kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

ロイス・ホルツマン『太りすぎの脳(Overweight Brain)』第1回研究会

2018年12月27日(木曜日)13:00より、明治大学中野キャンパス(JR中野駅から徒歩5分)にて、ロイス・ホルツマン『太りすぎの脳(Overweight Brain)』の第1回研究会(翻訳検討会)を開催いたします。

 

 

本書『太りすぎの脳~知ることへの脅迫観によって、私たちはいかに良い世界を創るのに十分賢くなれずにいるか~(Overweight Brain: How our obsession with knowing keeps us from getting smart enough to make a better world)』は、今年7月に出版されたばかりの書籍です。

著者のロイス・ホルツマン(Louis Holtzman)は、「ソーシャルセラピー(social therapy)と呼ばれる、グループ・短期心理療法のための機関「イーストサイド・インスティチュート(East Side Institute)の所長を務め、ヴィゴツキーやソーシャルセラピーについての多くの著書を執筆しています。

2014年には、ホルツマンの著書『Vygotsky at Work and Play』の邦訳書『遊ぶヴィゴツキー』が日本でも出版されました。  

 イーストサイド・インスティチュートに関連する書籍としては、2016年に翻訳出版された、キャリー・ロブマン&マシュー・ルンドゥクゥイスト『インプロをすべての教室へ:学びを確信する即興ゲームガイド』(新曜社)や、同じく2016年に翻訳されたキャシー・サリット『パフォーマンス・ブレークスルー:壁を破る力』(徳間書店)があります。

パフォーマンスによる学習・発達を基軸にして、あらゆる人々が、日常のさまざまな場面のなかで、他者と協働しながら、集合的に発達していくような実践を創り上げ、それを理論化し、発信してきています。

 

そのロイス・ホルツマンの新著が発行されたということで、これまで、ロイス・ホルツマンや、イースト・サイド・インスティチュートが展開してきた理論や実践になんらかのかたちで関心のある方の中から、ボランティアで、翻訳をしてくださる方を募り、章ごとに分担して、こちらの書籍を読んでいこうということになりました。

 

今回の第1回研究会では、本書のなかでも特に、思想的なバックグラウンドに関わりそうな部分(言語論、科学論)と、教育にかかわる提言(学校論)の部分を共有し、翻訳者チームおよび参加者の皆さんと、本書で語られていることの可能性をディスカッションしたいと思います。

本書は、一般の人々が読んでもわかりやすいように(何度も読み直さなくても理解できるように!)、やさしい口語で書かれている書籍ですので、研究者のみならず、興味・関心のあるかたであれば、どなたでも、さまざまな方にご参加いただけると思っています。

 

開催まで、あと2週間と、あまり日がないですが、よろしければ、冬休みのこの機会に、ぜひご参加いただければ幸いです。 

 

ロイス・ホルツマン『太りすぎの脳(Overweight Brain)』第1回研究会

★参加申込フォームはこちら

1.日程:2018年12月27日(木)

2.会場:明治大学中野キャンパス 高層階14F 1403教室 

JR中野駅から徒歩5分
https://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/nakano/access.html

3.スケジュール:13:00~16:00

13:00 開始
13:00~13:20 本研究会の趣旨/石田喜美
13:20~14:00 〔概要〕はじめに(Introduction)/前川久男
14;00~14:40 〔言語論〕ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン~悩めるうぬぼれ人~

知ることの危うさを語る世界的思想家(Ludwig Wittgenstein, The Tortured Smarty
Pants? A World Class Thinker Who Taught Us the Dangers of  Knowing)(Chapter 3)/大塚翔
14:40~15:20 〔科学論〕科学の(カルト)文化とその可能な終焉(The Cult(ure) of Science and It's Possible Demise)(Chapter 7) /新原将義
15:20~16:00 〔学校論〕子どもではなく、学校が愚かなのだ ( Schools Not Children, Are Stupid)(Chapter 5)/渡辺貴裕

 

goo.gl

 

絶望的な社会と、ロバストなわたしたち~「マイ・チャイルド: レーベンスボルン」

東京ゲームショウ2018のインディーズ・ゲーム・コーナーで出会った、「マイ・チャイルド: レーベンスボルン」をついにクリアしました。

 

kimilab.hateblo.jp

 

このゲームについては、すでにいろいろなところで、レビューも出ているようなので、どのようなゲーム・アプリなのかについては、そちらをご参照ください。

マイ・チャイルド・レーベンスボルンのレビューと序盤攻略 - アプリゲット

 

この作品、「東京ゲームショウ2018」で公開された当初やそれ以前は、「ノルウェー現代史の闇」を扱った作品であることがクローズアップされていたように記憶しています。

たとえば、この記事だと、「レーベンスボルン」についての詳しい解説とともに、このゲームが「ノルウェー現代史の闇」を扱っており、それを後世に伝えるために開発されたゲーム・アプリであることが紹介されています。

www.4gamer.net

 

しかし、東京ゲームショウ2018にあわせた日本語版リリースのあと、実際にこのゲームを日本語でプレイする人々も多くなり、日本のゲーム・カルチャーのなかで紹介されていくなかで、かなりこのゲームの紹介のされ方が変わってきたなぁ…という印象を持っています。

こちらは、上と同じ、4game.netの記事のはずなのですが、「ほぼ(日刊)スマホゲーム通信」として掲載される記事だけあって、「スマホゲーム・レビュー」の語り口や用語法にあわせて、このゲームが語られているのが、面白いです。

www.4gamer.net

 

「シリアスなアドベンチャー…!

なるほど、ゲーム・ジャンルとしていえばそうだよね、と言わざるを得ない、シンプルな紹介。これを見て、「そ…そうか」となってしまうのは、わたしだけなのでしょうか。

しかし逆に、「スマホ・ゲーム」という語り口から見えてくること、考えさせられることもあります。わたしが考えさせられたのは、この記事の最後にある、シリアスな作品だが,ゲームバランスは比較的マイルドなので,当時の歴史などに興味を持ったらぜひプレイしてほしい」という一文。

 

「ゲームバランスは比較的マイルド」

「ゲームバランスは比較的マイルド」

「ゲームバランスは比較的マイルド」


f:id:kimisteva:20181128143004j:image

 

こちらは、各章をクリアしたあとに出てくる画面のひとつなのですが、さすがに「『マイルド』とはなにか」と言いたくなってしまいます。

 たしかに、わたしはその章をクリアしたわけですし、この記事を書いている時点では、全章をクリアして、とりあえず、バッド・エンドにはならなかった(とてもじゃないけど、ハッピー・エンドとはいえない…というか、ハッピー・エンドになんてなれないのではないかと思います)わけですが、いくら章をクリアしても、全章クリアしてエンディングにたどり着いても、自分が「できなかったこと」「やるべきでなかったこと」はいつまで経っても残り続けます

 

たとえば、上の画面で示した章をクリアしたとき、わたしは、「あなたを含む55.5%の人が、ドイツ語について注意しませんでした」というメッセージを見て、かなりのショックを受けました。

いくら腐っても、端くれでも国語教育研究者ですので、「クラウス」(ゲームに出てくるわたしの子ども(=マイ・チャイルド))の母語であるドイツ語を「使わないほうが良い」と注意しなかったことについて、わたしは、後悔していません。

でも、(おそらく)そのせいで、彼は、その後、学校でいじめに遭ったし、唯一の友達も彼をいじめる側にまわってしまいました。

多くの人たちはそれがわかっていて、そしてゲームプレイヤーとして「正しい」選択をして、彼のドイツ語を注意したんだと思います。

でも、いくら腐っても端くれでも…以下、略!

いくらゲームでも、フィクションでも、自分の子どもに、「母語を使うな」とは言えないです。それがいくら、ゲーム上「正しい」戦略でも。

でも、ゲーム上、有利な戦略をしなかったせいで、きっと、「バッド・シナリオ」には近づいてしまったんだ…と、この画面を見て気付き、ショックを受けたわけです。

 

そんな葛藤を抱えつつ、なんとかゲームを全章クリアしたタイミングで、上記の記事に出会い、この記事のなかで、「ゲームバランスは比較的マイルド」という言葉で、このゲームが紹介されていることを知りました。

 

たしかに「マイルド」なんでしょう。…このゲームが、「マイルド」でなかったら、わたしのような人間は、バッド・エンドめがけてまっしぐらだったと思います。きっと。

 

そして、レーベンスボルンの子どもたちの実話に基づいて作られたこのゲームの、ゲームバランスが「マイルド」であることは、もうひとつ、重要なことを教えてくれている気がします。

それは、どんなに絶望的な社会のなかに置かれていたとしても、わたしたち人間は、そのなかをたくましく生き抜いていくことができるということ。

少なくとも、ゲームバランスが「マイルド」になるくらいには、わたしたち人間って、絶望的な社会を生き抜くロバスト(頑健)な生き物なのではないか。

…そんなことを思いました。

 

各章をクリアするごとに出てくる上記のような画面は、プレイヤーであるわたし自身の価値観を映し出す「鏡」にもなっていて、それが、大きく心を揺さぶられるところでもあります。

ちなみに上の画像だと、わたしは「楽観的」46%、「寛容」46%ということになってます。「厳しい」は7%。

この結果が、自分自身の教育者としての信念や価値観すらも映し出している気がして…、なんだかそのことにも考えさせられました。

 

『マイ・チャイルド:レーベンスボルン』は、300円~400円くらいで購入できるのですが、この金額でこの体験ができるのであれば、ぜひ体験してみたほうが良いのでは、と思います。

ただし、本当に、感情を大きく揺さぶられますし、わたしの知り合いの中にも、わたしがプレイしているのを見て「これは絶対無理!」と言った人もいるので、Android端末をお持ちのかたは、まずはお試し版をプレイしてみてから考えたほうが良いかもしれません。

 

 

 

ホモフォビアとの向き合いかた~『カランコエの花』

渋谷アップリンクで上映されていた映画『カランコエの花』。

上映最終日に駆け込み、最終日の舞台挨拶も観てきました。

f:id:kimisteva:20181130202606j:image

 

舞台挨拶で印象に残った発言は、いくつもあるのだけれど、その中でも特に、中川駿監督が最後に(時間のない中で)紹介されていた、本作品への反応についての話が、印象的でした。

カランコエの花』は、保健室の養護教諭による「配慮に欠けた」LGBTの授業から、物語が展開していくのですが、映画全体としては、「バッドエンド」ともいえるような終わり方をするので、「やはり、(授業などで)LGBTについては触れない方が良いのではないか」というような反応があったとのこと。

このような反応に対して、監督自身が、キッパリと「自分としては、そのような意図はない」とおっしゃっていたことが印象に残っています。

 

たしかに、自分自身の問題に向き合おうとしていた生徒に対し、周囲の生徒たちはその問題に真っ向から向き合えなかった。

向き合えずに、茶化したり、見ないことにして逃げようとしたり、向き合わざるを得ない状況に陥る前にそれを回避しようとする行動を取ったり、あるいは、向き合おうとして何かをしようとしても何もできずにいたり……そんなことを繰り返すうちに、生徒たちが、お互いにお互いを傷つけあうような状況が生まれてしまう。(以上、舞台挨拶での監督コメントのわたしなりの要約)

 

「だけど」、と監督は言います。

「傷つけたり、傷つけあったりしてしまうのが、人間の本質なのではないか」、と。

 

「傷つけたり、傷つけあったりしてしまうけれど、だからといって、何もしないというのは違うのではないか。

傷つけてしまったら、謝ればいい。

うまくいかないかもしれないけれど、それでも、トライ&エラーを繰り返して、コミュニケーションをとろうとしていくこと」…それが、大切なのでは、ないかと。

 

この言葉は、ちょうど数日前、大学院のゼミナールでの議論したに、呼応していたように思います。

 

大学院のゼミナールでは、性的マイノリティの登場する文学教材の授業実践についての報告があり、それを巡って、「ホモフォビックな価値観が前提化された教室のなかで、いかに、心理的な安全な場を作ることができるのか」「そもそも、生徒たちのホモフォビアを明るみに出すことをねらう、今回のような教育的試みは、学校でやるべきではないのか」という点が、議論になりました。

 

そのくらい、その文学作品における性的マイノリティとの出会いは、生徒たちにとって、ある種「ショッキング」であったようで、そのために、あまりにもたくさんのホモフォビックな発言が教室内に溢れてしまったのです。

まるで『カランコエの花』の前半シーンのように。

 

生徒たちから出されるホモフォビックな発言の数々から生み出されるリスクと、それだからこそ可能になる学びの可能性の両方が、そこにはありました。

 

カランコエの花』と、その舞台挨拶での監督や、キャストの皆さんの発言は、そういう

「どうしようもなく溢れ出るホモフォビア」に対して、少し距離を置いて考えるきっかけをくれたように思います。

 

性的マイノリティと出会ったショックから生み出されるホモフォビックな発言は、あまりにも辛辣で攻撃的ですらあります。が、だからといって、それを、見なかったことにしても、何の解決にもならない。

それこそ、この問題に向き合えずに、知らず知らずのうち、「バッドエンド」へと導きあってしまった生徒たちと同じです。

そうであるとしたら、どのように、その問題に、向き合うことができるのか。

 

この映画は、自分が見ないようにしていること、知らずにどこかで逃げてしまっていることへの向き合いかたを考えさせてくれるように思います。

 

 

岡本太郎「太陽の塔」の著作権~こだま芸術祭「太陽の塔プロジェクト」~

埼玉県本庄市児玉郡エリアで開催されていた「こだま芸術祭」に行ってきました。

f:id:kimisteva:20181117163546j:plain

kodama-art-festival.info

「こだま芸術祭」は、1969年に設立されたこだま青年会議所の50周年記念事業ということで、公益社団法人こだま青年会議所による主催。

 

これまでも、多くの地方自治体が主催となって、地方の芸術祭やアートプロジェクトが行われることは多々あったし、後援、協力のなどのかたちで、青年会議所などが名を連ねることもあったとは思うのですが、ついに、青年会議所の単独主催で芸術祭やアートプロジェクトが行われる時代になったのですね…!

 

そんな「こだま芸術祭」の中で、戸矢大輔「太陽の塔プロジェクト」と名付けられたプロジェクトが展開され(戸矢 大輔 | こだま芸術祭)、11/5より、本庄市にある上里建設駐車場敷地内にて、「太陽の塔」の模索が展示されるいういうことで、話題になっていたようです。

地元の新聞(上毛新聞)でも記事として取り上げられていました

www.jomo-news.co.jp

 

この記事によると、本作の制作者である戸矢大輔社長(上里建設の社長をなさっている方なんですね!)は、「大阪万博が開かれた1970年ごろの熱はすごい。美術には空間を変える力があり、この街の雰囲気を変えられればいい」という熱い思いで、本作の制作に着手されているようで、きっと、本作は、岡本太郎太陽の塔》へのオマージュという意味合いもあったのではないか、と思います。

 

その上で…、ほぼ職業病的に心配になってしまったのが、この作品の著作権処理に関してです。

新聞記事にも掲載されて話題になっているくらいの作品ですしきっとなんらかの対応はなさっているはず…だとしたら、どのようにしたらこのような作品の展示がOKになるのかしら、と思い、岡本太郎作品に関する著作権管理を行っている現代芸術アトリエに問い合わせてみたところ、次のようなご回答をいただきました。

 

弊社には主催者や製作者から相談や通知などは一切なく、本日お知らせをいただき初めて知りました。(2018/11/19 現代芸術アトリエからの回答)

 

…特に、許諾がとられていたわけではなかったんですね…。

 

そうだとすると、これは「著作物が自由に使える場合」に当てはまるということなんでしょうか。

www.bunka.go.jp

 

文化庁ホームページ内「著作物が自由に使える場合」を見てみると、著作権法第46条に「公開の美術の著作物等の利用」というのがあり、「屋外に設置された美術の著作物又は建築の著作物は,方法を問わず利用できる」とあります。

 

…おっ!

太陽の塔》が、美術作品か建築物かという議論はさておき、「方法を問わず利用できる」のであれば、やっぱりこれは、「自由に使える場合」に当たるのか?

 

と思って、最後までこの項目を読んでみると、「(若干の例外あり(注6))」という文字が目に入ります。

では、「若干の例外」とはいったいなんでしょうか?

 

(注6)公開の美術の著作物等の利用の例外
(1)彫刻を彫刻として増製し,又はそれを公衆に譲渡すること。
(2)建築の著作物を建築として複製し,又はそれを公衆に譲渡すること。
(3)屋外に恒常的に設置するために複製すること。
(4)もっぱら販売目的で美術の著作物を複製し,又はそれを販売すること。 

 

太陽の塔》が「彫刻」にあたるのか「建築」にあたるのかという議論はさておき(しつこくて、すみません)、「彫刻」であっても「建築」であっても、それを増製・複製することは、やはり、「自由に使える場合」には当てはまらない(=利用の例外) ようです。

 

そうだとすると、この「太陽の塔プロジェクト」は、どのようにして、著作権法上、展示可能になっているのか、がますます気になります。

著作権管理者の許可も得ておらず、著作権法上の自由利用の範囲外(少なくとも、文化庁のホームページなどで、少し調べただけなので、もっと他にも著作権に関する細かな自由利用可能条件があり、それが適用されるということなのかもしれませんが)にあるとしたら、この展示は、著作権法上、問題があると言わざるを得なくなってしまうのではないか、と思ってしまいます。

 

わたしは、この芸術祭の運営について詳しいことを知っているわけではないので、これ以上、何かをいうことはできないのですが。

アーティストをはじめとした人々の表現をあつかう「芸術祭」であればこそ、人々の表現を守る権利である著作権についても、大切に扱われているはずであってほしい…と祈らずにいられません。

図書館総合展ゲーム部フォーラム「図書館サービスとしての『ゲーム』活用」レポート

2018年10月30日~11月2日にかけて開催された「図書館総合展」の初日に、図書館総合展ゲーム部フォーラム「図書館サービスとしての『ゲーム』活用」が開催されるということで、フォーラムに参加してきました。

 

図書館における所蔵資料としてのゲームや、利用者サービスとしてのゲーム活用については、本フォーラムの翌日(11月1日)にJLA(日本図書館協会)から『図書館とゲーム:イベントから収集へ(JLA図書館実践シリーズ)』も発売され、いよいよ、図書館とゲームとの関係について、本格的な議論がはじまる土台が整ってきたな!という印象を持っています。

 

図書館総合展ゲーム部フォーラム「図書館サービスとしての『ゲーム』活用」については、すでにフォーラム参加者の方々が、その内容をツダってくださっていて、Togetter上でのまとめ(「図書館総合展フォーラム 図書館サービスとしての「ゲーム」活用(速報版)」)もすぐに公開され、どんなことが提案・議論されたのかについては、ある程度知ることができます。

 

また、11月14日は、公式サイトで、フォーラム当日の動画が公開されましたので、そちらを見れば、さらに詳しく議論の様子を見ることができます。


図書館サービスとしての「ゲーム」活用/第20回図書館総合展(2018)

 

ですので、いまさら、フォーラムの内容を報告するまでもないのですが、せっかくフォーラムに参加し、その場で自分なりに提案や議論の内容をまとめましたので、こちらのブログでも、当日の議論のメモをアップしておきたいと思います。

 

続きを読む

ガメイちゃんにセンター取らせたい!~『図解ワイン1年生』

10月末から、新ルールが適用になり、「もはやボジョレーの時代は終わった。これからは日本ワインだ」というニュースもちらほら見かけるようになりました。

diamond.jp

 

そんななか、なぜか、今までまったく興味がなかったボジョレー・ヌーボーに興味を示し、今年はじめて(だと思う)ボジョレ―・ヌーボーを飲んでみたわたしです。

そのきっかけは、こちらの本、小久保尊・山田コロ『図解ワイン1年生』と出会ったこと。

 

  

 

 発売が2015年ですから、もう3年前。発売後、徐々にSNSなどで話題になっていった本とはいえ、話題になってからも久しいのですが、いまだにヨドバシカメラのワインコーナーに行くと、キャラクターが見られたりする『図解ワイン1年生』というワイン擬人化本があったりします。

 

『図解ワイン1年生』に出てくるワイン擬人化キャラクターは、「図解ワイン1年生 web」ですべて見ることができます。

昨年の記事ではありますが、「ボジョレ・ヌーボー企画」の記事もアップされていて、今年見てもそれなりに楽しめる不思議。

wine-highschool.com

 

『図解ワイン1年生』のワイン擬人化は、数ある擬人化ものの中でも、群を抜いていると思います。

わたしの中では、2.5次元ミュージカル化(!)までした鉄道擬人化マンガ『青春鉄道』にならぶ、

擬人化キャラクターの完成度の高さ!

関係性の読み込みの深さ(?)!

…があると思っています。

 

こちらの「ちょこっと紹介ムービー」では、シャルドネピノ・ノワールメルローリースリングカベルネ・ブラン、カベルネ・ソーヴィニヨンが、紹介されているので、この動画を見ると、少しその雰囲気が伝わるかもしれません。


図解ワイン一年生 ちょこっと紹介ムービー

 

ただ、この動画だと、関係性の読み込みまでは伝わりませんね…!

『図解ワイン1年生』の面白さは、どちらかというと、関係性の読み込みにあると思っています。

…というのは、ワインの面白いところは、ブドウの味だけでなく、テロワール(ブドウをとりまく自然環境)や、熟成のさせかたを含む、地域ごとの作り方…などなどによって、味がまったく変わってくるところにあるからです。

だから…、

関係性、めっちゃ重要!!

だから、(ストーリーとして)面白い!!

…わけです。

 

上記に紹介した動画で見られる関係性としては、リース・リングだけ、(ツンデレ感を出すために)ちょこっとだけそのあたりに触れられています。

ツンデレ」キャラのリース・リングですが、なぜ、「ツンデレ」かというと、辛口から甘口まですべてそろっている(!)上に、他のブドウにとりつくとそのブドウを死に至らしめるカビ(ボトリティス・シネレア)とカップリングされると(←妄想はいってきました)、すばらしく甘く美味しい(らしい)貴腐ワインができてしまう!という、デレ具合!

 

アルザスという場所は霧が発生しやすいところなのですが、そのせいでぶどうがカビやすくなっています。“ボトリティス・シネレア”というカビなんですが、他の品種だったらたいていこのカビで死にます。でもリースリングはこのカビがつくことによっとて、水分だけがすーっと抜かれていって、ワインにとっていい感じのぶどうになっちゃうんです。水分が抜けることによって、適量の糖分だけが残ってくれるからです。

また貴腐ワインは、“貴腐香”という独特の香りを放つことがあるそうです。「薫り立つ腐臭」だそうです。たまりませんね。そういう悩ましげな描写は大好きです。(『図解ワイン1年生』173ページ)

 

他の品種であれば、死に至る病でしかない”ボトリティス・シネレア”と、リースリングカップリングに、ロマンを感じるのはわたし(とこの作者)だけではないはず!!…と信じたい。

 

『図解ワイン1年生』では、こんな調子で、ワインの作りかたやテロワールや…さまざまなワインをめぐるストーリーが、キャラクターの中に折り込まれていて、キャラクター同士の関係性や、(ショートストーリーしかないですが)そこから生み出されるエピソードを創り出しているわけです。

 

…と、まぁ、そんな感じで、どはまりしていたら、アール・ヌーボーの解禁日間近になって、「ガメイちゃんが、1年間で唯一、センター取れる日!マジか!!」と沸き立ってしまい、近くの店にいく羽目になったのでした。

 

そんなふうに、ワインが擬人化されて見えてくると、こんなワインの試飲セットも違った見え方ができてくるように思います。

f:id:kimisteva:20180821161525j:plain

アライでない(かもしれない)人たちとのLGBTセミナーの作り方

2018年11月14日に、わたしの勤務先の大学で、男女共同参画センター×障がい学生支援室主催「ワークライフバランスセミナー LGBT」という企画が開催されました。
f:id:kimisteva:20181116085541j:plain

このタイトルを見ただけで、察しの良いかたは、「『ワークライフバランス』と『LGBT』???」「これは誰がどういう目的でやろうとしているものなの??」など、ある種の「違和感」や「うさんくささ」を感じられることと思います。

このバラバラな感じの意味するところは、非常に明確です。
単刀直入に言ってしまえば、「今まで、そんなこと考えたことがなかった」人たちが、これまでの枠組み(「男女共同参画」!「ワークライフバランス」!)を使って、なんとか、今、必要とされている課題に取り組もうとした結果、こんなことになってしまった、ということ。
わたしは、とにもかくにも、何か自分たちにできることを始めてみよう!と、このような「無理やり感」あふれる企画を考え実現した方々に、大いなる敬意を評します。
ゼロからパーフェクトなものを創ることを望んで、いつまでも「何もできないよね」と、外から言い続けているよりは、はるかにましだと思います。

わたしは、横浜国立大学LGBTQサークル「クーピー」の顧問をしていたこともあり、この企画が立ち上がった段階で、お声がけをいただき、セミナー当日まで、企画運営面でのご協力をしてまいりました。
twitter.com

企画が立ち上がり、お声がけいただいたのが、7月。
それから企画実施までに、4ヵ月近くの期間があったわけですが、ある日突然、「LGBTに関する啓発セミナーを開催してほしい」という話があり、何がなんだかわからぬまま、セミナーを企画運営することになってしまった(!)という担当者の方をサポートする中で、いろいろ気づいたことがありました。

このような事態は、これから先、様々な場所で起こっていくだろう、と思います。

LGBTに関する啓発セミナーをやろう」と、学校や企業などの組織が決定し、なんとなく担当すべき部署を割り当て、その担当者に、セミナーの企画を命じる。
担当者が、たまたま、LGBT-Allyであるという場合もあるかもしれませんが、おそらく、そうでないことも多いでしょう。

セクシュアル・マイノリティの当事者と”出会った”経験もなく、自分が実際に会ったときにどういう感情を抱くのかわからない…。
自分が「アライ(Ally)」(=「alliance(同盟)」を表すことばで、セクシュアル・マイノリティの人たちを支え、応援する人たち)であるかどうかわからないし、そんなこと考えたこともない。実際に当事者と会ってみたら、ホモフォビア(同性愛嫌悪)の感情が起きてしまい、アライになろうという気持ちを起こせないかもしれない…。
www.nhk.or.jp

そういう人たちが、「LGBTに関する啓発セミナー」を開催しなければならない事態が、ますます増えていくということです。

世間になんとなく蔓延するホモフォビアが、見て見ぬふりをされながら放置されたまま、社会の要請として、具体的にいえば行政的・経済的な要請として、「LGBTインクルーシブな環境」づくりが求められた結果が、こういうことなのだろう、と思います。

そのような、アライでない(かもしれない)担当者がつくることになったセミナーの企画運営をサポートすることになったわけですが、結果的に、今回のセミナーの内容な次のようなかたちになりました。

f:id:kimisteva:20181116094026j:plain

今回のような状況で開催されるセミナーの場合、当事者に直接話をしてもらう機会を設けることは、かなりリスキーです。

担当者が、突然、ホモフォビアを発症する危険性がありますし、そうでなくても、対応の仕方がわからなくて戸惑ってしまう、フリーズしてしまうということは十分ありえます。
さらにいえば、セミナーの受講者はさらに「読めない」ので、正直、初のセミナーには、当事者を呼ばない方が良いのではないか…とすら思います。

今回は、たまたま、すばらしく理解のある学生・OBがいて、快く協力を申し出てくれたので、当事者によるライフヒストリーを語る機会を設けられましたが、そういう幸せな状況がなければ、こんな危険な状況で、見知らぬ人たち相手にカミングアウトを強制することは、来ていただく当事者にとってリスクが高すぎると思います。
セクシュアル・マイノリティ当事者がカミングアウトしなくても成り立つような教育プログラムの開発について、私たちは、もっともっと真剣に取り組まなければいけない、と、あらためて実感しました。

今回、担当者の方が、「自分には知らないことばかりでとても勉強になった」とおっしゃってくださり、セミナー当日にも利用した動画教材は、下記の2つです。

(1)総務省人権啓発ビデオ「あなたが あなたらしく生きるために 性的マイノリティと人権」(活用の手引きはこちら(PDF))

人権啓発ビデオ 「あなたが あなたらしく生きるために 性的マイノリティと人権」

(2)NPO法人Re:Bit LGBT教材 中学校向け「Ally Teacher's tool kit」より動画「【中学校版】多様な性ってなんだろう?」

【中学校版】多様な性ってなんだろう?

上記2つの動画から、中学生が体験する困難に関するエピソード(ミニドラマ)、社会人が体験する困難に関するエピソード(ミニドラマ)を総務省の人権開発ビデオから、大学生がライフヒストリーとして語る困難や周囲からの支援に関するエピソードを、Re:Bitの動画教材から抜粋してご紹介することになりました。

なお、はじめの5分間(!)だけで開設する「基礎知識」編ですが、これについては、受講者全員にテキストを配布し、詳しくはあとで読んでいただくかたちにしました。
このとき、使用したのは、新設チームC企画の皆さんが、奈良教職員組合とのコラボレーションで制作した『教職員のためのセクシュアルマイノリティ・サポートブック(第3版)』なのですが、以前は、こちらの新設チームC企画のサイトから、PDFがダウンロードできたはずなのに、今、見たらできなくなってしまっていました…!(泣)

おそらく、『教職員のためのセクシュアルマイノリティ・サポートブック』(第4版)が発行されたためと思われますが、第4版は、第3版と比べて、内容がかなり固めになった印象で、はじめて紹介する人たちに向けてのテキストとしてはちょっと伝わりにくい印象があるので、これとは別に、第3版を復活させていただきたいです…。

教職員のためのセクシュアル・マイノリティサポートブック | 奈良教職員組合

今回、テキストの中からご紹介したポイントは、以下の4つです。

(1)「性(sexuality)」の4つの軸(身体の性、心の性、社会的な性、性的指向性
(2)「性」は、4軸のグラデュエーションのどこかの領域同士をつなぎあわせて見えてくる、無限に広がる多様なものであること
(3)「カミングアウト」と「アウティング」は異なること。「カミングアウト」を受けたからといって、自分がその知った情報をだれにも言ってよいということにはならないこと。
(4)学校において直面する困難や支援のポイント(テキストを参照)

このうち、もっとも大切なのは、(2)における「アウティング」の説明だったと思います。
特に、今回のセミナーでは、当事者が自分自身のライフヒストリーを語るシーンがありましたので、ここで聞いたライフヒストリーについての話を、第三者と共有する際にも、当事者の意思を尊重する必要がある、という話をしました。
たまたま、今回お呼びしたゲストの2人のうち1人は、他者との共有がOK、もうひとりはNGというスタンスでしたので、この話についてリアリティをもって聞いていただけたのは良かったと思っています。

なお、セミナーのタイトルに「LGBT」はついていましたが、「Lは…、Gは…」みたいな説明はしませんでした。ゲストとして来てもらった当事者を、これらのカテゴリーにあてはめて紹介することもしませんでした。
個人的に、「このかたは、Tです」とか「この人は、Gです」というかたちで、カテゴリー化して紹介することは、変な「代表性」「典型性」を付与してしまう気がして、気がすすまないのです。

あとは、ふたりのゲストが、自分自身のライフヒストリーの中で、もし「自分は、『T』です」というようなことをいうようであればそれはお任せしよう、と思っていました。
ひとりの方は、ライフヒストリーの一部(カミングアウトのエピソード)の中で触れていましたが、もうひとりのゲストは不明なままだったので、受講者の方の中には、モヤッとしたかたもいたかもしれないですね。

でも、それでいいんだと思います。
カテゴリー化して理解してもらいたいわけでは、ないですからね。
グループごとに質問&ディスカッションの時間にも、それとなく、「聞きたければ、聞いてくださいね」と言ってみたのですが、どなたからもそのような質問はありませんでした。

そのような、わたしの思いを汲んでくれたのか、最後のまとめの言葉のなかで、本企画の主催にかかわる理事の方から、「Lとか、Gとか、Bとか、Tではなく、性は多様であるということ。そのことについて理解を深めていく、記念すべきはじめの日であった」というような趣旨のコメントがあり、少し、救われたような気持ちになりました。

現在、オンライン上には、LGBTインクルーシブな社会をつくるためのさまざまなリソースが存在しています。
それをいかに用い、教育プログラムを作っていくのか。
当事者にリスクを負わせることなく、性の多用性についての理解を深められるような教育プログラムを創ることは、果たしてどの程度可能なのか。

これから考えていくべきことは、まだまだたくさんありそうです。