kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「評価」と「批評」―『グローバル化時代の教育評価改革:日本・アジア・欧米を結ぶ』

大学院の授業で、田中耕治(編著)『グローバル化時代の教育評価改革:日本・アジア・欧米を結ぶ』(日本標準)を読んでいます。

 

今週の授業では、渡辺貴裕先生(東京学芸大学)の英語圏における芸術教育の評価の新展開」(第3章第4節)を読みました。

芸術教育において、「スタンダード」に基づく評価が広がる中で現れてきた「スタンダード」路線に対する批判。そして「スタンダード」とは異なるオルタナティブな評価のありかたを探ろうとする試み。

整理されたそれらの議論は、他ならぬ私自身が、水戸芸術館・高校生ウィークの中で「アートライティング」や「書く。部」に関わる中で考えてきたこと、2010年に「Tokyo Art Reserach Lab」の立ち上げに関わる中で考えたことに重なる部分が多々あり…、自分自身がこれまで行ってきたことと、これから行おうとすることをつなぐための道標を与えられたような気がします。

 

授業の中で、議論の中心になったのは、「批評(curitique; criticism)」「評価(evaluation)」の違い(あるいは,教育評価の文脈においてそれらは異なるのか、ということでした。)

本論文では、以下のようなアイズナーの議論が紹介されています。

「スタンダード」に関してアイズナーは、デューイ(Dewey, John)の『経験としての芸術』における、「スタンダード」は期待を固定するもので、「クライテリア(criteria)」は重要な質を効率的に探るためのガイドラインであるという区別を踏まえ、評価において重要なのは「スタンダード」ではなく「クライテリア」であるとしている。(p.203)

またその上で、アイズナーが、教師自身がこのような「鑑識眼」を持つべきとするこのようなアプローチとは別に、生徒自身の「鑑識眼」を育てようとするアプローチにも着目していたことを示す事例として、生徒同士による相互批評活動である「クリット(crit)」を取り上げています。

 

言葉の役割に注目した評価は別の形も取り得る。アイズナーが生徒による相互評価の一例として取り上げている、「クリット(crit)」と呼ばれる、教室で生徒同士が行う相互批評の活動もその一つである。

アイズナーは、芸術教育における評価について、教師が「鑑識眼」をもつことの重要性を述べていた。「クリット」は、生徒自身も「鑑識眼」を育てる必要があること、その際に言葉を用いた交流が有効であること、こうした活動そのものが評価という観点で捉えられていることを示していると考えられる。(以上、p205) 

 

ここで、「評価(あるいは、相互評価)」と「批評(相互批評)」という2つの用語が用いられていることが、議論の焦点になりました。

「スタンダード」と「クライテリア」の区別に関する議論を引き継ぐのであれば、「評価(evaluation)」と「批評(critique)」には重要な違いがあり、生徒たちの「鑑識眼」を育てるためには、(いわゆる「相互評価」ではなく)「相互批評」が重要だと理解できる。

一方、「クリット」に関する議論だけを見れば、「評価」「批評」が互換可能な用語として用いられているようにも見える。(もしかしたら、広義の「評価」と、狭義の「評価」があるのかもしれない。)

そうだとすると、教育評価の文脈において、私たちは「評価」「批評」との関係をどのように考えたら良いのだろうか…というのが、議論のポイントでした。

 

「『レビュー』と『批評』は異なるもの。『レビュー』は鑑賞者に向けて書かれるもので、『批評』は作家(や、作品全体をとりまくアートワールド)を育てるために、作家に向けられるもの」、

「地域アートへの『評価』はこんなにも議論されているのに、地域アートには『批評』が育っていない」…などの言葉を社会人として駆け出しの頃にたくさん聞いてきたわたしとしては、「評価」と「批評」を同じものとして考えるという発想がそもそもなかったので、この論点はかなり斬新でした。

 

確かに、本書を読み進めてみると、本章の「小括」で、次のようなまとめがなされていたりもして、やはり教育評価の文脈では、「評価」と「批評」の違いを分けて議論することには、あまり重きが置かれていないのではないか…と思ったりもしました。

この実践においては、ルーブリックの各レベルの「記述語」をきっかけとして、子どもの学習のリアルな姿が現れ、「共通のつまずき」が表れている。また、子どもの意識は「次のレベルに達するにはどうしたらよいのか」という学習改善の方法に集約される。この事例は、日本では総合学習の評価法として注目を浴びた「ポートフォリオ評価」における「検討会」の1つでもあり、まさしくアイズナーが示した「クリット(相互批評)」と軌を一にするものである。ここに、評価と学習改善をつなぐ1つの策が提示されているのではないだろうか。(p 213)

 

ポートフォリオ評価」における「検討会」が、「相互批評」として成り立つかどうかかは、その「ポートフォリオ」がどのようなもので、どのような学習活動の中で、どのように創り出されるのか、にもよると思うのですが、ポートフォリオ評価の検討会というものすべてが、芸術教育における「相互批評」と軌を一にするのかどうか、なぜそう言えるのか、が私にはわかりませんでした。

 

水戸芸術館・高校生ウィークのなかで、生徒たちの「鑑識眼」を育てるための「批評」の芽となるような活動を、何度か目にしたり、自分自身も企画運営をしたりする中で、やっぱりそれは「評価(evaluation)」というものとは、異なるのではないか、と感じています。

 

例えば、2007年に茨城県水戸第一高校の美術部の皆さんと一緒に行った、《夏への扉―マイクロポップの時代》展のギャラリーガイドの作成

この活動では、みんなでそれぞれ下書きを書いてきたあとに、その下書きについて、お互いにいろいろコメントしあったり、最終的にどういう「ギャラリーガイド」を作ろうか、という話をしました。

私が、有馬かおるさんの作品について紹介するために書いてきた原稿がこちら。

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この原稿について、「これは、このままの感じがいいから、このまま載せたほうがいいんじゃないか」と提案してくれたのは、参加してくれた高校生たちでした。

高校生たちが、「これはこのまま載せよう」と言ってくれたので、他の作品紹介文が、すべて活字化されてホームページで載せられるなか、これだけはいまだに画像ファイルでそのまま見ることができます。

 

このときの、私たちは、たぶん、「(相互)批評」をしていたんじゃないかと、今になって思います。

「批評」とは、「事物の美点や欠点をあげて、その価値を検討、評価すること」(『日本大百科事典(ニッポニカ)』)。つまり、まだ価値が定まっていないある対象に対して、その価値を見出したり、創り出したりあるいは対話によってその価値を交渉し見定めていくことであるともいえると思います。

これに対して「評価」は、その価値を判定すること、判断することに重きが置かれているように思います。

私たちが行っていた活動が、「(相互)評価」だとしたら、この原稿はそのままのかたちで残されていなかった気がします。

この原稿から提起される何か、価値のようなものに対して、対話の可能性が開かれている「批評」だからこそ、この原稿の価値が交渉される可能性が残されていた。そしてこの原稿の価値が交渉されるなかで、新たな価値が見出され、その結果として、素朴でありながらどこか本質を突いたような多くの言葉たちが、そのままのかたちで「ギャラリーガイド」となり、それがいまでも、このようなかたちで残されているのだと。

そしてこのときは、幸いなことに、《夏への扉》展の共同キュレーターでもあった美術批評家の松井みどりさんに、このギャラリーガイドをご覧いただき、松井みどりさんご自身から、ギャラリーガイドに対するコメントをいただくという僥倖にも恵まれました。

 

考えてみれば、高校生ウィーク「写真部」を含む、松本美枝子さんの写真ワークショップで起きていた、高校生や大学生、大人たちのやりとりも、それぞれに何らかの「批評」性を持っていました。

ピア・グループ型ワークショップによるメディア・リテラシー学習の支援:高校生対象の連続ワークショップ「写真部」を事例として

 

そこで起きていたさまざまな「学び」とその「学びのみとり」をめぐる相互行為を、あらためてきちんと見直し、「評価」の視点から言語化し、論述することが必要なのかもしれません。

なぜ「J. T. リロイ」は存在し続けられたのか?ー『作家、本当のJ. T. リロイ』

ドキュメンタリー映画『作家、本当のJ. T. リロイ』を観に行きました。

 


『作家、本当のJ.T.リロイ』映画オリジナル予告編

 映画『作家、本当のJ.T.リロイ』公式サイト

 

J. T. リロイを巡る一連の事件については、事件発覚直後くらいに映画評論家の町山智浩さんが「要するに竹宮恵子が『風と木の詩』を『ジルベールという少年の自伝です』と言って売り込んだようなものだ。」と評していたり

d.hatena.ne.jp

映画公開直後には、J. T. リロイの一連の小説を書いていたローラ・アルバート(映画のタイトルに沿って言えば「本当のJ. T. リロイ」)が「腐女子」のような存在として語られていたりしていて、ちょっと話題になっていたこともあり、居てもたってもいられなくなったというのが理由です。

 www.cuemovie.com

 

ゴースト・ライター騒動(と言ってしまえるほど、こちらの事件は単純ではないけど)といえば、日本でも、佐村河内事件のその後を追った、森達也監督のドキュメンタリー映画『FAKE』がDVDで発売・レンタルされたばかり

これらの作品が同じタイミングで、世に出てくるというのは、あまりに良くできすぎていて、なんだか不思議です。

 

 

 

J. T. リロイとは、『サラ、神に背いた少年』(日本では、金原瑞人訳で、2000年に出版)、『サラ、いつわりの祈り』(日本では、同じく金原瑞人訳で、2005年に出版)の"作者"とされていた人物。

今でもAmazonの書籍紹介を見ると、「自分を忌み嫌う母への愛憎、純粋さと残酷性を持った少年の微妙な心の揺れ動きを繊細に描いた、自伝的青春小説」(サラ、神に背いた少年』)「著者の衝撃的な実体験をもとに、痛ましいまでの少年の想いをクールに描いた短編連作集」(『サラ、いつわりの祈り』)と書いてあったりします。

 

そう。これらの小説は「フィクション」として売り出されていたけれど*1、その作者たる人物はいてその「実体験に基づいている」というのが売り文句だったわけです。

 

…でも、そんな人物は存在せず、これらの小説を書いていたのは、ローラ・アルバートという既婚者で子どももいる女性だった…というのが事件の顛末。

この映画は、ローラ・アルバートが「J. T. リロイ」という薄幸の美少年(わたしによる脚色が入っています)をなぜ、いかに作り上げられたのか?について、ローラ・アルバート自身の一人称的な語りと、その期間に関わっていた、心理カウンセラーやアーテイスト、セレブたちとの電話会話記録の音声をもとに再構成されています。

 

わたしは、この事件の具体的な顛末について、この映画を通じてはじめて知ったのだけど、率直にいって、なぜ、さまざまな人々の前に現れ、マスメディアでも写真や動画で映し出されてきたこの「J. T. リロイ」の身体が、その少年の身体として受け入れられてきたのかが、謎でした。

 

この写真をはじめに見たときに、どう見ても女性だと思ったんですが、

「小さいときに男性器を切除された」的な逸話があったり、J. T. リロイ本人が「自分が男性か、女性かわからなくなる…」みたいな語りをしていたから、みんななんとなく納得していた(?)ということなのでしょうか。

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こちらの記事では、当時、J. T. リロイに実際に会い、インタビューされた佐久間裕美子さんが次のように語っています。

シャイだという触れ込みのJ.T.リロイは、たしかに饒舌とはいえなかったけれど、質問にはゆっくりと、丁寧に答えた。柔らかそうな唇から出る細い声に、「女の子みたいだな」と思ったことを覚えている。けれど、トランスジェンダーであれば驚くべきことでもない。深く考えもしなかった。 

 

bunshun.jp

 

おそらく、ここで佐久間さんが述べられているように、出会った方の多くが、それなりに、「女性では?」と疑問に思いつつも、すぐに「トランスジェンダーであれば驚くべきことでもない」と思い直してきたのかなぁ…と思います。

 

あらゆる人々を「トランスジェンダーだからそんなもんか」と思わせるだけのパワーがいったい、どこにあったのか?

 

…と考えてみると、J. T. リロイの身体であり続けた、サヴァンナ・クヌーのことをもっと知りたい!と思ってしまうわけですが、この映画中でサヴァンナは、一言二言しか語っておらず、ほとんどがローラの語りの中に埋没していくので、最後までそのパワーの正体はわからぬまま。

サヴァンナは映画中で、人々がリロイの存在を信じつづけた理由について、「それは、自分がJ. T. リロイを名乗ったからだ」としか言いませんが、私は、逆にそれしか言っていないにも関わらず、これだけ世界が「J. T. リロイ」の存在を信じ続けた理由、「J. T. リロイが存在し続けた理由」に興味があるのです。

そんなわけで、現在制作中だという、サヴァンナの著作『Girl Boy Girl: How I Became JT Leroy』をもとにした伝記映画のほうに興味があります。

eiga.com

 

とはいえ、おそらく、サヴァンナがすべての答えを持っているわけでもないでしょう。

おそらく、「J. T. リロイ」が存在し続けられたのは、ローラ・アルバートサヴァンナ・クヌーが「J. T. リロイ」の存在を守り続けたからだという以上に、やはり、J. T. リロイの作品に感銘を受けたあらゆる人たちが、「J. T. リロイが、実在していてほしい」と強く願い、その存在を(さまざまなかたちで)構築し、維持し続けたからなのだと思います。

 

「J. T. リロイ」の正体(?)がわかったとき、ローラ・アルバートたちのもとにたくさんの非難や批判が寄せられたそうですが、その時、人々はいったい何に憤っていたのだろう?と考えました。

 

もちろん、「HIVやマイノリテイ性をダシに、名実を獲得した!金儲けをした!」という非難も多かったのでしょうが、「J. T. リロイが存在しなかった」ということへの悲しみを怒りにかえて非難・批判している人も相当数いたのではないか…と思わせる映画でした。

 

ある人が、ある存在が、世界の中に「存在する」というのはどういう状況を指すのでしょうね?

私の立場からいえば、「J. T. リロイ」はある一定の時期に、この世界のなかに、たしかに存在したのだ…と言わざるを得ないのではないか、と思います。

*1:ノンフィクションとして売っていた!…という記事もちらほら見かけるのですが、当時一読者だったわたしは「ノンフィクション」として読んだ記憶がなく、ソースも見つけられなかったので、とりあえず「フィクション」だったということにしています。「ノンフィクション」として売り出されていたことがわかるソースがあったら知りたいです。

ジョバンニとカムパネルラを追って~花巻市『銀河鉄道の夜』を巡る旅~

上野発の高速バスに乗って約7時間。岩手県花巻市に行ってきました。

花巻駅東口に到着したのは、午前5時20分前。駅前のトイレすら開いていない時間ではありますが、うっすらと明るい太陽の日差しさえあれば、ジョバンニとカムパネルラの足跡を追うには、十分です。

 

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花巻小学校の近くにある公園には、おそらく50メートル走用のものと思われる白線が引いてあります。

 

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川沿いにしばらく歩いていくと、銀河鉄道の看板が現れます。

 

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「銀河ステーション」はすでに過ぎてしまって、「白鳥」の停車場まで来てしまった模様。

 

「白鳥」の停車場の近くには、クルミの化石の採掘されるプリシオーン(鮮新世)海岸があるはずです。

 

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…ありました!このあたりかな。

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銀河鉄道は、「白鳥」の停車場を越えて、さらに遠く、森の中へ…

 

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歩いていると、いつの間にか、カムパネルラの捜索が行われた場所のモデルであるといわれている橋のふもとにたどりつきます。

 

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今回は、花巻市商工会議所「賢治・星めぐりの街」を参考に、街をめぐってみました。

新花巻駅周辺に関連施設が固まっているので、花巻駅周辺エリアにはあまり足を運ばれることはないのかな?と思いましたが、個人的には、こちらのほうが、私にとっては感動の残る体験ができたように思います。

観光協会「宮沢賢治の足跡をたどる」のページには、「イギリス海岸」と「林風舎」しか紹介されていないのですが、花巻駅周辺には、名前すらつけられない数々の記憶と物語がちりばめられているように思いました。

www.harnamukiya.com

 

ぜひ花巻市にいらっしゃるご予定がある方は、新花巻駅周辺の施設とあわせて、花巻駅周辺の街歩きもされることをおすすめします。

2D映像表現の革命的試み―『ハードコア』

やりたくないと思っている仕事の準備を丸一日かけてやっていたら(?)、突然発熱するわ、腹痛が起きるわ、吐き気をもよおすはの非常事態に。
「もうこれは無理!」ということで、気分を一掃するために、FPSアクション映画『ハードコア』観てきました!


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4/1(土)公開『ハードコア』本予告篇

 

一人称視点で撮影された映画のシーンは数多くあるわけだけど、映像体験としては、ディズニーランドの「スターツアーズ」「ミクロアドベンチャー」、USJの「ターミネーター」などのアトラクションに近い。


それらのアトラクションのような映像体験が、オーディエンス(スターツアーズの乗客、講演の観客など)視点ではなく、他でもないヒーロー自身に設定されているという点が、たしかに「革命的」。
監督自身が、この記事のインタビューのなかで、「最も複雑だったのは、レファレンスがなにもなかったことです」と語っているけれど、本当にそうなんだろうな…と思う。

 

www.gizmodo.jp


過去の映画・映像作品の中から「どうすれば上手くいくのか? そして、どうやったら自分なりのひねりを加えられるのか?」を学ぶことができず、いくつかの過去作品の中で使われている手法の断片のみを手がかりに、あとは現場での即興的な撮影を何度も繰り返していく…という力任せで作られた映像は、「新しい映像体験」の実験的な試みであふれていて、それがすごく面白い。

 

もちろん実験には失敗もつきもので、「もっとここは洗練させてほしい」という部分もあったり、何より、映像酔いが激しすぎて、気分転換にいったはずなのに帰り道でふたたび、吐き気に襲われるという事態になったりはしたのですが(汗)

 

「3D」とか「4D」とか、映画館そのものが新たな映像体験を可能にしようとする動きがある一方で、まだまだ映像にだってできることがあるはずだ!というそんな可能性を見られる映画でした。

関東近辺で見られるのは、あとわずかですが、ご興味のあるかた(の中で、3D酔いと乗り物酔いに耐えられる方)はぜひ!

個人的には、『三国無双』『戦国無双』的な「草刈り」(たくさん襲ってくる敵をバサバサなぎ倒していく)と、『スーパーマリオ・ブラザーズ』的な、空中に浮かびあがる敵を踏み台にしてジャンプ!が一人称視点で体験できたことが、至福でした。

海底広域研究船「かいめい」に限界芸術の継承を見る

JAMSTEC(国立研究開発法人海洋研究開発機構)横須賀本部の施設一般公開に参加してきました。

はじめて参加したイベントだったので、展示の内容や規模などよくわからないまま、午後からふらっと参加してきたのですが…、そんな心構えではまったく全部見切れないほどの内容充実っぷりでした!

こちらから本日配布されたガイドマップ(PDF)がダウンロードできるので、興味のある方はご覧いただきたいのですが、公開されている施設全11館+海底広域研究船「かいめい」で全12箇所。

 しかもその1つ1つに、広大な海の世界を探検してきた(姿形もかわいらしい)猛者たちがたくさん展示されている上に、それらの調査船・調査機器のひとつひとつ「説明したい!」「語りたい!」という熱意あふれるスタッフの皆さんがしっかり張り付いていらっしゃるので、いくら時間があってもたりません。

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そんな素敵な展示と心躍る解説が数多くある中、

今年公開されていた海底広域研究船「かいめい」の内部に、「花毛布」「飾り毛布」と呼ばれる毛布のアートワークが展示されており*1「かいめい」に乗船する研究者・船員の皆さんの限界芸術における技術継承の痕跡を見ることができ、いたく感動いたしました。

 

写真の技術がおよばずまったく伝わらないのですが、わたしの感じた感動の片鱗だけでもお伝えできればと思います。

 

まずは、こちら。「孔雀」!

凛としたお姿が大変美しく表現されています。

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その次…「二輪草」

タイトルの付け方に、美意識を感じざるを得ません。「二輪草」…。

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そして、「菊水」

「菊水」のすばらしさは、なんといっても、毛布の端にある白い帯の部分をうまく活用した点にありますよね。奥から水が流れてくるような展示の仕方も実に美しいと思います。

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お次は、「流れ星」

こちらも白い帯の部分の使い方に、技術継承の跡が見られますね。

星の周囲の部分を白地でかたどり、なかなかポップでかわいらしい作品です。

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次に、おめでたいものシリーズを紹介します。

まずは、「富士山」

「菊水」と同様、毛布の端にある白い帯の部分をうまく活用し、富士の背後から立ち上る後光を表現しています。

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最後に、「松竹梅」

「竹」と「梅」はなんとなくわかるような気がするけれど、「松」がどこにあるのかわからない(たぶん右の後ろ側?)のはご愛敬です。

よくぞひとつの毛布で、ここまで自立できる形を創れるものだと素直に感動してしまいます。

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これらの「花毛布」「飾り毛布」は、昔、客船の寝室で来客へのサービスとして提供されていたもののひとつらしいのですが、おそらく、こういう作品の数々は、はじめ「見立て」から生み出されるのだと思うのですよね。

 

 

夜寝る前に毛布をいじってて…あるいは毛布を折りたたんでいたときに見えた何かの拍子にそれがなにかに見えた。

何かに見えたら、今度は何かが創りたくなる。ひとつ何かができると、もっと面白いものが創りたくなる。

 

「飾り毛布」「花毛布」の場合は、それが客船の中でのおもてなしとして発展し、その技術が継承されていったのだと思いますが、私たち人間のクリエイティビティ(創造性)の根本って、そういうところにあるんじゃないか、と思うのです。

 

「かいめい」の船員の皆さんの技術継承と日々の創造の結晶を、思いもよらず、こんなかたちで目にできたことは、私にとって本当に楽しく、うれしいことでした。

 

調べてみたところ、2014年の施設公開の際には「花毛布」体験ができるブースも存在していたとのこと。ぜひ次回以降、どこかで「花毛布」が体験できたらいいなぁ…!と思わずにいられません。

*1:2014年の施設公開の際には、「花毛布体験」ができたらしい。やってみたかった…。

芸術祭遺産の風景~「いちはらアート×ミックス2017」

今週のお題ゴールデンウィーク2017」。

 

2017年4月8日(土)から5月14日(日)にかけて千葉県市原市南部エリアで開催されている「いちはらアート×ミックス2017」に行ってきました。

ichihara-artmix.jp

 

 

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「いちはらアート×ミックス」は、2014年に第1回が開催されて、今回は2回目。

その間にも、IAAES[旧里見小学校]で展示が行われていたり、市原湖畔美術館で地域イベントやワークショップを同時開催するような展示が行われていたりすることもあり、なんだかんだと毎年、市原には足を運んでいるような気がします。

そのため、今回が第2回目と聞いたときには、「まだ2回目だったのか」という気持ちでした。

 

2014年に開催された「いちはらアートミックス2014」から今回までの経緯や、開催内容の違いについては、こちらの産経ニュースの記事に詳しく書かれているようです。

www.sankei.com

 

■市民参加を刺激

イベントの開催は、森遊会をはじめとする地域の活動を刺激するのも狙いの一つだ。内田未来楽校も地元で「報徳の会」という会ができ、活動拠点としている。イベントの実行委員会には、アートを通じて地域住民の参加意識を喚起し、町の活性化につなげたい思惑がある。

 

実は、3年前の芸術祭は集客に苦戦し、目標の半分にも達しなかった。実行委によると、プロのアーティストによる出展だけだった前回の反省から、今回はイベントのあり方を練り直したという。開催期間も予算も圧縮し、その分「市民がヒーローになる芸術祭」とうたって地域の積極参加を促す。ワークショップを予定するなど、都会と里山の交流を図れるような「仕掛け」を多数企画している。

 

開催期間と予算の圧縮、そしてプロのアーティストによる出展を重点化することへの反省から企画が練り直されたためでしょうか。

今回の「いちはらアート×ミックス2017」の広報では、「市内外の芸術家ら三十一組が、市内七つのエリアで絵画や造形物といった多彩な現代アート約四十点を展示」(東京新聞)といった数値をよく目にするのですが、その多くが「いちはらアート×ミックス2014」のときに展示されたものであるようです。

 

もちろん、前回終了後に「残したい」という市民からの声がわき上がり、地元の人たちが保存団体「森遊会」を結成して保存に努めてきたという《森ラジオステーション》(上記産経新聞の記事より、p2)や、同じく地域の人たちが「報徳会」という団体を結成し運営を行ってきた「内田未来学校」など、前回の展示を受けて新たな活動が巻き起こり、それが部分的にリニューアルされるかたちで、あるいは市民による保存活動の成果として展示にいたることは、ひとつの地域アートの成果の展示のかたちであるといえるでしょう。

 

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けれども、それをもって「31組の芸術家が参加」と言ってしまってよいのかどうか、という問題は、また別であるのではないでしょうか。

「いちはらアート×ミックス2017」のフライヤーを見ると、「森ラジオステーション」は、作家名「木村崇人」で、作品名が「森ラジオステーション×森遊会」となっています。

市民団体は、はたしてアーティストである木村崇人さんの「作品」なのでしょうか?

そして木村さんが2014年に創作した作品を、森遊会の方々が保存し続けたことで、2017年の「いちはらアート×ミックス」でもそれを鑑賞できることをもって、それを「1組のアーティストが参加」と記載しうるのもなのでしょうか。

 

同じことは、市原湖畔美術館のKOSUGE1-16《High-Ho》《Toy Soldier》、アコンチ・スタジオ《Museu-m-Stairs/Roof of Needles & PIns》、クワクボリョウタ《Lost Windows》、木村崇人《星ぶどう》にも言えるでしょう。

おそらく、「いちはらアート×ミックス」の予算の中で制作された作品だからこそ、今回の「参加作品」としてカウントされているのかもしれませんが、前回の「いちはらアート×ミックス」以降、何回か、市原湖畔美術館に足を運んだことのある私のようなものにとっては、美術館の常設作品のようなものに見えます。

それが今回の「31組の芸術家が参加」の中に入っているというのが、わたしにとっては違和感がありました。アーティストが「参加」するというのは、ただ、かつていつか制作されたものが見られるという、それだけの状態のことを意味しているのでしょうか?

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わたしは、プロのアーティストの出展への比重を見直し、市民参加のための企画に舵を切ることを批判する気持ちはまったくありません。

むしろ、「いちはらアート×ミックス」が、地域の人にとって意味のあるアートイベントになるためには大切な第一歩と考えています。

しかしそうであるのであれば、なぜ「31組の芸術家が参加」などと言ってしまうのでしょうか?

地域の人々の営みの成果を、作品名の中に押し込めたりしてしまうのでしょうか?

私には、そのことがわかりませんでした。

 

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「市民がヒーローになる芸術祭」を謳おうとしながらも、それがチラシにも新聞やニュース等の記事にも、ほとんど表に出てきておらず、実態とずれたかたちで対外的な文言が横行してしまっている印象はぬぐえません。

そして、「市民がヒーローになる芸術祭」のなかで、アーティストたちはどのように位置づけられるのか、という点も不明瞭なままです。

しかしそんな状況であるにもかかわらず、限られた予算の中で、「市民がヒーローになる芸術祭」の中での作品のありかたを模索し、そのひとつの答えとしての作品を展示しているアーティストたちの作品は、地域でのアートの在り方についてそれぞれの視覚で問いを投げかけるようなものになっていたように思います。

 

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そして、彼らアーティストたちが、まさに、「いちはらアート×ミックス2014」から続くネットワークや関係性のなかで見いだされ、招聘されていることも、とても重要な事実であるようにも思います。

 

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彼らアーティストたち自身が、前回から受け継がれた大きな遺産のひとつであるわけです。

「心理カウンセリング」の名のもつパワー―ココロゴトcafe@渋谷

東京メトロ副都心線東急東横線「渋谷」駅。

13A出口のエレベーターから地上に出て、右に曲がること徒歩1分(もかからない)のところに、「ココロゴトcafe」という、不思議な雰囲気のカフェがあります。

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「ココロゴトcafe」とは、一般社団法人プロフェッショナル心理カウンセラー協会(略称:聴くプロ協会)が開いているカフェ。

www.kikupro.jp

「聴くプロ協会」の活動内容の中には、「高い資質を備えた熟練の心理カウンセラーに活動の場を創造するサポート」があるようなので、おそらくその試みのひとつとして、心理カウンセラー+カフェ=「ココロゴトcafe」が構想され、このようなかたちで実現されているかな、と推測。

 

渋谷の中心部にある商店ビル街の中、しかも駅出口から徒歩1分もかからない好立地にもかかわらず、都会の喧騒にそぐわない、不可思議なオーラを纏っているためか、あるいはゴールデンウィーク中日の平日の午前中だからなのか、渋谷の駅前にいるとは思えないほど、静かで落ち着いた雰囲気。わたしが来たときにはお店の中には、数名のお客さんがいるのみでした。

 

わたしは、研究関係のミーティングのための待ち合わせで利用したのですが、「待ち合わせなんですが…」との一声に、何から何まで、配慮と心遣い、ちょっとした労りの気持ちにあふれたご対応をいただき、そのひとつひとつに、、心をうたれました。

 

カフェが事前注文・支払い方式だったので、「外で待ち合わせて、2人そろってから入ったほうがいいですか?」と尋ねたところ、即座に「注文しなくても、中でお待ち合わせしていただいていいですよ!」とお声がけいただいたり。

結局、カフェラテを頼んで中で待ち合わせをさせていただくことにしてテーブルで待っていると、「ハート」のラテ・アートが描かれたカフェラテが届いたり。

 

そして、あまりにラテ・アートの「ハート」がもったいなくて、口をつけられずに眺めていたら、スタッフの方が近くにあるスケッチブックを手にとって、「ここに来られた方がこうやって自由に絵を描かれるんですよ。よかったらお待ちになる間にご覧になってください」とスケッチブックを手渡してくださったり。

待ち合わせていた方がいらっしゃった途端に、「お話ししやすい席に移動されますか?」とお声がけいただいたり。

 

そんな労りと優しさあふれる声にみちびかれて、地下に入ってみると、「カフェ」というよりは、「プレイルーム」といったほうが良いような部屋が広がっていました。

棚には、たくさんの小さな人形が置かれ、各テーブルの近くには、小さな色えんぴつセットとスケッチブックが置かれています。 

 

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 …そんなひとつひとつの言葉かけ、カフェのなかにあるひとつひとつのものが、「わたしがここにいること」を肯定的に受け止めてくれているように感じます。

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