若者のコミュニケーション能力ガアアア!!」とはじまりそうな問題を、企業受入担当者へのトレーニング・プログラムの中で、受入担当者がパフォーマンスを変えれば解決しうる問題、異文化間コミュニケーションの問題として扱っているというのが、まず面白いと思いましたし、それがどのくらいの時間をかけて、どのようなプログラムとして行われているのかを知りたい!と思いました。

 

これについて、DSYプログラム担当者に聞いてみたところ、企業側の受入担当者(スーパーバイザー)へのトレーニング・プログラムは、4時間の1dayプログラムとして行っているとのこと。

具体的には、次のようなプログラムが実施されているようです。

 

① アイスブレイク(インプロ・ゲーム)

ライフヒストリー:DSY卒業生によるDSYの経験についての語りを聞く

③ グッド・プラクティス:これまでの「グッド・プラクティス」の紹介(資料も配布しておく)

④  情報共有:各企業によるインターン受入プランの説明と情報共有

⑤ スキット:インターン受入にかかわるシーンを即興的に演じ、それについてディスカッションする

 

わたし自身、教員養成にかかわる中で、教育実習などのインターンシップに学生を送り出す立場になることも多くあります。

インターンシップを、異文化の出会いの場と捉え、出会うことによる双方のパフォーマンスの発達・学習を図ろうとする、DSYのアプローチには、学ぶ点が多くありそうだと感じています。

「リフレクション(省察)で教師は育つ!」@紀伊国屋書店新宿本店 イベント・レポート

紀伊国屋書店本店9階イベントスペースで開催された、リフレクション(省察)で教師は育つ!~『リフレクション大全』『リフレクション入門』『小学校の模擬授業とリフレクションで学ぶ 授業づくりの考え方』刊行記念セミナーに参加してきました。

www.kinokuniya.co.jp

 

 以前、このブログでもご紹介した、渡辺貴裕『小学校の模擬授業とリフレクションで学ぶ 授業づくりの考え方』、REFLECT(一般社団法人学び続ける教師のための協会)編『リフレクション入門』、ネットワーク編集委員会リフレクション大全(授業づくりネットワーク No.31)』の著者・編者が集まり、最近、教育界でますますホットになりつつある「リフレクション」についてトークする(!)という、トークイベントでした。

 

kimilab.hateblo.jp

 

 

わたし自身の問題意識としては、今、教育界のみならずいろいろな業界で、「リフレクション(reflection; 省察)」という用語が氾濫しすぎていて、それこそ、同じ「リフレクション」という言葉でも、ピンからキリまである状態…さらにいうと、リフレクト(省察)すべきだとされている内容や、その目指すべき状況も、バラバラだったりして…いったい、この先どうなっていくんだろう…?と思っていたことがあります。

そんな中、教育業界における「リフレクション(reflection)」という用語の氾濫、その雑多な感じをそのまま提示してきたような『 リフレクション大全(授業づくりネットワーク No.31』を見て、逆に、感動を覚えたり、

『リフレクション入門』を読んで、2012年に邦訳が出版された『教師教育学』以降のコルトハーヘンの理論が、ますます、個としての教師の実存に気づくことに向かっていることに、ハッとさせられたりしていたところだったので、この三者が、今、「リフレクション」について何を語るのか、果たして、そこにクロスポイントは見出せるのか?という点が、非常に気になっていたわけです。

 

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結果として、なにかわたしなりに、「これが答えだ!」と言えるようなクロスポイントが見いだせたわけではなかったけれど、それでも、これら、教師のリフレクションにかかわる書籍の編著にかかわった、三者の現在の問題意識についてかなりクリアにできたことで、わたしが、これから考えていくべきことも明確になった気がしています。

 

おそらく、今回のトークイベントは平日の午後開催でしたし、会場もほぼ満員でしたので、「行きたいけど、行けなかった」方が多くいらっしゃるのではないかと推測します。

そこで、わたしなりに、トークイベントの内容のメモをとりました。本イベントの司会でもある渡辺先生にご許可もいただきましたので、そのメモの内容をブログで公開します。

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「映画を観る」経験を分解する~THE ピアノ&シネマvol.8『ロイドの福の神』

今年3月に横浜・ジャック&ベティで開催されていた、「柳下美恵のTHE ピアノ & シネマ vol.8「キートンのセブン・チャンス」「ロイドの福の神」」で、『ロイドの福の神(For Heaven's Sake)』を観てきました。

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www.jackandbetty.net


柳下美恵のTHE ピアノ&シネマvol.8

 

国立近代美術館フィルムセンターが、自館の所有する日本の初期アニメーション作品をオンライン公開した「日本アニメーション映画クラシックス」 が公開されたことで話題になったときにも、本サイトで見られるアニメ映画をいくつか見てとても新鮮な気持ちになりましたが、草創期の映画をいくつも見ることで、現在ある映画のありかたを相対的に見直すことは、メディアリテラシーの学習を考える上で、本当に重要なことであるように思います。

こんなこと、わたしがいまさら言うまでもないくらい、ありふれた陳腐なことなのですが、あらためて、そう思います。

 

 

たとえば、今回鑑賞した『ロイドの福の神』は『マッドマックス 怒りのデス・ロード』でオマージュされたことで有名ですが、そのシーンに限らず、とにかく、カー・チェイスがすごい!

現代の映画では、CGバリバリでカー・チェイスのシーンも作っていくわけですが、CGがない時代のカー・チェイス(!)となると、それはやっぱり、みんなが単に頑張っているわけで……それを考えると、いろいろすごい。

自転車をバスが追いかけるシーンがあるのですが、カメラワークでの見せ方とか、本当に感動します。

animation.filmarchives.jp


Harold Lloyd: For Heaven's sake.(1926)

 

Youtube動画で見られる動画でも、そのカーチェイス・シーンのすごさは見ていただけるのですが、これを、映画館のなかで、ピアノ即興演奏付きで見るという経験は、また格別です。

「映画館」という存在そのものが経験を生み出す舞台であり、「映画」を観るという経験そのものが1回生のある、その場限りのものであること。

そういう経験そのものができるということ自体が、今のメディアのありかたを相対化して捉えうるに十分なものです。

『イン・ザ・ミドル』読書会

 先日、横浜国立大学の研究室にて、「ナンシー・アトウェル『イン・ザ・ミドル』読書会 」を開催しました。

 

 

ナンシー・アトウェル(2018)『イン・ザ・ミドル:ナンシー・アトウェルの教室』(

三省堂

 

読書会に参加してくださったのは、リーディング・ワークショップ&ライティング・ワークショップの実践家でもある小学校の先生お二人と、国語科における「単元学習」に関心を持ちつつ、自分自身の次にやってみたい実践を探っていらっしゃる中学校の先生(4月から着任予定の大学院生を含む)お二人、そして、わたしの計5人。

 

わたしの大学の研究室内で開催できてしまうほどの小さな読書会。だからこそ(?)かもしれませんが、初対面の人たちがいるにも関わらず、すごく議論が盛り上がりました。

 

もともと、『イン・ザ・ミドル』の読書会をしたいと思ったのは、私自身がこの本のはじめの方(前書き~第1章)を見て、「これは、一人で読む本ではないな」と思ったことがきっかけでした。

わたしは、そもそも他の人に比べて、「これは一人で読む本ではない」と思うことが多いのですが、この本については、きっとわたしでなくとも「他の人と読みたい」と思うのではないか、と思いました。

事実、東京都青年国語研究会(青国研)で開催された『イン・ザ・ミドル』の読書会をはじめ、いくつかの研究会などで、読書会が開催されたという話も聞いていました。そのたびに、「やはり、この本は、一人で読む本ではないな」と思い、その思いは、第2章、第3章と読み進めるたびに広がっていきました。

 

そこで、青国研にも参加したことのある知り合いの先生方や大学院生、地域で、リーディング・ワークショップ&ライティング・ワークショップの実践をされている先生に声をかけてみたところ、快く、読書会への参加にOKをいただき、ひとりあたり、1~2つの章を担当して、分担しながら報告&ディスカッションしよう!と決めて、読書会を開催することになりました。

 

そして迎えた、読書会当日。

 

尽きない議論。湧き出てくる疑問。

3~4時間程度では、まったく終わりませんでした。

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【リレー企画】学生たちによる、ALPを用いた模擬授業の振り返り

【リレー企画】と題された、ロカルノさんのブログ記事ALP(アクティブ・ラーニング・パターン)で研修しよう」「【リレー企画】ALPで授業の考え方を共有しよう」と、

それに続く、Yacchaeさんのリレー記事、「【リレー記事】ALPを使ったブログでの授業振り返り①!〜続いてくれる先生を募集します!」に影響を受け、

「せっかく『リレー企画』なんだったら、集団競技っぽく参加しちゃおうじゃないの!」ということで、大学2年生を対象とした教職課程科目「初等国語科教育法」の模擬授業について、「アクティブ・ラーニング・パターン《教師編》」を用いた振り返りレポートを、5人の学生たちに書いてもらいました。

 

ロカルノさんによるこちらの記事には、自分の経験をうまく他人に手渡す、受け取るそんな方法」として、ALPでブログを書く(あるいは、ツイートする)という方法を提案されているようなので、まだ教師としての経験のない学生たち、(ましてや学部2年生!)による記事に、どのくらいの意味があるかはわかりません。

 

でも、今回5名の学生たちにレポートを書いてもらい、それをブログ記事にアップしてみて思ったのは、学生たちがここでピックアップしているパターンや、その解釈の仕方こそが、教育実習で現場の先生方が学生たちとコミュニケーションを始める際のスターティングポイントになりえるのではないか、ということ。

そして、逆にいえば、現場の先生方にこれらのブログ記事を見ていただくことで、「大学内の授業ではこのくらいのレベルまで、『観察』や『振り返り』の視点を持てるようにしておいてほしい」というディスカッションをはじめるためのスターティングポイントになりえるのではないか、ということでした。

 

もちろん、ここに挙げている5つのブログ記事を見比べてみれば、明らかなように、学生によって、引っかかりを見出せるポイントも、その深さもかなり異なっているので、これらを見比べたところで、どこに、大学と現場の学校とが、ともに教師教育に携わるためのポイントを見出したら良いのかは、まだ、定かではないのだけれど。

 

それでも、ここにこうして、大学2年生なりの授業の見え方、振り返り方がわかる記事を、比較可能なかたちで置いておくことには、意味があると思う。

ぜひ現場の先生方にごらんいただき、教師教育のために何ができるのかについて、考えたことを教えていただけたら、うれしい。

 

なお、以下にしめす第1番目の記事に書いていますが、わたしの担当する「初等国語科教育法」では、自分の好きな・得意な言語活動いもとづき、授業を一緒に受けている大学生たちに向けて、20分程度のみじかい模擬授業を計画し、実施してもらっています。

 

ynukokugo.blogspot.com

ynukokugo.blogspot.com

ynukokugo.blogspot.com

ynukokugo.blogspot.com

ynukokugo.blogspot.com

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パフォーマンス学習の場としての模擬授業~渡辺貴裕『授業づくりの考え方』~

 前の記事でも書きましたが、体調が万全に回復しないのを良いことに、自分のインプットのための時間を作っています。

その中で、教職課程での授業との関わり方について、静かに考えなおすきっかけをもらえるような2冊の本と出会いました。

1つは、C. A. トムリンソン&T. R. ムーン『一人ひとりをいかす評価』。こちらについては、こちらにブログ記事にまとめました。 

kimilab.hateblo.jp

 

今回の記事では、渡辺貴裕(2019)『授業づくりの考え方―小学校の模擬授業とリフレクションで学ぶ』くろしお出版)について書きたいと思います。

 

 

 

本書の内容の充実度や構成の妙については、すでに、静岡大学の亘理先生による素晴らしいレビューがあるので、そちらをご覧ください。

www.watariyoichi.net

 

わたしにとってのこの本の大切さは、何よりも、その模擬授業の捉え方にあります。

本書では、本編に入るまえに「なぜ模擬授業なの?」というコラムが掲載されており、そこで、「本書で扱うのは、そうではなく、自由な挑戦の場としての模擬授業です」(pⅳ)という立場が、明確に示されています。

 

「自由な挑戦の場としての模擬授業」!

「失敗を恐れず大胆な挑戦ができる」場としての模擬授業!

 

模擬授業を、「品定め」のための場から、「挑戦」のための場へと変化させていくこと。このことの大切さは、何度言っても、言いすぎることはないと思います。そのくらい大切なことだし、そのくらい、何度言っても伝わりにくい、変えていくことの難しいものでもあります。

わたし自身も、教職課程の授業に関わるなかで、どのように模擬授業を「挑戦」のための場にしていけるのかを考えながら、毎年、トライ&エラーを繰り返しているような状況です。何度もトライ&エラーを繰り返しながら、教職課程の学生たちに、できる限り自由な発想での「挑戦」を促してみるけ、それでもうまくいかないことが多い。

学生たちにとっては、「国語」という教科名を聞いただけでまず思い出すのが、自分たちが受講してきた小学校から高校までの「国語」の授業。自分たちが授業を構想する段階になっても、自分たちが経験してきた「国語」の授業の記憶をなぞって、その真似事をしてみるというのが、もっとも、カンタンに、失敗のリスクを抱えずに、模擬授業課題をこなすための方法です。

そのような、真似することの安全圏から、どのように踏み出しうるのか。「挑戦」のための模擬授業へとジャンプしていくことができるのか。

それがわたし自身の目下の課題であり、悩みであります。

 

本書に示された8つのセッションでは、コルトハーヘン(2012)『教師教育学』学文社)にも示されている「ALACT」モデルにもとづいて作成された、「試みる」→「かえりみる」→「深める」→「広げる」(→さらなる「試みる」へ)というリフレクションのサイクルが繰り返されています。

コルトハーヘンの「ALACT」モデルは、「Action(行為)」→「Looking back on the action(行為の振り返り)」→「Awareness of essential aspects(本質的な諸相への気づき)」→「Creating alternative methods of action(行為の選択肢の拡大)」であることを思うと、「Action」に相当するプロセスとして「試みる」を当てている点は、とても大きい。

現実の学校や教室ではない場所で、現実の子どもたちを目の前にせず、あくまでフィクションとしての授業を行う、フィクションの世界で演ずることから学んでいくという意味で、この「試みる」は、ひとつのパフォーマンスと位置付けられると思います。

「パフォーマンスの学び」としての模擬授業。

あくまで、フィクションの世界でのパフォーマンスだから、わたしたちは、安全な場で、大胆な挑戦、自由な挑戦をすることができる。そこから学び、発達することができるのでしょう。

 

一方、だからといって、「パフォーマンスの学び」としての模擬授業の場を、すぐに成立させることは難しいのも事実です。

私たち教員のみならず、学生たち自身も、あまりにも「品定め」としての模擬授業に慣れ過ぎていて、「子ども役」を演ずることにバカバカしさを感じたり、「現実の子どもがいないのに、模擬授業をやっても意味がない!」と思ったり、そのような疑問や不満を感じないとしても、「子ども役」=学習者役として模擬授業に参加すること、そこで学習者として感じ、感じたことを率直に言葉にすることは、とても難しい。

教育実習の経験すらない、教職課程の学生たちであれば、なおさらです。

 

本書では、おそらく、そのような問題が生じるであろうことも視野に置かれていて、「本書の活用方法」として、「ひとりで読む」のほかに、「仲間で読む」という方法が提案されています。

 

仲間と読む

「試みる」「かえりみる」「広げる」について登場人物の役を割り振って、声に出して読み合わせをしてみましょう。「試みる」では授業が一挙に立体的に感じられるようになり、また「かえりみる」「広げる」では登場人物がそれぞれの立場から感じたり考えたりしたことがっよりいっそう肌身で感じられるようになると思います。(pⅵ)

 

本書のなかに示されたセッションを、対話劇のようなかたちでパフォーマンスすることで、セッションの具体的なありようを体験してみることが、ここでは提案されています。

ここでは「試みる」「かえりみる」「広げる」だけが提案されているため、わたしのような教職課程の教員(学生や新人教師を育てる側の人間)が、パフォーマンスに参加できないのが残念なところです。

が、わたしはこれを読んで、ぜひ「深める」のパートを自分自身でパフォーマンスしてみたいと思わずにいられませんでした。

「ミニレクチャー2」によれば「…本書では、『深める』の部分を『わたあめ先生』が一人でしゃべる形式で書いています。けれども実際の模擬授業の検討会では、この部分が一方的な話であることはなく、参加者との対話によって進むものでしょう(本書でそうした形をとらなあったのは、もっぱら体裁上の理由、つまり書籍としての読みやすさを優先したためです)」(p43)とのこと!

だとしたら、私たち教師教育者としては、ぜひ「深める」の部分をパフォーマンスしてみてみるべきだと思うのです。

 

とはいえ、おそらく、この部分の台本が示されていないのは、この部分が「台本なしの学習(unscripted learning)」=即興的な学習として行われるべきだという、「わたあめ先生」からのメッセージかもしれません。

そうであるとすると、私たち、教師教育者は、そこからどのような「台本なしの」学習を、学習者たちとともに創造することができるのか、を考えていくべきでしょう。

 

「台本あり」のパフォーマンスと、それに続く「台本なし」の学び。

本書はそれ自体、非常にシンプルに大切なことがまとめられた本ですが、この本を使いパフォーマンスすることで、見えてくることの可能性もまたたくさんありそうです。

 

これについては、今度ぜひ、自分自身で機会をつかまえて「試して」みたいとおもいます。

ダークペダゴジーとしての評価を再考する~『一人ひとりをいかす評価』~

あまり体調が芳しくないことを良いことに、遠出するような予定はすべてあきらめて、家で、本を読んだり、映画を観たりしています。

おかげさまで、ようやく、インプットのための時間をとることができ、とてもありがたい。

もっともありがたかったのは、このタイミングで、自分自身の教職課程での授業との関わりのありかたを、落ち着いた静かな心で、じっくり考えなおすきっかけになるような出会えたことです。

 

ひとつは、C. A. トムリンソン & J. A.ムーン(2018)『一人ひとりをいかす評価:学び方・教え方を問い直す』北大路書房)。

 

 

もうひとつは、渡辺貴裕(2019)『授業づくりの考え方:小学校の模擬授業とリフレクションで学ぶ』くろしお出版

 

 

授業づくりの考え方』については、1/17発売予定とのこと。著者の渡辺貴裕先生から、わざわざお送りいただいていただいたおかげでこのタイミングで読むことができたのだと思うと、本当に、ありがたい。

 

まずは、『一人ひとりを生かす評価』について。

この本は、C. A. トムリンソン『ようこそ、一人ひとりを生かす教室へ』(北大路書房)の姉妹編ともいえる書籍で、1年くらい前に、訳者のひとりである山元隆春先生から、「一人ひとりを生かす教え方(diffrentiated instruction)」の評価編が出版予定であると聞いていて、とても楽しみにしていたのですが、期待していたとおりの本でした。

 

この本の大切さを説明するためには、次のエピソードを引用するだけで、十分でしょう。

 

このように一人ひとりをいかす教え方の「常識的な定義」を提供してくれた大学院生が、自分で説明を書き出したのにはわけがあります。彼は自分が一人ひとりをいかす教え方の理解を深めているときに何か大事な要素を抜かしてしまっているのではないかと不安になったからです。そして、一人ひとりをいかす教え方の枠組みをより理解していて、とてもわかりやすい説明もできていたというフィードバックを受け取ったとき、彼は当惑した表情を浮かべました。不機嫌な表情とさえ言えました。そして、こう言ったのです。「これが一人ひとりをいかす教え方のすべてなら、なぜみんんなやっていないのですか?」と。

…(中略)…

答えを必要としない彼の問いかけに対する正解は、ほとんど教師はすべての要素は道理にかなっていると思うことでしょう。常識と捉えるかもしれません。しかしながら、これらの常識は、古い習慣や世の中への対応を求められたりすることによって見えなくなっているのです。…

(C. A. トムリンソン『一人ひとりをいかす評価』, p205)(太字は引用者)

 

はじめに、今回出会った2冊の本が、「落ち着いた静かな心で、じっくり考えなおすきっかけ」になったと書きましたが、その理由がここにあります。

今回わたしが出会った2冊の本は、どちらも非常に「常識」的なことを書いているのです。だけれども、日々のように発されてくるさまざまな要請――それは古くから続く慣習によるものもありますし、変化し続ける世の中の動向に関わるものもあります――への対応を考えていくなかで、いつの間にか、それを見失いがちになってしまいます。――とても悲しいことですが。

だからこそ、こういったかたちで、あらためて「常識」ともいえるような、シンプルな考え方を見直させてくれる本は、とても貴重で、大切な存在だと感じています。

 

今回、わたしが特に感銘を受けたのは、「効果的な成績」の原則です。*1

 

  1. はっきり特定した学習目標を元に成績をつける
  2. 比較や相対評価ではなく、規準をベースにした(絶対評価の)成績を使う
  3. 何でもかんでも成績の対象にはしない
  4. 効果的な評価法のみを使う
  5. 「不透明な成績」をできるだけ減らす
  6. 「数学的な不透明な成績」を排除する
  7.  成績のサイクルの前よりは後の方で成績をつける
  8. 通知表の段階では「三つのP(パフォーマンス・プロセス・成長)」を使う
  9. 評価と成績のプロセスをオープンにする(以上、『一人ひとりをいかす評価』、p199)

 

このうちのいくつかについては、たしかに「一人ひとりをいかす教え方」に特有なもの、今の日本での評価のありかたを考えると、「常識」的であるようには見えづらいこともあるように思います。

もちろん、本書を読んでいただければそれらも非常に「常識」的でシンプルな原則のひとつであることがわかると思うのですが、わたしが特に「ハッ」とさせられたのは、もっともっとより「当たり前」な原則ともいえる、「5. 『不透明な成績』をできるだけ減らす」「6. 数学的な不透明な成績」を排除する」でした。

 

ここで「不透明な成績」の例として挙げられているのは、「例えば、提出がきれいでない、提出が遅かった、生徒が自分の名前を書かなったなどの理由で、教師が評価から点数を差し引いたとき」です。

「数学的に不透明な成績」の例として挙げられているのは、「生徒の成果物が行方不明だったり、生徒がテストでカンニングしたりしたときに、ゼロが与えられること」や、「成績を平均化」し、「平均」の得点をもとに成績をつけることです。

 

わたしが、これらの「不透明な成績」に関する議論から思い出したのは、「ダークペダゴジーに対する議論でした。www.kyobun.co.jp

ダークペダゴジーは、他者の成長や価値観、知識獲得に介入するための後ろ暗い方法論を指すもので、ドイツの評論家K・ルチュキーによって1977年に命名された。具体的には、▽暴力▽強制▽うそ・ごまかし▽賞罰▽欲求充足の禁止▽条件付き愛情▽心理操作▽監視▽無視▽屈辱――などを用いたしつけや指導が当たる。(

ダークペダゴジー ― 教師をむしばむ負の指導法(1)ダークペダゴジーとは | 教育新聞 電子版

 

つまり、これら「不透明な成績」は、ダークペダゴジーとして行われているのではないか、具体的には、「賞罰」「条件付き愛情」などによる知識獲得への介入行為として行われているのではないか、ということでした。

 

「ダークペダゴジー」というと、日本では、「悪質タックル事件」を契機にこの言葉が話題となったこともあり、体罰をはじめとした暴力行為が取り上げられることが多く、多くの先生方や教師を目指す学生たちの中には、どこか、自分とは遠い話だと思っているところがあるのではないか、と思いますが、「そうではないのだ」とあらためて思わされました。

 

 

わたし自身もそうですが、提出物がきちんと整えられていなかったり、遅延して提出されたことによって、減点をした経験のある教員は少なくないと思います。

「やる気がない」ように見える学習者、グループワークに消極的にしか参加できない学習者に対し、「積極的な参加が見られない」という理由で、評価点を減点したほうが良いのではないかと、考えたことのある人たちも少なくないと思います。

 

だけど、本来、「常識」的に、シンプルに考えれば、評価とは、成績とはそもそもそういうものではない。成績点によって、学習者を罰しようとしたり、逆に、動機づけたりすることは、成績の意味をにごらせるだけです。

 

「ダークペダゴジー」としての成績や評価を脱するために、成績について、今後、どのように考えていけば良いのか。

「ホワイトペダゴジー」としての成績のありかた、評価のありかたをあらためて、考えてみようと思います。

*1:本書のなかでは、「一人ひとりをいかす教室での効果的な成績」の原則として書かれています