kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「言葉する者(Languager)」になるための辞書あそび~「コレハヤ辞典」

今年度の大学院の授業「国語カリキュラム論演習Ⅱ」では、何回か、わたしが今、考えている言葉の教育のアイデアについて発表し、それに関わる活動なども入れながら、ディスカッションをしてもらっています。先週と今週は、2週間連続で、わたしが発表するターンだったので、2回シリーズでひとつのテーマについて取り上げることにしました。

今回2回シリーズでとりあげたテーマは、「『言葉する者(Languager)』としての学習者を育てる辞書学習」です。

 

「Languager」という語は、今年3月に、イースト・サイド・インスティテュートでの集中プログラムを受講した際に、Gwen Lowenheimの「日本語で遊ぼう(Playing with Japanese)」でのワークショップをはじめ、本プログラムの中で複数回か耳にした語です。わたしにとっては、Lois Holtzmanによる「Languageを動詞として捉えたい」という言葉とともに、とても印象に残っている言葉のひとつでした。

「Languager」という語についてもっと知りたくて、Holtzman先生に「Languagerについて知るためのリソースを紹介してほしい」と依頼したところ、Louis Hotzman(2015)「Vygotsky on the Margins: A Global Search for Method」の講演原稿を送っていただきました。

上記サイトのリンク先で公開されている原稿に「Languager」という語は登場しないのですが、送っていただいた講演原稿の中には、下記のような「Languager」の説明がありました。

ヴィゴツキーの思考,話すこと,模倣,補完の特徴描写におけるひとつの示唆は,意味の形成が,言語を使用することの結果ではないということです。むしろ、言語発達のプロセス(Languagerになること)は,意味を形成するために言語を学習するというものではありません。まったく逆です。ヴィゴツキーは,意味形成が,言語形成を「先導する」ことを示唆しているのです(弁証法的に、学習が発達を先導するように)。…さらに,そのような意味形成のパフォーマンスは,ルールに支配された社会的な言語使用者になるためにも,言語形成者になるためにも必要なのです(Newman and Holzman、2013/1993, pp.112-118)」(Holtzman ,2015; 訳は引用者)

考えてみれば、わたしが翻訳に携わったキャリー・ロブマン&マシュー・ルンドクゥイスト(2016)『インプロをすべての教室へ』(新曜社)の中にも「私たちは,言語を創造すると同時に言語を使用する種でもあるという,矛盾した存在です。ヴィゴツキーが教え るように,言語とは,人間という存在が創造してきた道具であり,これからも創造しつづける道具なのです。」(p175)があり、フレド・ニューマン&フィリス・ゴールドバーグ(2019)『みんなの発達!』新曜社)「言葉というもの!」の中にも、同様の議論はあるので、それら長年かけて醸成・共有されてきたひとつの言葉に対する見方に「Languager」という名前が与えられただけなのだと思います。

が、なにかに名前が与えられることで、わたしたちは次の動きを考えることができます。すくなくともわたしは今、これについて考えたいという気持ちでいっぱいなのです。

そんなことを考えていた矢先に、まさに「言語を使用しながら、言語を創造する」ゲームに出逢いました。それが、ピグフォン『コレハヤ辞典』です。(参考:コレハヤ辞典 完成しました! - ピグフォン:アナログ思考で作ってみよう!)

ブログ記事を見てみると、「まだ発見されていない新語を人々の意識の奥から 掬い取る画期的な仕組みを開発した」と書かれていて、「おお!」と思わずにいられません。

 

…というわけで、受講生たちにこれまで国語教育で経験してきた「言語を創造する」活動を思い出してもらったり、「言語を創造する」活動についてのアイデアをいろいろ自由に出してもらったりしたあとに、『コレハヤ辞典』にトライしてみました。

 

大学院生(近現代文学ゼミ2名、日本語学ゼミ1名、教育心理ゼミ1名)の計4名で「編集部」わけをしたところ、なぜか、近現代文学ゼミが「第1編集部」、日本語学&教育心理で「第2編集部」という結果に…いささかゲームが成り立つかどうか不安を抱えつつ、「研修」にトライ!

 

日本語学ゼミの学生が(なぜか)若干苦戦していたものの、5分も立たないうちに全員の新語が完成し、編集部内で新語の確認を行います。編集部内では「おおー」「わかるわかる」の声。

「これは、わかるでしょ」などと言いながら、お互いに原稿を交換し、「校正」のターンに入ったところ……事態は一変します。

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編集部内の意思疎通には問題がないようです。編集部間に問題が…

「これは、わかるでしょ」と自信満々だったはずの第1編集部の新語でしたが……第2編集部、まったく復元できません…!

結果、第1編集部は「再校正」が1回かかったものの、2語とも校正完了。しかし、第2編集部は、第1編集部の新語をまったく復元できず「校正失敗」となりました。

そんなかたちででてきた4語のなかで、「これぞ」と思うものに投票をしてもらったところ、「へにへに」(チューブ状の容器の中身がなくなりかけて、ペラペラになっている様子)が、新語候補に選ばれました。

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「研修」で候補として選ばれた新語は「へにへに」でした

そして迎えた「本番」。

……なのですが、事態はさらに悪化。今度は(なぜか)第1編集部・第2編集部ともに、「校正失敗」となりました…!(笑)


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受講生たちとのアフタートークの中では、「第1編集部は、文学とか詩しか扱ってないから」「第2編集部は、ビジネス書しか扱わないからね」など、各編集部の編集方針(?)の違いが浮き彫りになって、面白かったです。

受講生のひとりから「かなり自分に向き合った」という感想がありましたが、自分が「当たり前」に思っている言語に対する感覚や、言語を創造するときに自分が知らず知らずのうちに足がかりにしている「何か」に向き合うきっかけになるようです。

 

受講生の中に、非常に豊かな個人方言(idiolect)の持ち主がいることが判明したり、その受講生が、家族・親族や友人などミクロなコミュニティと複雑かつ多層的にかかわるなかで、自分自身の個人方言を編み出していることが見えてきたり、かなり、言葉を使用しながら創造する種としての人間にせまるような話が展開されていたように思います。

 

言葉を使用しつつ、創造する主体としての「言語する者(Languager)」になること。

そして「言語する者(Languager)」としての自分のありかた、そのスタイルを振り返ること。その意味をあらためて考えさせられました。

 

「コレハヤ辞典」については、11/12~11/14にパシフィコ横浜で開催される「図書館総合展」内にて、ゲーム開発者のピグフォンさんもお呼びして体験会を開催することが決定しております!

「辞書で広がる言葉と読書~辞書を使ったゲーム~」@図書館総合展

 

 

ご関心のあるかたは、ぜひお越しいただければ幸いです!

全国大学国語教育学会ラウンドテーブル「国語科教育における『読解力』を問い直す:リーディングスキルテストをめぐる議論を中心に」

2019年10月26日から27日にかけて開催された、全国大学国語教育学会仙台大会(プログラムPDF)では、2日目に「国語科教育における『読解力』を問い直す:リーディングスキルテストをめぐる議論を中心に」と題されたラウンドテーブルが開催されました。

 

ラウンドテーブル3

国語科教育における「読解力」を問い直す―リーディングスキルテストをめぐる議論を中心に― 〈230教室〉発表要旨PDF

コーディネーター :間瀬茂夫(広島大学

登壇者:

 犬塚美輪(東京学芸大学)「リーディングスキルテストの開発コンセプトとねらい」

 冨安慎吾(島根大学)「RSTと国学力学習状況調査」

 荷方邦夫(金沢美術工芸大学)・石田喜美 (横浜国立大学)「国語教育における「読解力」とは何か」 

 

指定討論者:

渡辺貴裕(東京学芸大学

 

はじめに、コーディネーターの間瀬先生から、本ラウンドテーブル開催の経緯が説明されました。全国大学国語教育学会の研究部門委員(前期)の議論の中で、新井紀子(2018)『AI vs 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)が話題になり、その中では、下記の3つのポイントと指摘されてきたということでした。

 

 

① RSTの定義する「読解力」が、これまでの国語教育学の研究・実践がとらえようとしてきた「読解力」とは異なる点

②「中学生は教科書が読めない」という主張を導く根拠となるRSTにおける説もねが、元の教科書の文脈とはことなる点

③他教科の教科書の読解に関して、全国大学国語教育学会が実証的な研究を十分に行ってきていなかったという点

 

このような問題意識から、リーディングスキルテスト(RST)およびそれが測ろうとしている「読解力」について丁寧に議論をすべきではないか、という話になり、それが今回のラウンドテーブルへと結実したとのこと。

間瀬先生ご自身も今回の登壇者である冨安先生とともに、「RSTとはどのような特徴を持つテストなのか」にかかわる調査・研究を行い、下記のようなかたちで「各種国語学力テストとの関係での位置付け」を行ってきたということで、下記のような図が示されました。

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間瀬先生のご発表内容のメモをもとに作成した図

「批評的―適応的」「言語的―論理的」という二軸で整理してはどうか、というご提案は、RSTのみならず、現在さまざまに言われている「読解力」の議論を整理するうえでも有用だと感じました。

 

1.犬塚美輪(東京学芸大学)「リーディングスキルテストの開発コンセプトとねらい」

 はじめのご発表は、RSTの研究チームのメンバーでもある犬塚先生による「RSTの開発コンセプトとねらい」に関するご発表でした。

学習者は「読んで理解できる」と期待されている文章を、実際にどのくらい理解できているのか」という開発の出発点にあった問いや、RSTのテスト設計の考え方などについてご説明があったのち、「RSTは何を測ろうとしているか(測るもの/測らないもの)」についてのご説明があったのですが、これはとても重要であるように思いました。

犬塚先生によれば、「RSTが測るものは、他のテストと異なる」ものであり、以下のものに焦点を当てているとのこと。

 

①短文の理解だけに焦点を当てている

⓶明示された情報の表象:テキストは広い領域の中での一部分のみ

③近い推論:テキストを読む中で広がっていく推論のうち、近い領域での推論のみを対象にしている。「ここまでは踏み出しても安全だろう」という範囲内での推論のみが対象。

 

そのため、「RSTは、広い世界の中のごく一部しか扱っていない」という批判があるが、それはそのとおりであろうとおっしゃっていました。しかしだからこそ、その範囲で「測れるもの」、その範囲に焦点を当てることでしか見えてこないものもあり、RSTはそれこそを対象としている、ということなのだと思います。

2019年9月に発売された『AIに負けない子どもを育てる』(新井紀子, 東洋経済新報社)では、RSTが視力検査にたとえられるなど、RSTの中で「測れるもの/測れないもの」ということがかなり語られるようになってきた印象を持っていましたが、それとまったく同じ印象を、犬塚先生の発表からも受けました。

 

 

2.RSTと全国学力・学習状況調査(冨安)

冨安先生のご発表は、このようなRSTの「測るもの/測らないもの」の特徴を、「読解力」にかかわる他のテスト―全国学力学習状況調査とPISA-との比較によって浮きぼりにしてくださったように思います。

冨安先生が注目していたのは、「PISA2018」における「読解力」調査のフレームワークとして新たに追加された「流暢に読む」という項目。

RSTにおける「係り受け解析」「照応解決」「同義文判定」の設問は、この「流暢に読む」にかかわる問題といえるのではないか、と分析します。

 

OECD-PISAによれば、「流暢に読む」という項目は、「読解レベルが低い学習者の違いを説明し理解するための貴重な指標」「単一または複数のテキストで高次の理解タスクを実行するための資源が少なくなっている」という理由で、新たに導入された項目とのこと。

そのような意味では、「読解レベルが低い学習者の違いを説明し理解するための指標」として、RSTを捉えるということもできるのかもしれません。

他方、全国学力・学習状況調査における生徒のスコアとRSTのスコアとの関連を見てみると、「流暢に読む」に分類されるのではないかと考えられた「係り受け解析」「照応解決」「同義文判定」のスコアと「熟考・評価」にあたる設問のスコアの相関が高いことも明らかに。

冨安先生はこれについて、「ミクロ構造を問う基礎的読解力の高低が、評価・熟考に関連しているのではないか」と考察しています。

 

3.荷方邦夫(金沢美術工芸大学)・石田喜美 (横浜国立大学)「国語教育における「読解力」とは何か」 

最後の登壇者である荷方先生は、「国語教育における『読解力』とは何か」というタイトルで、文章理解に関する心理学的研究を参照しながら、文章の理解は、純粋に統語的でもなく、意味的でもない」ことを示したのち、今年度に入って行われた実験調査の結果が報告されました。

その調査は、同じ構造を持ちつつ、背景となる知識領域の異なる文章を作り、背景的知識の難易による正答率の差を調査するというもの。

設問は「係り受け解析」「照応解決」のみで作成されました。調査は、大学生を対象とした予備調査のあと、中学生(中学1年生~3年生)を対象に実施され、多くの設問で背景となる知識領域が「難しい」ものに比べ、「易しい」もののほうが有意に回答率が高かったとのことでした。

「テキストベースとしての表象」「状況モデルとしての表象」という2つの表象を考えたとき、たしかに国語教育は「テキストベースの表象」に焦点化していなかったかもしれない、という問題意識が示されながら、では、国語(科)教育はRSTをいかに活用できるのか、という問題が提起されました。

 

その後の、指定討論者の渡辺先生から、『AI vs 教科書が読めない子どもたち』における、「教科書が読めない」という結論を導き出すための理路の問題や、使用されている「教科書」の不適切な用いられ方について指摘があったのち、「リーディングスキルテストが測っているものとは何なのか」「リーディングスキルテストを、国語教育で活用することができるのか」「そもそもRSTで測った能力を『伸ばす』ことができるのか」といった点について議論が行われました。

私にとっては、議論の最後のまとめの中で、荷方先生がおっしゃったことが印象的でした。

荷方先生は、RSTが文章理解やその教育・学習といったものを超えた、もっと幅広い能力(知能)ものをはかっているのではないか、と指摘し、RSTが測っているものがいまだ未知であるような状況で、「走りながら考えている」ことの危うさを指摘します。

「走りながら考えていくべき問題」「ある程度の結果が見えてきたあとに、動くべきかどうかを判断する問題」がある。もちろん、行政側の問題、実践現場の問題、他の研究者の問題などさまざまな問題がここには存在しているが、動きだしてしまったことによる影響をメタ的な視点から見定めることも、研究を行っていく者としては必要なこと。

 

そのような意味では、今回、RSTが提起したさまざまなレベルの問題をひとつひとつ腑分けしながら、丁寧に議論していくことは、今後ますます必要なことなのだろうと思います。

今回のラウンドテーブルは、まさにそのためのスタートの場になっていたように思いました。

 

文学者にまなび、あそぶ!現代メディアの文章表現~『メディア・リテラシーを高めるための文章演習』

酒井信(2019)『メディア・リテラシーを高めるための文章演習』(左右社)を読みました。

わたしが担当している「初等教科教育法(国語)」の中で、ある学生たちのグループが「炎上」をテーマにした模擬授業を考えたい! と言っていて、その学生たちと「どんな炎上ツイートを教材にしたらよいか」について相談していた時期に、たまたま書店でこの本の帯(「炎上しない技術と文章力」)を見つけ、「これは、あの学生たちの参考になるかも」と思い、本書を入手しました。

このような経緯があったこともあり、わたしにとって本書は、「炎上しない文章術」について書かれた本というイメージがあったのですが、全体を通して読んでみると、「炎上」について取り上げられているのは、主に、はじめの2回分(「第1回 個人のネット炎上パターンとその予防策・善後策」と「第2回 企業のネット炎上パターンと情報メディア・リテラシー」)だけ。第3回に「メディアの基本理論を踏まえた文章表現とメディア・リテラシー」があるものの、基本的には、大学初年次生向けのアカデミック・リテラシーのテキストである。

そういう意味では、「内容紹介」で、「「企業のSNS担当者」「ビジネス・パーソン」におすすめ」と書いてしまうことには、少し違和感がある。

本書の「はじめに」にあるように、「現代的なメディア・リテラシーを高めるための教育と文章作成の教育を組み合わせた」、大学初年次生向けの基礎教育テキストと位置づけたうえで、その内容のいくつかが、「企業のSNS担当者」「ビジネス・パーソン」にも有用でありうる、というほうが正確であるように思える。

 

そんな実用的な側面よりなにより、本書の面白さは、「炎上」対策をはじめとした「現代的なメディア・リテラシー」と、文章作成教育の組み合わせ方、その独特なアプローチにあるように思う。

本書の著者は、『最後の国民作家 宮崎駿』(文春新書)や『吉田修一論 現代小説の風土と訛り』(左右社)の著者である酒井信氏。メディア論の専門家でありながら、文芸批評家でもある酒井氏による「現代的なメディア・リテラシー」と、文章術とのつなぎ方が非常に独特で、興味深い。

 

その「つながり」に用いられているのが、文学者によるテキストである。

たとえば、本書の第4回・第5回では「コミュニケーション能力を高めるための文章表現」として、三島由紀夫の『レター教室が取り上げられている。

 

三島由紀夫『レター教室』が「今日の価値観に照らし合わせて考えると、古さを感じる表現もあるが、全体として小説や戯曲のようでありながら、社会批評や実用書でもあり、手紙に限らずメールやSNSを用いたコミュニケーションにも応用可能な内容が含まれる」(『メディア・リテラシーを高めるための文章演習』、p63)と紹介され、『レター教室』における三島の文学的表現にならいながら、「感情を豊かに表現する文章」「頼みごとをする文章」「断る文章」「よく知らない相手に対する文章」をトレーニングするという流れである。

この「演習」では、実際に、三島由紀夫の文学的表現(としかわたしには思えない)にならって、文章を書いてみる活動が示されている。たとえば、次のような三島のテキストにならって、ワークシートの空欄を埋めるかたちで「お金を借りる文章表現」を完成させるというような活動である。

 

…(前略)

 青春のバカバカしさに対して客観的な立場に立つことのできる、知性ゆたかな人が、それをまるで、庭土の上に戸惑うアリのようにながめながら、軽蔑と気まぐれから、一つまみの砂糖を投げ与えるように、お金を貸してくれることを夢みています。

…(後略)(三島由紀夫「借金の申し込み」『レター教室』)

 

これにならって、学習者たちは、「あなたのように(1      )人が、私をまるで(2     )のようにながめながら、(3      )のようにして、お金を貸してくださることを夢みています」の空欄を考える。

自分と相手との過去・現在・未来にわたる関係性を考えること、そしてユーモラスに表現すること、がここで求められるポイントである。

このような三島由紀夫のテキストにならった演習が続いたあとに、「第6回 メールの文章表現と基本的な敬語の使い方」が続く。

 

2019年8月1日に開催された日本学術会議によるシンポジウム「日本学術会議公開シンポジウム 「国語教育の将来:新学習指導要領を問う」をはじめ、高等学校学習指導要領の改訂によって、「文学」の定義がより狭隘なものになるのではないか、という懸念が、文学関係者から寄せられている。

「文学的文章」が「実用的文章」「論理的文章」と並ぶひとつのカテゴリーとして示され、まるで、「文学」とは「論理的」でないもの、「実用的」でないものと位置付けられてしまっているようだ。

この懸念が、はたして「懸念」でしかないのか、あるいは、高等学校学習指導要領の改訂によって、あるいは、その先の実践の展開によってそれが現実化してしまうのかどうかは、まさに、今ここから、私たちが「文学」をどのようなものとして実践していくのか、にかかっているように思う。

本書は、「メディア・リテラシー」という名で、また「(実用的な)文章表現の技術」をまなぶためのテキストとして、文学者によるテキストを位置付けた点で、私たちが今後、この問題について考えていくための実践的な示唆を与えてくれる。

 

それに比して、「炎上」を取り上げた第1回~第2回でとりあげられる事例では、日本ディズニーの公式Twitterアカウントによって、2015年8月9日にツイートされた「なんでもない日おめでとう。」などが、単に「公共性を損ね、社会常識に反する書き込み」と評されており、そこで生じていたコミュニケーション上のトラブルを、送り手、受け手、社会・文化的背景などの視点から分析的にとらえるような記述はなされていない。

nlab.itmedia.co.jp

もちろん「演習」として、これらの炎上事例について、学習者に自分の考えを書かせる課題はある。けれども、炎上事例を「社会常識に反する」「公序良俗に反する」といったかたちで断罪してしまう姿勢は、従来の情報モラル教育やネットリテラシー教育にありがちな、教条主義的な姿勢と通ずるところがあり、残念に感じてしまう。

文学者テキストにまなぶ文章表現が、ユーモラスな表現によって、固定的な関係を解きほぐしていくようなものであっただけに、そのような学習と、炎上事例をもとにした現代的なメディア・コミュニケーションの学習とをうまく接合することはできないものだろうか。

おそらく、これについて考えていくのは、本書を読んだ私たちに託された、次なる仕事なのかもしれない。

 

「好奇心(curiosity)」と「質問をすること(Asking questions)」~Raquell Holms「STEAM教育へのパフォーマンス・アプローチ」

筑波大学東京キャンパスで行われた、「インプロサイエンス(Improvscience)」のRaquell Holms先生によるセッションに参加してきました。(以下、Dr. Raquell Holms「STEAM教育へのパフォーマンス・アプローチ」案内より)

 

「STEAM教育へのパフォーマンス・アプローチ」

インプロ・サイエンス(improvscience)の代表・創設者で、イーストサイド研究所(East Side Institute)のアソシエートでもある、ラクエル・ホルムズ(Raquell Holms)さんが東大Global Faculty Development Initiativeでの講義のために来日されます。来日中にパフォーマンス心理学、パフォーマンス・アクティビズムの研究者、実践家と話しがしたいということで、以下のようなセッションが実現しました。ぜひご参加下さい。

 

ラクエル・ホルムズ(Ph.D)は、インプロやパフォーマンスをもちいて、科学研究コミュニティーの成長にアプローチする方法開拓のパイオニアです。もともとはタフツ医大やハーバード医科大で細胞生物学者として訓練を受けましたが、現在は計算科学ならびに高度計算技術領域で仕事をしています。ImprovScienceの創設者として、イーストサイド研究所での人間の発達と成長に関するトレーニングを協同的学習と研究の環境制作に利用しています。ワークショップや、プログラム開発、講演を通じて、米国各地の科学者が学問領域や文化の壁を超えて、研究者能力の成長と拡張を手助けしています。彼女派、現在Adjunct Research Associate Professor at the Simon A. Levin Mathematical Computational Modeling Sciences Center at Arizona State Universityです。又2019年6月のニューヨーク市大Stony Brookでおこなれた、Applied Improvisation Network Conferenceのキーノートスピーカーでした。

 

「インプロ(即興)」「パフォーマンス」×「サイエンス」というと、どうしても米国科学振興協会(AAAS)の「博士号を踊ろう(Dance Your PhD)」を 思い出してしまうわたしです。

www.sciencemag.org

 

…が、今回の話ではもっと「科学の本質(nature of science)」に迫ったインプロの導入についての話を聞くことができたことが、とても面白かったです。

 

そこで、キーワードになっていたのは、「好奇心(curiosity)」「質問をすること(Asking Questions)」。

 

たとえば、「質問をすること(Asking Questions)」に関しては、次のようなアクティビティが紹介されました。

 

◎質問をする(Ask Questions)

[1]できるかぎりたくさんの質問を見つける

自分たちがいる部屋の中を見渡して、できる限りたくさんの「質問(Question)」を見つける。

(例:「あのライトはどうして光っているんだろう?」「このプロジェクターはどのように吊り下げられているんだろう?」など)


[2] 他の人が見つけたQuestionに付け足していく
・他の誰かが言った質問に付け足すかたちで、質問をしていく。

 

 このアクティビティによって、他のメンバーに対して注意を払いつづけていくことができる、とHolmz先生は言います。間違えることに対する恐怖を取り除いたり、自分では思いつかなかった質問を思いつくきっかけを得たりすることができるのだ、とも。

もちろん、このアクティビティは「好奇心(curiosity)」ともつながっています。特に[1]のアクティビティでは、それまでほとんど関心を払うことのなかった部屋の隅々にまで目を配り、そこに自分から積極的に好奇心を働かせようとしなければ、「質問」は見えてきません。また[2]では、他のだれかの質問に加えていくかたちで質問を考えなければならないので、自分がまったく注意を払っていなかった対象に対して、積極的に関心を持つことが求められます。

 

これまでほとんど関心にのぼらなったことに対して「好奇心」を持つこと、そして、それに対して「質問をすること」。

シンプルだけれども、これこそが「科学(science)」そのものだ、というHolms先生のアプローチは、とても印象的でした。

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科学未来館常設展「アナグラの歌」。好奇心をもっていろいろやってみることが、すてきな歌につながっていきます。

奇遇なことに、昨年度から今年度にかけて、複数回にわたり、国語科における「質問をすること」にかかわる授業の研究にかかわってきたこともあり、自分自身が学校における授業研究で取り組んできたことと、科学の本質とが、しっかりと結びついていたことを実感できたことも、非常にうれしいことでした。

 

パフォーマンス心理学の研究会に参加するようになってから、「インプロ」にしても「パフォーマンス」にしても、「こんなにいろいろ学んできているのに、自分では何も実践できていないなぁ…」と落ち込むことばかりだったのですが、あらためて、Improvisationの考え方と自分自身の仕事との重ね合わせ方について、じっくり考えていくための視点をもらうことができた研究会でした。

ノルディックLARPのミニゲームを体験しよう~『ノルディックLARP体験@TRPGフェス2019』

 今年のTRPGフェスでは、日本RPG学研究会(JARPS)のメンバーとして、「ノルディックLARP(社会・芸術的な教育LARP)体験」のためのシナリオ翻訳や当日の運営サポートなどに関わっておりました。

今回の「ノルディックLARP体験」の中で紹介されたのは、フェミニズムLARP集『#Femnism』より『パジャマパーティ(Slumber Party)』、『マニックピクシードリームガール特殊部隊!(Manic Pixy Dream Girl Commandos)』(以上、#Feminism: A Nano-game Anthlogyより)そして、『LARPS form the Factory』より『辺獄(リンボ)(Limbo)』でした。

kimilab.hateblo.jp

これのゲームの詳細については、上記の記事で紹介してありますが、このたび、シナリオライターの皆さんからのお許しを得て、これらのLARPゲームの日本語版を、オンラインで公開できることになりましたので、あらためて、本文リンク(PDF)とともに、それぞれのゲームの紹介をまとめておきたいと思います。

 

★『ノルディックLARP体験 TRPGフェス2019』(オンライン公開版・日本語翻訳版)(PDF)

https://www.b-ok.de/download/NordicLarpTaiken2019.pdf

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『ノルディックLARP体験 TRPGフェス2019』(日本語版)

 

◆シナリオ1:パジャマ・パーティー(ジョナヤ・ケンパー/作)(『#Feminism』より)

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『パジャマパーティ(Slumber Party)』

友達同士のつながり、思春期の成長、そして社会の中心から取り残された者として生きることについてのLARPです。 あなたは今、「何者」ですか?友達の手助けによって「何者」になれるのでしょうか?
各プレイヤーは、日々、社会から取り残された自分に直面しければならない、複数の女の子キャラクターを演じます(プレイヤー自身の性別は関係ありません)。キャラクターは全員12歳の「負け犬」です。けれども彼女たちには互いに築きあげてきた強いつながりがあります。彼女たちにとって、同世代の他の人たちから人気がないことは、重要ではありません。このLARPでは、彼女たちのうちのひとりの誕生日の日に集まり、パジャマ・パーティを開催するところからプレイがスタートします。彼女たちはパジャマ・パーティで互いの秘密を共有しあい、友情を深めていきます。

キーワード:大人になること、社会から取り残されたアイデンティティセクシュアリティ、人種差別、性差別、友情
プレイヤー定員:4~6名
プレイ時間:60分
持ち物:寝服・パジャマまたはホテルの浴衣を着て会場に来てください。

 

 

◆シナリオ2:マニック・ピクシー・ドリーム・ガール(MPDG)特殊部隊!(リジー・スターク/作)(『#Feminism』より)

 

「マニックピクシードリームガール」(MPDG)は、映画に登場する「お決まりのキャラクター」です。基本的に「ダメ男を元気づける、自由奔放な人生の恋人」と定義されています(「マニックピクシードリームガール」『デジタル大辞泉』)。

プレイヤーの演じるキャラクターはSTEM(科学、技術、工学、数学/医学)の分野で働きたいと思っている女性(キャラクターは女性ですが、プレイヤー自身の性別は関係ありません)。しかし、彼女には、自分自身の選んだ分野で大学院に通うだけの金銭的な余裕がありませんでした。しかし軍隊が、大学院教育のための費用を支払ってくれるというので、彼女は軍に入隊することを決心します。軍の上官は、彼女を「マニックピクシードリームガール特殊部隊(MPDG特殊部隊)」に任命しました。このLARPでプレイヤーたちは、MPDG特殊部隊チームの最後のミッションをプレイします。ミッションに成功すれば、服務期間を終えて、民間人としての生活に戻り、希望する大学院に学費免除で進学することができます。

もし失敗したら?――ああ、なんてことでしょう!このチームには、失敗なんて言葉はないのです!

キーワード: ひらかれた場、見知らぬ人との出会い、チームワーク、荒唐無稽なミッション
プレイヤー定員:4~5名
プレイ時間:45分
持ち物:カラフルなウィッグやサングラス、パンクピンなど、元気な女の子キャラクターをイメージしたアクセサリー、セーラー服やミリタリー服などをお持ちの方は、ぜひ会場に持ってきてください。

 

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フラッシュモブ的なダンスまである!すごいLARPでした

◆シナリオ3:辺獄(リンボ)~忘れ去られた場所(トアー・シェティル・エドランド作)

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辺獄(リンボ)の案内人。プレイヤーは行き先チケットを提示されます

「辺獄(リンボ)」とは、キリスト教で、死後、地獄には行かないが、キリストの贖いによって救われるまでは天国に行けない人がとどまると考えられた場所。時空を超越した場所、生と死の間に存在するとされるこの場所が、このLARPの舞台です。再び命ある世界に戻るか、死の向こう側にある未知に直面するか、今までの人生について考える「待合室」です。キャラクターは、現代社会からこの世界へとやって来た、生と死との間をさまよう人たちの集団です。

キーワード:実存的選択、夢、未知への不安、精神性
プレイヤー定員:6~12名
プレイ時間:120分
持ち物:白色・淡色系のTシャツとハーフパンツなど、生と死の間にあるどこでもない場所(忘れられた場所)をイメージした衣服、または死者をイメージできる衣装(白い着物・浴衣)を着て会場に来てください。

 

プレイヤーの皆さんからのレポートや感想については、こちらのtogetterまとめをご参照ください。わたしもおいおい、気づいたことをブログにまとめていきたいと思います。

togetter.com

治癒のための言葉と、身体と言葉の間にある矢印~ボディトークと『身体(ことば)と言葉(からだ)』

体型や食べることへのこだわりが強く、ふつうに食べられない日が、1年以上続き、仕事や人間関係にも影響が出てくるようになってしまったので、「なんとかしなければ」と一念発起。「ボディトーク(body talk)」の施術を受けてみることにしました。

漢方や針灸、マッサージなど、西洋医学に基づく医療とは異なる医療法は、すべてひっくるめて「オルタナティブ医療」「代替医療」(alternative medicine)と呼ばれていますが、「ボディトーク」もそんなオルタナティブ医療のひとつ。

 

そんな「ボディトーク」のことをわたしは知ったのは、おそらく、大学の授業で「東洋医学入門」のような授業を受けて、オルタナティブ医療についていろいろ調べた時期だったんじゃないかと思います。

創設者が、カイロプラクターや鍼灸師の資格者だからかと思いますが、基本的にはそのあたりの東洋医学的な理論をベースにしつつ、いろいろなオルタナティブ医療の言葉をぎゅぎゅっと一気に詰め込んで、凝縮した感じがすごい。Body Talk Japan Associationのホームページにぼんやり画像が掲載されているこちらの図を見るだけで、その「ぎゅぎゅっと凝縮」感が伝わるのではないかと思います。はじめて「針灸経絡経穴図」を見たときも感動したけれど、それが言語になっているせいか、わたしにはそれ以上の感動がありました。この画像のボックスひとつひとつにびっしりと、複数の医療モデルから導きだされ言語が並んでいて、これを見ているだけで面白い。

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ボディトークの施術は、この「プロトコルチャート」に基づいて、セラピストが言葉や身体反応を通じて、修復箇所を特定し、そこにフォーカスして損傷の行われた部分を回復するためのタッピング(手で特定箇所をタップしていく)を行っていく…という流れです。(詳細は、こちら

 

もともと、ボディトークが、様々なオルタナティブ医療の理論や用語を組み合わせてその独自の理論を作り上げているせいか、そしてその集大成である難解かつ複雑な「プロトコルチャート」があるせいか、いろいろなところの評判を見ていると、セラピストによってその施術の内容が異なる…というのがネックなようです。仕方がないのかもしれないけど、かなりスピリチュアルに寄ったり、カイロプラクティックに寄ったりしたりもするみたいです。それはそれで、どんな違いがあるのか知りたい気もしますが…。

 

そんなこともあり、興味はあるけれどなかなか一歩踏み出せずにいたのですが(オルタナティブ医療は、保険がきかないので高額になりますしね)、偶然にも、「言葉」に対する感性をもってボディトークに接していらっしゃる(と思われる)セラピストの情報を見つけて、「よし、ここに行ってみよう!」ということで行ってみた、という次第です。

(…そして、そのときはなんとなく、ブログなどで使われている文章からそう思っていただけだったのですが、セラピーを受けた数週間後に「ことばを増やす」という記事をアップされていて、しかも、『感情ことば選び辞典』を購入した、という記事でとてもビックリしました)

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クリスチャン・ボルタンスキー《白いモニュメント、来世》

 8月上旬に1回、そして9月中旬に1回、施術を受けたのですが、2回の施術を通じてわかってきたことは、「これは自分の身体を感知したり、それを整えていくための手がかりとしての言葉を探していく作業である」ということでした。

プロトコル・チャート」に記載されている無数の用語たち(そこには、日常用語から、オルタナティブ医療や東洋的なエネルギー理論の用語までいろいろな用語が並んでいるわけですが)は、その言葉探しのためのきっかけ、手がかりに過ぎない。むしろ、そのきっかけや、手がかりを、どのようにセラピストととともに言語化し、ストーリーを編み上げていくことができるか、そして、そこで編み上げられた言語をベースにしながら、ふたたび日常を過ごすなかで、身体の状態を感知し、そこで現れる反復的なパターンを捕捉するための言葉を自ら見出せるようになるか。

それが、ボディトークの肝であるように、わたしには思えました。

 

身体(ことば)と言葉(からだ)—舞台に立つために 山縣太一の「演劇」メソッド』(新曜社)の中に、「身体と言葉の間にある意識の矢印」について書かれた節があります。

に普通に雑談しているときの様子をビデオに撮影し、それを再現するために繰り返し稽古をしていたときに、再現したい動きに対して言葉を当ててみた、というエピソードです。

…とりあえずその特徴をおさえた言葉を当ててゆくのはどうだろう、と思いつきました。たとえば手をゆっくりと広げてゆくしぐさが映像に映っていた場合、それにとりあえず「腕バード」という名称を与えて、動きを言葉として認識してみる。

その言葉自体は発話しないのですが、その言葉を動きに与えて、動き自体を言葉で分割して、一度明確に「振り付け」として捉える。いわば、ぜんぜん知らない他人から与えられたもののように、それを踊ってみる、というやり方です。

録画されたときはもちろん、そんな「言葉」も「振り付け」もないわけですけれど、繰り返しその時の動きを再現するということを試みたときに、「言葉」で自分の動きを自覚して、分割して再構築したほうが、映像の情報量に近づけるように感じたのです。(『身体(ことば)と言葉(からだ)—舞台に立つために 山縣太一の「演劇」メソッド』、新曜社p107)

 

ボディトークでは、それこそ、膵臓や大腸など内臓を含む身体の部位にも、その損傷を治癒するための言葉も編み出されていきます。

そのような、ふだんは意識していない部位に焦点が当たることもあり、わたしは自分が経験しているボディトークのプロセスと、本書のなかで山懸さんが論じている役者の身体×言葉論との、奇妙なつながりを感じています。

 

だれかの助けを得ながら、自分の身体の状態を語るための言葉を見出したりしていくこと、それによって自分がどのように変わっていくのか。その変化のプロセスを、ひとつの「個人的実験」として試しています。

見える/見えないの個性と偏りと~視覚に障害がある人との鑑賞ツアー「セッション!」

大竹伸郎 ビル景 1978-2010」展の企画のひとつとして開催されていた、視覚に障害がある人との鑑賞ツアー「セッション!」に参加してきました。

そのときに、「セッション!」ナビゲーターの白鳥建二さんがすでに、ノンフィクション作家の川内有緒さんたちと大竹伸郎展をいっしょに見る会をやっていたらしい、と聞いたので、『ハフィントンポスト』の記事(全盲で美術館を楽しむ白鳥さん。「見えないから大変」の言葉がしっくりこない | ハフポスト)を楽しみにしていたのですが、わたしが期待していたような、当日のやりとりはあまり(ほとんど)レポートされていなかったので、残念でした。

www.huffingtonpost.jp

川内有緒さんの『note.』には、フィリップスコレクション展@三菱一号館美術館

を見にいったときのエピソード(目が見えない白鳥さんとアートを見にいった。)

とか、「100年の編み手たち」展@東京都現代美術館を見に行ったときのエピソード(

目の見えない白鳥さんとアートを見にいった vol. 2)が書いてあって、こちらの方が面白い。

一方で、ここで語られている経験は、やっぱり「セッション!」での経験とは違うので、わたしは「セッション!」のことをきちんと書いておこうと思う。

 

「セッション!」の広告ページを見ると、「全盲の白鳥建二さんをナビゲーターに、見える人と見えない人が一緒に展覧会を鑑賞するツアーです。」というなかなか曖昧な書き方がされているので、なんとなく、10名なら10名、みんなで一緒に、白鳥さんと対話しながら見る鑑賞をするようなイメージをするのではないか?と、勝手にドキドキしているが、……それは、違う

参加者数によっては、そういう時もあるのだと思いますが、そうでないときもある。

「見える人と見えない人が一緒に展覧会を鑑賞するツアーです」としか言いようのないゆるやかさがあって、わたしは、それが、すごく好き。

 

いわゆる「ガイド」として、美術館に精通した「プロ」の視覚障害者の方が、美術館やアート作品を案内する…というかたちのものも見るけれど、なんだか、それは、日常的に支障なく「見える人」が視覚障害者をガイドしてあげる、サポートしてあげる…というような福祉系(?)ツアーと表裏一体のような感じがしていて、「それはなんか、違うな」って思う。

だから、伊藤亜紗さんの『見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)の記述には、うんうんと頷きつつ、それでもどこか、白鳥さんが「スーパー障害者」になってしまったようで、なんとなく違和感が残ってしまう。

 

「セッション」には、プロのガイドが、必ずしも存在しない。

「ナビゲーター」としての白鳥さんはいるけれど、実際に展覧会を見る段階になったら、白鳥さんは「視覚に障害がある人」のうちのひとりになる。

 

たとえば、今回であれば、定員10名中、中途視覚障害弱視の方がいらっしゃったので、以下の2チームにわかれた。

  1. 【A】白鳥さん(全盲)+日常生活に支障ないくらいには見える人たちのチーム
  2. 【B】弱視の方とその配偶者の方,そして日常生活には支障ないくらい見える人たちのチーム

そうすると、【A】チームでの鑑賞の体験と、【B】チームでの鑑賞の体験は、すごく違ってくる。

すこし想像していただければわかると思いけれど、生まれたときから全盲(かつ、美術館にはめっちゃ行き慣れてる)白鳥さんと、アート作品に対して話す、という経験と、人生のどこかで視覚に障害をおって弱視(よく見えないけれど、ぼんやりとは見えている)方とお話しするのとでは、全然、違う。

さらにいうと、視覚に障害のある方の美術館経験、アート作品を見たり話したりする経験も、アート作品に対する欲求(どういうふうに楽しみたいか)もさまざま。

 …なのだけど、これが面白いし、ここが好き。

 

今回は、さらに、面白い体験ができて、自分の中で「見えるってなに!?見えないってなに!!??」という問いが巻き起こる、エキサイティングな体験ができた。

 

というのも、わたしがいた【B】チームは、ご夫婦でよく美術館にいらっしゃって二人で作品についてけっこうお話されるらしいご夫婦(お一人は中途視覚障害弱視)と、視覚に障害はないけれどほとんど美術館に行ったり、アート作品を見て語ったりする経験がないと自称される皆さま(高校生含む)だったので、だれが「アート作品を見て、語れるのか」という答えを見出すのが、かなり難しい状態になった。 

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対話しながら鑑賞した大竹展の作品。複数の都市の姿がこの中に見える

たとえば、1つ目の作品を見ながら、「さあ、お話ししてみましょう!」という段になったとたん、何をどう見て語ったら良いわからず、ぴきーんと固まる参加者の皆さん。

一方、絵画作品の前をご夫婦で横移動しながら、「これは〇〇かしら」「これは〇〇に見えますね」「みなさんはこの作品好きですか?」と、いろいろお話をしてくださる「視覚に障害のある人」。

 

ようやく、みんなでいろいろあーだこーだと話しはじめたものの、この会話を見て、どの人が「見えていない」かなんて、わかる人はいるのだろうか…?

 

わたし「左側に、2本、孤を描いてる線があるので、これは高速道路ですかね」

Aさん「だとしたら、ここにあるのは、料金所ですね」

わたし「料金所!たしかに高速にあるし、これは料金所ですね」

Bさん「えー。わたしはこれ、バスの停留所なのかなって思いました」

わたし「バスの停留所。あ、たしかに。さっき、この高く書かれてるやつはビルだという説と、煙突説がありましたけど、煙突説だとしたら、ここの平面は低いはずだから、バスの停留所って可能性もありますね」

(みんなで、見る。わたし、作品向かって左側にいるCさんの近くまで移動)

Cさん「…わたし、ここ漁港みたいなところかなって思ったんですよね」

わたし「む!たしかにさっき、あっち(右側)にいたときはそう思わなかったけど、こっちから見ると、この部分が凹んでプールとか海みたいに見えるから、漁港説あるかも。築地みたいなかんじですよね。あれが市場で。」

Cさん「そうそう」

 すると、それまで、あまり何も話さないままでいた高校生が、「わたし、この英字新聞っていってたの…マスキングテープだと思ってたんです…」とぼそりとつぶやいたりして。

 

こんなやりとりを重ねた結果、「視覚に障害がある人」として参加していた方が、「この絵って、見る人にもなんだかわからない『判じ絵』みたいな絵なんですね」…とおっしゃっていたのが印象的だった。

この方は、最後の振り返り会のときにも、「見えるとか、見えないとか関係ないんだなって。見える人も見えない人も、みんなで、これは何だろうとか考えて、いろいろ言い合えたのが新鮮でした」というようなことをおっしゃっていて、あらためて、「見える」ってなんだろう?と、考えさせられた。

 

結局、当たり前だけど、見える/見えないを区切る境界なんて、だれかが勝手に作ったものでしかなくて、抽象的なアート作品に向き合ったとたんに「何が、そこに見えますか?」ときかれて固まってしまうのも、高校生に「英字新聞」が「マスキングテープ」にしか見えないのも、わたしに「マスキングテープ」が見えないのも、みんな「見えない」のは同じなんじゃないかって。

 

視野が狭かったり、弱視でぼんやりした見えであるからこそ見えてくる「料金所」もあれば、毎日立ち寄る100円均一ショップで見るからこそ見えてくる「マスキングテープ」もある。結局、そこにあるのは、単なる、見え方の個性というか、偏りというか、そういうものでしかない。

 

そういう意味では、わたしにとっては、視覚に障害がある人との鑑賞ツアーである「セッション!」も、高校生や大学生たちと一緒に展覧会を見てそれを言葉にしてみる「書く。部」も、ボランティアトーカーさんと一緒にみるギャラリートークも、白鳥さんといっしょに見る会も、アーティストトークも、キュレータートークも…、すべてが、同じ平面上でつながりあっている。

 

みんなに見えるものがあって、みんなに見えないものがある。

だから、まさに「群盲、象を評す」のことわざどおり、みんな「見えない」から(それは、アーティストも、キュレーターも同じ。だって、アートの価値なんて未知数だもの!)「見えない」ながらに、「見えない」まま、自分がキャッチしたことを、あーだこーだ言い合って、それを重ねながら、はじめて、みんなの力で、何か見えてくる。何かが創造され、「評する」ことができるようになってくる。

そういう経験がもつ質感を、もっと丁寧に語る言葉をもちたいな、と思えた時間だった。

 

ちなみにこの写真は、同じく大竹展を見ているときに出会った、(わたしにとって)「見えない」作品。

展示室全体が暗くて、それに対してライティングの当たり方が強かったせいもあるのだけど、「見よう」と近づけば近づくほど、ガラスに自分や周囲の風景が反射してしまって、その作品の色がまったくわからなくなる。

何度か、「どの位置で見るといいんだろう?」と思って、なんどか、近づいたり遠ざかったりしながらこの作品を見ていたけれど、結局、自分の中で答えが見出せず、スタッフ(フェイスさん)に、「これ、どこで見たら一番、正しいんですか?」と聞いてみたり、近くをたまたま通りかかった友達(水戸だとよくある)に聞いてみても、まったくわからなかったので、いまだに、わたしはこの作品が「見えなかった」と思っている。

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「見えない」作品。どこから見るのが正しいのか、いまだにわからない

美術館で、アート作品が「見える」ってどういうことなんだろう。

そもそも「見える」ってなんだろう。