kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

文学者にまなび、あそぶ!現代メディアの文章表現~『メディア・リテラシーを高めるための文章演習』

酒井信(2019)『メディア・リテラシーを高めるための文章演習』(左右社)を読みました。

わたしが担当している「初等教科教育法(国語)」の中で、ある学生たちのグループが「炎上」をテーマにした模擬授業を考えたい! と言っていて、その学生たちと「どんな炎上ツイートを教材にしたらよいか」について相談していた時期に、たまたま書店でこの本の帯(「炎上しない技術と文章力」)を見つけ、「これは、あの学生たちの参考になるかも」と思い、本書を入手しました。

このような経緯があったこともあり、わたしにとって本書は、「炎上しない文章術」について書かれた本というイメージがあったのですが、全体を通して読んでみると、「炎上」について取り上げられているのは、主に、はじめの2回分(「第1回 個人のネット炎上パターンとその予防策・善後策」と「第2回 企業のネット炎上パターンと情報メディア・リテラシー」)だけ。第3回に「メディアの基本理論を踏まえた文章表現とメディア・リテラシー」があるものの、基本的には、大学初年次生向けのアカデミック・リテラシーのテキストである。

そういう意味では、「内容紹介」で、「「企業のSNS担当者」「ビジネス・パーソン」におすすめ」と書いてしまうことには、少し違和感がある。

本書の「はじめに」にあるように、「現代的なメディア・リテラシーを高めるための教育と文章作成の教育を組み合わせた」、大学初年次生向けの基礎教育テキストと位置づけたうえで、その内容のいくつかが、「企業のSNS担当者」「ビジネス・パーソン」にも有用でありうる、というほうが正確であるように思える。

 

そんな実用的な側面よりなにより、本書の面白さは、「炎上」対策をはじめとした「現代的なメディア・リテラシー」と、文章作成教育の組み合わせ方、その独特なアプローチにあるように思う。

本書の著者は、『最後の国民作家 宮崎駿』(文春新書)や『吉田修一論 現代小説の風土と訛り』(左右社)の著者である酒井信氏。メディア論の専門家でありながら、文芸批評家でもある酒井氏による「現代的なメディア・リテラシー」と、文章術とのつなぎ方が非常に独特で、興味深い。

 

その「つながり」に用いられているのが、文学者によるテキストである。

たとえば、本書の第4回・第5回では「コミュニケーション能力を高めるための文章表現」として、三島由紀夫の『レター教室が取り上げられている。

 

三島由紀夫『レター教室』が「今日の価値観に照らし合わせて考えると、古さを感じる表現もあるが、全体として小説や戯曲のようでありながら、社会批評や実用書でもあり、手紙に限らずメールやSNSを用いたコミュニケーションにも応用可能な内容が含まれる」(『メディア・リテラシーを高めるための文章演習』、p63)と紹介され、『レター教室』における三島の文学的表現にならいながら、「感情を豊かに表現する文章」「頼みごとをする文章」「断る文章」「よく知らない相手に対する文章」をトレーニングするという流れである。

この「演習」では、実際に、三島由紀夫の文学的表現(としかわたしには思えない)にならって、文章を書いてみる活動が示されている。たとえば、次のような三島のテキストにならって、ワークシートの空欄を埋めるかたちで「お金を借りる文章表現」を完成させるというような活動である。

 

…(前略)

 青春のバカバカしさに対して客観的な立場に立つことのできる、知性ゆたかな人が、それをまるで、庭土の上に戸惑うアリのようにながめながら、軽蔑と気まぐれから、一つまみの砂糖を投げ与えるように、お金を貸してくれることを夢みています。

…(後略)(三島由紀夫「借金の申し込み」『レター教室』)

 

これにならって、学習者たちは、「あなたのように(1      )人が、私をまるで(2     )のようにながめながら、(3      )のようにして、お金を貸してくださることを夢みています」の空欄を考える。

自分と相手との過去・現在・未来にわたる関係性を考えること、そしてユーモラスに表現すること、がここで求められるポイントである。

このような三島由紀夫のテキストにならった演習が続いたあとに、「第6回 メールの文章表現と基本的な敬語の使い方」が続く。

 

2019年8月1日に開催された日本学術会議によるシンポジウム「日本学術会議公開シンポジウム 「国語教育の将来:新学習指導要領を問う」をはじめ、高等学校学習指導要領の改訂によって、「文学」の定義がより狭隘なものになるのではないか、という懸念が、文学関係者から寄せられている。

「文学的文章」が「実用的文章」「論理的文章」と並ぶひとつのカテゴリーとして示され、まるで、「文学」とは「論理的」でないもの、「実用的」でないものと位置付けられてしまっているようだ。

この懸念が、はたして「懸念」でしかないのか、あるいは、高等学校学習指導要領の改訂によって、あるいは、その先の実践の展開によってそれが現実化してしまうのかどうかは、まさに、今ここから、私たちが「文学」をどのようなものとして実践していくのか、にかかっているように思う。

本書は、「メディア・リテラシー」という名で、また「(実用的な)文章表現の技術」をまなぶためのテキストとして、文学者によるテキストを位置付けた点で、私たちが今後、この問題について考えていくための実践的な示唆を与えてくれる。

 

それに比して、「炎上」を取り上げた第1回~第2回でとりあげられる事例では、日本ディズニーの公式Twitterアカウントによって、2015年8月9日にツイートされた「なんでもない日おめでとう。」などが、単に「公共性を損ね、社会常識に反する書き込み」と評されており、そこで生じていたコミュニケーション上のトラブルを、送り手、受け手、社会・文化的背景などの視点から分析的にとらえるような記述はなされていない。

nlab.itmedia.co.jp

もちろん「演習」として、これらの炎上事例について、学習者に自分の考えを書かせる課題はある。けれども、炎上事例を「社会常識に反する」「公序良俗に反する」といったかたちで断罪してしまう姿勢は、従来の情報モラル教育やネットリテラシー教育にありがちな、教条主義的な姿勢と通ずるところがあり、残念に感じてしまう。

文学者テキストにまなぶ文章表現が、ユーモラスな表現によって、固定的な関係を解きほぐしていくようなものであっただけに、そのような学習と、炎上事例をもとにした現代的なメディア・コミュニケーションの学習とをうまく接合することはできないものだろうか。

おそらく、これについて考えていくのは、本書を読んだ私たちに託された、次なる仕事なのかもしれない。

 

「好奇心(curiosity)」と「質問をすること(Asking questions)」~Raquell Holms「STEAM教育へのパフォーマンス・アプローチ」

筑波大学東京キャンパスで行われた、「インプロサイエンス(Improvscience)」のRaquell Holms先生によるセッションに参加してきました。(以下、Dr. Raquell Holms「STEAM教育へのパフォーマンス・アプローチ」案内より)

 

「STEAM教育へのパフォーマンス・アプローチ」

インプロ・サイエンス(improvscience)の代表・創設者で、イーストサイド研究所(East Side Institute)のアソシエートでもある、ラクエル・ホルムズ(Raquell Holms)さんが東大Global Faculty Development Initiativeでの講義のために来日されます。来日中にパフォーマンス心理学、パフォーマンス・アクティビズムの研究者、実践家と話しがしたいということで、以下のようなセッションが実現しました。ぜひご参加下さい。

 

ラクエル・ホルムズ(Ph.D)は、インプロやパフォーマンスをもちいて、科学研究コミュニティーの成長にアプローチする方法開拓のパイオニアです。もともとはタフツ医大やハーバード医科大で細胞生物学者として訓練を受けましたが、現在は計算科学ならびに高度計算技術領域で仕事をしています。ImprovScienceの創設者として、イーストサイド研究所での人間の発達と成長に関するトレーニングを協同的学習と研究の環境制作に利用しています。ワークショップや、プログラム開発、講演を通じて、米国各地の科学者が学問領域や文化の壁を超えて、研究者能力の成長と拡張を手助けしています。彼女派、現在Adjunct Research Associate Professor at the Simon A. Levin Mathematical Computational Modeling Sciences Center at Arizona State Universityです。又2019年6月のニューヨーク市大Stony Brookでおこなれた、Applied Improvisation Network Conferenceのキーノートスピーカーでした。

 

「インプロ(即興)」「パフォーマンス」×「サイエンス」というと、どうしても米国科学振興協会(AAAS)の「博士号を踊ろう(Dance Your PhD)」を 思い出してしまうわたしです。

www.sciencemag.org

 

…が、今回の話ではもっと「科学の本質(nature of science)」に迫ったインプロの導入についての話を聞くことができたことが、とても面白かったです。

 

そこで、キーワードになっていたのは、「好奇心(curiosity)」「質問をすること(Asking Questions)」。

 

たとえば、「質問をすること(Asking Questions)」に関しては、次のようなアクティビティが紹介されました。

 

◎質問をする(Ask Questions)

[1]できるかぎりたくさんの質問を見つける

自分たちがいる部屋の中を見渡して、できる限りたくさんの「質問(Question)」を見つける。

(例:「あのライトはどうして光っているんだろう?」「このプロジェクターはどのように吊り下げられているんだろう?」など)


[2] 他の人が見つけたQuestionに付け足していく
・他の誰かが言った質問に付け足すかたちで、質問をしていく。

 

 このアクティビティによって、他のメンバーに対して注意を払いつづけていくことができる、とHolmz先生は言います。間違えることに対する恐怖を取り除いたり、自分では思いつかなかった質問を思いつくきっかけを得たりすることができるのだ、とも。

もちろん、このアクティビティは「好奇心(curiosity)」ともつながっています。特に[1]のアクティビティでは、それまでほとんど関心を払うことのなかった部屋の隅々にまで目を配り、そこに自分から積極的に好奇心を働かせようとしなければ、「質問」は見えてきません。また[2]では、他のだれかの質問に加えていくかたちで質問を考えなければならないので、自分がまったく注意を払っていなかった対象に対して、積極的に関心を持つことが求められます。

 

これまでほとんど関心にのぼらなったことに対して「好奇心」を持つこと、そして、それに対して「質問をすること」。

シンプルだけれども、これこそが「科学(science)」そのものだ、というHolms先生のアプローチは、とても印象的でした。

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科学未来館常設展「アナグラの歌」。好奇心をもっていろいろやってみることが、すてきな歌につながっていきます。

奇遇なことに、昨年度から今年度にかけて、複数回にわたり、国語科における「質問をすること」にかかわる授業の研究にかかわってきたこともあり、自分自身が学校における授業研究で取り組んできたことと、科学の本質とが、しっかりと結びついていたことを実感できたことも、非常にうれしいことでした。

 

パフォーマンス心理学の研究会に参加するようになってから、「インプロ」にしても「パフォーマンス」にしても、「こんなにいろいろ学んできているのに、自分では何も実践できていないなぁ…」と落ち込むことばかりだったのですが、あらためて、Improvisationの考え方と自分自身の仕事との重ね合わせ方について、じっくり考えていくための視点をもらうことができた研究会でした。

ノルディックLARPのミニゲームを体験しよう~『ノルディックLARP体験@TRPGフェス2019』

 今年のTRPGフェスでは、日本RPG学研究会(JARPS)のメンバーとして、「ノルディックLARP(社会・芸術的な教育LARP)体験」のためのシナリオ翻訳や当日の運営サポートなどに関わっておりました。

今回の「ノルディックLARP体験」の中で紹介されたのは、フェミニズムLARP集『#Femnism』より『パジャマパーティ(Slumber Party)』、『マニックピクシードリームガール特殊部隊!(Manic Pixy Dream Girl Commandos)』(以上、#Feminism: A Nano-game Anthlogyより)そして、『LARPS form the Factory』より『辺獄(リンボ)(Limbo)』でした。

kimilab.hateblo.jp

これのゲームの詳細については、上記の記事で紹介してありますが、このたび、シナリオライターの皆さんからのお許しを得て、これらのLARPゲームの日本語版を、オンラインで公開できることになりましたので、あらためて、本文リンク(PDF)とともに、それぞれのゲームの紹介をまとめておきたいと思います。

 

★『ノルディックLARP体験 TRPGフェス2019』(オンライン公開版・日本語翻訳版)(PDF)

https://www.b-ok.de/download/NordicLarpTaiken2019.pdf

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『ノルディックLARP体験 TRPGフェス2019』(日本語版)

 

◆シナリオ1:パジャマ・パーティー(ジョナヤ・ケンパー/作)(『#Feminism』より)

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『パジャマパーティ(Slumber Party)』

友達同士のつながり、思春期の成長、そして社会の中心から取り残された者として生きることについてのLARPです。 あなたは今、「何者」ですか?友達の手助けによって「何者」になれるのでしょうか?
各プレイヤーは、日々、社会から取り残された自分に直面しければならない、複数の女の子キャラクターを演じます(プレイヤー自身の性別は関係ありません)。キャラクターは全員12歳の「負け犬」です。けれども彼女たちには互いに築きあげてきた強いつながりがあります。彼女たちにとって、同世代の他の人たちから人気がないことは、重要ではありません。このLARPでは、彼女たちのうちのひとりの誕生日の日に集まり、パジャマ・パーティを開催するところからプレイがスタートします。彼女たちはパジャマ・パーティで互いの秘密を共有しあい、友情を深めていきます。

キーワード:大人になること、社会から取り残されたアイデンティティセクシュアリティ、人種差別、性差別、友情
プレイヤー定員:4~6名
プレイ時間:60分
持ち物:寝服・パジャマまたはホテルの浴衣を着て会場に来てください。

 

 

◆シナリオ2:マニック・ピクシー・ドリーム・ガール(MPDG)特殊部隊!(リジー・スターク/作)(『#Feminism』より)

 

「マニックピクシードリームガール」(MPDG)は、映画に登場する「お決まりのキャラクター」です。基本的に「ダメ男を元気づける、自由奔放な人生の恋人」と定義されています(「マニックピクシードリームガール」『デジタル大辞泉』)。

プレイヤーの演じるキャラクターはSTEM(科学、技術、工学、数学/医学)の分野で働きたいと思っている女性(キャラクターは女性ですが、プレイヤー自身の性別は関係ありません)。しかし、彼女には、自分自身の選んだ分野で大学院に通うだけの金銭的な余裕がありませんでした。しかし軍隊が、大学院教育のための費用を支払ってくれるというので、彼女は軍に入隊することを決心します。軍の上官は、彼女を「マニックピクシードリームガール特殊部隊(MPDG特殊部隊)」に任命しました。このLARPでプレイヤーたちは、MPDG特殊部隊チームの最後のミッションをプレイします。ミッションに成功すれば、服務期間を終えて、民間人としての生活に戻り、希望する大学院に学費免除で進学することができます。

もし失敗したら?――ああ、なんてことでしょう!このチームには、失敗なんて言葉はないのです!

キーワード: ひらかれた場、見知らぬ人との出会い、チームワーク、荒唐無稽なミッション
プレイヤー定員:4~5名
プレイ時間:45分
持ち物:カラフルなウィッグやサングラス、パンクピンなど、元気な女の子キャラクターをイメージしたアクセサリー、セーラー服やミリタリー服などをお持ちの方は、ぜひ会場に持ってきてください。

 

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フラッシュモブ的なダンスまである!すごいLARPでした

◆シナリオ3:辺獄(リンボ)~忘れ去られた場所(トアー・シェティル・エドランド作)

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辺獄(リンボ)の案内人。プレイヤーは行き先チケットを提示されます

「辺獄(リンボ)」とは、キリスト教で、死後、地獄には行かないが、キリストの贖いによって救われるまでは天国に行けない人がとどまると考えられた場所。時空を超越した場所、生と死の間に存在するとされるこの場所が、このLARPの舞台です。再び命ある世界に戻るか、死の向こう側にある未知に直面するか、今までの人生について考える「待合室」です。キャラクターは、現代社会からこの世界へとやって来た、生と死との間をさまよう人たちの集団です。

キーワード:実存的選択、夢、未知への不安、精神性
プレイヤー定員:6~12名
プレイ時間:120分
持ち物:白色・淡色系のTシャツとハーフパンツなど、生と死の間にあるどこでもない場所(忘れられた場所)をイメージした衣服、または死者をイメージできる衣装(白い着物・浴衣)を着て会場に来てください。

 

プレイヤーの皆さんからのレポートや感想については、こちらのtogetterまとめをご参照ください。わたしもおいおい、気づいたことをブログにまとめていきたいと思います。

togetter.com

治癒のための言葉と、身体と言葉の間にある矢印~ボディトークと『身体(ことば)と言葉(からだ)』

体型や食べることへのこだわりが強く、ふつうに食べられない日が、1年以上続き、仕事や人間関係にも影響が出てくるようになってしまったので、「なんとかしなければ」と一念発起。「ボディトーク(body talk)」の施術を受けてみることにしました。

漢方や針灸、マッサージなど、西洋医学に基づく医療とは異なる医療法は、すべてひっくるめて「オルタナティブ医療」「代替医療」(alternative medicine)と呼ばれていますが、「ボディトーク」もそんなオルタナティブ医療のひとつ。

 

そんな「ボディトーク」のことをわたしは知ったのは、おそらく、大学の授業で「東洋医学入門」のような授業を受けて、オルタナティブ医療についていろいろ調べた時期だったんじゃないかと思います。

創設者が、カイロプラクターや鍼灸師の資格者だからかと思いますが、基本的にはそのあたりの東洋医学的な理論をベースにしつつ、いろいろなオルタナティブ医療の言葉をぎゅぎゅっと一気に詰め込んで、凝縮した感じがすごい。Body Talk Japan Associationのホームページにぼんやり画像が掲載されているこちらの図を見るだけで、その「ぎゅぎゅっと凝縮」感が伝わるのではないかと思います。はじめて「針灸経絡経穴図」を見たときも感動したけれど、それが言語になっているせいか、わたしにはそれ以上の感動がありました。この画像のボックスひとつひとつにびっしりと、複数の医療モデルから導きだされ言語が並んでいて、これを見ているだけで面白い。

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ボディトークの施術は、この「プロトコルチャート」に基づいて、セラピストが言葉や身体反応を通じて、修復箇所を特定し、そこにフォーカスして損傷の行われた部分を回復するためのタッピング(手で特定箇所をタップしていく)を行っていく…という流れです。(詳細は、こちら

 

もともと、ボディトークが、様々なオルタナティブ医療の理論や用語を組み合わせてその独自の理論を作り上げているせいか、そしてその集大成である難解かつ複雑な「プロトコルチャート」があるせいか、いろいろなところの評判を見ていると、セラピストによってその施術の内容が異なる…というのがネックなようです。仕方がないのかもしれないけど、かなりスピリチュアルに寄ったり、カイロプラクティックに寄ったりしたりもするみたいです。それはそれで、どんな違いがあるのか知りたい気もしますが…。

 

そんなこともあり、興味はあるけれどなかなか一歩踏み出せずにいたのですが(オルタナティブ医療は、保険がきかないので高額になりますしね)、偶然にも、「言葉」に対する感性をもってボディトークに接していらっしゃる(と思われる)セラピストの情報を見つけて、「よし、ここに行ってみよう!」ということで行ってみた、という次第です。

(…そして、そのときはなんとなく、ブログなどで使われている文章からそう思っていただけだったのですが、セラピーを受けた数週間後に「ことばを増やす」という記事をアップされていて、しかも、『感情ことば選び辞典』を購入した、という記事でとてもビックリしました)

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クリスチャン・ボルタンスキー《白いモニュメント、来世》

 8月上旬に1回、そして9月中旬に1回、施術を受けたのですが、2回の施術を通じてわかってきたことは、「これは自分の身体を感知したり、それを整えていくための手がかりとしての言葉を探していく作業である」ということでした。

プロトコル・チャート」に記載されている無数の用語たち(そこには、日常用語から、オルタナティブ医療や東洋的なエネルギー理論の用語までいろいろな用語が並んでいるわけですが)は、その言葉探しのためのきっかけ、手がかりに過ぎない。むしろ、そのきっかけや、手がかりを、どのようにセラピストととともに言語化し、ストーリーを編み上げていくことができるか、そして、そこで編み上げられた言語をベースにしながら、ふたたび日常を過ごすなかで、身体の状態を感知し、そこで現れる反復的なパターンを捕捉するための言葉を自ら見出せるようになるか。

それが、ボディトークの肝であるように、わたしには思えました。

 

身体(ことば)と言葉(からだ)—舞台に立つために 山縣太一の「演劇」メソッド』(新曜社)の中に、「身体と言葉の間にある意識の矢印」について書かれた節があります。

に普通に雑談しているときの様子をビデオに撮影し、それを再現するために繰り返し稽古をしていたときに、再現したい動きに対して言葉を当ててみた、というエピソードです。

…とりあえずその特徴をおさえた言葉を当ててゆくのはどうだろう、と思いつきました。たとえば手をゆっくりと広げてゆくしぐさが映像に映っていた場合、それにとりあえず「腕バード」という名称を与えて、動きを言葉として認識してみる。

その言葉自体は発話しないのですが、その言葉を動きに与えて、動き自体を言葉で分割して、一度明確に「振り付け」として捉える。いわば、ぜんぜん知らない他人から与えられたもののように、それを踊ってみる、というやり方です。

録画されたときはもちろん、そんな「言葉」も「振り付け」もないわけですけれど、繰り返しその時の動きを再現するということを試みたときに、「言葉」で自分の動きを自覚して、分割して再構築したほうが、映像の情報量に近づけるように感じたのです。(『身体(ことば)と言葉(からだ)—舞台に立つために 山縣太一の「演劇」メソッド』、新曜社p107)

 

ボディトークでは、それこそ、膵臓や大腸など内臓を含む身体の部位にも、その損傷を治癒するための言葉も編み出されていきます。

そのような、ふだんは意識していない部位に焦点が当たることもあり、わたしは自分が経験しているボディトークのプロセスと、本書のなかで山懸さんが論じている役者の身体×言葉論との、奇妙なつながりを感じています。

 

だれかの助けを得ながら、自分の身体の状態を語るための言葉を見出したりしていくこと、それによって自分がどのように変わっていくのか。その変化のプロセスを、ひとつの「個人的実験」として試しています。

見える/見えないの個性と偏りと~視覚に障害がある人との鑑賞ツアー「セッション!」

大竹伸郎 ビル景 1978-2010」展の企画のひとつとして開催されていた、視覚に障害がある人との鑑賞ツアー「セッション!」に参加してきました。

そのときに、「セッション!」ナビゲーターの白鳥建二さんがすでに、ノンフィクション作家の川内有緒さんたちと大竹伸郎展をいっしょに見る会をやっていたらしい、と聞いたので、『ハフィントンポスト』の記事(全盲で美術館を楽しむ白鳥さん。「見えないから大変」の言葉がしっくりこない | ハフポスト)を楽しみにしていたのですが、わたしが期待していたような、当日のやりとりはあまり(ほとんど)レポートされていなかったので、残念でした。

www.huffingtonpost.jp

川内有緒さんの『note.』には、フィリップスコレクション展@三菱一号館美術館

を見にいったときのエピソード(目が見えない白鳥さんとアートを見にいった。)

とか、「100年の編み手たち」展@東京都現代美術館を見に行ったときのエピソード(

目の見えない白鳥さんとアートを見にいった vol. 2)が書いてあって、こちらの方が面白い。

一方で、ここで語られている経験は、やっぱり「セッション!」での経験とは違うので、わたしは「セッション!」のことをきちんと書いておこうと思う。

 

「セッション!」の広告ページを見ると、「全盲の白鳥建二さんをナビゲーターに、見える人と見えない人が一緒に展覧会を鑑賞するツアーです。」というなかなか曖昧な書き方がされているので、なんとなく、10名なら10名、みんなで一緒に、白鳥さんと対話しながら見る鑑賞をするようなイメージをするのではないか?と、勝手にドキドキしているが、……それは、違う

参加者数によっては、そういう時もあるのだと思いますが、そうでないときもある。

「見える人と見えない人が一緒に展覧会を鑑賞するツアーです」としか言いようのないゆるやかさがあって、わたしは、それが、すごく好き。

 

いわゆる「ガイド」として、美術館に精通した「プロ」の視覚障害者の方が、美術館やアート作品を案内する…というかたちのものも見るけれど、なんだか、それは、日常的に支障なく「見える人」が視覚障害者をガイドしてあげる、サポートしてあげる…というような福祉系(?)ツアーと表裏一体のような感じがしていて、「それはなんか、違うな」って思う。

だから、伊藤亜紗さんの『見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)の記述には、うんうんと頷きつつ、それでもどこか、白鳥さんが「スーパー障害者」になってしまったようで、なんとなく違和感が残ってしまう。

 

「セッション」には、プロのガイドが、必ずしも存在しない。

「ナビゲーター」としての白鳥さんはいるけれど、実際に展覧会を見る段階になったら、白鳥さんは「視覚に障害がある人」のうちのひとりになる。

 

たとえば、今回であれば、定員10名中、中途視覚障害弱視の方がいらっしゃったので、以下の2チームにわかれた。

  1. 【A】白鳥さん(全盲)+日常生活に支障ないくらいには見える人たちのチーム
  2. 【B】弱視の方とその配偶者の方,そして日常生活には支障ないくらい見える人たちのチーム

そうすると、【A】チームでの鑑賞の体験と、【B】チームでの鑑賞の体験は、すごく違ってくる。

すこし想像していただければわかると思いけれど、生まれたときから全盲(かつ、美術館にはめっちゃ行き慣れてる)白鳥さんと、アート作品に対して話す、という経験と、人生のどこかで視覚に障害をおって弱視(よく見えないけれど、ぼんやりとは見えている)方とお話しするのとでは、全然、違う。

さらにいうと、視覚に障害のある方の美術館経験、アート作品を見たり話したりする経験も、アート作品に対する欲求(どういうふうに楽しみたいか)もさまざま。

 …なのだけど、これが面白いし、ここが好き。

 

今回は、さらに、面白い体験ができて、自分の中で「見えるってなに!?見えないってなに!!??」という問いが巻き起こる、エキサイティングな体験ができた。

 

というのも、わたしがいた【B】チームは、ご夫婦でよく美術館にいらっしゃって二人で作品についてけっこうお話されるらしいご夫婦(お一人は中途視覚障害弱視)と、視覚に障害はないけれどほとんど美術館に行ったり、アート作品を見て語ったりする経験がないと自称される皆さま(高校生含む)だったので、だれが「アート作品を見て、語れるのか」という答えを見出すのが、かなり難しい状態になった。 

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対話しながら鑑賞した大竹展の作品。複数の都市の姿がこの中に見える

たとえば、1つ目の作品を見ながら、「さあ、お話ししてみましょう!」という段になったとたん、何をどう見て語ったら良いわからず、ぴきーんと固まる参加者の皆さん。

一方、絵画作品の前をご夫婦で横移動しながら、「これは〇〇かしら」「これは〇〇に見えますね」「みなさんはこの作品好きですか?」と、いろいろお話をしてくださる「視覚に障害のある人」。

 

ようやく、みんなでいろいろあーだこーだと話しはじめたものの、この会話を見て、どの人が「見えていない」かなんて、わかる人はいるのだろうか…?

 

わたし「左側に、2本、孤を描いてる線があるので、これは高速道路ですかね」

Aさん「だとしたら、ここにあるのは、料金所ですね」

わたし「料金所!たしかに高速にあるし、これは料金所ですね」

Bさん「えー。わたしはこれ、バスの停留所なのかなって思いました」

わたし「バスの停留所。あ、たしかに。さっき、この高く書かれてるやつはビルだという説と、煙突説がありましたけど、煙突説だとしたら、ここの平面は低いはずだから、バスの停留所って可能性もありますね」

(みんなで、見る。わたし、作品向かって左側にいるCさんの近くまで移動)

Cさん「…わたし、ここ漁港みたいなところかなって思ったんですよね」

わたし「む!たしかにさっき、あっち(右側)にいたときはそう思わなかったけど、こっちから見ると、この部分が凹んでプールとか海みたいに見えるから、漁港説あるかも。築地みたいなかんじですよね。あれが市場で。」

Cさん「そうそう」

 すると、それまで、あまり何も話さないままでいた高校生が、「わたし、この英字新聞っていってたの…マスキングテープだと思ってたんです…」とぼそりとつぶやいたりして。

 

こんなやりとりを重ねた結果、「視覚に障害がある人」として参加していた方が、「この絵って、見る人にもなんだかわからない『判じ絵』みたいな絵なんですね」…とおっしゃっていたのが印象的だった。

この方は、最後の振り返り会のときにも、「見えるとか、見えないとか関係ないんだなって。見える人も見えない人も、みんなで、これは何だろうとか考えて、いろいろ言い合えたのが新鮮でした」というようなことをおっしゃっていて、あらためて、「見える」ってなんだろう?と、考えさせられた。

 

結局、当たり前だけど、見える/見えないを区切る境界なんて、だれかが勝手に作ったものでしかなくて、抽象的なアート作品に向き合ったとたんに「何が、そこに見えますか?」ときかれて固まってしまうのも、高校生に「英字新聞」が「マスキングテープ」にしか見えないのも、わたしに「マスキングテープ」が見えないのも、みんな「見えない」のは同じなんじゃないかって。

 

視野が狭かったり、弱視でぼんやりした見えであるからこそ見えてくる「料金所」もあれば、毎日立ち寄る100円均一ショップで見るからこそ見えてくる「マスキングテープ」もある。結局、そこにあるのは、単なる、見え方の個性というか、偏りというか、そういうものでしかない。

 

そういう意味では、わたしにとっては、視覚に障害がある人との鑑賞ツアーである「セッション!」も、高校生や大学生たちと一緒に展覧会を見てそれを言葉にしてみる「書く。部」も、ボランティアトーカーさんと一緒にみるギャラリートークも、白鳥さんといっしょに見る会も、アーティストトークも、キュレータートークも…、すべてが、同じ平面上でつながりあっている。

 

みんなに見えるものがあって、みんなに見えないものがある。

だから、まさに「群盲、象を評す」のことわざどおり、みんな「見えない」から(それは、アーティストも、キュレーターも同じ。だって、アートの価値なんて未知数だもの!)「見えない」ながらに、「見えない」まま、自分がキャッチしたことを、あーだこーだ言い合って、それを重ねながら、はじめて、みんなの力で、何か見えてくる。何かが創造され、「評する」ことができるようになってくる。

そういう経験がもつ質感を、もっと丁寧に語る言葉をもちたいな、と思えた時間だった。

 

ちなみにこの写真は、同じく大竹展を見ているときに出会った、(わたしにとって)「見えない」作品。

展示室全体が暗くて、それに対してライティングの当たり方が強かったせいもあるのだけど、「見よう」と近づけば近づくほど、ガラスに自分や周囲の風景が反射してしまって、その作品の色がまったくわからなくなる。

何度か、「どの位置で見るといいんだろう?」と思って、なんどか、近づいたり遠ざかったりしながらこの作品を見ていたけれど、結局、自分の中で答えが見出せず、スタッフ(フェイスさん)に、「これ、どこで見たら一番、正しいんですか?」と聞いてみたり、近くをたまたま通りかかった友達(水戸だとよくある)に聞いてみても、まったくわからなかったので、いまだに、わたしはこの作品が「見えなかった」と思っている。

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「見えない」作品。どこから見るのが正しいのか、いまだにわからない

美術館で、アート作品が「見える」ってどういうことなんだろう。

そもそも「見える」ってなんだろう。

やってみよう!TRPG型物語創作教材『物語の世界を旅しよう!』

昨年度、電気通信普及財団による助成研究「デジタルメディア社会における「情報活用能力」育成に向けた基礎理論の構築」(共同研究)PDF)成果を踏まえたTRPG型教材の制作を遊学芸・保田琳さんに依頼し、2019年3月に、その成果物である物語の世界を旅しよう!を世に出すことができました。

…が、その後、なんのフォローもできないままにいたところ、なんと有志の方が、『物語の世界を旅しよう!』収録のサンプル・シナリオ「仕事のできない木こり」を使ったリプレイ動画を制作してくださいました。

…ありがたすぎて、言葉がありません!


【物語の世界を旅しよう】仕事のできない木こり【ゆっくりTRPG】

 

あまりに、ありがたすぎて言葉を失い、さすがに自分で何もしなすぎだろう!と反省したので、『物語の世界を旅しよう!』の経緯と、その教材としての可能性について考えることをブログに書きたいと思います。

なお(動画中でも触れていただいてますが)『物語の世界を旅しよう!』は、YNUリポジトリから全文ダウンロードできます。遊学芸ホームページにもリンクをはっていただいています。linedline.wixsite.com

さて、もともとこの共同研究プロジェクトは、英国におけるメディアリテラシー教育の近年の動向とそれを踏まえた研究・実践の知見を整理し、日本における今後の教育のありかたへのに結び付けようというものでした。

英国におけるメディアリテラシー教育については、電子書籍(EPUB/PDF)として無料公開した、アンドリュー・バーン(2019)『19歳までのメディア・リテラシー』(ratik)や、その理論編ともいえるアンドリュー・バーン(2017)『参加型文化の時代におけるメディア・リテラシー』くろしお出版)にわかりやすく整理されているので、そちらをご覧いただければと思います。

★『19歳までのメディア・リテラシー:国語科ではぐくむ読む・書く・創る』アンドリュー・バーン Andrew Burn 著/石田 喜美 奥泉 香 森本 洋介 訳

 

もともと、研究成果としてTRPG型教材を提案しよう!と思ったきっかけは、バーン先生がビックリするくらいゲーム好きだった(笑)ことと、『19歳までのメディア・リテラシー』第5章で紹介されている「ゲームのデザイン」の実践、さらにいうと、「ゲームの物語システム(ナラティブ・システム)」に関する学習に、わたしがいたく影響を受けたことにあります。

これについては、むしろ、『参加型文化の時代におけるメディア・リテラシー』第6章「ポッター・リテラシー」、第7章「ゲーム・リテラシーの方が詳しく書かれていますが、ゲームには、あるストーリーを語るための独自の物語システム(ナラティブ・システム)があるということ、それについて子どもたちが、実際のゲーム・デザインを通じて理解していく、という学習が非常に印象的でした。

ここで紹介されている事例は、下記の記事でも紹介した、ゲーム・オーサリングソフトの「ミッションメーカー」を通じたゲームデザインと、ゲーム制作を通じて学んでいくというものでしたが、ここで扱われているような「数量化・計算可能な物語」、「条件分岐によって進んでいく物語」のような、ゲーム特有の物語システムを少しでも感じられたり、そこから考えたりできるような教材は作れないだろうか、と考えました。

kimilab.hateblo.jp

そんなことをモヤモヤと考えているときに、遊学芸の『メイキングアレグ』のことを思い出しました。

単に用意された脱出ゲームを楽しむだけではなくて、脱出ゲームを作ることそのものが組み込まれている『アレグ(UREG)』。その仕組みを考えられてきた遊学芸・保田さんだったら、きっと、子どもたちがゲームならではの物語づくりを楽しみながら、その物語の語られ方の特徴や工夫に気付くような教材を作ってくれるのではないか、と思いました。

linedline.wixsite.com

そうしてできた教材が、TRPG型物語創作教材『物語の世界を旅しよう!』です。

本来の制作意図からすれば、まずは国語科教科書に掲載された教材に沿って、言葉で物語を「書くこと」をしたあとに、ゲーム(TRPG)として物語を「書くこと」をしてみて、その違いを比べてみてほしいというのが本音です。

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小学校国語科における物語創作教材

冒頭に紹介したリプレイ動画では、サンプル・シナリオ「仕事のできない木こり」が紹介されていますが、これは民話(童話)『金の斧 銀の斧』に基づいています。『金の斧 銀の斧』の物語の世界を旅するしかけであると同時に、メディア・リテラシー教材という視点からみると、言葉で語られた民話(童話)としての物語『金の斧 銀の斧』と、ゲームとして語られる物語とを比較できるしくみになっているわけです。

…とはいえ、なかなか一足飛びに「ゲームによって物語を『書くこと』」を、授業の中で行っていくことは難しいでしょう。

そうであれば、せめて、「総合的な学習の時間」や「クラブ活動」の中で、子どもたちの興味・関心に応じて、「ゲームづくり(TRPGづくり)」を楽しむというようなシンプルな目的で使ってもらえたらいいな、と思います。

また、『物語の世界を旅しよう!』には、サイコロを振って物語の舞台や登場人物を作成できる表が収録されているので、まずはこれだけを使って、ランダムに物語の舞台や登場人物の設定を作りだし、そこからどんな物語を創造することができるのかを国語科の物語創作の授業としてやってみる!…というのも単純に楽しそうだな、と思ってます。

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登場人物作成表

今回、作成していただいたリプレイ動画を拝見して、率直に思ったのは、「知っている物語の世界を自由に旅できるって楽しそう!」でした。

やっぱりこういうのを見ているだけで、わたしもやってみたくなるし、このリプレイ動画を見て、「サンプル・シナリオ増やしたい!」って思いました(笑)


【物語の世界を旅しよう】仕事のできない木こり【ゆっくりTRPG】

 

そんなわけで、ゲームや読書などをテーマにしたクラブ活動・部活動のアクティビティとしてやってみてもらえるのが、まずは入り口なのかな、と思っています。

小学生でも遊ぶことができるように、ゲームデザイナーとわたしと二人で、ひとつひとつの言葉を吟味してきた経緯もあるので、「小学生でもあそべるTRPG」としては、かなり使いやすいものになっていると思います。

ぜひ、いろいろな方に遊んでみてもらえたら、うれしいです。

 

※追記(2019/8/30)

公益財団法人電気通信普及財団1.情報通信に関する法律、経済、社会、文化等の社会科学分野における研究 | 」の報告書がアップされましたので、リンクを貼りました。報告書のPDFはこちらからダウンロードできます。

「デジタルメディア社会における「情報活用能力」育成に向けた基礎. 理論の構築―英国のメディア・リテラシー研究における近年の動向に着目して」(PDF)

パフォーマンス学習の場としての模擬授業をやってみた。

 

今日は、わたしが学部で担当している「初等教科教育法(国語)」の最終回でした。

「初等教科教育法(国語)」は、学部2年生対象の必修授業です。約240名を春学期2クラス、秋学期2クラスの計4つのクラスに分けて実施するのですが、現在はそれをすべてわたしひとりが担当しています。

このような状況なので、クラス規模が60名程度となり、そのままのクラス規模で模擬授業をやってしまうと、なかなか、自分自身の教師としての働きかけがどのように受け止められているのかを見たり、学習者の学習の様子を見とったりすることが難しいので、この授業を担当した当初から、30名×2クラス同時並行のかたちで、模擬授業を実施しています。そして、昨年度までは、ティーチング・アシスタント(TA)として手伝ってくれる大学院生がいたので、模擬授業を行う2~3回分の授業だけはTAの方に片方のクラスを見ていただいていました。

…が!!

今年度はついに、頼りにしていた院生たちがことごとく社会に出ていってしまい、TAなどのかたちでどなたかに手伝ってもらい、片方の教室を見てもらうことができなくなってしまいました。

そんなわけで、3月後半あたりから、「どうしよう~」とかなり頭を抱えていたのですが、そんな矢先に、紀伊国屋新宿本店で行われた「リフレクション(省察)で教師は育つ!」に参加し、(直接的にそんな話はなかったのですが)、渡辺貴裕先生の『授業づくりの考え方』(くろしお出版)で紹介されている「対話型模擬授業検討会」を、ロールプレイを通じて学生たちに経験してもらいながら、自分たちで模擬授業を進めていけるようにできないだろうか、という発想に至りました。

 

kimilab.hateblo.jp

 

kimilab.hateblo.jp

 

これは、わたしにとってはかなり大きな決断でした。

それまで、わたしのゼミに所属していたゼミ生から、「〇〇先生、模擬授業のときに授業に来なくかったんですよ~!」みたいな不満の声を聴くこともありましたし、学生たちの不満につながる危険性も十分にあると思いました。

でも、自分たち自身で、模擬授業をして、お互いの授業を見て、そこから学びあえるようになることは、省察的実践家としての教師を育てていくうえでは、大切なこと。

そうであるとすれば、学部2年生の段階で、どこまでできるかはわからないけれど、ともかく、自分の考えられる最大限の配慮をしながら、できるところまでやってみよう!と思い、今学期の授業では、“模擬授業をお互いにやってみて、話し合い、そこから学ぶ”という活動を、繰り返して体験できるようにしてみました。

はじめは、『授業づくりの考え方』で掲載されている事例のロールプレイを経験して、次には、2チームごとのペアになってお互いに模擬授業のための学習活動のアイデアをやってみる段階、それを2~3回繰り返して、最後のステージに、30名の学生たちを対象にした模擬授業をやってみる…という流れです。

 

1.対話型模擬授業検討会のロールプレイ

 対話型模擬授業検討会の記録映像Youtube上で公開されており、日本教師教育学会「学会企画関連企画報告書」のページにそのリンクと、その文字化資料が掲載されている報告書『「対話型模擬授業検討会の実現とそれをめぐって』(PDF)が公開されているので、この映像視聴をするという手もあったのかもしれません。


180929模擬授業@教師教育学会

60人もの学生たちの前でパフォーマンスをするというのは、けっこうリスクが高いので、映像視聴にすべきかどうか最後まで悩んだのですが、結局、『授業づくりの考え方』で掲載されている事例について、まずはじめに、各チームから選ばれた人たちが、全員の前でロールプレイをするという活動を2シーン(「やってみる」「かえりみる」)やってみることにしました。

わたしが担当しているのが、「国語」の教科教育法の授業であるというのも理由のひとつですが、ちょうどそれまで学生たちが学んできた学習の中で、リアクションペーパー(大福帳)に、「学ぶ目的と活動がずれないようにすることが大事だ」とコメントしてくる学生たちが多くなってきたので、自分たちでもロールプレイを見ながら、「ここはこうした方がいいんじゃないか」と気づいていけるといいかな、と思ったことが大きいです。

当日は、ロールプレイング・ゲーム的な感覚で参加してもらおうと思い、『授業づくりの考え方』の中の「登場人物の紹介」をカード化して、「キャラクター・カード」を作り、チームごとに、どれか1名の「キャラクター」にふさわしい(?)人を選出してもらうことにしました。

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対話型模擬授業検討会キャラクターカード

 この日の授業は、オープンキャンパス直前ということで、できれば通常、使用している教室をオープンキャンパスの準備のために使用したいというオファーがあったので、中央図書館のメディアホールというところで実施したのですが、そのせいで、なんか本当に舞台っぽい感じになりました!

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チームごとに選ばれた「キャラクター」の皆さんによる、2シーン分のロールプレイのあとは、グループごとに「キャラクター」を割りふっての読み合わせ。

この日の授業については、賛否両論で、“対話で書かれている文章なので、役割分担して読むことで内容がよくわかった”とか、“模擬授業からディスカッションして振り返ることのイメージがわいた”という学生もいれば、“みんな文章を読み上げることにいっぱいいっぱいで、なんでこんな活動をするのかがわからなかった”という人もいました。

そもそも、戯曲・脚本のような形式のものをみんなで読みながら、そこから何かを感じたり考えたりする…という学習のスタイルへの親和性がない人たちにとっては、このようなスタイルで学んでいくことにハードルがあるのだろうと思います。

 個人的には、「絵を描く」ことによって学んだり、「文章を書く」ことによって学んだりするように、実際に声に出して読んでみる、身体を動かしてみることによって学ぶ、というのもひとつの学習スタイルとして、みんなが使えるようになるといいなぁ、と思うのですが。

 

2.ペアごとに「やってみる」

ロールプレイを行った授業の次の週には、自分たちがこれまで考えてきた模擬授業のための学習プランを、実際にペアでやってみる活動を行いました。学生たちには「模擬授業のための模擬授業」と呼ばれてました。

…たしかに、そうですね。

 

この「ペアでやってみる」活動は、はじめるまでがなかなか大変そうでしたが、実際にやってみると、かなり実り多い活動になったようで、学生たちの多くも、肯定的にこの活動を受け止めてくれていていたようでした。(そもそも、それまでに学習プランに対するアイディアを十分出しきれておらずに戸惑ったケースは多々あったようですが)

 

フォントの魅力を伝えよう!と頑張っていた「文字は文化だ!」チームは、ペアでやってみる活動を何回かやる中で、“フォントってマニアックな趣味だと思ってたけど、みんなに楽しんでもらえそう…!”という感覚をつかんでいったように思います。

2回目のペア活動のときには、“みんなが、ステキなフォントを書いてくれました!いっしょに入れておくのでぜひ見てください!”といったコメントとともに、そのときのペア活動で相手チームの人たちが作ってくれた「作品」を見せてくれました。

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「フォント」作品

ペアでの模擬授業の中で、「こんな活動で大丈夫かな…」という漠然とした不安を、自信へとつなげていったチームがある一方で、いろいろなチームとペアになりながら、「もっと活動をスムーズにするには?」「もっと充実した学習にするには?」と考えながら、自分たちの模擬授業をブラッシュアップしていったチームもありました。

 

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赤字修正が入ったワークシート案



このチームは、ワークシートに書かれた「お題」を、実際にやってみる中で見直していく…という活動の中で、数種類のワークシートを開発。さらにそれを何回にもわたって修正していき、改訂版を重ねていくなかで今日の本番を迎えていました。

 

そんな中でも、特に興味深かったのは、模擬授業用に用意した教室以外のスペースを利用することを提案したチームがあったことです。

 

事前調査の結果から、「大学生が予想以上に、新書を読んでいない!」という問題意識をもった「教育学部恋愛学科」チーム。

たまたま、2回目のペア活動のときに使った、8名定員のゼミ室がお気に召したようで、本番の模擬授業でも、このようなかたちで2つのゼミ室に新書コーナーを設置し、導入のレクチャーのあと、2つあるゼミ室に自由に移動をして新書を選びつつ読んでもらう活動を行っていました。

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並べられた新書

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新書を読む

実際に、机の周りに集まって考えているだけだとしたら、おそらく、「使う教室を変えよう!」とか「あの教室に、このように本を設置したらどうだろう?」というアイデアは出にくかったのではないか、と推測します。(とてもクリエイティブな学生たちだったので、もしかしたらはじめからあった発想なのかもしれませんが)

実際に「やってみる」ことで、環境の側の限界も見えてくる、だからこそ、環境そのものを変えられないか?という発想が出てくる……そんなこともありえるのではないか、と思いました。

 

3.約30人の学生たちに対する模擬授業

 

このようなペア活動を重ねたうえでの模擬授業本番。

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ワーク「若者言葉の現代語訳」

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「エモい」シーンを言葉で説明する

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心配になる「歯がいたい」

ほとんどの学生が、「はじめて授業をつくってみました!」という状況。

しかも「初等教科教育法(国語)」では、自分たちが得意な・好きな言語活動にもとづいて、自分たちが学習をギヴ(give)できる授業を考える…という「やったことのない」課題に取り組んでいるので、できあがってくる授業も、取り組みのレベルも、実にさまざま。

それでも、他のだれかがやっている模擬授業に関心をもち、それに学習者の立場から参加することは、なんだか自分の学びに役立ちそうだぞ!…という感覚そのものは、受講者の関わりのレベルにかかわらず、もってもらえたような気がします。

もちろん、「模擬授業(本番)のときにも、ペアでやっていたときと同じように、授業の後にいろいろコメントをしあえたらいいのに…」「もっと、自分たちで率直に、学習者として感じたことを交流しあうにはどうしたらいいだろう?」とか、わたしの中で、課題になったことは、たくさんありました。

それが、学部2年生の授業での限られた時間のなかで、どこまで実現可能なのかも、まだまだわかりません。

 

とはいえ、はじめての状況のなか、そのはじめての取り組みを一緒に創ってくれた2年生たちには、心から感謝しています。

次はまた、2カ月後に、同じ科目名での授業が始まります。今回の取り組みをどのように生かしていくか、また2カ月かけて、考えていきたいと思います。