kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

見える/見えないの個性と偏りと~視覚に障害がある人との鑑賞ツアー「セッション!」

大竹伸郎 ビル景 1978-2010」展の企画のひとつとして開催されていた、視覚に障害がある人との鑑賞ツアー「セッション!」に参加してきました。

そのときに、「セッション!」ナビゲーターの白鳥建二さんがすでに、ノンフィクション作家の川内有緒さんたちと大竹伸郎展をいっしょに見る会をやっていたらしい、と聞いたので、『ハフィントンポスト』の記事(全盲で美術館を楽しむ白鳥さん。「見えないから大変」の言葉がしっくりこない | ハフポスト)を楽しみにしていたのですが、わたしが期待していたような、当日のやりとりはあまり(ほとんど)レポートされていなかったので、残念でした。

www.huffingtonpost.jp

川内有緒さんの『note.』には、フィリップスコレクション展@三菱一号館美術館

を見にいったときのエピソード(目が見えない白鳥さんとアートを見にいった。)

とか、「100年の編み手たち」展@東京都現代美術館を見に行ったときのエピソード(

目の見えない白鳥さんとアートを見にいった vol. 2)が書いてあって、こちらの方が面白い。

一方で、ここで語られている経験は、やっぱり「セッション!」での経験とは違うので、わたしは「セッション!」のことをきちんと書いておこうと思う。

 

「セッション!」の広告ページを見ると、「全盲の白鳥建二さんをナビゲーターに、見える人と見えない人が一緒に展覧会を鑑賞するツアーです。」というなかなか曖昧な書き方がされているので、なんとなく、10名なら10名、みんなで一緒に、白鳥さんと対話しながら見る鑑賞をするようなイメージをするのではないか?と、勝手にドキドキしているが、……それは、違う

参加者数によっては、そういう時もあるのだと思いますが、そうでないときもある。

「見える人と見えない人が一緒に展覧会を鑑賞するツアーです」としか言いようのないゆるやかさがあって、わたしは、それが、すごく好き。

 

いわゆる「ガイド」として、美術館に精通した「プロ」の視覚障害者の方が、美術館やアート作品を案内する…というかたちのものも見るけれど、なんだか、それは、日常的に支障なく「見える人」が視覚障害者をガイドしてあげる、サポートしてあげる…というような福祉系(?)ツアーと表裏一体のような感じがしていて、「それはなんか、違うな」って思う。

だから、伊藤亜紗さんの『見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)の記述には、うんうんと頷きつつ、それでもどこか、白鳥さんが「スーパー障害者」になってしまったようで、なんとなく違和感が残ってしまう。

 

「セッション」には、プロのガイドが、必ずしも存在しない。

「ナビゲーター」としての白鳥さんはいるけれど、実際に展覧会を見る段階になったら、白鳥さんは「視覚に障害がある人」のうちのひとりになる。

 

たとえば、今回であれば、定員10名中、中途視覚障害弱視の方がいらっしゃったので、以下の2チームにわかれた。

  1. 【A】白鳥さん(全盲)+日常生活に支障ないくらいには見える人たちのチーム
  2. 【B】弱視の方とその配偶者の方,そして日常生活には支障ないくらい見える人たちのチーム

そうすると、【A】チームでの鑑賞の体験と、【B】チームでの鑑賞の体験は、すごく違ってくる。

すこし想像していただければわかると思いけれど、生まれたときから全盲(かつ、美術館にはめっちゃ行き慣れてる)白鳥さんと、アート作品に対して話す、という経験と、人生のどこかで視覚に障害をおって弱視(よく見えないけれど、ぼんやりとは見えている)方とお話しするのとでは、全然、違う。

さらにいうと、視覚に障害のある方の美術館経験、アート作品を見たり話したりする経験も、アート作品に対する欲求(どういうふうに楽しみたいか)もさまざま。

 …なのだけど、これが面白いし、ここが好き。

 

今回は、さらに、面白い体験ができて、自分の中で「見えるってなに!?見えないってなに!!??」という問いが巻き起こる、エキサイティングな体験ができた。

 

というのも、わたしがいた【B】チームは、ご夫婦でよく美術館にいらっしゃって二人で作品についてけっこうお話されるらしいご夫婦(お一人は中途視覚障害弱視)と、視覚に障害はないけれどほとんど美術館に行ったり、アート作品を見て語ったりする経験がないと自称される皆さま(高校生含む)だったので、だれが「アート作品を見て、語れるのか」という答えを見出すのが、かなり難しい状態になった。 

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対話しながら鑑賞した大竹展の作品。複数の都市の姿がこの中に見える

たとえば、1つ目の作品を見ながら、「さあ、お話ししてみましょう!」という段になったとたん、何をどう見て語ったら良いわからず、ぴきーんと固まる参加者の皆さん。

一方、絵画作品の前をご夫婦で横移動しながら、「これは〇〇かしら」「これは〇〇に見えますね」「みなさんはこの作品好きですか?」と、いろいろお話をしてくださる「視覚に障害のある人」。

 

ようやく、みんなでいろいろあーだこーだと話しはじめたものの、この会話を見て、どの人が「見えていない」かなんて、わかる人はいるのだろうか…?

 

わたし「左側に、2本、孤を描いてる線があるので、これは高速道路ですかね」

Aさん「だとしたら、ここにあるのは、料金所ですね」

わたし「料金所!たしかに高速にあるし、これは料金所ですね」

Bさん「えー。わたしはこれ、バスの停留所なのかなって思いました」

わたし「バスの停留所。あ、たしかに。さっき、この高く書かれてるやつはビルだという説と、煙突説がありましたけど、煙突説だとしたら、ここの平面は低いはずだから、バスの停留所って可能性もありますね」

(みんなで、見る。わたし、作品向かって左側にいるCさんの近くまで移動)

Cさん「…わたし、ここ漁港みたいなところかなって思ったんですよね」

わたし「む!たしかにさっき、あっち(右側)にいたときはそう思わなかったけど、こっちから見ると、この部分が凹んでプールとか海みたいに見えるから、漁港説あるかも。築地みたいなかんじですよね。あれが市場で。」

Cさん「そうそう」

 すると、それまで、あまり何も話さないままでいた高校生が、「わたし、この英字新聞っていってたの…マスキングテープだと思ってたんです…」とぼそりとつぶやいたりして。

 

こんなやりとりを重ねた結果、「視覚に障害がある人」として参加していた方が、「この絵って、見る人にもなんだかわからない『判じ絵』みたいな絵なんですね」…とおっしゃっていたのが印象的だった。

この方は、最後の振り返り会のときにも、「見えるとか、見えないとか関係ないんだなって。見える人も見えない人も、みんなで、これは何だろうとか考えて、いろいろ言い合えたのが新鮮でした」というようなことをおっしゃっていて、あらためて、「見える」ってなんだろう?と、考えさせられた。

 

結局、当たり前だけど、見える/見えないを区切る境界なんて、だれかが勝手に作ったものでしかなくて、抽象的なアート作品に向き合ったとたんに「何が、そこに見えますか?」ときかれて固まってしまうのも、高校生に「英字新聞」が「マスキングテープ」にしか見えないのも、わたしに「マスキングテープ」が見えないのも、みんな「見えない」のは同じなんじゃないかって。

 

視野が狭かったり、弱視でぼんやりした見えであるからこそ見えてくる「料金所」もあれば、毎日立ち寄る100円均一ショップで見るからこそ見えてくる「マスキングテープ」もある。結局、そこにあるのは、単なる、見え方の個性というか、偏りというか、そういうものでしかない。

 

そういう意味では、わたしにとっては、視覚に障害がある人との鑑賞ツアーである「セッション!」も、高校生や大学生たちと一緒に展覧会を見てそれを言葉にしてみる「書く。部」も、ボランティアトーカーさんと一緒にみるギャラリートークも、白鳥さんといっしょに見る会も、アーティストトークも、キュレータートークも…、すべてが、同じ平面上でつながりあっている。

 

みんなに見えるものがあって、みんなに見えないものがある。

だから、まさに「群盲、象を評す」のことわざどおり、みんな「見えない」から(それは、アーティストも、キュレーターも同じ。だって、アートの価値なんて未知数だもの!)「見えない」ながらに、「見えない」まま、自分がキャッチしたことを、あーだこーだ言い合って、それを重ねながら、はじめて、みんなの力で、何か見えてくる。何かが創造され、「評する」ことができるようになってくる。

そういう経験がもつ質感を、もっと丁寧に語る言葉をもちたいな、と思えた時間だった。

 

ちなみにこの写真は、同じく大竹展を見ているときに出会った、(わたしにとって)「見えない」作品。

展示室全体が暗くて、それに対してライティングの当たり方が強かったせいもあるのだけど、「見よう」と近づけば近づくほど、ガラスに自分や周囲の風景が反射してしまって、その作品の色がまったくわからなくなる。

何度か、「どの位置で見るといいんだろう?」と思って、なんどか、近づいたり遠ざかったりしながらこの作品を見ていたけれど、結局、自分の中で答えが見出せず、スタッフ(フェイスさん)に、「これ、どこで見たら一番、正しいんですか?」と聞いてみたり、近くをたまたま通りかかった友達(水戸だとよくある)に聞いてみても、まったくわからなかったので、いまだに、わたしはこの作品が「見えなかった」と思っている。

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「見えない」作品。どこから見るのが正しいのか、いまだにわからない

美術館で、アート作品が「見える」ってどういうことなんだろう。

そもそも「見える」ってなんだろう。

やってみよう!TRPG型物語創作教材『物語の世界を旅しよう!』

昨年度、電気通信普及財団による助成研究「デジタルメディア社会における「情報活用能力」育成に向けた基礎理論の構築」(共同研究)PDF)成果を踏まえたTRPG型教材の制作を遊学芸・保田琳さんに依頼し、2019年3月に、その成果物である物語の世界を旅しよう!を世に出すことができました。

…が、その後、なんのフォローもできないままにいたところ、なんと有志の方が、『物語の世界を旅しよう!』収録のサンプル・シナリオ「仕事のできない木こり」を使ったリプレイ動画を制作してくださいました。

…ありがたすぎて、言葉がありません!


【物語の世界を旅しよう】仕事のできない木こり【ゆっくりTRPG】

 

あまりに、ありがたすぎて言葉を失い、さすがに自分で何もしなすぎだろう!と反省したので、『物語の世界を旅しよう!』の経緯と、その教材としての可能性について考えることをブログに書きたいと思います。

なお(動画中でも触れていただいてますが)『物語の世界を旅しよう!』は、YNUリポジトリから全文ダウンロードできます。遊学芸ホームページにもリンクをはっていただいています。linedline.wixsite.com

さて、もともとこの共同研究プロジェクトは、英国におけるメディアリテラシー教育の近年の動向とそれを踏まえた研究・実践の知見を整理し、日本における今後の教育のありかたへのに結び付けようというものでした。

英国におけるメディアリテラシー教育については、電子書籍(EPUB/PDF)として無料公開した、アンドリュー・バーン(2019)『19歳までのメディア・リテラシー』(ratik)や、その理論編ともいえるアンドリュー・バーン(2017)『参加型文化の時代におけるメディア・リテラシー』くろしお出版)にわかりやすく整理されているので、そちらをご覧いただければと思います。

★『19歳までのメディア・リテラシー:国語科ではぐくむ読む・書く・創る』アンドリュー・バーン Andrew Burn 著/石田 喜美 奥泉 香 森本 洋介 訳

 

もともと、研究成果としてTRPG型教材を提案しよう!と思ったきっかけは、バーン先生がビックリするくらいゲーム好きだった(笑)ことと、『19歳までのメディア・リテラシー』第5章で紹介されている「ゲームのデザイン」の実践、さらにいうと、「ゲームの物語システム(ナラティブ・システム)」に関する学習に、わたしがいたく影響を受けたことにあります。

これについては、むしろ、『参加型文化の時代におけるメディア・リテラシー』第6章「ポッター・リテラシー」、第7章「ゲーム・リテラシーの方が詳しく書かれていますが、ゲームには、あるストーリーを語るための独自の物語システム(ナラティブ・システム)があるということ、それについて子どもたちが、実際のゲーム・デザインを通じて理解していく、という学習が非常に印象的でした。

ここで紹介されている事例は、下記の記事でも紹介した、ゲーム・オーサリングソフトの「ミッションメーカー」を通じたゲームデザインと、ゲーム制作を通じて学んでいくというものでしたが、ここで扱われているような「数量化・計算可能な物語」、「条件分岐によって進んでいく物語」のような、ゲーム特有の物語システムを少しでも感じられたり、そこから考えたりできるような教材は作れないだろうか、と考えました。

そんなことをモヤモヤと考えているときに、遊学芸の『メイキングアレグ』のことを思い出しました。

単に用意された脱出ゲームを楽しむだけではなくて、脱出ゲームを作ることそのものが組み込まれている『アレグ(UREG)』。その仕組みを考えられてきた遊学芸・保田さんだったら、きっと、子どもたちがゲームならではの物語づくりを楽しみながら、その物語の語られ方の特徴や工夫に気付くような教材を作ってくれるのではないか、と思いました。

linedline.wixsite.com

そうしてできた教材が、TRPG型物語創作教材『物語の世界を旅しよう!』です。

本来の制作意図からすれば、まずは国語科教科書に掲載された教材に沿って、言葉で物語を「書くこと」をしたあとに、ゲーム(TRPG)として物語を「書くこと」をしてみて、その違いを比べてみてほしいというのが本音です。

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小学校国語科における物語創作教材

冒頭に紹介したリプレイ動画では、サンプル・シナリオ「仕事のできない木こり」が紹介されていますが、これは民話(童話)『金の斧 銀の斧』に基づいています。『金の斧 銀の斧』の物語の世界を旅するしかけであると同時に、メディア・リテラシー教材という視点からみると、言葉で語られた民話(童話)としての物語『金の斧 銀の斧』と、ゲームとして語られる物語とを比較できるしくみになっているわけです。

…とはいえ、なかなか一足飛びに「ゲームによって物語を『書くこと』」を、授業の中で行っていくことは難しいでしょう。

そうであれば、せめて、「総合的な学習の時間」や「クラブ活動」の中で、子どもたちの興味・関心に応じて、「ゲームづくり(TRPGづくり)」を楽しむというようなシンプルな目的で使ってもらえたらいいな、と思います。

また、『物語の世界を旅しよう!』には、サイコロを振って物語の舞台や登場人物を作成できる表が収録されているので、まずはこれだけを使って、ランダムに物語の舞台や登場人物の設定を作りだし、そこからどんな物語を創造することができるのかを国語科の物語創作の授業としてやってみる!…というのも単純に楽しそうだな、と思ってます。

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登場人物作成表

今回、作成していただいたリプレイ動画を拝見して、率直に思ったのは、「知っている物語の世界を自由に旅できるって楽しそう!」でした。

やっぱりこういうのを見ているだけで、わたしもやってみたくなるし、このリプレイ動画を見て、「サンプル・シナリオ増やしたい!」って思いました(笑)


【物語の世界を旅しよう】仕事のできない木こり【ゆっくりTRPG】

 

そんなわけで、ゲームや読書などをテーマにしたクラブ活動・部活動のアクティビティとしてやってみてもらえるのが、まずは入り口なのかな、と思っています。

小学生でも遊ぶことができるように、ゲームデザイナーとわたしと二人で、ひとつひとつの言葉を吟味してきた経緯もあるので、「小学生でもあそべるTRPG」としては、かなり使いやすいものになっていると思います。

ぜひ、いろいろな方に遊んでみてもらえたら、うれしいです。

 

※追記(2019/8/30)

公益財団法人電気通信普及財団1.情報通信に関する法律、経済、社会、文化等の社会科学分野における研究 | 」の報告書がアップされましたので、リンクを貼りました。報告書のPDFはこちらからダウンロードできます。

「デジタルメディア社会における「情報活用能力」育成に向けた基礎. 理論の構築―英国のメディア・リテラシー研究における近年の動向に着目して」(PDF)

パフォーマンス学習の場としての模擬授業をやってみた。

 

今日は、わたしが学部で担当している「初等教科教育法(国語)」の最終回でした。

「初等教科教育法(国語)」は、学部2年生対象の必修授業です。約240名を春学期2クラス、秋学期2クラスの計4つのクラスに分けて実施するのですが、現在はそれをすべてわたしひとりが担当しています。

このような状況なので、クラス規模が60名程度となり、そのままのクラス規模で模擬授業をやってしまうと、なかなか、自分自身の教師としての働きかけがどのように受け止められているのかを見たり、学習者の学習の様子を見とったりすることが難しいので、この授業を担当した当初から、30名×2クラス同時並行のかたちで、模擬授業を実施しています。そして、昨年度までは、ティーチング・アシスタント(TA)として手伝ってくれる大学院生がいたので、模擬授業を行う2~3回分の授業だけはTAの方に片方のクラスを見ていただいていました。

…が!!

今年度はついに、頼りにしていた院生たちがことごとく社会に出ていってしまい、TAなどのかたちでどなたかに手伝ってもらい、片方の教室を見てもらうことができなくなってしまいました。

そんなわけで、3月後半あたりから、「どうしよう~」とかなり頭を抱えていたのですが、そんな矢先に、紀伊国屋新宿本店で行われた「リフレクション(省察)で教師は育つ!」に参加し、(直接的にそんな話はなかったのですが)、渡辺貴裕先生の『授業づくりの考え方』(くろしお出版)で紹介されている「対話型模擬授業検討会」を、ロールプレイを通じて学生たちに経験してもらいながら、自分たちで模擬授業を進めていけるようにできないだろうか、という発想に至りました。

 

kimilab.hateblo.jp

 

kimilab.hateblo.jp

 

これは、わたしにとってはかなり大きな決断でした。

それまで、わたしのゼミに所属していたゼミ生から、「〇〇先生、模擬授業のときに授業に来なくかったんですよ~!」みたいな不満の声を聴くこともありましたし、学生たちの不満につながる危険性も十分にあると思いました。

でも、自分たち自身で、模擬授業をして、お互いの授業を見て、そこから学びあえるようになることは、省察的実践家としての教師を育てていくうえでは、大切なこと。

そうであるとすれば、学部2年生の段階で、どこまでできるかはわからないけれど、ともかく、自分の考えられる最大限の配慮をしながら、できるところまでやってみよう!と思い、今学期の授業では、“模擬授業をお互いにやってみて、話し合い、そこから学ぶ”という活動を、繰り返して体験できるようにしてみました。

はじめは、『授業づくりの考え方』で掲載されている事例のロールプレイを経験して、次には、2チームごとのペアになってお互いに模擬授業のための学習活動のアイデアをやってみる段階、それを2~3回繰り返して、最後のステージに、30名の学生たちを対象にした模擬授業をやってみる…という流れです。

 

1.対話型模擬授業検討会のロールプレイ

 対話型模擬授業検討会の記録映像Youtube上で公開されており、日本教師教育学会「学会企画関連企画報告書」のページにそのリンクと、その文字化資料が掲載されている報告書『「対話型模擬授業検討会の実現とそれをめぐって』(PDF)が公開されているので、この映像視聴をするという手もあったのかもしれません。


180929模擬授業@教師教育学会

60人もの学生たちの前でパフォーマンスをするというのは、けっこうリスクが高いので、映像視聴にすべきかどうか最後まで悩んだのですが、結局、『授業づくりの考え方』で掲載されている事例について、まずはじめに、各チームから選ばれた人たちが、全員の前でロールプレイをするという活動を2シーン(「やってみる」「かえりみる」)やってみることにしました。

わたしが担当しているのが、「国語」の教科教育法の授業であるというのも理由のひとつですが、ちょうどそれまで学生たちが学んできた学習の中で、リアクションペーパー(大福帳)に、「学ぶ目的と活動がずれないようにすることが大事だ」とコメントしてくる学生たちが多くなってきたので、自分たちでもロールプレイを見ながら、「ここはこうした方がいいんじゃないか」と気づいていけるといいかな、と思ったことが大きいです。

当日は、ロールプレイング・ゲーム的な感覚で参加してもらおうと思い、『授業づくりの考え方』の中の「登場人物の紹介」をカード化して、「キャラクター・カード」を作り、チームごとに、どれか1名の「キャラクター」にふさわしい(?)人を選出してもらうことにしました。

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対話型模擬授業検討会キャラクターカード

 この日の授業は、オープンキャンパス直前ということで、できれば通常、使用している教室をオープンキャンパスの準備のために使用したいというオファーがあったので、中央図書館のメディアホールというところで実施したのですが、そのせいで、なんか本当に舞台っぽい感じになりました!

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チームごとに選ばれた「キャラクター」の皆さんによる、2シーン分のロールプレイのあとは、グループごとに「キャラクター」を割りふっての読み合わせ。

この日の授業については、賛否両論で、“対話で書かれている文章なので、役割分担して読むことで内容がよくわかった”とか、“模擬授業からディスカッションして振り返ることのイメージがわいた”という学生もいれば、“みんな文章を読み上げることにいっぱいいっぱいで、なんでこんな活動をするのかがわからなかった”という人もいました。

そもそも、戯曲・脚本のような形式のものをみんなで読みながら、そこから何かを感じたり考えたりする…という学習のスタイルへの親和性がない人たちにとっては、このようなスタイルで学んでいくことにハードルがあるのだろうと思います。

 個人的には、「絵を描く」ことによって学んだり、「文章を書く」ことによって学んだりするように、実際に声に出して読んでみる、身体を動かしてみることによって学ぶ、というのもひとつの学習スタイルとして、みんなが使えるようになるといいなぁ、と思うのですが。

 

2.ペアごとに「やってみる」

ロールプレイを行った授業の次の週には、自分たちがこれまで考えてきた模擬授業のための学習プランを、実際にペアでやってみる活動を行いました。学生たちには「模擬授業のための模擬授業」と呼ばれてました。

…たしかに、そうですね。

 

この「ペアでやってみる」活動は、はじめるまでがなかなか大変そうでしたが、実際にやってみると、かなり実り多い活動になったようで、学生たちの多くも、肯定的にこの活動を受け止めてくれていていたようでした。(そもそも、それまでに学習プランに対するアイディアを十分出しきれておらずに戸惑ったケースは多々あったようですが)

 

フォントの魅力を伝えよう!と頑張っていた「文字は文化だ!」チームは、ペアでやってみる活動を何回かやる中で、“フォントってマニアックな趣味だと思ってたけど、みんなに楽しんでもらえそう…!”という感覚をつかんでいったように思います。

2回目のペア活動のときには、“みんなが、ステキなフォントを書いてくれました!いっしょに入れておくのでぜひ見てください!”といったコメントとともに、そのときのペア活動で相手チームの人たちが作ってくれた「作品」を見せてくれました。

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「フォント」作品

ペアでの模擬授業の中で、「こんな活動で大丈夫かな…」という漠然とした不安を、自信へとつなげていったチームがある一方で、いろいろなチームとペアになりながら、「もっと活動をスムーズにするには?」「もっと充実した学習にするには?」と考えながら、自分たちの模擬授業をブラッシュアップしていったチームもありました。

 

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赤字修正が入ったワークシート案



このチームは、ワークシートに書かれた「お題」を、実際にやってみる中で見直していく…という活動の中で、数種類のワークシートを開発。さらにそれを何回にもわたって修正していき、改訂版を重ねていくなかで今日の本番を迎えていました。

 

そんな中でも、特に興味深かったのは、模擬授業用に用意した教室以外のスペースを利用することを提案したチームがあったことです。

 

事前調査の結果から、「大学生が予想以上に、新書を読んでいない!」という問題意識をもった「教育学部恋愛学科」チーム。

たまたま、2回目のペア活動のときに使った、8名定員のゼミ室がお気に召したようで、本番の模擬授業でも、このようなかたちで2つのゼミ室に新書コーナーを設置し、導入のレクチャーのあと、2つあるゼミ室に自由に移動をして新書を選びつつ読んでもらう活動を行っていました。

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並べられた新書

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新書を読む

実際に、机の周りに集まって考えているだけだとしたら、おそらく、「使う教室を変えよう!」とか「あの教室に、このように本を設置したらどうだろう?」というアイデアは出にくかったのではないか、と推測します。(とてもクリエイティブな学生たちだったので、もしかしたらはじめからあった発想なのかもしれませんが)

実際に「やってみる」ことで、環境の側の限界も見えてくる、だからこそ、環境そのものを変えられないか?という発想が出てくる……そんなこともありえるのではないか、と思いました。

 

3.約30人の学生たちに対する模擬授業

 

このようなペア活動を重ねたうえでの模擬授業本番。

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ワーク「若者言葉の現代語訳」

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「エモい」シーンを言葉で説明する

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心配になる「歯がいたい」

ほとんどの学生が、「はじめて授業をつくってみました!」という状況。

しかも「初等教科教育法(国語)」では、自分たちが得意な・好きな言語活動にもとづいて、自分たちが学習をギヴ(give)できる授業を考える…という「やったことのない」課題に取り組んでいるので、できあがってくる授業も、取り組みのレベルも、実にさまざま。

それでも、他のだれかがやっている模擬授業に関心をもち、それに学習者の立場から参加することは、なんだか自分の学びに役立ちそうだぞ!…という感覚そのものは、受講者の関わりのレベルにかかわらず、もってもらえたような気がします。

もちろん、「模擬授業(本番)のときにも、ペアでやっていたときと同じように、授業の後にいろいろコメントをしあえたらいいのに…」「もっと、自分たちで率直に、学習者として感じたことを交流しあうにはどうしたらいいだろう?」とか、わたしの中で、課題になったことは、たくさんありました。

それが、学部2年生の授業での限られた時間のなかで、どこまで実現可能なのかも、まだまだわかりません。

 

とはいえ、はじめての状況のなか、そのはじめての取り組みを一緒に創ってくれた2年生たちには、心から感謝しています。

次はまた、2カ月後に、同じ科目名での授業が始まります。今回の取り組みをどのように生かしていくか、また2カ月かけて、考えていきたいと思います。

 

TRPGフェス2019企画②:ノルディックLARP(社会・芸術的な教育LARP)体験

9/6~9/8に開催される「TRPGフェス2019」 の中でのJARPS(日本RPG学研究会)企画情報、第2弾です。

 

昨年度の学術LARP企画「安心からの脱出:Village,Shelter, Comfort(芸術型教育LARP)」(togetterによるまとめは、こちら)に引き続き、今年度も、ノルディックLARP(社会・芸術的な教育LARP)*1のセッションを行います。

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NordicLARP体験2019

 

前回の「TRPGフェス2018」で行ったノルディックLARP「安心からの脱出」は、カム・ビョーン=オーレ先生 ゲームデザインした創作LARPでした。(Björn-Ole Kamm | LARP — 安心からの脱出)

9/6~9/8に開催される「TRPGフェス2019」 の中でのJARPS(日本RPG学研究会)企画情報、第2弾です。

 

昨年度の学術LARP企画「安心からの脱出:Village,Shelter, Comfort(芸術型教育LARP)」(togetterによるまとめは、こちら)に引き続き、今年度も、ノルディックLARP(社会・芸術的な教育LARP)のセッションを行います。

 

 

NordicLARP体験2019

 

前回の「TRPGフェス2018」で行ったノルディックLARP「安心からの脱出」は、カム・ビョーン=オーレ先生がゲームデザインした創作LARPでした。(Björn-Ole Kamm | LARP — 安心らの脱出)

…が、このLARPはむちゃくちゃ時間がかかる!

17時に集合してイントロダクションと事前ワークショップ、夕飯を食べて、実際のLARPが(休憩はさみつつですが)4時間強、事後ディブリーフィングを終えるとちょうど日付が変わるくらいの時間(!)という、そんな感じでした。(「TRPGフェス2018」のサイトでは、17:00~24:00と書かれていますが、この内訳はそんな感じです)

 

このLARP体験を経て「ノルディックLARPって面白そう!」って思ってくださった方もけっこういらっしゃる一方で、「LARPってものすごく時間がかかるのでは…」「実際に、教育活動やコミュニティワークで実施するには長すぎるのでは…」という思いを持たれた方がいらっしゃるのも事実。

そこで、今年度「TRPGフェス2019」で企画する「LARP体験」では、45分~2時間程度でゲームをプレイできるような「ミニLARP」を集めてご紹介することになりました。

もちろん、ノルディックLARPは、「勝敗よりも、芸術的な表現、政治的なメッセージや共同物語作りに焦点を起き、前後ワークショップを大切にするLARPスタイル」ですので、ゲームプレイの時間の前後に、事前ワークショップ・事後ブリーフィングの時間が必要になるので、実質的にかかる時間は、2~3時間になります。「ノルディックLARPをやってみよう!」と思われた方が、実際にやってみるためのハードルは、ぐんと下がるのではないか?と期待しております。

 

今回とりあげる、ノルディックLARP(ミニLARP)は、フェミニズムアイデンティティの問題に焦点を当てています。

今回は、3つのLARPをご紹介する予定ですが、そのうちの2つは、『#Feminism:A Nano-game Anthology』に掲載されているゲームです。『#Feminism』は、世界8か国のフェミニストたちが、自分たちを取り巻く現代的な問題をテーマに作成したLARPのゲーム集。「nano-game」とあるように、そこで紹介されているゲームは、30分~1時間程度の短いものばかりです。

About the Anthologyfeministnanogames.wordpress.com

前回よりも、気軽にご参加いただけると思いますので、ぜひ多くの方にご参加いただければと思います。

*1:ノルディックLARPとは、「ノルディク・ラープ」はもともと北欧(nordic)から始まったライブ・アクションRPGのスタイルです。現在は南アメリカからシリアまで、世界の広い範囲にこのLARPの考え方が広まり、多くの国や地域で実践されています。「勝敗よりも、芸術的な表現、政治的なメッセージや共同物語作りに焦点を起き、前後ワークショップを大切にするLARPスタイルです」。(カム・ビョーン=オーレ「LARP―安心からの脱出」より

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TRPGフェス2019企画①「RPG学研究への招待:アナログ・ロールプレイング・ゲーム・スタディーズ」

今年も、「TPPGフェス2019」が開催されます。

trpgfes.jp

わたしは昨年度、「TRPGフェス」初参加!で、なぜか、口頭発表パネルの司会を務めたり、ノルディックLARP(政治・芸術的な教育LARP)「安心からの脱出」NPCを勤めたりしておりました。

kimilab.hateblo.jp

 

…が、なんだかんだで、今年も参加することになりました

 

昨年度、口頭発表パネルのセッションを行ったメンバー4名(Björn-Ole Kamm (@BeOhKay) 、コミュゲ研(コミュニケーションとゲーム研究会) (@comgame2014) | の中の人ⓔⓝⓘ (ツ) (@enicchi) 、そして、わたし)がセッション終了後にむちゃくちゃ盛り上がり、日本におけるアナログRPGに関する知見をグローバルな文脈で議論し交流することを目的とした日英バイリンガルの学術誌(オンライン・ジャーナル)を作ろうという話に。(昨年度の様子はこちら↓)

togetter.com

www.b-ok.de


 Björn-Ole Kamm 先生がリーダーシップをとるかたちでいろいろと手続きを進めてくださった結果、なんと今回の「TRPGフェス2019」で、そのオンライン・ジャーナル『RPG学研究』キックオフ・シンポジウムを開催することになりました!

 

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JARPS

RPG学研究: Japanese Journal of Analog Role-Playing Game Studies

 

『RPG学研究』のトップページにあるとおり、このジャーナルは「日本のTRPG(テーブルトップ・ロールプレイングゲーム)やLARP(ライブ・アクションRPG)の意義や可能性について、グローバルな文脈の中で、研究者や実践家がともに議論しあい、その知見を発信していくことを目的としています。」

そのキックオフシンポジウムとして位置付けられる今回の口頭パネルでは、アカデミックな文脈でTRPG/LARPにかかわる研究者のみならず、ゲームを用いた活動の普及や、ゲームデザインにかかわる実践家にも、ご登壇いただき、より幅広い文脈で、日本のTRPG/LARPについての知見を交流し、議論ができればと思っています。

以下、今回の口頭発表パネルの概要です。

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議論のバトルフィールドにのみこまれる~ミキ・デザキ『主戦場』

ミキ・デザキ監督・脚本・撮影・編集の映画『主戦場』を見てきました。

www.shusenjo.jp


映画『主戦場』予告編

 

この映画は、すでに各種メディアが報じているように、この映画にインタビュイーとして出演しているケント・ギルバート氏(米国弁護士・タレント)、トニー・マラーノ氏(「テキサス親父」)、藤岡信勝氏(「新しい歴史教科書とつくる会」)、藤木俊一氏(「テキサス親父」の日本マネージャー)、山本優美子氏(「なでしこアクション」)の5名が原告となり、上映差し止めと計1300万円の損害賠償を求める訴えを起こしている。

www.bengo4.com

 

こちらは、その記者会見の様子。


記者会見 - 映画「主戦場」の上映を差し止める

 

この訴えに対しては、監督のミキ・デザキ氏も記者会見を開き、「商業映画として公開する可能性については伝えた」などと反論をしている。


『主戦場』2019年5月30日

 

同意書・承諾書などの存在もあり、またインタビュー動画については事前に(その部分だけとはいえ)確認するチャンスもあったということなので、おそらく問題になってくるのは、原告側が言うように「一方的なプロパガンダの映画になっている」「(私たちが言いたいことを主張することは一切せず、糾弾するような映像構成になっている」のかどうか、というあたりになってくるのでしょう。

これに関しては、実際に映画を観なければわからない…ということで、観にいってみました。

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学校教科書で「音楽する(musicing)」~大谷能生『平成日本の音楽の教科書』

 大谷能生『平成日本の音楽の教科書』 (よりみちパン! セ)を読みました。

 

 

あの(!)大谷能生さんが、平成時代の小学校・中学校・高等学校の音楽教科書のみならず、なんと平成元年(1989年)、平成10年(1998年)、平成20年(2008年)に改定されてきた学習指導要領もあわせて、読み解く(!)というステキ企画!

「学習指導要領」という存在がどうにもよくわからないのか、「簡単に言えば国が先生用に制作した、実際の授業のためのガイドブック」(p50)とか説明されていたり、「教育指導要領」と誤記されていたりするのなんて、もはや気にしない。

教科書不要論や、ほとんど何の根拠もないような「理想の教科書」論が巷に出回るなか、「『理想の教科書』のありかたではなく、現状の教科書の『理想的な使い方』を探ってみたいと思います」(p55)という企画のコンセプトそのものに、いたく感動してしまいます。

 

なぜそんな発想に至ったのか?

なぜ教科書を読もうと思ったのか?

その経緯については、本書の中でも十分に書かれていますし、本書の発行後、Zakzak大谷さんの連載記事「ニッポンの音楽教育150年のナゾ」が始まり、その記事の中でもけっこう述べられているので、ここでは割愛します。

www.zakzak.co.jp

 

本書のポイントは、クリストファー・スモールによって提案された音楽を<行為>として捉える視点=「音楽する(musicing)」という視点から、現在の音楽教科書でもっともっと実現しうる「音楽する」ための可能性を明らかにしていることでしょう。

 

さらに言えば、言葉の教育にかかわる仕事をしている者としては、大谷さんが、この「音楽する(musicing)」という視点からの提言のなかに、音楽を分析すること、言語化することを位置付けてくれていることに、感銘を受けました。

 

 「J-POP」という言葉は、90年代に登場した、比較的あたらしいそのような「ジャンル」のひとつです。そのような「ジャンル」による分別を、たとえば、共通事項に示された「音色、リズム、速度、旋律、テクスチャ、強弱、形式、構成」といった要素でもって、ジャンルを横断するようなかたちで分析してみるという授業はどうでしょうか。

 そして、また、その音楽の本質が、「共通事項」とは別の要素、つまり、それがやりとりされる現場にあらわれる「現象」とどれくらいかかわっているのか。音楽の本質が、譜面の読み書きによる「再現」に重きをおいたものか、それとも、それを演奏する人の個性によるのか、アレンジの変化にあるのか、それとも録音という行為にあるのか、はたまたネットの上の像が大事なのか……といったことを考え、さらに、教科書に載っているものとそれらがどのように異なっているのか、ということを確かめてみること。(大谷能生『平成日本の音楽の教科書』、p269)

 

本書の中には、東京学芸大学世田谷中学校で、平成30(2018)年6月16日(土)に行われた公開研究会(研究主題:「 世田谷中学校で育てる「21世紀型能力」―各教科が目指す深い学びを通して」)(2次案内PDF)での原口直教諭による授業「音楽の嗜好に気づく「聴き取る力」」が紹介されるとともに、このような授業での学習活動が「『言葉』でもって音楽に触れるためのとてもよいきっかけになるはずだと、筆者は思います」と書かれていて、……なんというか、しびれました。

 

学校の授業でできること、まだまだあるじゃん!もっと面白いこと、できるじゃん!

…って思ったし、事実、中学校国語科でやってみたいことのアイデアがあふれてとまらなくなりました。

 

…というのも、今年、神奈川県内のある自治体で中学校国語科の先生方の研究会に講師としてお呼びいただいた際に、東京書籍の中学校国語教科書『新編 新しい国語1』に掲載されている「書くこと」教材「作品のよさを表現しようー歌の鑑賞文」(p203)の実践報告をお聞きする機会があり、そのときに見せていただいた生徒のワークシート記入例にいろいろ考えさせられたからだと思います。

ten.tokyo-shoseki.co.jp

 

たしかその生徒は、米津玄師の《LOSER》(だったと思うが記憶が曖昧)か何かで、「歌の鑑賞文」を書くために、歌の分析をしていたのだと思う。


米津玄師 MV「LOSER」

だけど(国語科だから?)ワークシートは、歌詞について分析することを求めていたのに、その生徒がワークシートに書く内容は、ほとんど、《LOSER》のミュージック・ビデオに見られる映像的な表現に関するものがほとんどで、歌詞の言語的表現に関する内容がほとんどない。

そのせいかどうかわからないけれど、そのワークシートの記入例は、教員からあまり高く評価されていなかった。そのことがとても記憶に残りました。

 

このとき、わたしは講演をする機会をいただいていたので、講演の最後にも、この生徒の作品に触れて、「生徒たちが接する音楽の世界の中には、ヴィジュアルな表現というのが不可分に入ってきている。米津玄師の音楽表現と、Youtube動画におけるヴィジュアルな表現は一体のもので、生徒たちもそのようなものとして『音楽』を享受しているという現実を、鑑賞文指導においても踏まえる必要があるのではないか」というようなことを言ったりしました。

 

だから、大谷さんがここで指摘していることは、まったく、他人事ではない、音楽科に限定された話ではないと思っています。

国語科では、教科書に掲載されるレベルで(!)、歌の鑑賞文指導が一般的に行われている。

J-POPをはじめとした自分たちの身の周りにある音楽を分析する、ということが、もっともポピュラーに行われているのは国語科である、といっても過言じゃないと思う。(東京書籍の教科書のシェア率は、光村図書に次いで多かったはずです)

 

もちろん「音楽する(musicing)」という行為そのものにかかわる音楽科と、言葉を使用し創造する行為にかかわろうとする国語科では、そのアプローチの仕方は異なるべきでしょう。

では、音楽する(musiging)音楽科ではどんなことができて、言葉する(languaging)国語科ではいったいどんなことができるのか?

そして、それらがコラボレーションしたら…!?

 

そんなことを考えはじめると、たくさんの妄想が浮かんでは消え、浮かんでは消えしていきます。

 

ちょうど今、わたしが担当してる授業「初等教科教育法(国語)」では、ある学生たちのチームが、「歌詞を分析する」授業の構想に取り組んでいます。

歌詞を読んだり分析することが大好きな人たちが集まるそのチームの学生たちが、どんな授業を提案してくれるのか、ますます楽しみになる1冊でした。

 

(7/24追記)

このブログ記事のレビューを読んでくださった方から、本書の誤植の多さについて指摘をうけました。本書の誤植の多さについては、私自身も読みながら気づいておりましたので、そのことについてなんの注意書きもせずに、レビューを書いてしまったことは、本ブログの読者に対して誠実でなかったと思います。ここにお詫び申し上げます。

誤植が多いという問題については、すでに、本書の出版社である新曜社にお伝えしてあります。また、新曜社から、至急訂正版を出してくださるとの回答もいただいております。