先月、2022年7月16日に開催された、言語文化教育研究学会(ALCE)第87回例会「トガルためのビブリオバトル」の主催者の方からお声がけいただき、バトラーとして参加することになりました。
本日夜9時から行われる、言語文化教育研究学会 @alce_gbkk のビブリオバトルにも登壇します(笑)
— Kimi Ishida (@kimish330) 2022年7月16日
まだ一般申込受付中のようなので、こちらもぜひ。
https://t.co/47hFlf6iXw
6人のバトラーのうちのひとりとして登壇します。
皆さんお察しかと思いますが、ゲームの紹介しますw https://t.co/lxj6IU6WWn
昨年8月から、言語文化教育研究学会(ALCE)のオンラインマガジン『トガル』の読者の皆さんの心に残った「トガル」作品を、広く集めて、「トガルための100作品」として紹介する、というアンケート企画が実施されているようなのですが、その関連企画として、実際におすすめの作品をビブリオバトル形式で聞きあおう!という企画であったようです。
イベント開催時には、いわゆる「チャンプ作品」だけが『トガル』への記事の執筆&掲載権を得る(?)と聞いていたと思うのですが、その後(経緯はよくわからないのですが)、バトラーとして参加した全員に、記事執筆&掲載権を与えてくださる方針になったそうで、ほとんどどなたからも「票」が得られなかったわたしも、記事を書くことに。
今回わたしが、「『トガル』ためのビブリオバトル」でご紹介したのは、以前このブログの記事でもレポートしたことのある、言語学TRPG「ダイアレクト(Dialect)です。
この記事のもととなるプレイのときには、わたしはプレイヤーではなく、オブザーバーとして参加していたので、当日の楽し気な様子だけをレポートしました。
一方で、私自身がはじめにプレイしたときに感じた、ひりひりとしたなんともいえない寂寥感や、「自分が何かやらなければ」と切羽詰まった感じについては、まったくレポートできなかったので、これを機に、それについて伝えてみよう、と思いました。
そしたら、やっぱりまったく伝わらなかったんですけどね!……でも、こういう機会をいただき、自分のなかで起きた心のざわめきを、言葉にする機会をいただけたことは、本当によかった、と思いました。
当日まったく伝わらなかった内容なので、文字にしたところで、果たして誰かの心に届くのかどうかはわからないのですが、事務局の方から、ブログに転載してもよいという許可をいただきましたので、以下、『トガル』内「トガルための100作品」に掲載された記事を、転載いたします。
#11 フィクショナルな言語世界と感情のリアリティ
―滅びゆく言語のロールプレイング・ゲーム『ダイアレクト(Dialect)』―
石田喜美
言葉を教育すること、あるいは、言葉を学ぶことにおいて、
「フィクション(虚構)」は、どのような役割を果たすのでしょうか。
もちろん、「フィクション」と一言でいっても、その関係のありようは、さまざまです。
言語教育のための教科書に掲載されている「会話例」の多くは、多かれ少なかれ虚構性をもっていて、
しばしば、それへの批判が行われます。
一方、「『トガル』ためのビブリオバトル」において紹介された、
映画『悲情城市』のようにフィクションであることによって、歴史的な事象のある側面を、
ノンフィクション以上に描き出すことで、人々を強く動かすこともあります。
カズオ・イシグロは、『WIRED』に掲載されたインタビューの中で、
小説家としての自分自身の役割を「感情(emotion)を物語に載せて運ぶということです」と述べていましたが、まさに、フィクションにしかできないことがあるのです。
「フィクションにしかできないことがある」――このことを、私自身にもっとも強く印象づけたのが、ロールプレイング・ゲーム『ダイアレクト(Dialect)』の初めてのプレイ体験での出来事でした。
はじめに、このロールプレイング・ゲーム(以下、RPG)について、簡単に紹介しておきたいと思います。
このゲームは、言葉の持つパワーや遊戯性に焦点を当てたゲームを制作してきたThorny Gamesによって作られたゲームで、HallowHillよりその邦訳版が発売されています。
このゲームには、ゲームタイトルとは別に、副題のようなかたちで、
「言語についての、それがどのように死ぬのかについてのゲーム(A game about language and how it dies)」
というキャッチコピーが示されています。
これらのタイトルやキャッチコピーに示される通り、このゲームは、他から隔絶された孤立したコミュニティの中で、そのコミュニティ内だけで通じる言葉が生み出され、
その言葉を用いながら新たなコミュニケーションや関係性が生み出され、
最後には、そのコミュニティの運命に従って、言葉が(そして多くの場合は、その使い手であるキャラクターたちも)滅んでいきます。
まさに「言語についての、それがどのように死ぬのかについてのゲーム」(!)なのです。
そのため、ゲームプレイが始まる時点ですでに、その言語が滅ぶことは、宿命として決められています。
さらにいえば、キャラクターたちも、そのような自分たちと言語の宿命を知っている、
あるいは予感されているという設定であることも多いのではないかと思います。
ここまで読んで、「なんと残酷なゲームなのだろうか」と思われた方も多いのではないでしょうか。
実際、このゲームには、「参加者全員で作成した共同体は、発展的な解散であれ、強制的な解体であれ最後は必ず失われます。ご注意ください。」(「ダイアレクト」-HallowHill)
という注意事項が示されています。
――そう。このゲームでは、確実に、一般的な意味での「ハッピーエンド」は迎えられないのです。
このゲームプレイに参加する人たちは、あらかじめそれがわかっています。
RPGなので、他のRPG同様、プレイヤーたちは、ゲーム中に自分たちで新たに創造した言葉を使って、コミュニケーションをし、それを展開させるかたちでストーリーを創り上げていきます。
けれども、その先には、言語(と、キャラクターたちすらも)が滅ぶという未来しかありません。
いつか失われていく「私たち(=キャラクター)」の言葉に向けて、「私たち」はコミュニケーションをし、自分たちの物語を編み上げるのです。
いつか、誰にも届かなくなるに違いないことがわかっていようとも、それでも、「私たち」は語り続ける
――差別的なまなざしを前提とした言葉であることを承知であえて言うとすれば、私にとってその営為は、あまりにも可憐で美しいものに映りました。
そして、思ったのです
――「それは、なんと人間らしい営為なのだろうか」と。
わたしが実際に体験したのは、プレイヤー全員で、ある少年のお気に入りのおもちゃのキャラクターを作り、それをロールプレイするというもので(「おもちゃ箱の物語」)、「私たち(=キャラクター)」のミッションは、少年に自分たちへの関心を取り戻してもらうことでした。
一方、日々、子どもから大人へと成長していく少年の姿を見ていると、「私たち(=キャラクター)」のコミュニティの運命もそう長くはないことが予感されているという設定です。
私にとって、忘れられないのは、ゲームプレイのはじめの方で創られた何気ない言葉のひとつが、自分にとって、突然「失いたくない言葉」になった瞬間でした。
なぜ、そんなに「失いたくない」と強く思ったのかは、自分でも、よくわかりません。
ただ、そのとき、「失いたくない」と思ったこと、ゲームプレイの最後にはこの言葉を使って、「私」の物語を終えよう…と思ったことは、覚えています。
その言葉はあまりにも、何気ない言葉だったので、物語の壮大なエンディングを語るにはあまりにも力不足でした。
それでも、「自分の物語を、この言葉なくして終えることはできない」となぜか強く思っていて、そんな自分を、妙に醒めたような気持ちで、もう一人の自分が客観的に眺めていたような…そんな記憶があります。
『ダイアレクト』のルールブック第5章には、危機言語(endangered language)の研究を行ってきた言語学者、Steven Birdによって寄稿された「言語を維持できる未来世界を作るのに役立つ、具体的な行動」の提案が紹介されています。
そこに掲載されている提案の多くは、
「相手の言葉で挨拶しよう」
「名前の発音を学ぼう」
「今いる場所で、本来話されていた言語を話してみよう」
…など、とても小さな活動です。
『ダイアレクト』のルールブックでは、ゲームそのもののみならず、現実世界でのアクションにも結び付くような提案との両方を掲載することで、フィクションの世界での経験を、フィクションの内部に閉じず、現実世界へと開こうとしているのだと考えることができるでしょう。
それは、それで、とても意義あることだと思います。
しかし、私自身は、それとはまったく異なる、大きなものを、『ダイアレクト』のプレイ体験によって得たのではないかと感じています
――理屈で説明することすら困難な「感情」の記憶です。
「失いたくない」と思った、そのときの経験や気持ちは、簡単に、現実世界へのアクションへと持ち越せるものではありません。
そして、それが容易に持ち越せないからこそ、それは、私のなかで大きな存在感を持ち続け、「言葉が伝わらない」ことによって生じる孤独感や絶望感へと、
私の想像力を強く駆動するものになっているように思うのです。